1-3
やりすぎた感
風鈴の音が鳴る。
突然極寒が襲って来た。
目を覚ます。
扇風機の音が聞こえてくる。
甘いお菓子の香りが風に乗って、少女のもとまで運んでいった。
くんくんと鼻を鳴らして舌なめずりすると、「んーっ!」と背伸びをして欠伸をした。
時計を見る。
「寝すぎた。もう一時じゃん。あ、ユキ、帰ってきてるかな。朝、クレイお兄ちゃんとラーメン食べてくる、って言ってたけど……」
着崩れた薄手の浴衣から除く乳白色の肌。慎ましやかな乳房には、「Re」のアザがあった。
まだその意味知っている者は誰もいない。
「あー、ワタシもラーメン食べたいなぁ。一緒に行けばよかったかな。でも、眠かったしなぁ」
よいしょ、と立つと甘い香りのする方へ向かった。
どうやらふすまを隔てた向こう側から漂ってきている。
先程の極寒の地へ放り込まれたような気温の変化で起きた少女は、「なにかあったのかな」とふすまとふすまの間を覗きこんだ。
……ワタシがしてるの、ストーカーっぽくない?
そう思いながら、聞こえてくる会話に耳を傾けた。
✽
「そういえばアレイ兄さんは?」
「文化祭実行委員になったから、って言って飛び出して行ったわよ」
「なるほど。あれ、姉さんもじゃなかったっけ?」
「それは去年ね。今年は断ったわ」
「なんで?」
「なんでって、だって今年からあなたとニーヴがこっちに来たんじゃない。一応面倒を見る人がいないとダメでしょう?」
大変気持ちは嬉しかった。だが、自分らのために中学校生活最後の文化祭をふいにすることはないと思った。
「あ、あなた今そんなことしなくていいのに、とか思ったでしょう」
「いや、だってそうじゃん」
ユキのなにもわかっていない発言に、はぁっと大きく溜め息を吐くウレイ。
「家族のためなら身を粉にする、それがクーリア家に生まれた私の役目なのよ。もちろん、アレイやクレイもね」
「オレにはそれがよくわからない」
「別にわかれなんて言わないわ。ただ知っていて欲しいだけよ。いつか、あなたも護る側になるときが来るってことをね」
口ぶりからして、まるでもうすぐそんなときが来ると言っているように思ってしまう。
ただそれは確定的ではないし、そもそも個人的な見解に過ぎないのだから、心配することはないだろう。
けれど、言い言えぬ不安感が心に残った。
「もし」
「?」
「もし、本当にそんな日が来るんなら、オレが姉さんを護るよ。絶対に」
ユキは真っ直ぐな瞳で告げた。あやふやな未来のことだけれど、確固たる自信を持って言っている。
ウレイは小恥ずかしそうに視線を外す。
……無邪気というのは恐ろしい。
「だから、安心して?」
「す、少しだけ……期待しておいてあげる」
「うん」
「でも、『を』じゃなくって、『も』でお願い」
「お、おう」
……こ、細けぇ。
しかしそれでこそウレイ姉さん、と思った。
気がきいたり、女子力が高すぎたりする故に細かいところまで目を向ける。意図してではなく、自然に。
彼女はまるで歯車みたいな少女だった。今も昔も変わらない。
己がどれだけ優秀であるかわかっているのに、行き場がそこにしかないように誰かのために回り続ける。そんな姿が健気と思う人もいれば、哀れと思う人もいるだろう。
だがユキはどちらとも思わない。
ウレイは尽くす優しさを持っているが、切り捨てる強さを持ち合わせていないわけではない。
今がそうだ。
彼女はユキとニーヴの為に文化祭実行委員を断った、と言った。きっと本当にだれかれ構わずに尽くすような人ならば、両立を考えようとする。しかしウレイはそこまで理想主義者ではなく、どちらかの為にどちらかを切り捨てようとする、現実主義者だ。
だからユキは彼女を、強い人だと思っている。そう簡単に彼女のような人間が切り捨てるのは難しい。
二人の話に終わりが差し迫った。
「夕食はなにがいいとか、リクエストはある? できる限り応えるわよ?」
「えーじゃあ……姉さんの作ったものでお願いします」
「それは、俗に言う『なんでも良い』ということ? そういうのが一番困るのだけれど、任せるということで良いのかしら?」
「うんうん。そういうこと」
「はぁ、了解しました。なに作ろうかしら……」
顎に手を置き、深く考え出す。冷蔵庫に向かう前に特に理由もなくユキを一瞥すると、彼はにこやかに微笑んでいた。
ウレイは首を傾げる。
「なぜ笑っているの? それもとても楽しそうに」
「なんだか『夫婦』みたいだなーって思って」
「っ!?」
顔を赤くして目を逸らす。思いがけない言葉に照れてしまったのだ。
ウレイは心の中で暴走した。
……あぁ! 可愛い可愛い!
