挽回
俺は疲れた体を無理やり動かす。
補習が終わったのか、高月ツミキが校舎から出て来たのが見えた。
竹刀入れの肩ひもを強く握る。
ふと、奴との因縁に思いを馳せる。
何度も喧嘩し勝っては負けて。
何度も勝負し負けては勝って。
何度も何度も、負けたのだ。
勝っても俺は何も手に入れられず。
負けても奴は全て手に入れていた。
これは、そう、嫉妬なのかもしれない。
俺は、曖昧な感情のまま剣を握るのをよしとはしないが。
誰も、明確に感情を制御し振るう事など出来まい。
ならば、それでよし。
曖昧で茫漠で有耶無耶な感情のまま。
明確で正確で杓子定規な敵意とする。
俺は足取り重く、奴を追う。
0をプラスにする作業と、マイナスを0に戻す作業はその量さえ等しければ同じ労働である。
数学でいう絶対値みたいなもので、両者に違いはない。
でも、マイナスの挽回って精神的にクルよね。
何の話かというと、つまりは補習の話だ。
うちの高校の補習とは、赤点を取ったものに莫大な量の宿題を課し、その答え合わせをテストの次の週の月曜放課後から延々と二週間、マラソンの如く行うという方式を取る。
すでにテスト勉強という一夜漬け式短距離走を終えた後のバカな高校生に、休憩する間も与えずに長距離走を課すこのシステムは、正直どうかしている。
ちなみにミーヤみたいな規格外のバカは、長距離走どころか超長距離走を課せられ半死半生である。
俺の場合、古典は月・水の放課後だけ補習で済むが、やつはほぼ毎日プラス2コマ分程の補習を強制されているはずだ。
しかしこのマラソンの怖いところは、その労働量ではない。
教師陣もサービス残業を強制され。デフォルトで機嫌が悪いのである。
ミーヤもスポーツ組という愛称を持つ一組――何らかのスポーツの推薦によってやってきた肉体派どものクラス――をまとめ上げる鬼教師、世界史の土宮先生にしごかれている事だろう。
俺は補習で疲れた体をほぐすように伸びをする。
外堀先生のやる気に満ち溢れた補習に、サボる気持ちをそがれてまじめにうけてしまったのだ。
正直俺にとってほかの教師は距離があるか嫌っているかのどっちかなので平気で寝てやれる。しかし、外堀先生となると話は別だ。
おそらく俺は、あの先生が困っていたら多少無茶しても助けると思う。
特別な思い入れがある訳ではないけれど、別段助けてもらった訳ではないけれど、あの先生だけは生徒の事を本当に考えてくれている。そんな気がするんだ。
うちみたく進学校を目指しているような高校の教師ってのは、生徒の将来じゃなくて生徒の行く大学の事だけを考えてるように俺には思える。
つまりは、卒業したらそれから先の事は、何も教えてはくれない。
それは子供が紙飛行機を、ただただ高く飛ばす事だけを目指してぶん投げるようなもので。
飛んだ後の着地地点なんて、誰も考えてくれちゃいない。
俺が勉強をちゃんとしようと思わないのも、彼らの敷いたレールが正しいと思えなくなっているからだ。
ま、言い訳もおそらくは混ざってんだけどね。
俺はかばんに補習の課題と教科書を詰め込むと、席を立った。
階段を下り、靴を履き替え、外に出る。
「待ったか?」
俺は校舎の出入り口でしゃがんで文庫本を読んでいる古式に声をかけた。反応が鈍い。
「もう少しー」
古式は神妙な顔つきで文庫本の文字を追っているようだ。自分の世界に浸ってるんだな。
しばらくして、金属製の綺麗な栞を本に挟むと、古式は立ち上がった。
「待った?」
「……ああ、少しな」
何だろう、何かがズレている。
和むからいいけど。
「アタシたちもいるんだけどね」
も、の部分を強調して波倉は言った。知ってるよ。
なんせ古式の左右にお前と弾希が侍っていやがるんだからな。
どうしてこんな風にいつものメンバーが全員集合しているのかというと、ミーヤが分かりやすく今日闇討ちすると宣言してきやがったので、それに対応するためだ。
いくらやつが馬鹿で阿呆で救いようのないやつでも、このメンバー相手に喧嘩を吹っかけやしまい。
少なくとも波倉が止めれば、あいつは例え俺が殴りかかっても無抵抗で殴り倒されるだろうしな。
そんな事する気はさらさらないけど。特に理由はないはずだが、俺はそういういじめじみた行動が嫌いなのだ。
それは置いておくとしても、しかし、波倉がいてくれる事はミーヤ対策としては非常に心強い。……後日この貸しのために無茶な要求を突きつけられる気がするのが、ミーヤの闇討ちよりもある意味怖いが。
まあ、未来の自分よ頑張ってくれ。
今の俺は今の俺として最善を尽くすぜ。
「それじゃ、帰りましょ」
波倉の号令によって、何となく固まってだべっていた俺たちは歩きだした。
とは言うものの、それはバス停までの話だ。
俺たち四人は普段、自転車で駅から学校まで通っている。しかし、補習の間はミーヤからの闇討ちを警戒してバスを使う事にしたのだ。
ここまで対策をして闇討ちなんてできまい。
そう思い、俺は校舎から一歩外に出た。
途端に俺たちに落ちくぼんでくる夕闇は、暗いというより曖昧に明るく、雨季のはっきりしない空模様と相まって、かえって不気味だった。