第9話 『アイアン』のマスター2
9話目です。
2015年8月12日改稿。
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衝撃だった。
それは、もう衝撃だった。
だって、この顔面凶器のマスターだ。
「マスターが笑った!!」と、叫びたくなる。
どっかの貴族家の令嬢が、初めて立った時のような感動だ。
ふわっと浮いたイメージだ。
何故だろうか。
金髪の貴族の令嬢なんて知り合いにいない筈なのに。
「今日は飯食ってけよ?ささやかなお祝いだ」
「そ、そうさせてもらいます」
「ぶ、ぶふ…っ、オレ…腹筋なくなるかも…!」
「どうしたお前等?鼻にオリーブ詰められたような顔しやがって」
「「い、いや、なんでもない…」」
アンタのせいだ!と怒鳴りたかったのは山々。
しかし、そんな気分が山々であっても、ザエルと二人揃って必死こいて笑い出しそうになるのを堪え続けた。
言ったら言ったで、今度は強面が般若か鬼の仮面に変わってしまうと分かっているからだ。
そして、隣でダグラスも一緒に、噴出すのを堪えているのが良く分かる。
持っているグラスが小刻みに揺れているんだから、相当だろう。
とてつもない破壊力を伴っていた事は理解して欲しい。
ぶっちゃけてしまえば、逆に怖かった。
彼の笑顔は文字通り『破壊力抜群』であった。
シャロンの笑顔にも並ぶ威力だ。
良くも悪くも。
そして、晴れてご機嫌なマスターから、ふわふわの焼きたてパンケーキをいただいたシャロン。
彼はといえば、これまたとろけ切った顔をしてパンケーキをリスのように口いっぱいに頬張っている。
それを見ると、やっぱりあたしもとろけ切った表情をするしかないのだ。
「ぶふっ…似たもの親子…」
ザエルが呟いた笑い混じりの台詞なんて聞こえない。
「ご…っがふ…!げほげほっ」
そういえば、忘れていた。
あたしの隣には、『軍』最高武官にも名を連ねる大隊長、ダグラス・トールが座っているのだ。
何の因果か、こんなところに居合わせた彼。
偶然にしては出来過ぎているものだ。
マスターの必殺技のおかげで、すっかり存在を忘れていた。
そんなダグラスは、現在進行形で呼吸がピンチだ。
引き付けでも起こしたんじゃないかと思うような咳をしている。
彼は『ハンター』でありあたし達にとっては、天敵とも思える『軍』の人間だ。
だが、人間性は悪く無い。
心配にはなるぞ。
大丈夫か、おい。
真っ赤な顔をしながら、ひくひくと震えている彼はあたしに背を向けて、必死にカウンターに蹲って耐えているようにも見える。
その背中を気休め程度に撫でてやると、
「うわっ!」
「…おう」
こちらが驚くほどに飛び上がってしまった。
こっちもこっちで吃驚だ。
目が合った瞬間、真っ赤だった顔が更に真っ赤になってしまった。
おい、マスター。
この人、3杯目とはいえ酒入ってるにしては真っ赤過ぎやしないか?
一体、何を飲ませたのか。
さっと彼が背後に隠した酒のラベル。
ちらりと見たそれに、少しだけ納得した。
『人食熊殺し』
納得はしたが、同時に恐怖した。
この男、人食熊殺しを呑んでおきながら、この程度か。
うわばみだ。
「だ、大丈夫か…?」
「いや、…すまん。…だ、大丈夫だ!」
おや?と首をかしげるものの、既にダグラスはしどろもどろになって、行動も顔もしっちゃかめっちゃかとなっている。
酔ってるのだろうか。
それも、さもありなん。
しかし、次の瞬間、
「キーリに会いに来たんだとよ」
「は?」
唐突に落とされた言葉。
あたしは、目を瞬いた。
マスターのにやけた口元。
そして、そのにやけた口から発せられた台詞に、ダグラスが面白いほど飛び上がった。
「あッ、いやっ、そのッ…それは、…ちがッ!!」
「あー…っと、落ち着け?」
見事過ぎるほどの慌てっぷりに、あたしもどうしたらいいのやら。
助けを求めて三人を振り返ってみた所で、マスターは面白がっているらしく爆弾を投下しておいて放置。
ザエルとシャロンは、仲良くきょとんとしている。
しかし、真っ赤になりすぎてもはや林檎かパプリカのようなダグラスは、このまま行くと確実に落ちるんじゃなかろうか?
