第二十九話:黒
問。目の前の状況に対処するには?
場所は、高級中華料理店の個室。
六人掛けの丸テーブルの、正面にマダム、マダムの右手にメリーさん、左手に濡れ女。
俺の左手には桜井さん。
……で、濡れ女、改め源本 雫嬢。俺のとなりに移ってきて、腕にたわわな果実を押し付けてくるんですよ。
あっ……。と、微かな声を上げる桜井さんと、目を吊り上げるメリーさん。
二人からのプレッシャーが半端ない。
で、マダムに抗議の視線を向けると……。
ステイ。そのまま長く待て。
表情は、どこからどう見ても完璧な笑顔なのに、目力はメリーさんと桜井さん二人分よりよほど強い。
……で、問に対する答えは?
答。諦めろ。マダムに勝てるわけない。
自問自答の結果がこれだよ。
……仕方ない。丸く収めるために、身を切るか。
マダムにプチ反抗だぜ? 命が惜しくないのかと、俺自身思うわい。
「それで、マダム? これはどういった場なのでしょうか?」
「そうですね。あえて言うなら……」
あえて言うなら?
「修羅場、でしょうか?」
首をコテンと傾ける仕草は、なんともあざといものだが、不思議と可愛らしさも感じられた。
……で、マダムを除いたお三方? 俺を挟んで視線でやり取りしないでくれます?
おっかねーんだけど?
ところで、満漢全席でも頼んだの? 大量の種類の料理が次から次へと運ばれてくるんだけど?
いやさ、一種類の量は少ないから、全員で一口食べればすぐなくなるんだ。だから、まだ腹に入るんだけど……。
あくまで、俺はね?
「マダム。そろそろオーダーストップです。私はまだ入りますが、二人がそろそろ満腹なようです」
お願いプリーズ。注文やめて? マジやめて?
「あら……これは、ごめんなさいね?つい、楽しくて」
うん、すさまじい勢いで食べてくメリーさんを見るのは、確かに楽しい。
しかし、食材を無駄にするのは、いくらマダムでも許さん。
最後の料理が、海燕の巣のスープだった。
もちろん、持ち帰ることなど出来ないからこの場で味わう他ないわけだけど、さ……。
問。両側から、レンゲでスープをあーんとかされてる俺は、いったいどうすればいいんだろうね?
答。わずかに左から差し出される方が早かった。つまり、桜井さんのレンゲを先に味わって、次に雫嬢のレンゲを味わった。
ん? 貴重な高級スープのお味? お湯の味でしたよ?
メリーさんからのプレッシャーが半端なくてさ、少し前からなに食っても味がしないのよ。
即死級の怪異から殺意の波動を浴びまくっても吐かない俺を、誰か誉めて?
いや、桜井さん? 俺が口付けたレンゲで飲むスープは、そんなに美味しいですか?
いやいや、雫嬢? 俺が口付けたレンゲで飲むスープは、幸せの味がしますか?
二人ともさあ、なんで艶かしい吐息吐いてるの?
俺、目の前の少女から発せられる恐怖の波動で、今にも死にそうなのに……。
ああもう、やけになったメリーさんがスープ皿奪って、直接口付けてゴクゴクいったよ。
いけませんよもう、行儀悪い。
ああ、はい。俺が悪かったから。
だから、ギロリと睨むのやめてお願いプリーズ。
※※※
「ごちそうさまでした、マダム」
嫌みを込めて、深々と、深々と頭を下げる。
本物の高級中華を味わう機会なんて、一生に一度あるかないかだけどさ、こんなに死ぬ思いして食うのは二度とごめんだ。
しばらく中華は見たくない。
この後は、メリーさんと桜井さんをマダムの車で送っていくそうだ。
んで、雫嬢は? 少し二人きりで散歩でもしろとさ。
マジで? メリーさんの怨念で、俺の寿命がガリガリ削られてる気がするんだけど?
車に乗る前、てててっと可愛く駆け寄るメリーさん。
ちょいちょいと手招きするから、お耳を拝借。
「……あとで覚えてろなの……」
ぐわしと襟元を鷲掴みにして、
とってもドスの聞いた声で、
くわっと見開いたお目々で、
捨て台詞を残して行くメリーさん。
わーい、夏なのに、寒くて冷や汗が止まらねぇや。
…………気絶していい?
※※※
まだ本調子ではないのか、単に身体が弱いのか。
夏の午後の炎天下、10分も歩かずに雫嬢がバテた。
仕方がないので、冷たいペットボトルのほうじ茶を持たせて、少しずつ飲ませながら、俺はタオルを団扇の代わりにして扇ぐ係りに徹する。
白いワンピース……サマードレス? 姿の雫嬢は、どこから見ても完璧な深窓の令嬢だ。
長く艶やかな黒髪とか、細いのに均整がとれていると思える体型とか、大きな胸元とか、赤い靴とか。
何をどう見ても、魅力的な少女だ。
……なのに、どうして?
どうして、見てると不安になるんだろうな?
まるでまた、ナニかが彼女をドコかへ連れていきそうな……。
………………ゾクッ!?
