第4話 ザエル・ウル・ロー2
2015年8月12日改稿
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ザエルと睨み合う事、数分。
どれぐらい時間が経っただろう。
ふとザエルが視線を外す。
あたしではなく、ザエルが先に視線を外した。
これで、野生動物相手ならば勝ったと思えるところだろう。
だが、今はそんな根比べをしている訳では無い。
何を言うでもなく、彼は視線を部屋中に巡らせた。
まるで、何かを探しているように。
ふと、居た堪れなくなる。
いつもは、もっと汚かった。
彼は、そう思っているだろう。
ザエルすら呆れていた汚部屋。
それも、今では片付けはしたつもりだ。
散乱していたとも言える商売道具だって一箇所に纏め、シャロンが触っては危ないからと背の高い棚に収納した。
服だって、靴だって、布といえるものは全部洗濯。
箪笥に仕舞えるものは仕舞った。
使えなかったりいらないものはゴミ袋に詰めて、家の近くの焼却炉に放り込んだ。
ちなみに、この近所の焼却炉は、一年中火が炊かれている。
その焼却炉の見張り役に、お金を支払えばなんでも燃やしてくれるのである。
勿論、爆薬を投げ込む馬鹿がいては困るので、検品などの立会いのもとではあるが。
閑話休題。
掃除洗濯とは縁も無かった生活だった。
だが、シャロンの為に床には塵一つ落ちていない状態を保ち続けている。
勿論、床に万が一何か刃物や脚を傷つけるものが落ちていても困るので、ラグマットを敷き詰めて。
更には、外を歩いてきて汚くなった靴ではなく、わざわざ購入してきた室内用のスリッパを使っている徹底振り。
シャロンが風邪や病気を患わないようにという配慮も篭もっている。
先ほど、ザエルには無碍にされた配慮であったが。
しかし、それでも居た堪れなくなるのは仕方ない。
なにせ、ザエルは自分の自堕落的な生活を知っているのだから。
ふと、目線を逸らそうとしたものの。
その一足先に、ザエルの目線があたしに戻ってきてしまったので、思わず背筋を正してしまう。
「料理も、あの子のために始めたの?」
「うん」
本棚兼ラックに詰まった書籍。
見事に調理関係と育児の教育雑誌が並んでいる。
それをザエルが見つけたらしく、指を指し示しながら告げられたその言葉。
それに、あたしはただ頷くだけにしておいた。
ザエルの表情。
先ほどの哀愁を帯びていた時の物憂げな表情とは打って変わって、最初の頃よりも更に真剣なものへ。
だけど、あたしはこの表情を見ても、
「全部、あの子のため」
「そう。それで、生活は何か変わった?」
「変わったよ、それはもう。早起きするようになったし、ご飯はきっちり三食食べるようになった」
「おやつまで?」
「そうだね、あの子の為にあたしに出来ることは全部、なんでもやるつもり」
「あ、そう」
ザエルが溜め息とともに吐き出した、そっけない言葉。
とは、裏腹に。
その表情は何故だか少し嬉しそうに見えた。
何故だろう。
この会話の中で、納得させられたのであれば僥倖だが。
質問をするにしても喉がからっからに張り付いて来てしまったので、温くなった紅茶を渋々、喉に流し込むだけに留めて置いた。
質問も、一緒に流し込んでしまう。
その間に、またもザエルがお茶請けのクッキーを頬張った。
そんな暢気な彼の姿を見て、もう一度手を叩き落してやろうか、なんて事は不思議と思わなくなった。
彼がご飯を食べる時。
よくしている癖を見せていたから。
美味しい料理の時は、無言で頬張る。
口の中に一杯にして堪能する、そんな癖。
リスみたいに頬っぺた膨らませて、二枚目のクッキーを口の中に放り込もうとしたのを見て、ついつい噴出すのを堪えられなくなった。
「何、笑ってんのさ」
「クッキーはまだ作ってあるから、そんなに頬張らなくても取りはしない」
「………」
三枚目も取ろうとしていたらしいザエルの手が、ぴたりと止る。
