第3話 魅入られるということー後ー
「たぬき憑きって……なに?」
二人に割り込む形で思わず会話に参加しちゃったけど、聞いたことのないその言葉に戸惑いが隠せない。
そんな私にママは少し驚いたような顔をしたあと、ちょっと間をおいてから教えてくれた。
「言ってなかったわね。うちわね、“狸に憑かれた一族”なの」
「たぬきに憑かれる?“狐が憑く”っていうのは怖い話でよく聞くけど、たぬきも憑くの?」
あんなちっちゃくて愛らしい動物が、人に憑りついたりするのかな。そんな疑問がちょっと胸に引っかかったけど、私が一番気になったのはそこじゃなかった。
おばあちゃんがなんとなくぼやいたその言葉が、まるでたぬきが人に憑くことと、お兄ちゃんが事故にあったことに関係があるようだったんだもん。
「正式な言い方だと、“狸に魅入られる”って言うのかしら。昔からあるんだけど、学校じゃ教えないもんね」
ママの口から出た『魅入られる』という言葉を聞いてなんだか背筋がぞくっとした。
神様や妖怪に憑りつかれることだと、一時期そういう都市伝説がネットで流行ったことがあった気がする。
「狸に魅入られるとね。その力を狸が貸してくれるの。昔は神社や仏閣に狸を祀ってお供え物をしたりしてたのよ。それで、その地域のどこかの家がそれを代々行うの。そうすると人間に危機が迫ったとき、狸が助けてくれるのよ」
「それが……うちだったの?」
「そうよ。狸を祀ってたなんて知らなかったでしょう?」
自分の家系がそんな由緒?正しい家柄だなんて知らなかったし、ママやおばあちゃんもいままで私に言ってくれなかった。16 にもなってそんな大事そうなことを教えてくれなかったなんて、なんだか納得がいかない。
私はおばあちゃんが淹れてくれたティーカップにどっぷりと砂糖を入れ、口を尖らせながらちょっと不機嫌そうにアイスティーをすすった。
「昔の人からしたらそれに選ばれることは誇りだったらしいわ。でもね……」
そう言うとママは、突然何かをためらうように口ごもってしまった。
乾いたような、小さな沈黙が続く。
そんな空気に私がとうとうたまりかねてママに尋ねようとしたそのとき、遮るようにおばあちゃんが喋り始めた。
「祀る事を禁止されてしまったのよねぇ。戦争に負けてアメリカがその信仰を禁止してしまったから」
「たぬきを?それをアメリカ人が恐がったから?」
「そうねぇ。私は見たことがないけれど、昔の人は実際に狸や他の妖怪と一緒に戦っていたらしいのよ。私が物心ついたときには戦争は終わっていたし、化け狸自体見たことないから信じられないけどねぇ」
「化けたぬきかぁ……妖怪なんて都市伝説だと思ってた」
そう呟いた私は、残りのアイスティーを飲み干す。横目でお母さんを見ると、なおも口ごもったままだ。心ここにあらずといった感じで、氷の入ったアイスコーヒーをストローでつつくように回している。
カランッと、グラスと溶けた氷が奏でる不協和音が寂しそうなママの横顔を引き立たせていた。
「だから戦後は、妖怪や物の怪を邪悪なものとして排除したのよ。彼らにとっては“忘れ去られること”がなによりも恐ろしいことだったんじゃないのかしら。その結果いまじゃ本来のあるべきものではなくなってしまったし、狸なんて山奥じゃないとほとんど見ないわ」
化けたぬきがまるで、本当に現実世界にいるような言い方をおばあちゃんはする。
だけど、私にはどうしても“狸の力を借りる”というのがいまいちピンとこなかった。たぬきが人間と一緒に戦っていたという話自体信じられないし、そもそもまず、あんなちんちくりんのどこにそんな秘められた能力があるのか。
正直、そっちのほうが理解不能である。
「でもさ、そもそもたぬきって……強いの?」
「強いわよぉ。なんてったって狸はいろんなものに化けてしまうからねぇ。それにほら!狸の置物って見たことある?タマ袋がおっきいじゃない!あれできっと攻撃してたのよ」
おばあちゃんはブンブンと、野球のバットを振るかのような仕草でたぬきの強さを表現した。うん、さすが私のおばあちゃんだ。考える事がアグレッシブすぎる。
二、三度フルスイングしてみると、おばあちゃんはなにかを思い出したかのようによっこらと腰を上げ、タンスからハガキ大の写真を一枚引っ張り出してきた。
「これが奈々のひいおじいちゃんよ。狸と一緒に戦ったひいおじいちゃんのいる部隊は狸付の部隊って言われてねぇ。敵からすっごく恐れられていたらしいわ」
「へー!これがひいおじいちゃん?初めて見た!」
その古ぼけたモノクロ写真の中には軍服を着た日本人が十数人映っていた。
70 年前の写真てだけでなんかすごくて、私は興味津々でまじまじとその手渡された写真を覗いてみた。
兵隊さんが横一列に並んで、お地蔵さんの後ろで肩を組んだり、腕組みをしてる。私のイメージだと軍隊って拳をギュッと握って直立不動で立ってる感じなんだけど、これはオフショットのようなものなのなのだろうか。
やけにみんなにこやかな顔をしていて、私の知ってる昔の人たちの印象とは、だいぶ違うみたいだ。
「でもさ肝心のたぬきは、どこに映ってるの?」
「うーん、写真が古いせいか分からないねぇ。お地蔵さんたちの後ろにみんな立ってるからピントもちょっとぼやけてるし。地蔵様と映るのが縁起よかったのかしらねぇ」
そんなおばあちゃんの言葉をよそに、他に何かないかなと、私はおもむろに写真の裏面をぺラッと覗いてみた。
その写真の裏には、一枚の葉が貼り付けられていた。なんてことはない手のひら大の普通の葉っぱ。確かに最初はそう思った。
なんだろこれ?落ち葉?
