第六十六話:呪う
「……あれ? 桜井さんいないのか?」
朝、マダムに姉貴を預けて出社すると、桜井さんがいないことに気づく。
いつもならとっくに出社している時間なんだけどな。
「嫁がいなくて寂しいか?」
「モテるヤツは余裕だなクソが」
同僚(男)が口々に罵ってくるが、雑踏の足音となんら変わりはない。
「なぁに? ケンカでもしたの?」
「違うでしょ。あっちの方がすごくて大変なのよ」
同僚(女)が朝っぱらからセクハラしてくるが、そんなんだからチャンスも寄ってこないんだぞといいたい。
いや、どうでもいい。それより桜井さんだ。
メッセージアプリを立ち上げて来れそうかどうかや体調を問う文を送る。
始業の準備をしながら返事を待つと、文面を見て吹き出してしまう。
『弟です。すみません。助けてください。姉がタイ変な子』
『姉が大変なことになってます。どうしたらイカ』
誤字を確認せず送るあたりに、弟君の焦りを感じる。
迷いは、ひと呼吸分。
「すいません係長。本日は体調不良のため欠勤します」
始業前の掃除を率先してやっている係長は、神妙な顔でひとつうなずいた。
「行ってきなさい。後悔はしないようにね。仕事の方は任せておきなさい」
以前とはまるで違う様子に、深く腰を折って礼を示す。
唖然としている同僚たちにも、すまない、よろしく頼む。と頭を下げる。
取引先にも迷惑をかけてしまうだろうが、それよりも優先したい……いや、優先しないといけないことみたいだし。
……メッセージアプリの返事を受け取った際、ジジジ、と焼けつくような、恐怖を感じた。
急がないと、まずいかもしれない。
退社してすぐさま朧に電話。
緊急事態を伝えれば、ほんの数分で俺のいるところまで急行してくれた。
「乗ってください。早くっ!」
「すまん、恩に着る」
「そういうのは後で。舌噛まないでくださいよっ!」
いつもの笑みを消した朧が吼えれば、急ハンドルに急加速。タクシードライバーとは思えない荒い運転を始めた。
スピードメーターは法定速度内なのに、並み居る車両の隙間を縫うようにゴボウ抜きしていくのは、なんとも不思議な感覚で。
車でも10分以上必要なはずの道のりを、2分ジャストで急ブレーキがかかれば、桜井さんの実家前。
「行って、早くっ!」
現実味のない状況に、朧から叱咤されてようやく動き出す。
…………が、
「……………………なん、だ……………………?」
築30年ほどの一戸建て住宅。
そこから感じる、えもいわれぬ恐怖。
体の震えが止まらない。
視覚化できそうなほどの、圧力。
それは、妖気か、怨念か。
あまりの恐怖に、歯がカチカチと鳴る。
震える体を鼓舞し、一歩、一歩、踏みしめる。
インターフォンを鳴らしても、反応はない。
ドアノブに手を掛ければ、電撃を受けたように弾かれる。
いや、その先にある恐怖の発生源に、体が拒否反応を起こしていた。
深い呼吸を、ひとつ。
決意を固めて、ドアノブをひねり家の中へ。
そこは、まるで異界。
視覚化できそうなほどの、濃密なナニかが蠢いている。
それは、瘴気か、死臭か。
桜井さんの父親らしき男性と、母親らしき女性が飛び出してきて、俺の存在を認識すると、ホッと息をついていた。
二人に軽く事情を説明して、桜井さんの……美咲さんの部屋まで案内してもらう。
……しかし、部屋に近づくほどに、恐ろしい、おぞましい気配が濃密になっていく。
案内された部屋の前で、深呼吸をひとつ。
両親によってドアノブがひねられ、部屋のドアが開けられると…………。
そこはまるで、霊安室のような寒さを錯覚する、異常な空間。
ベッドの上で、まるで死人のように衰弱した青い顔をしている美咲さんと、
吐き出された、血のにおい。
…………そして、
「お前が、元凶か」
小さなテーブルの上に置かれた、寄せ木細工のような小箱。
そこから、絶え間なく、毒煙のような、濃密な気配が溢れだしていた。
呪物。呪いを内封する物。その効果は、込められた呪いにより変化するが、目的はどれも同じ。対象を、呪殺すること。
息も絶え絶えの美咲さんと、その手を握る弟君、救急車を待っていたという両親。
