存在Ⅰ
箱庭を見よ
今日も、生きて、生きている。生きていると死んでいるの境界、意識の有無に他ならず、
そこに肉体の存在、肉体の状態は加味されない。
では意識の有無とは?意識の死とは?精神の死とは何だ?
誰からも気にされない存在、誰も気にしない存在、
つまり人間界隈から離れる必要があるのだが、現実にも、
ネットにも人間界隈が広がっているのだから、絶対に、逃げられない。
どこまでいっても「人間界隈」からは逃れられない。人間であることからも逃れられない。
なんと重い鎖だろうか。
時折生きているということを半信半疑、疑いの目で見てしまう。
この世界は本物なのか?ここにいるのは事実なのか?生きていることは事実なのか?
この世界は存在しているのか?
上の世界から見れば、ここはただの箱庭なのだろうな。
わたしたちの人生すら。笑いものにされる。わたしは人を楽しませるため?
過去の物体は現在にあらじ。現在の物質は未来にあらじ。
そもそも過去を創り出すは脳髄、はたまた細胞の数々が各々に。
そして未来というのは存在せず、線だと今まで思っていたものは線分であるのだ。
少し進むたびに前の線分は消されて、結果的には点しか残らない。人間には、生物には今しかないのだ。
この世に闇などないのだが。この世に光などないのだが。
全ては空である。虚構である。
認識することそのものが虚構であり自分の存在も虚構である。
何一つ信じられるものはなく、この世には何も存在していない。
もしそこに何かを見出すことができたとしても、それはあなたの虚像かもしれない。
世界は共有されるべきものだが、最初からそういう風にできているわけでもない。
だからこそ人はすれ違うのだから。だからこそ芸術は生まれるのだから。
肉体を脱却すれば、確かに世界は共有され、るが、
世界が共有されなかったことでの芸術は死してしまうから。わたしはそれが悲しい。
だからあくまでも「脱却せよ」で、「脱却すべし」ではないのだ。