精神的ではなくむしろ酸欠による意識的な部分で。
「落ち着け、落ち着け。とりあえず、分かったから…なんとなく、理解したから…」
「りっ、理解っ!?…オレッ、オレがっ、…来た事はっ…!」
「あたしに何か用があって来たんだろ?まぁ、あん時の謝罪しろとかだったら、丁重にお暇して貰おうと思ってるけど?」
「しゃ、謝罪っ…!?…謝罪なんてっ」
最終的に首をぶるぶる振るだけ、というか身体全体を震わせるだけになってしまった彼。
おう、なんかこんな動物か、魔物いなかったっけ?
なんだっけ?
「プレーリー?」
「「ぶふっ!!」」
今度はマスターとザエルが噴出した。
今日は、珍しいこともあるもんだ。
あのマスターが二回も笑っているなんて。
ちなみに、である。
良いこの皆さんにご説明しよう。
プレーリーとは『モブ』に分類される、大きなネズミのような奴等だ。
きゅーきゅーと鳴いて愛らしいが、外見に見合わずアクティブ系なので愛玩動物には適さない。
しかし、その愛らしさは外敵を威嚇している時に発揮される。
なにせ、奴等は威嚇をすると真っ赤になって、プルプルと全身を膨らませながら痙攣させるのだ。
今のダグラスは、そのプレーリーそのままだ。
思わず可愛いな、とか思ってしまったあたしの脳内は、きっとシャロンのおかげで母性本能なるホルモンが大量分泌されたピンク色なのだろうか。
勿論、シャロンのせいではない。
何も分かっていないようで、あたしとダグラスを交互に見つめてきょとんとしているシャロンの頭を撫でておく。
それだけで良い。
うん、問題ない。
ダグラスは、自分がアクティブ系の『モブ』と同等に取られた事がショックだったのか、真っ赤だった顔色も少し落ち着いたようだ。
「…失礼、…動揺した」
「いやいや。すまんね、プレーリーなんて言って」
「気にしなくて良い…」
やっと落ち着いたらしいダグラスだが、あたしに用事とはなんだろうか?
本当にあの時の謝罪を求められたら、この子の見てない所で軽く『オハナシ』でもさせてもらおうかと思うのだが、
「それで、用事って?」
「い、いや、済んだ…。あれから3年経ったが、どうしているか気になっていたのでな」
ああ、なるほど。
『ハンター』という仕事は、割かし危険も伴うからな。
言い方はあれだが、生存確認をしたかったって所だろうか。
にしては、3年も経ってまで、覚えているとはなかなか、記憶力の良いことで。
あたし、何かしたっけ?
「…ああ、説教したんだっけか?」
そういえば、そうだった。
彼を前に、あたしは一丁前に啖呵を切ったのである。
討伐依頼が出てから動くから『メガ』級が繁殖して『ハンター』が餌食になるんだ、と。
確かに、覚えているかもしれない。
そこまで頭ごなしに怒鳴られて、良い気分もしないだろうしな。
「あの時は衝撃的過ぎて名前も聞いていなかったし、」
しかし、彼は驚く事にあたしを叱責するつもりは無いようだ。
それどころか、礼を言われた挙句、遠まわしながら名前を聞かれている。
奇特な青年である。
『軍』の人間とも貴族とも思えない。
「ははは。あたしの名前なんぞ聞いても関わる事も無いだろうに」
「…いや、まぁ…それもそうかもしれんのだが、」
「さっきから呼ばれまくってるのは愛称みたいなものだ。キーリエル・ターニアだ」
「オレはダグラス・トール。ダグラスで良い」
「はいよ、大隊長どの。こんな所まで、わざわざどうも」
潔く落ちついたせいか、二人ともやっとここでお互いの自己紹介を済ます事が出来た。
そんな和やかな空気の中、ここでやはり悪戯心に火をつけたのはマスターだ。
それが、どういう悪戯に部類されるのかは、見当も付かないが。
「気になっただけで3年も通うもんかよ?」
「ぐっ…そ、それはっ…!」
「あれ、そうなの?以外と常連さんだったんだな」
マスターの台詞を聞いて、またも顔を真っ赤にしたダグラス。
そこまで超絶反応をしてくれなくても良いんだが?
別に怒らんよ。
ここに通い詰めてたとしても。
「月に一回は来てたよね。そういうのなんつうの~?」
「どうなんだ?そこんところ」
「ぐっ…マスター殿ッ、ザエル殿…ッ」
ダグラスがまたもやプレーリーに見えかけているんだが、大人気なく苛めているのはどうなんだマスター?