末っ子属性ということもあって可愛がりすぎたのかもしれない。アレイやクレイに言われても何も思わない――クレイに言われるとマジな気がして身の毛が立つ――が、ユキに言われると胸の奥がきゅんっと締め付けられる。なんでかそれが気持ち良かった。
ユキを背にしてくねくねと身悶える。首をぶんぶん振り回し、冷静になる。
「…………馬鹿みたいね。ていうか真性の馬鹿ね。馬鹿よ馬鹿。大馬鹿よ」
「姉さん……。そんなに馬鹿を乱用すると、逆に姉さんの方が馬鹿っぽく見えてくるよ?」
「! う、うるさいわ。わけのわからない戯言なんか言ってないで、ニーヴを起こしてきたら? さすがに寝すぎだもの」
「了解!」
ユキは返事をするとたったったっと隣の部屋に向かい、ウレイは冷めきらない熱を手で仰ぎながら一階の調理場へと向かった。
✽
近づいてくる足音にびくりと肩を跳ねらせた少女は、ささっと陰に隠れる。
ちょうどユキがふすまを開き、少女へ呼びかけた。
「ニーヴー。そろそろ起きなさ―い! あれ? ニーヴ? ……おかしいな、いつもこう言えばすぐ跳ね起きてくるのに」
怪訝に思って部屋に入った瞬間――卒爾、ふすまが閉まり、薄闇に閉じ込められる。
閉めたのはもちろんのこと、少女である。
既にそのことに気付いているユキは、口から溜め息を漏らした。
「ユ――きゃっ!?」
「おわっと!?」
ニーヴはとてとてと軽い足取りでユキの手を握り、あたかもユキに転ばせたかのように見せかけた足の使い方をし、まるで彼が彼女を押し倒したかのような構図ができ上がった。
「ご、ごめん!?」
半信半疑に上から退こうとするユキの首に、ニーヴは腕を回しホールドする。
薄闇の中でもわかる打算的な微笑。
あぁなるほど、はめられたのか。
「なんのつもり?」
「ふふっ……お・し・お・き?」
楽しげに述べられた内容に心当たりはない。皆目見当がつかないことに対してお仕置きを受けるのは、理に適っていないと思った。
「わけがわからんのだが……?」
「嘘だよ」
「嘘じゃない」
むむ、と唸る。
じとーっと彼を見ながら、ずいぶんと不機嫌な声でニーヴは言う。
「なら教えてあげます。……さっき、お姉ちゃんとすっごいイチャイチャしてたでしょ」
「起きてたのかよ……」
「あー! 否定しないってことは本当にイチャイチャしてたんだ! 自覚あったんだ!」
「いや違うって! 世論的にだ! ああいう風なところを見たらイチャついているように見えるのかなって、思っただけだ! 断じて認めてない!」
自分でもよくわからないと思った言い訳だ、当然、ニーヴは言及してくる、と思ったのだが。
なぜか彼女は唇をすぼめて瞳を閉じた。
「え?」
「んっ!」
「え?」
「んーっ!」
ニーヴはなにが為に必死になっている。
……すまん、なにがしたい又ははなにをして欲しいのかがわからない。
そのとき、ある直感が頭を過ぎった。
「ねぇ。まさかとは思うけれど……き、きき――」
「キスして?」
「は?」
思考停止。
なにを言われているのか、まったく理解できなかった。『キス』は、恋人や夫婦間で愛を感じるためにしたり、挨拶でもすることがあるが、彼女の求めている『キス』というのは前者の『キス』であろう。その心は、頬が赤い。
なにを馬鹿なことを言っているのか。これこそ馬鹿げた戯言だ。実の妹に『キス』をする兄貴がこの世界のどこにいるのか。常識的に、倫理的に考えて笑えてくるレベルで可笑しな要求だ。
「ごめん。もっかい言ってくれる? うまく聞き取れなかったんだけど……」
そうである。聞き間違いをしてしまったが故に、そのような脳内お花畑の言葉に聞こえてしまっただけかもしれない。
むすっとして言う。
「だから! キス、して?」
「あのさぁあ? 違う要求はない?」