そして、ふと罰の悪そうな彼の視線が、あたしに向けられて。
「美味しいと感じてくれたなら嬉しいさ。あの子の為に、必死に勉強して作った甲斐もある」
そんな風にもぐもぐと一生懸命に嚥下してくれているのを見ると、嬉しい限りだ。
そう思って、微笑んだつもりだった。
それを、きょとん、と見つめ返してきたザエルに、まとも笑いが込みあげた。
「すっかり、お母さんの顔になっちゃって、まぁ…」
ザエルが、ふと呟いた台詞。
今度はあたしが、飲もうとしていた紅茶のカップをぴたりと止めた。
罰が悪くは無いものの。
どう言う事?とザエルへと視線を投げかければ、
「あの子、幸せだよ。こんなに、大事にされてんだから」
「だ、だとしても、さっきのお母さんの顔?って、何?」
「分からないなら、あの子に笑いかけた顔を、自分で鏡で見てごらんよ」
「え?…っと、うん?」
ザエルからの返答は、要領を得ない。
ただ、不思議と悪い気はしなかった。
分からないなら良いけどね。と、ザエルが最終的に五枚目のクッキーを頬張った所で、とうとうあたしは耐え切れなくなってしまったが。
「あんたの今の表情は、冬篭りのリスみたいになってるけど?」
「ぶほっ!」
「ぎゃあ、汚い!!」
噴出しながら放った言葉。
もう少し、選べば良かった。
噴出されたクッキー。
避ける間も無く、被弾した。
とりあえず、大皿に盛られたクッキーだけはなんとか回避させたものの。
クッキーをかばったあたしに飛んできたものばっかりは避けられない。
仕方ない、とばかりに大皿をそのままキッチンに退避させた後に濡れた布巾を持って来る。
未だにむせ返っているザエルには、腹いせ交じりにティッシュを投げ捨て。
あたしはテーブルを拭く。
紅茶は淹れ直した方が良いだろうか?
うん、淹れ直そう。
クッキーだったものの残骸が浮いているようだし。
汚いったらありゃしない。
テーブルを拭き終えて、今度は紅茶のカップをキッチンに退避させ、薬缶を添えてあったコンロの前でスイッチをひねる。
先ほど沸かしていた分があったので少しは早いだろうから、水を少し足しただけで後は放置。
その間に、咳も収まったであろう彼の元にまたクッキーの大皿を置いてやる。
先ほどよりもさらに罰の悪そうな顔をして、あたしを見上げたザエルに、見下ろすような形でにやりと笑う。
「リスの次は、何?」
「叱られた子犬」
「ぐ…ッ、本当に、そういうところは可愛くないよ、キウイ」
「少なくとも、あんたが呼ぶ名前以外可愛くない。ってか、キウイって呼ぶな」
「可能な限りの譲歩でしょ?キーリちゃんの方が良い?それともエルたん?」
「ちゃん、と、たん、の違いはなんだ馬鹿者」
ごちり、と背後から後頭部を殴りつけてやった。
だが、ザエルは対して笑うだけである。
大したダメージではなさそうだ。
それもそれで腹が立つんだがな。
湧き出して五月蝿くしゅんしゅんと音と蒸気を零している薬缶の音が響く。
その音を聞いて、すぐにキッチンへと引っ込めば、
「ねぇ、このクッキーのレシピ教えてよ。しばらく、オレのおやつにしたいし」
ザエルがまたしてもクッキーをもぐもぐと租借し始める音がした。
ふと、呆れると同時に、嬉しくて笑った。
あたしが、料理で褒められた事。
一度も無かった筈だったからだ。
「普通のクッキーのレシピだよ。今回のはちょっとタネが緩過ぎたけど、これぐらいが丁度良かったみたい」
「タネを緩め、ね?…他には?」
「バニラエッセンスで香り付けしてあるだけ。後は何にも」
「…ふーん」
紅茶を淹れ直しつつ、テーブルに戻る。
ザエルはさも不思議そうな顔をしながら、そのクッキーを頬張っていた。
またも、リスのように膨らみ始めた頬っぺたに再三の笑みが浮かぶ。
もう噴出さないでくれよ。と願いながらも、敢えて口には出さずに紅茶のカップを彼の目の前に置いて、
「シャロンと一緒に作った。感想を聞かせてやってくれ。きっと、喜ぶから」
ふいに、目線を移した先。
