第3話
「裏山」は、達樹の家の住宅街の外れ、未開発の雑木林のある丘一帯を指していた。その奥に達樹と龍くんの通う小学校で話題となっている平屋建ての廃屋があり、幽霊が夜な夜な現れるという噂だった。
大学に入り、帰省の折に達樹が訪れた時には、既に一帯の雑木が刈り取られ地がならされ、二階建てのアパートが数軒建っていた。達樹は広いと思っていた裏山の狭さに自分が大きくなったことを改めて感じ、あまりに整然とした街路の様子に、その時は何やら釈然としない感情を抱いた。当時太宰や坂口にかぶれていた達樹はその時の心情を、「金と重機とが、フォークロアをなぎ倒し、刈り捨てる。子供心のロマンスをこそぎ落とす。資本とエゴ。フラットでシンプルな話だ。神話なぞ、一つもない。」と当時の日記に記している。
しかし裏山は、当時は「禁断の地」であり、特に達樹と龍くんの親父たちからは、「絶対に行くな」と平素からかたく禁じられている場所でもあった。
街灯がなくなり、工事中の道路が斜面に寸断され、いよいよ雑木林にさしかかった。錆びた有刺鉄線は、押しひらくと簡単に子供の通れる隙間ができた。
「気をつけろ。健太はケツう、ひっかけんな」
龍くんが、先頭に立つ。
「本当に、ダメなのになあ…」
不安げに首をめぐらせながら、それでも達樹はついていく。芳ぼうが、無言で達樹のランニングの裾を持つ。一雄は、
「おれ、最後かよお、こええよお」
ビクビクしながらついていく。
やや昇りの勾配は腐葉土で覆われ、ふんわり柔らかい。クワやクヌギの匂いが昼間の草いきれと混じり合い、鼻をつく。蚊の甲高い羽音が耳をかすめるたび、皆は不快感を伴った驚きに見舞われた。数歩藪を入ると、もう懐中電灯の光だけが、明かりとなる。更に数メートル歩くと、達樹の家の傍を通る旧国道の車の音だけが遠くで響くだけとなった。すでに蚊にやられ、皆、足首や首筋がかゆくて仕方ない。
「おっ」
龍くんと先頭に立っていた健太が、立ちどまった。
「なんだよ」
後ろを歩く達樹兄弟と一雄が一瞬、緊張する。
「へっへ~」
取りあげたのは、ビニ本だった。
「すげっ」
龍くんが、せわしなく頁を繰る。懐中電灯に照らされた、豊満な女の肢体。体じゅうが真紅の縄で亀甲模様に緊縛され、縄と縄との間から白い胸と尻とが、もっちりはみ出ている。一同恐怖を忘れ、頭に血が昇り、腰がやたらむずむずするのを覚える。
「うう~、見えねえなあ」
龍くんが懐中電灯で女の股間を透かす。縄が真一文字にあてがわれた股間の割れ目に沿って、ガラスを擦ったような目張りが入り、肝心の部分は拝めない。
「ちくしょう」
健太が癇癪を起こしたように横から手をのばし、頁を最後まで繰る。最後の頁から、立派なノコギリクワガタが、攻撃姿勢のまま突如這いでてきた。
「うわっ!」
あやうく指を挟まれそうになった健太はビニ本をはたき落とした。
「おめえ、なに勝手なこと、してんだよ!」
もっと見たかった龍くんは、またサーベルで健太の頭を叩いた。
「ゴメン、ゴメン」
健太は殊勝にうなだれる。
「また後で取りにくればいいべよ。な?」達樹が言う。「それよりホラ、時間ねえし。行くべ」
更に進むと、周囲を雑木林で囲まれた、平地に出た。丘の頂上らしい。月明かりが、辛うじて木々と夜空の輪郭を隔てている。
その奥に、やや木に隠れるように、貸家のような、木造平屋が建っている。懐中電灯をあてる。屋根は錆びだらけのトタンでふいてあり、木の側壁は白けて毛羽だち、ボロボロだ。窓ガラスも一部が割れていて、とても人が住んでいるようには見えない。
「おい……これか?」
龍くんが汗をしたたらせ、小声で言う。
「ああ、これだっぺ」
達樹が唾をのむ。
「石かなんか、投げてみっけ?」
健太が言う。
「バガ、やめろって! 冗談じゃねえんだゾ。マジで幽霊、いっかもしんねえんだゾ!」
「龍くん…『ビクトリー・フラッシュ』と『地球剣』の陣形、やっぺよ」
一雄が手探りで龍くんの手をつつく。
「んだな。それで近づいてみっか」前を見たまま、龍くんはうなずいた。「みんな、サーベル合わせろ」
五人は扇形になり、プラスチックのサーベルの剣先を合わせ、小屋へと進む。
「ん?」小屋まで十メートルほどに迫ったとき、芳ぼうが立ち止まる。「音、しねえ?」
「うそだっぺ?」達樹が耳を澄ます。「……なにも聞こえねえべよ。ごじゃっぺ言ってんな」
「そうけ? おっかしいな……」
芳ぼうが首をかしげる。
その時。確かに小屋の中から、パキ、と、小枝が折れるような音がした。
「うわっ」
健太が驚き、おならをした。
「健太、ばか!」
一雄も思わず叫んでいた。
ガラっ、窓ガラスの欠けた引き戸が、唐突に開いた。暗くてほとんど見えなかったが、背の丸まった生きもののような影が、軒先に佇んでいる。達樹が息を飲みこみざま、喉を笛のように鳴らした。その生きもののような塊は突如動きだし、草をかきわけ彼らの方へ寄ってきた。そして闇の中で、
「おぎゃらあー」
人の言葉か獣の咆哮か判然としないような、雄叫びをあげた。
ぎゃああー! 一同、向きを変え、互いの背中を押し合いながら暗闇を駆ける。
あとはよく、憶えていない。
気がつけば、有刺鉄線を越え、最初の街灯の下で皆、息をついていた。
「なんだったんだ……あれ……?」
枝や雑草の引っかき傷をおさえながら、健太があえぐ。
「幽霊だろ……?」
龍くんも生暖かいアスファルトにしゃがみ込み、息をつく。
「ああ、もういやだ、帰っぺ、早く帰っぺよ!」
達樹が叫ぶ。
「みんな…サーベルは…?」
芳ぼうが気づいたように言う。芳ぼう以外、サーベルを放りだしてきている。
「しまった…。けどいいべ、また昼間、取りに行っから」
一雄が呆然として言う。
短い外出だったため、大人たちには、かろうじて裏山行きがばれることはなかった。しかし二日後の真昼間に達樹と一雄が見に行った時、既にサーベルはなかった。
がらんとした小屋と周囲の藪の中をいくら探しても無く、サーベルにはそれぞれの名前が記されていただけに、達樹は「おもちゃ無くしたら、怒られる」とべそをかいていた。一雄も同様の不安でいっぱいだったが、年下の芳ぼうだけが、こういう時はかえって冷静だった。その後もサーベルはついに見つかることはなく、しかしそのことが元で親たちに叱られることもなかったため、五人はいつしかサーベルのことも忘れていった。