返事もできそうにない美咲さん以外の3人に、この寄せ木細工のような小箱がなぜここにあるかを問う。
しかし、要領を得ない返事ばかりで役には立たない。
その間にも、美咲さんの息が止まってしまいそうだ。
3人に部屋を辞してもらい、美咲さんの手を握り、反対の手に、寄せ木細工のような小箱を持つ。
この小箱と送りつけた相手に対して、怒りや激しい感情が湧き出てくるが、正座をして、膝の上に小箱を置いて、うろ覚えの念仏を唱える。
するとすぐに、小箱から、嘆き、悲しみ、怒り、憎しみ、様々な負の感情が吹き出し、俺に向かってくる。
それと同時に、美咲さんの衰弱が止まったのを、なんとなく感じた。
小箱から、凄まじいまでの圧を感じ、体が蝕まれていくのを感じる。
……すごいな、美咲さんは。これほどまでに強い、理不尽な呪いを受けて、堪え忍んでいたのか。
念仏を唱えながら、小箱に心で語りかける。
呪いと化した誰かの情念は、応えることはない。
…………しかし、泣き叫ぶ誰かは、俺に応えた。
より強く、より激しく、呪いがぶつけられる。
その、誰かを、なだめることもなく、問い、受け止める。
全身を、刃物で刺されているような苦痛。
体の内側を、掻き回されているような激痛。
泣き叫び、我が子を、命を守ろうと、必死に抵抗する、母の情念。
それを、無惨に踏みにじる、呪者。
嗤う、呪者。
泣き叫ぶ、母。
生を願う、産まれることすら叶わなかった、小さな命。
怨念と化した情念。
呪いと化した呪い。
呪者の愉悦。
…………なるほど、そこか。
幸福に生きるモノへの、嫉妬。
呪者の、呪物を作るきっかけが見えた気がした。
小箱を、物理的に破壊して、内封されていたモノと情念を解放する。
それでも呪いは止まらない。止まれない。
だからといって、呪いに負けるわけにはいかない。
念仏を唱えながら、怨念を受け止め、冥福を祈る。
悲しくて、つらくて、悔しくて、憎らしくて、呪わずにはいられない。
そんな想いが、痛いほどに伝わってくる。
ともすれば、俺の想いもまた、怨念へと転じかねない状況で。
一途に、冥福を祈る。
無惨な終わりを突きつけられ、理不尽に曝された、無念という名の呪縛から解き放たれるようにと。
一途に、冥福を祈る。
気がつけば、日が傾きかけていて、
体を蝕む呪いは、どこかへ去っていたようで。
ずっと繋いでいたままの美咲さんの手は、ちゃんと人並みに温かく。
今にも絶えそうだった弱々しい呼吸も安定して、胸が規則的に上下している。
蒼白だった顔色も赤みが戻り、静かに眠っている状態にまで回復したようだ。
今回のことで、本当に思い知らされた。
なにがあっても、失くしたくないものがある。
どんな状況であっても、失いたくないものがある。
暴力だろうと呪いだろうと、あらゆる災禍から守り抜きたい人がいる。
離したくない。
誰にも奪われたくない。
だれも喪いたくない。
死神にだって、奪わせてなるものか。
気がつけば、美咲さんの唇に、自分の唇を重ねていた。
※※※
※※
※
人を呪わば穴二つ。
呪いとは、術者の命を削り対象に災厄をもたらすもの。
穴とは、呪いの対象が入る墓穴と、自らが入る墓穴の二つを指す。
対象を呪い殺したとしても、その呪いはそのまま術者へと返り、蝕む。
それゆえに、呪いを掛ける際は、最低でも二重の護りが必要になるのだという。
呪殺を成し遂げたことで本懐を遂げ、悔いはないというのなら、護りなど不要であろうが。
「……ふ~ん、失敗、かあ……」
若い男が、どうでもよさげに呟く。
呪いが返り、身代わり人形がズタズタになったことで、呪殺が失敗したことを理解していた。
仮に呪殺が成功した場合は、違う反応だったと知っている。
「手間ひまかかる割には、大したものでもなかったんだな、この呪いは」
他人を呪い殺そうとしていたというのに、気楽な様子だ。
「じゃあ、次はなにを試してみるかな?」
龍の逆鱗に触れたことにも気付かずに。
スマホに着信。
マナーモードだったはずにも関わらず、大音量の着信音が鳴り、男は焦った様子で番号を確認すると……。
(・_・)
表示されていたのは、数字などではなく、顔文字だった。
どこの誰がイタズラをしている?