ベッドに眠る、シャロンを見て呟いた。
まだ、夢の中、すやすやと眠っているその姿を見ながら、今日何度目かも分からない顔面土砂崩れ。
その、みっともなくとろけた顔をザエルが下から見ていたのか、
「そんな顔されちゃ、取り上げる訳にもいかなくなっちゃうだろ?」
あ、と気付いたときにはもう遅い。
ふ、と崩れた顔面を引き締めるものの、恥ずかしくなって彼の後頭部を再度、ゲンコツで殴りつけた。
それにすら、ザエルが笑う。
ただ、不思議と腹立たしい気持ちはなかった。
「あの子が来て、お前が笑うようになってたのが嬉しかったよ。いつもは、『戦闘狂』らしく、仏頂面しかしてなかった癖してね」
「『戦闘狂』は余計だ」
その一言に、もう一度ゲンコツで殴るが、今度は回避された。
前言撤回。
コイツ、腹立つ。
「まぁ、無理しない程度なら良いんじゃない?ところで、仕事行く時はどうするつもり?このまま、あの子の為に引きこもっている訳にも行かないでしょ?」
うぐ、と呻き声を出してしまった。
痛いところを付かれた所為だ。
女にあるまじき、喉に魚の小骨でも刺さったかのような声が出た。
「…そう、なんだよな~」
そして、溜め息。
テーブルに突っ伏した。
「ああ、その宛ては無かった訳ね。ってか、そこに思い至って無かったら本気で反対だったけど、考えてはいたようだから安心したよ」
ザエルが、そんなあたしの様子を見て苦笑。
ああ、良かった。
これで、ここまで考えていなかったら反対されていたのか。
気付いていて良かった。
「さっき言っていた『軍』系列の育児院って、確か前面的に引き受けた後は『軍』にそのまま就職するって形になっていただろう?保育機関さえ完備されているのであれば、」
あたしの、希望的観測ではある。
ただ、保育機関さえ完備されているのであれば、あたしはたとえ嫌いな『軍』であっても、子どもを預ける為に頭を下げるつもりではいる。
悔しいけど、シャロンの為だ。
しかし、
「あそこは、一時的にでも預けるもんじゃないよ。最低限の暮らしだけさせられて、半永久的に労働を強いられる監獄みたいなもんだし」
返って来たザエルの返答。
紅茶を持っていた手が思わず震えた。
あたしの希望的観測は、見事に打ち砕かれたようだ。
まるで、関係者から話を聞いてきたかのような彼の言葉に、怒りを感じる。
それだけではない、何か得体の知れないものがごちゃ混ぜにされたような感情が胸を付いて、思わず目の前のザエルへと厳しい視線を向けてしまう。
「そんな所に、あの子を入れようとしていた、と?」
「遣る瀬無い選択ではあるとは思ったけどね。ただ、シャロンくんに情が移ってる今のキウイにはこれ以上、あの施設という名の監獄をオススメするつもりは無いよ」
「ああ。これ以上その『軍』の施設をオススメされた瞬間には、アンタの頭の中身をカチ割ってやろうかと」
「おお、怖ッ」
ザエルが揶揄でもなんでもなく震え上がる。
そんな彼の姿を横目で見て、ふと溜め息。
こうして茶化しているのも、あたしがしっかりしてはいないと考えているからだろう。
それは、あたしを信頼していないという事。
しかし、その信頼に関して、あたしは物申したい。
あたし的には、当面の心配をしていない理由がある。
「あたしが出せるお金は、貯蓄含めて300万Ttrって所。あの子の為に切り崩している分が今のところ20万Ttr程度かな?」
「アンタ、意外と貯蓄家だったのね…」
Ttrとはこの世界の共通貨幣の総称だ。
この国の一世帯あたりの月平均の所得収入は、大体5万Ttrほど。
5万あれば、家族3~5人が暮らせるのだ。
あたしは、その4倍の額をシャロンに費やしているという事。
ただし、半年でと換算しているので、そこまで多くは無いが。
リニアガウスの流通市場の物価は、それなりなもの。
高くもなく低くもなく。
ちなみに、あたしは仮にも『ハンター』の端くれ。
月に10万~15万程の収入がある。
