4.砂漠戦 上
飛翔するためには、背より生える薄皮のような羽六枚を広げて超高速で振動させることが必要になる。
しかし彼の場合、飛翔と言うよりは滑空に似ていた。己が力で高く跳び、あるいは高い建造物から身を投げて羽を羽ばたかせねば、彼は自力で飛ぶことができない。
そしてまた、速度も遅い。馬と同時に飛び始めれば、見る間見る間に馬が先へと走り去っていくのを見送るハメになる。
言ってしまえば、脆弱な推進力を持った凧か何かである。
――砂の上で立ち尽くす男は、胸部の装甲が深く抉れているのを指先で触れて確認し、短く息を吐いた。
命に別状はない。
このまま逃げてしまおうか。飛ぶのは苦手だが、割合に足の方には自信がある。
漆黒の装甲を幾枚と重ねて全身を覆う男は、そのトンボの目のような『複眼』で周囲を観察した。
「気のせい……で済むわけもあるまい」
あたりにはなんの障害物もない。
立っていれば空から降り注ぐ鋭い太陽光と、地面が反射する光とで体感温度は既に四○度をゆうに超えている。
岩などはなく、ゆえに酷く味気ない殺風景な砂の景色。
黄褐色がかった灰色の世界。砂丘はあれど、誰かが隠れる場所など無いはずなのに――地上から音速を超える速度で放たれた十ニセンチ強の鉛弾は、確かに胸を穿っていたのだ。
確かに空を飛んでいる時の彼は無防備だが、彼は己を撃ち落とせるほどの兵器の存在を知らない。
男は姿勢を低くして、四つん這いになって気配を殺す。
なぜ己が悪意を持ってこの世界に来たのかを知られてしまったのか、それは分からない。
ただ単に相手が猟奇殺人犯である可能性も否定できないが、滑空時を撃たれた時点で敵はその辺りの判別ができていておかしくはない。
――そう考えた刹那。
不意に目の前の砂が隆起しながら、己へと迫ってくるのを彼は見た。
濃厚な魔力の気配。
認知、理解まで至り男は行動を起こす。
地面を弾き、極めて低空での飛行で隆起の先へ。そう動こうとした瞬間、足が滑った。
慣れぬ環境――この砂の大地で、男は踏ん張りきれずに足を滑らせたのだ。
そして思わず手をつこうとしたところに、モグラが這って来たかのような隆起に触れて――。
閃光が走る。
その直後に、大地は膨れ上がったかと思うと、すぐさま凄まじい衝撃を伴う爆炎を噴き上げた。
「やったか?」
男は気怠げに長槍に様々な器具を装着したような武器を担いだ。
立ち上がり、ポケットから既に吸口が切ってある葉巻を取り出し、咥えてからマッチを擦った。
紫煙をくゆらせながら、男は三キロ弱先に上がる爆炎、そして狼煙のような煙を見ながら嘆息した。
「いや――」
立ったまま己の身長ほどの長さを持つ長銃を構え、狙いを定める。
装弾するのは先程の”追尾弾”ではなく、あの分厚い装甲を貫く”徹甲弾”。
既に漆黒の甲冑を纏う男は、砂の僅かな盛り上がりを辿って迫ってきている。
ここに到着するまで、数分とかからぬ速度だ。巻き上がる砂煙が、その存在感を表している。
だが構わない。死んでしまえ。
迷いなく引き金を引き、銃口に火花が散る。空気を引き裂くようなつんざく発砲音の中、無限の射程を持つとも思しき徹甲弾の刺突は、瞬時にして男の顔面を貫いた――はずだった。
「さすが魔人」
頑丈にも程があるだろ。
独りごちる男に構わず、鉄仮面を中心から頭部へと溝を造るように抉るだけだった徹甲弾に舌を撃ちながら、銃側面に付属するレバーを引いて弾丸を込める。
魔人は立ち止まり、大きくのけぞったものの、それ以上の反応は見せない。
再び這いつくばり、恐ろしいまでの速度で迫ってきた。
さらに発砲。
屈強な男が胸に飛び込んでくるかのような衝撃を覚えながら、再び弾丸は男に着弾し――爆発。
徹甲弾が抉った部分に、彼の”炸裂弾”は見事に直撃した。
これにはさすがに男も足を止めてひっくりかえり、顔面を鉄仮面越しに押さえて悶え始める。