強烈な悪寒を感じて、周囲に視線を向ける。
いつの間にか、雫嬢は気を失うように眠ってしまっている。
呼吸は安定しているから、少しも苦しんではいないのだけれど。
……けれど、いつの間にか視界はモノクロに、休日の繁華街の喧騒は、時が止まったように無音になっていた。
……そして、
………………そして、視界の端で、建物の陰の中から、ぬるりとナニかが這い出てきたのが見えた。
それは、陰よりも濃い闇色をしていて、ヒトガタに見えるものの、全体的に炭よりも濃い黒で乱暴に塗り潰されているような印象で、輪郭すらはっきりしない。
しかし、顔に当たるっぽい部分の塗り潰しの黒が一部剥がれて落ちて、
……にちゃあ
と音がしそうなくらい不気味に口が三日月状に開かれた。
血のように赤い口からは、鮫のような鋭い歯がぞろりと覗いていて、涎のような粘性の液体が滴り落ち、地面に赤いシミを点々と作っていた。
その、黒いナニかが、こちらを向き、
…………笑うように、
……………………嗤うように、
その、三日月のように開かれた口を更に吊り上げ、恐怖を煽るように、ゆっくり、ゆっくりとこちらへ向かい始めた。
ぬる、ぽた。
ぬる、ぽた。
ゆらゆらふらふら、身体を左右に揺らしながら。
見せつけるように、恐怖を煽るように。
ゆっくり、ゆっくりと。
で、俺はというと、《これ》の対処が、マダムの本当の依頼なのかと、ようやく合点がいったところだ。
で、こんなのがいるから、俺はメリーさんに呼吸すらしんどくなるほどの恐怖の波動を叩きつけられていたのだと思うと……。
うん、ぶっころ☆
「死ねやぁおどれぁぁぁーーーーっ!!」
人生初の、ドロップキック☆
かーらーの、仰向けの黒いのに馬乗りになって、ぐーぱんち♪
いやー、スカッとするね♪
相手は怪異。しかも、人の成り損ないのような何か変なの。グーでいっても、誰も咎めたりしないのですから♪
本日の、恐怖とストレスからの恨みの限りを込めたグーのプレゼントも、四十九回目にして終わりを告げた。
四十九回目を叩きつけた時、黒いのは突如、すぅっと、静かに消えていってしまった。
終わりの寂しさを噛み締めながら、晴れやかな笑顔で雫嬢の元へと帰還を果たす。
「…………さん」
未だ目を覚まさない雫嬢のとなりに座って汗を拭いてやれば、小さく俺の名前を呼んでくる。
起きてんの? と思ったけれど、まだ目を覚ます様子もない。
ベンチの背もたれに身を預ければ、なんだか俺も眠くなってきてしまった。
コテンと、雫嬢の頭が俺の肩に乗っかる。けど、気にもならないくらい眠い。
周りの視線? メリーさんの怨念の籠った見開かれた目とか見たあとだと、屁でもねーよ。
小鳥さんがチッチ、チッチ鳴いてるが、なんぼのもんじゃい。
見せもんじゃねぇんだぞ?
ちょっと目を吊り上げて見てあげれば、蜘蛛の子を散らすように小鳥さんたちは去っていく。
あーあ、マジで眠くなってきたよ……。
・俺:主人公。男性。
……備考:職業・総合商社の営業。優良物件。
ハーレム願望はありません。
……で、結局、雫嬢を洋館まで送る羽目に成りましたよ。
……お姫様抱っこで。
・メリーさん:少女の姿の……怪異?
……備考:もうすっかりマダムの家の子。
マダムから事情を聴いて、少し落ち着いた。
とりあえず、殺意の波動を送るのは止めたの。
・桜井さん:同じ会社の、同僚の女性。
……備考:会社内では、入籍カウントダウンな扱い。
マダムから事情を聴いて以下略。
もう少し、頑張らないと……。
・源本雫:主人公に憑いた何者かによって、死の淵から生還した、名家の令嬢。
……備考:外見からして、深窓の令嬢然としている。
胸には夢が詰まってる。二重の意味で。
・西のマダム:生まれも育ちも上流階級。美味しいものと可愛いものが大好き。
おハイソな繋がりで、雫嬢のその後のトラブルを主人公に丸投げした。
お代は高級中華の先払い。
乙女の怨念は、自己責任です。
・シャドウピープル:人の形をしてるような感じの、影っぽいナニか。
……備考:爆発音や地震のような揺れ、焦げ臭い匂いなど、出現の際には予兆がある。
とても素早い。
出現すると、体調不良になったりする。
幻覚、勘違いなど諸説あるが、映像にも残っているらしく、その存在は確実視されているとか。
一説によると、自然界でも極めて稀に発生する、自然発生のプラズマ現象の可能性もあるとか。
人の形をしている影が、超早く動き回ったなら、それはもうコメディーでは?
などと、笑いをとって読む人を安心させてみる作者。
※このネタ《シャドーピープル》は、《淡雪》さんより提供していただきました。
・黒いナニか:名称不明、正体不明の、危険なナニか。
……備考:霊感の強い人や、視える人、たまたま波長が合っただけの人などが、ごく稀に遭遇する、黒い姿のナニか。
黒で乱暴に塗り潰されているかのように見える。
何かの拍子に、たまたま、向こう側と繋がってしまった時に、出逢うかもしれない存在。
生きとし生ける者の対極に位置するものと思われ、ソレを人の脳が認識するのを拒んだ結果、黒く塗り潰されているように見えるものと思われる。
あるいは、誰かにとっての、死そのものなのかもしれない。
周囲から音が消えたら、
景色がモノクロになったら、
黒く蠢くナニかを目にしたら、
その場から即座に、全力で逃げ出そう。
向こう側と繋がっている時間などほんの僅か。
体が動く限り、全力で逃げてほしい。
あ、でも、車の事故には気を付けてね?
例え怪異から逃げ切っても、現実の危険からも逃げないと意味ないから。
あとこれ、メリーさんの殺意の波動ではないです。
※このネタ《黒いナニか》は、《淡雪》さん、《UENO Q STYLES》さんの会話より着想を得ました。