あたしには今のところ、マスターの言うそこんところというのが、どこになるのか、良く分からんのだが。
「じゃじゃ馬のキーリは言わないと分からんよなあ」
「うん?あたし?ってか、じゃじゃ馬はやめろ、マスター」
「跳ね馬か?」
「違うし!種馬みたいだからやめろ。ザエルじゃあるまいし!」
「ちょっと、キウイちゃんオレのことそんな風に思ってた訳!?」
あたしの言葉にザエルが素っ頓狂な声を上げるが、知った事か。
とりあえずシャロンには、知らなくていい言葉だからな、と微笑んでおいた。
「?(こてり)」
と、安定の可愛らしさと同時に天使の微笑み。
この子はあたしを悶え殺したいのだろうか?
もうこれで話は終わって良いような気がしてきた。
「良いじゃないか、別に…」
「「良くない」」
「こんな時ばっかり、揃って怖い顔しなくて良い」
あたしの台詞に間髪入れずに声をそろえて言い切ったザエルとマスター。
そろそろ、詰まられてるダグラスが可哀想になってくるから辞めてやってくれ。
デカイ図体しているはずの成人男子が、そろそろ本気で大草原のド真ん中で震えるプレーリーに見えてきたから。
見えてきただけじゃなく、そう見えてしまっている。
まぁ、ダグラスにはご愁傷様としか言いようがない。
この2人が組むと、確実にあたしは勝てない。
最強のタッグだ。
腕っ節ではマスターに負けるし、口では旅商人のザエルに負ける。
うん、勝てる見込みは無い。
とりあえず、あの可哀想な成人男子、ダグラスに関しては目を瞑り、合唱しておこう。
「?(こてり)」
そして先ほどと同じく、首を傾げただけのシャロンは、安定の可愛さです。
これは、これで良いのです。
その後、彼が逃げてしまったのは勿論、言うまでも無い。
貴族育ちの坊ちゃんでありながら、『アイアン』の常連として3年も通い詰めていた『軍』の大隊長。
そんな酔狂な彼とはまた酒を飲む約束をさせてもらった。
彼も大刀使いだと言う事を知っていれば、もう少し早く馴染めたかもしれないというのに。
そして、家へのご招待も。
あたしは『ノースエリア』に行くことも無いし、出来れば行きたくも無い。
しかし、ダグラスならば仕事の合間に会いに来る事が出来る。
貴族としては豪胆な性格だったせいで、実現したご招待である。
ちゃっかり、連絡先として鳩郵便の住所も交換して、店で別れたのは夕暮れ時だったような気がする。
「本当にちゃかりしてるよ」
「本当にちゃっかりしてやがるよ」
「え、っと…何が?ってか、アンタらなんで、そんな怖い顔してんの?」
何故か、その後ザエルとマスターの絶対零度の微笑みに晒されたのはあたしだった。
解せん。
***
久しぶりに飲んで、騒いだ。
食事処『アイアン』で、夕食をご馳走になってきたのである。
あの後、マスターと交渉の結果、仕事に出ている間でのシャロンの預け先は当初の予定通りマスターのところで決定した。
おかげで、あたしが子どもを浚ったかもしれないなんて、悪意があるとしか考えられない噂も誤解も解消出来た。
そもそも、あたしはそこまで子どもが欲しかったかと言えば、そうではない。
だが、今こうしてシャロンを拾ったからには、責任を持って育てる所存ではあるが。
むしろ、シャロンじゃなかったら拾ってなかったかもしれない。
それはそれで、酷い話ではあるかもしれないが。
マスターもシャロンの可愛さと大人しさを見て満更でもなさそうだったし、彼ならば躾も含めてこの子を乱暴に扱う事も無いだろう、という安心感もある。
それに、一時期とは言え、マスターには子育ての経験があるというのは、嬉しい誤算だった。
マスターは、未だに子どもの用品を処分していなかったのもあって、すぐに出てきた子供用のカウンター席もそれが理由。
きっと、いまもまだ奥さんと子どもを愛して、そしてこれからも忘れることはないのだろう。
更には、出るわ出るわの、子どもの玩具。
手作りだと分かる、パズルなどの遊び道具の数々に、マスターが持つと討ち取って来たとしか思えない熊のぬいぐるみ。
可愛らしい表情とは裏腹に、そのサイズがどう見ても普通じゃなかった。
その後、仕事帰りの『ハンター』がごった返した店内で、何度目かも分からないシャロンマジック(メロメロビーム)によって、飲めや歌えやの大騒ぎ。
さすがはあたしのシャロンである。