でも、こんな大きな葉っぱあんまり見たことないかも。その葉っぱは赤茶色く枯れ、写真の裏に見事にひっついてる。
絵ハガキのようなデザインなのかとも思ったけど、肉厚な肌触りがある。
どうやら本物みたいだ。
落ち葉にしては変わってるし、押し葉にしては妙に瑞々しいのもちょっとふしぎ。おばあちゃんに聞いてみようと思ったけど、私は葉っぱのことなんかよりひいおじいちゃんと一緒にいたと言われるたぬきのほうに自然と興味がそそられていた。
「じゃあ今もたぬきがうちを守ってるんじゃないの?」
私は葉っぱについて聞くことをさっぱり諦め、写真をおばあちゃんに手渡しながらおもむろに言った。
「いいえ、それは違うのよ」
そう否定したおばあちゃんはちょっと悲しそうな顔をしたあと、ゆっくりと言葉をつづけた。
「言ったでしょ?どうすればいいか分からなくなっちゃったって。ひいおじいちゃんは戦争で亡くなって。お父さん。奈々からしたらおじいちゃんだわね。おじいちゃんも早死にしてしまったの。踊りが上手で生きてれば一緒に踊れたのにねぇ。でもそのときよ。周りの人が口々に言い始めたの。狸憑きの役目を果たさなかったからだってねぇ」
おばあちゃんは仏壇に飾ってあるおじいちゃんとパパの写真をちらりと見たあと、なにかを思い返すかのようにゆっくりと目をつむった。
「私は最初気にも留めてなかったんだけど、弘義が死んでからねぇ……不思議とそう感じる様になったの」
「なんで?お父さんは事故だったんでしょ?」
その時、いままで静かに私たちの会話を聞いていたママが神妙な面持ちで口を開いた。
「パパがね、弘義が死ぬ数日前に私たちに言ったの。“俺は狸に魅入られてる”って……」
その言葉に、またもや背筋がぞっとした。
と同時に、おばあちゃんがぼやいた最初の言葉の意味をようやく理解したような気がする。
「ママは……ママは怖くなかったの?」
「最初は怖かったわ。でもね、パパがそのあと言ったの。絶対帰って来るって。必ずお前のところに戻ってくるってね。その時は何のことだかさっぱり。でもなんか、ほんとうにいつか帰ってくる気がして」
「でも翔ちゃんは、早すぎたわよねぇ……」
やっぱりそうだったんだ。
おにいちゃんがいなくなったのと、たぬきには何か関係がある。パパと同じく、おにいちゃんも狸憑きの呪いにあったのかも。
鼻をすする音が聞こえ、隣に座るママを見た。久しぶりに見る負けん気の強いママの泣き顔は、いったいいつぶりなんだろう。
「私もどうにかしようといろんなお寺を回ったり、神社に相談しに行ったの。でも、もとは守り神だからって、誰も相手してくれなかった」
「でもナナは大丈夫さぁね!男の子ばっかり連れていかれるし、女の子が連れていかれるなんて聞いたことないからねぇ!」
ママの表情を察したおばあちゃんが、無理にそう明るく話し出した。ママもそれにつられてウンウンと小さく相づちを打つ。
「おにいちゃんはそれ、知ってたの?」
ティッシュを取り出し、鼻をかもうとする母に私は聞いた。
「翔は知ってたわ。パパが教えてくれたのかしら。不思議と恐がってはなかったわね。でもそのせいか、いつの頃からか十字架のネックレスをしてたじゃない?やけに古びたやつ。それどうしたのって聞いたら、裏山の教会でもらったって言ってたんだけど……」
「裏山に教会なんてないのよねぇ……」
お母さんとおばあちゃんが訝しげに言葉を交わした。
私はそのとき、『なんでおにいちゃんは、他の神様なら大丈夫って思ったんだろう』ってちょっと考えた。
お母さんとおばあちゃんはなおも顔を見合わせ首を傾げている。
かじりかけのドーナツを再び手に持った私は、いつの間にかおにいちゃんが通いつめてたとされる裏山のことを考えていた。
そうだ、あのとき裏山なんかに興味を持たなければ――
そこまで記憶を遡った瞬間、おでこに強烈な衝撃が響いた。そういえばスローモーションっていうのは、さすがに時間を止めているわけではないんだった。
私のおでこは、お地蔵さんが着ていた赤い羽織からはみ出していた“おいなりさん”に、見事なまでに直撃した。どうやらそのおいなりさんは案の定めちゃくちゃ硬いそれだったみたいで、手足にまったく力が入らない。
わたしは遠のく意識の中で手足をぴくぴくさせながら、冷静に自らの運命を悟った。
「ああ、そっか……私も狸に魅入られてたんだ……」