第三十八話:薄月
さて、空では霞がかったような満月が、それでも明るく主張しているが、ここから最寄り駅まで徒歩何分だったか……。
「……はあ、腹減った……」
普段なら、とっくに帰宅して食事も済ませている時間。
空腹は……まあ、なんとかなるが、これから駅まで歩いて電車を待って着いたらまた徒歩で。家までにかかる時間を想像して、ため息がこぼれた。
「……仕方ない」
スマホを取り出し、ヘイタクシー。
「ご利用ありがとうございます。いつもあなたのお側に! 花丸々タクシーの朧です。今夜もご指名ありがとうございます!」
電車で二駅とは、タクシーだとほんの数分なのだろうか? 今日もまた、電話してからあっという間に到着。そして、今日も元気な女性運転手は、朗らかな笑顔で快活な挨拶をしてくる。
……ちょいちょいツッコミたいセリフを挟んでくるけどな。
「家まで」
目を合わせずに静かに後部座席へ。シートベルトを締めてから、目的地を告げれば、
「お客さん、それは……あなたのお家? それともあたしの?」
にししっとニヤニヤ笑いを浮かべる女性。
普段なら付き合ってられないが……。
「どっちでも、好きな方で」
「…………えっ?」
なんで固まるかな?
なんで顔赤らめるかな?
話題振ってきたのはそっちでしょ?
まあ、動揺して移動中に事故とか起こされても困るしな。
「冗談はさておき、住所は必要か?」
「い、いえいえ、いつもの場所でよろしいんですね? シートベルトはしましたか? では、出発します」
移動して五分ほど。座席に背を預けて目を閉じて、少ししてからのことだった。
「お客さん、起きてます? 」
「起きてるよ。なにか用か? 」
「さっきの話ですけど……その……」
もじもじと、言い辛そうにしている女性。
普段なら、付き合ってられないが。
「月が綺麗だな」
「ふぇあっ!?」
ガックンと前のめり。
急ブレーキを踏むほどか?
「あわわ…………お、お客さん、何を? 」
面白いほど動揺している女性。……いや別に、俺は面白くもないんだが。
「何をって、今夜は満月だから、明るくて綺麗だな。靄がかかっているように薄ぼんやりと光る満月も、いいもんだ」
「はぁーっ、おどかさないでくださいよ。もう、『月が綺麗だ』なんて、本命の女性以外に言っちゃダメなんですよ?」
その言葉が何を意味するかなんて、俺でも知ってるよ。たださ、そろそろはっきりさせた方がいいかなと思ってな。
「今夜みたいな、薄ぼんやりと光る満月のこと、朧月夜っていうんだって? 本当は、春の月夜のことみたいだけどな」
小首を傾げる様は可愛らしいものだが、あんた自身は、可愛らしい存在ではないんだろう?
「朧車。壊れた荷車の車輪に、付喪神が宿った存在。さて、朧さん? あんたは、一体何者だ?」
「んー、気付いてましたかぁ……」
こめかみに指を当ててしばしうなるが、諦めたのか、大きく息を吐き、ポツポツと語りだした。
『あたし、先祖返りってやつみたいなんですよね』
チリッと肌がひりつくような感覚。ただ、いつものような怪異の出現とは違い、恐怖は感じない。
諦念の混じった、自嘲めいた話を聞けば、人の姿を得るに至った妖怪と、何も知らない人との間に生まれた子供がいて、何も知らずに世代を重ね、今目の前にいる女性に、妖怪としての力が発現してしまったのだそう。
『なんかですね、あたしと親密になった人は、他の人から『やめとけ』って言われるそうなんです。あたしと彼氏が寄り添っている姿を見た人は、骸骨と男性が寄り添っているように見えるらしくて……』
…………思っていたよりは、よほど深刻なようだ。
『だから、まだ新車なんです。これでも結構稼いで貯金もあるし、あたし、お買い得ですよ?』
にも、関わらず、朗らかな笑顔を見せる女性は、確かに魅力的なんだが……。
「先約があるんだ。そちらを蔑ろにはできない」
断りと謝罪を込めて、頭を下げる。
「すまない」
『…………ですよねー。知ってました。でも、忘れてくださいなんて、言いませんからね?』
にも、関わらず、朗らかな笑顔を見せる女性に、ちょっと待てと言おうとした時だった。
『さて、お客さん。着きましたよ』
肌のひりつく感覚がなくなると同時に、わずかにブレーキの感覚。
…………ちょっと待て。今まで車は止まっていたんじゃないのか?
