世界Ⅳ
もっと沢山の人に承認されたい。存在を認めて欲しい。
肉体を世界の全てと思うものの多いことよ。
肉体で見る世界は肉体のものでしかなく、自我は自我でしかない。
つまり肉体から見られるものには限界があるし、肉体から見られるもので、美しいものでも、
肉体から離れてみれば、美しく思えなくなる。
基準は肉体であり、肉体を取り巻く世界であり、環境である
奇怪な世界と機械の世界。どちらも似通ったれと近からじ。
ニューロティックな世界の中で繋がりを重視する、脳細胞的繋がりの人間。
ニューロンという思考回路を通してではニューロン的な繋がりしかできぬゆえか?
横の繋がりへと簡単に発展してしまうものもの、それが現代の人間社会所以たるものぞと。
夢はわたしたち、現実にある存在をも造られた要素として引き込んで、
夢の舞台の一役者として再形成させ得るのだ。舞台装置である寝具の上で、人は横たわっているつもりが、
役者になりきって、様々な世界を見ているのだ。
世界様々、夢様々、すべて。
記憶整理とも言われる、その作中作を楽しまねば、と。
世界が存在している?
逆、わたしたちのほうが世界に存在しているのだ。
いうなれば、世界という肉体を捨てなければならないし、
さらに言うなれば、世界に存在する限り、世界の信者であることを余儀なくされ、
実体のない世界を崇めることとなり、それに疑問を呈する者はいたとしても弾圧されるのが乙だ。
そこに偶像は存在しているか?
視覚、聴覚、音感、温感、触覚、味覚、痛覚は偶像たられるか?
思考は偶像たられるか?
それは存在しているのか?
そうだ、全ては世界の肉体でしかない、思考は世界から逃れることはできない、
存在が非存在になることはできない、存在している時点で、信仰しているのだから。
世界は現象でありながらも起こらないことがない永久不変のものであり、
わたしたち存在する者は世界の欠片でしかなく、存在するだけで、世界を崇めていることとなる。
存在しないものは不敬の罪により処罰される。
肉体を捨てたとしても世界の崇拝者であることに変わりはない。
例え死体になろうとも、卵子になろうとも、わたしたちは存在している。信仰している。
例え骨になろうとも、他の肉体になろうとも、わたしたちは存在している。信仰している。
自身の存在は、その定義された肉体ではなく、だけでなく、
本来ならば、そこから鳥に食われ、もしくは、風化して、
もしくは、地中に深く眠ることとなったとしても、存在は存在だ、
それだけは揺るぎようのない事実だから。
今無理して存在していることを刻み込もうとしたとして、人間界隈の者以外には響くことがない。
人間界隈の者には響くかもしれない。その反響は虚しく病気の基である。