それを確かめるために、通話ボタンを押した。
…………押して、しまった。
ブツッ。
『もしもし、わたし、メリーさん』
スマホに耳を寄せると、スピーカーのスイッチを入れたような音が鳴り、キーンとハウリング音がしたのち、鈴が鳴るような少女の可愛らしい声、から、感情を削ぎ落としたような無機質な声が響き、
『今、お前の後ろを取ったの』
背後に、凄まじいまでの存在感を放つ、何者かの気配が発生したのを感じた。
『よくも、よくも、美咲お姉さんを、呪ったな? ただの人の分際で』
可愛らしい少女の声のはずなのに、男には、地獄の獄卒のような恐ろしい声に感じられ、
『コノ怨ミ、晴ラサデオクベキカ…………』
心臓を鷲掴みにされているような恐怖に晒され、身動きができなくなる。
『万死ニ値スル…………万死ニ値スル…………』
男へと返った呪いは、身代わり人形を破壊し尽くして役目を終えた。
では、呪いの材料にされた、憐れな被害者の無念は?
『万死ニ値スルゥゥ…………』
強力な怪異の力を借り、自身に刻まれた理不尽を、男へと返した。
余すところなく、すべて。
『万回地獄に堕ちろ、なの』
一瞬で、赤い水たまりがひとつできあがった。
がちゃ、つー、つー、つー。
・俺 : 主人公。男性。名前は『孝緒』
……備考 : 職業・総合商社の営業。優良物件。
仲の良い親戚くらいの立ち位置だと思っていた。
けれど、絶対に喪いたくないモノに気付いて、このままではダメだということに、ようやく気付いた。
・メリーさん : 金髪碧眼の、少女の姿の……怪異?
……備考 : もうすっかりマダムの家の子。
出会ったら確実に追い詰め絶対の死をもたらす確死級都市伝説の本領発揮なの(早口)。
・桜井 美咲 : 同じ会社の、同僚の女性。
……備考:会社内では、入籍カウントダウンな扱い。
今際の際の夢現に、念願が叶った気がした。
翌日、普通に目を覚ました。
・源本 雫 : 主人公に憑いた何者かによって、死の淵から生還した、名家の令嬢。
……備考:外見からして、深窓の令嬢然としている。
双葉と合流して美咲宅に駆け付けたが、朧に止められた。
・木ノ下 双葉 : 無口で無表情で無愛想な、現役女子高生。
……備考:父は総合商社の営業課長(やや天然)。母は専業主婦(天然)。
運命の赤い糸は、これまで以上に強く太く輝いてさえいるのに。
今は、会えないのがもどかしい。
・碓氷 幸恵 : 幸薄い元誘導員。実家は歴史ある町工場。
……備考:誘導員は退職、工場の事務に専念。
実家の工場のこと、どうすればいいか家族会議が開かれた。
・朧 輪子 : 明るい笑顔を絶やさないタクシードライバーの女性。
……備考:先祖に人化した妖怪を持つ、先祖返り。
なにかできることはないかと、せめてそばにいたいと、どれだけ強く想っても。
呪いの領域と化した場所に、足を踏み入れることができなかった。
・謎の幼女 : 御神木の桜の木の中から引っ張り出した、姉と認識する幼女。
……備考:霊だったはずなのに、実体がある。
口数も少ないが、別にしゃべられないわけでもなさそう。
姉として、弟のことは気がかり。
たとえ離れていても、守護者としての権能を発揮して、二人を護っていた。
・西のマダム : 高級住宅街に住む、セレブな女性。既婚者。
……備考:メリーさんを迎え入れ、たくさんの犬と旦那と一緒に過ごしている。
犬はたまに増える。犬じゃないのもたまに増える。
今回、メリーさんにゴーサインを出した張本人。
呪いを掛けた相手に対し、万回では足りぬというほどに激怒していますがなにか?
・コトリバコ : 都市伝説の一種。呪物が中に詰められた小さな箱。
・備考 : 寄せ木細工のような小箱に、特定の呪物を入れて厳重に封をして、呪殺したい相手が住む家に置く。
一家断絶の呪いが込められたその小箱は、成功すれば、子を産むことができる親世代の女性と、未成年の子どもをすべて呪い殺す。例外なく、すべて。
それに対し、成人男性や子を産めなくなった高齢の女性には、なんの効果ももたらさない。
呪物の核とされた贄は、どれほどの無念か。
それは、この呪物の効果で示されているといえる。