いたずら成功! とでも言いたげに、にししっと笑っている彼女は……ああもう、本当に……。
「今日はお代は要りませんよ。その代わり、ご用命の際は、またあたしをご指名ください!」
…………はぁ。
大きくため息を吐いて。
「そういうわけにはいかんよ。もらっておきなさい」
運転席の窓をこんこんノックして開けさせて、雉を一羽掴ませて、
「その時は、また」
と、耳元で囁く。
すると、
「……っ!」
悲鳴を上げそうになって、ごくりと息を飲んで、吐息のかかった耳を押さえて、面白いくらい顔を真っ赤にして。
……いやいや、俺は面白くないから。
「毎度ありがとうございました! いつも笑顔であなたのお側に。花丸々タクシーをまたご利用ください。お休みなさい!」
顔を真っ赤にしながらも、花が咲いたような笑顔で去っていく朧嬢。
ああ、もう、本当にさ……。
俺みたいなのの、何がいいんだろうね?
・俺 : 主人公。男性。
……備考 : 職業・総合商社の営業。優良物件。
ハーレム願望は……無かったはず……。
メリーさんたちの、保護者ポジションだと思っていた。……そういうことにしていた。
・メリーさん : 金髪碧眼の、少女の姿の……怪異?
……備考 : もうすっかりマダムの家の子。
お団子たくさん食べて、満腹でおねむなの。
・桜井さん : 同じ会社の、同僚の女性。
……備考:会社内では、入籍カウントダウンな扱い。
なんとなく、そわそわした日でした。
たぶん、きっと……。
・源本 雫 : 主人公に憑いた何者かによって、死の淵から生還した、名家の令嬢。
……備考:外見からして、深窓の令嬢然としている。
霞がかったような満月を見ていて、なんだか、モヤモヤした。
・木ノ下 双葉 : 無口で無表情で無愛想な、現役女子高生。
……備考:父は総合商社の営業課長(やや天然)。母は専業主婦(天然)。
なんとなく、両親に甘えたい気分の夜だった。
・碓氷 幸恵 : 幸薄い誘導員。実家は歴史ある町工場。
……備考:昼は誘導員、夕方からは工場の事務を兼業。
嫌らしい目で見られないのは、なんだか久しぶりに思えた。
・朧 輪子 : 明るい笑顔を絶やさないタクシードライバーの女性。
……備考:先祖に人化した妖怪を持つ、先祖返り。
男性と交際すると、いつも男性側の友人から引き離されてきた。
・朧車 : 長く使われてきた荷車に宿った付喪神が、妖怪化した姿。
……備考:農民が長く大切に使ってきた荷車の車軸が折れてしまい、傷の少ない車輪のひとつを残して解体。車輪は、荷車を長く使ってきた農民が、感謝と共に納屋へ保管したが……。
農民は、新たな荷車で農作業を行うも、車輪は納屋に放置されたまま。そして時が過ぎ、放置され働けない恨み辛みが募り、やがて妖怪へと変化し、農民を轢き殺してしまった。
定説は、
牛車で祭り見物に来たものの、牛車の場所取りに負けた平安貴族の怨念が妖怪と化したもの。前面の簾が巨大な顔になっている。
朧月夜に車の軋む音と共に現れるが、幻のように触れないとか。
さて、作者は何を読んで、前述のように記憶していたのだろうか?
たぶん、児童書の妖怪ものと思われるが。
朧月夜は春の季語。
薄月は秋の季語。
※このエピソード『朧車』は、砂臥 環 さんの要望で結実しました。