「ない。皆無。絶無」
即答だった。
「そ、そこまで言うか……! ていうかなんでオレがお前の言う事に従わないといけないんだ?」
「だって、妹のワタシを押し倒したじゃん。妹に手を出す気があるんなら、その先も望んでるんでしょ? ワタシは妹に欲情してしまう可哀想なユキの為に、ユキのナニもかもを受け入れるって言ってるの!」
「本当に中学一年生!? そこまで下ネタが発展しすぎるといい加減引かれるぞ! そんなんで自分の人生ふいにして良いのか!?」
「そのときはそのときでユキに嫁ぐもん!」
「家族だから無理だよブラコン!」
「じゃあユキはシスコン?」
「そこは掘り下げなくていい!」
このまま話していても埒が明かないと思ったユキは、まずはがっちりと首をホールドする腕を外しにかかった。態勢的にもこちらが有利、だと考えたのだが、いつの間にか腰が彼女の足によってホールドされていることに気が付いた。
中学一年生のか弱い少女の力とは到底思えない、尋常ではない力が込められていて、どこから捻り出してくるのだろうか、と疑問に思ったと同時に焦りも覚えていた。少しずつ、ニーヴの顔に己の顔が近づいていっているのだ。
まずい、と思った矢先に、ニーヴから告げられた。
ニーヴはか細く、今にも消えてしまいそうな儚い声で告げた。
「だめ、逃げちゃだめ……もう少しだけ、一緒にいて? キスは、冗談だから。しなくても良いから……」
「ニーヴ?」
今彼は、目の前で潮らしくなっていく彼女を可愛いと思った。
少し潤んだ薄く赤味を帯びた瞳、小さく見るからに柔らかそうな桃色の唇、聞こえてくる息遣い。僅かに息が上がっているだろうか。いつもよりも荒く感じられる。
彼女は美しい。美しいからこそ、彼女の動作や様子がすべて美しく見えてしまう。それ程ニーヴは人を魅了し見惚れさせる魅力を持ち合わせていた。その効力は一種の洗脳と言っても過言ではないのかもしれない。
息を呑んだ。
「ユキ?」
「一回だけ、してみようかなー……なんて」
一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに一変して微笑んでくれる。
瞳を閉じて、肯定の言葉。
「いいよ」
それを聴くと、否、聴く前から顔を近づけていた。
鼻と鼻とがとっと当たる。
吐いた息が相手に吸われ、相手が吐いた息を己が吸う。
ニーヴは未だ中学一年生だというのに、男をその気にさせる甘い匂いを放っている。匂いを吸ったユキは、その強烈なまでの甘さに脳が蕩けそうだった。
((あと、一ミリメートル……))
二人の考えが一致したとき、今の二人にとっての邪魔者は現れた。
「ちょっと買い物頼んでも良いかし、ら――あなたたち、なにを、しているの……?」
「「!」」
気が付き互いに離れたときにはもう既に遅い。
唐突に現れたウレイに見られた。
前触れはあった。階段を誰かが上ってくる足音は聞こえていた、しかし二人は互いのことに夢中だったから、その前触れを察知し、反応することができなかった。
無言で立ち竦んでいるウレイがやっと口を開いたかと思うと、飛び出してきたのは意外なものだった。
「あれ、なぜかしら。一分前くらいからの記憶がないわ。どうしてかしら。なにか忘れていることがあるような……そうだわ、ユキ」
「はいっ!?」
「お買い物行ってきてもらっても良いかしら?」
「よ、喜んで」
立ち去ったウレイのいた場所には、ひとつの染みができていたことには誰も気が付かなかった。
ニーヴ・クーリア
年齢13歳 出身浮遊国ヴァルハラアメリカ県ネオン街 父親ルーウ 母親エミリア(賢臣) 姉ウレイ 兄アレイ&クレイ(双子)ユキラウル(双子) 魔力系統絶 所有能力〈拒絶〉〈?(制限限定)〉変態