『ハンター』の中には、あたしを嫁にしたいなんて酔狂な奴等もいたようだが、丁重に遠慮させて貰う。
正確には『この子の面倒を家で見てくれる上に、家事掃除洗濯全部一人でこなしてくれるならね』、と言って盛大に困らせてやったのだ。
そもそも、なんであたしみたいな筋肉女を娶りたいと考えるのかは、一切合切不明である。
どんな嫁だ?とマスターに言われた上に、それ婿さんじゃない?なんてザエルには大爆笑されていた彼等に少し同情はする。
シャロンはよく分かっていないようだったが、こてり、と首を傾げていた姿が可愛らしくて、その他の事はどうでもよくなった。
あたしは『ハンター』として仕事を出来ない生活なんて考えられらない。
幾つか、理由はあるが、一番は父さんの事。
あたしは、父さんの後を継いで、『ハンター』になったのだ。
それならば、たとえどんなに危険なことでも、やり遂げなければ意味はない。
それこそ、シャロンの為には稼がなければならない。
その為には家で待っているような内職の妻は嫌だ。
それに、あたしが稼ぐ金額と旦那が稼ぐ金額が同等程度ならば、あたしは自分で稼ぎたいのだから。
たとえ、シャロンに泣かれても、だ。
「いや、泣かれたらさすがに考えるかも…」
ぼそり、と呟いた声は少しひんやりとした空気の中に溶けた。
帰って来る頃には、ぽやぽやとしながら船を漕いでいたシャロンも今では既に夢の中。
そんな愛くるしい小さな身体をベッドに寝かしつけてから、あたしは明日の分の洗濯物を水に浸しておく作業に取り掛かっていた。
元々手持ちの衣服は少なかったものの、シャロンが来てからは増え続けている。
だからこそ、清潔な状態を保つために毎日洗剤と一緒に夜に水に浸しておいて、朝に干しているのである。
『ハンター』の仕事を再開したら、ちょっと厳しくなるのかな。
なんてことを考えて数秒。
もしかしたら、シャロンの大きくて潤んだ瞳に見つめられたら、仕事にいけなくなるかもしれない。
我ながら、甘いとは思いつつも、あの愛らしい目線に耐えられる者がいるだろうか。いや、いない。
先ほど呟いた台詞と脳内で浮かんだシャロンの愛らしい泣き顔を照らし合わせて、ふぅ、と溜め息を零した。
そんな時だった。
「…あ」
ふと手に取ったシルクの手触りに少しぎょっとした。
シルクで出来たシャツはレースまで使われていた、いかにも高そうに見える代物だった。
一番最初にシャロンを拾った時に、あの子が身に付けていた衣服。
本来ならどこまでも白いシャツだっただろうに、ところどころ染みになっているのは泥だろう。
そして、
「出来れば、聞きたくないんだがな…」
そのシャツに、泥のようなものと混ざって、飛び散った赤い染み。
ケチャップやジャムとは違う、酸化して黒ずみになり始めている血の痕だ。
シャロンの着ていたズボンにも同じような染みがところどころ付着していた。
そして、思い当たってしまうのは、あの子が喋れなくなってしまった理由。
まさか、元から喋れない訳では無いだろう。
もしそうならば、親はどういった教育をしていたのか。
大事にされていなかったとなれば話は別だ。
だが、そうなると、このような高そうなシャツを着せて貰える訳がないのだから、それは無いように思える。
白い肌には痣は無かった。
膝や掌に擦りむいた痕があった程度。
今ではすっかり元のぷにぷにの白い肌に戻っている。
だとすれば、この血はあの子のものではない。
そうなると、この血は誰のものなのか。
あの子の周りには、あたしが見た限り人はいなかった。
いや、暗くて見えなかっただけなのかもしれない。
だが、少なくとも近くに血の臭いは無かったからこそ、この子を拾えたとも言える。
ふと、そのシャツを目線を落したまま、
「お前は…どうして声を失っちゃったんだろうな」
もし神様がいるなら、願う。
神様じゃなくても、もし願いを叶えてくれるというなら誰でも良い。
あの子の声を返してください。
あの子の笑顔を守ってください。
そして、願わくば、
「このまま、あたし達を平穏に暮らせるように見守ってください」
ふと、零れた涙が、風呂桶に溜めた水の中に、吸い込まれるようにして消えた。
波紋が広がる事は無かった。
そうして、音も無く消えたその涙が、あたしの願いを否定したかのように思えた。
***
誤字脱字乱文等失礼いたします。