『ハンター』は危険な仕事も多いので、収入もそれなりになるのである。
「そりゃ、ずいぶんと思い切った散財したねぇ。ただ、貯蓄してあった分が少なくとも200万超えてるだけまだマシか。子供育てるのに、だいたい150万は掛かるらしいし」
一般家庭でのTtrの価値を考えると、やはり20万Ttrは散財だ。
このザエルという男は、顔役とも呼ばれているだけあって収入も貯蓄なんてものも考えたくないものの。
特殊な職種である『ハンター』のあたしでも、平均所得収入は10万程度。
仕事が立て込む年末年始ではピーク時で30万だった事もあるが、少ない時は1万にも満たない収入があった事もある。
それを考えると、結構な額を貯蓄出来ていただけ、まだマシだ。
「ん、了解。マスターに話を付けておこう」
「うん?なんで、マスター?」
ああ、マスターというのは、ウチら二人も贔屓にさせてもらっている『ハンター』ご用達のバー『アイアン』のマスターの事。
先程述べた父の友人だったのも、このマスターの事だ。
この街の『ハンターズギルド』にも認可されていて、クエスト掲示板も完備されているバーのマスターも、実は昔『ハンター』だった。
そんなマスターはあたしの師匠。
ザエルとしてはクエストや、もしくは商人ならではの愚痴や相談を気兼ねなく行える事から今では常連と化していた。
だが何故、その『アイアン』のマスターが、この会話の中で出てきたのだろうか?
「キウイ、言われてたでしょ?子供出来たら見せに来いよって」
「よく憶えてたな、そんな酒の席での冗談を」
「ははは、オレとの子供出来たら~なんて言われてたら、嫌でも憶えてるよ」
「それこそ有り得ないな。お前幾つになった?あたしに手を出すと、本物の監獄に入る事になるんじゃないか?」
「勘弁してよ!ってか、お前も人の事言えんでしょ?あの子、10歳ぐらいだよ?」
「アンタの頭の中身がピンク色かどうか確認してやろう、よしそうしよう」
「やめなさいよ、あの子の目の前でなんてもんぶちまけようとしてんのさ」
「片付けはするさ。綺麗さっぱり消毒してからあの子と散歩に行ってやる」
「やめなさい、やめなさい。その危ない思考回路を少し自重しなさい」
振り回そうかと思っていた自分の半身とも呼べる獲物の大刀『ハイデンクラッシュ』を仕舞ってから、数秒。
出来れば、男として下種な思考を持ち合わせていることを少しでも恥じていただきたいものである。
あたしとシャロンをそんな眼で見ようとするんじゃない。
「話が脱線したけど、マスターは確か『ハンター』をやめる前に、奥さんと子供を流行り病で亡くしてるんだ。だから、子供の面倒は見れるし、実際好きみたいだよ?」
「………あの人が?」
「うん、あの人が」
「見えない」
「オレも思ったけど、言わないでいてあげれば?」
『アイアン』というバーの名前に似合う、強面で屈強なマスターの姿が思い浮かぶ。
いつだったかは憶えていない。
だが、店の中で酒に酔って乱闘を始めた駆け出し『ハンター』を二人、朝方までド突き回していた事があったマスターである。
そんなマスターの姿を思い出し、ぶるり、と無意識に身体が震える。
あの時のマスターは、顔といい、声といい、行動といい、自棄に怖かったのを憶えている。
父さんの再来かと思った事もあったもの。
でも、まあ。
そんなマスターが、あたしの救世主になるかもしれない。
似合わないとは分かっていても、あたしにある伝は彼だけだ。
「じゃあ、シャロンの散歩先はバーにしておこう。久々にマスターのご飯を食べに行きたいと思ってたし」
「真昼間から行く場所でも無いと思うけど?」
「善は急げ、さ」
ふと、微笑んだザエル。
そのザエルがまたもやクッキーを頬張り過ぎてリスのようになっているのを見て、三度目の噴出。
勿論、大爆笑してやったさ。
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誤字脱字乱文等失礼致します。