わさわさと、まるでひっくり返った昆虫のように手足を蠢かせるのを見ながら、さらに引き金を弾く。
徹甲弾は水月を穿ち、炸裂弾はさらに止めを刺す。
しかし、彼が見たのは砂を巻きあげて炸裂弾が爆発を巻き起こす光景であり――、
「付き合いきれん」
真横から、失望したような低いうめき声にも似た何かが囁かれた。
反応する暇もない。
黒い何かが振り抜かれた。そう認識した直後には既に、頬に鋭い激痛が突き刺さっていて――男は長銃を手放し、その場でコマのように勢い良く回転しながら、
「遅いのだよ、何もかもが」
振り下ろされた踵が、鎧など纏わぬやわな横腹に叩き落とされた。
男は砂漠に巨大な穴を穿って地面に落ち――意識が一瞬にして吹っ飛ぶほどの衝撃、そしておよそ知覚できる領域を越えた激痛に、悶え、血反吐をまき散らした。
白目を剥く男は、左目を眼帯で保護していた。
背景に溶けこむような白い外套を頭まで被る格好は用意周到であり、それ故に、まるでここに来ることを予測されていたような不快感を催してくる。
偵察に向かわせた一人が帰ってこないから見に来てみれば……なるほど、そういうことなのだと納得がいった。
「しかし」
人間にしては中々に手強いと言えた。
すり鉢状になる砂地の中央に横たわる男を見下ろして、彼はそう評した。
あのまま一身に弾丸を受けていたら、装甲を突破されて死んでいただろう。現に鉄仮面などは破壊され、顔は剥き出しである。日差しが先程より眩いのは、それが理由だろう。
癖のある前髪を掻き上げて、だが男はそこから動こうとはしない。
――指先が痙攣する。そこから蠕動するように、全身の筋肉がぴくぴくと震えた。
「早いな」
ぐりん、と裏返った瞳が戻り、天空を見据える。
反射的に振り上がった腕は大地を掴み、男は痛みも感じぬように身体を起こす。
「……ぐっ、ごほ、ぐぅ、げえぇえ――」
だが先程得たダメージは堪えられるものではなく、彼は立ち上がるとすぐに上肢を折り、腹を抱くようにして吐血した。むせ返るような血のにおいの中、全身を蝕む激痛に膝を震わせる。
腰に対となる剣を携えている男だが、それには触れない。
己が本領を発揮できる武器でないことを、彼は理解しているからだ。
口元から鮮血を滴らせ、男はやがて魔人へと顔を向ける。
「その頑丈な体、正直うらやましいな」
すり鉢の中から這い上がり、ひゅうひゅうと喉を鳴らしながら、魔人の足元に転がる狙撃銃を拾い上げる。
「その軟弱な体で、ならばなぜ立ち上がる?」
男は決して阻害せず、赤子の動きを見守るように立っていた。
「立ち上がれるからだよ」
まったく、と嘆息すれば、むせてまた吐血する。
「だったら、寝てれば逃がしてくれんのか?」
「少なくとも、貴様の選択したものよりは、楽に殺してやった」
魔人の言葉を、嘲笑するように鼻を鳴らす。
その所作はとても窮地に追いやられている男のものではなかったが、それでも彼は、目の前の異形に負けている自覚はなかった。
「冗談じゃねェ、死ぬのに楽もくそもねえんだよ」
足掻かない時点で死んでいる。それが彼の持論である。
レバーを引いて弾丸を込め、大きく深呼吸をする。
「――貴様、名は?」
さあ行くぞ、という所で魔人は声をかけた。
親指は己の胸辺り、その溝を示している。
どうやら、自身に傷をつけた人間がそれほど珍しいようだった。
「ディライラ・ホーク。一応、世界的に活発な傭兵の隊長やってる」
わけあって、今は私的な理由で単身ここまで来たのだが。
「俺はキリ。とある国で、とある部隊の隊長をやっている」
ほとんど匿名だ。もっとも、どう隠した所で彼が異世界からやってきたことは一目瞭然なのだが。
「さあて、無駄口は終わりだ」
”あいつ”のためにも、働いてやらねばならない。
まったく、面倒な事を引き受けたものだ。撃ち落として終わりだと思ったのに、今では狙撃銃を抱えて近接戦闘を行おうとしている。
愚かの極みである。
「ああ、行かせてもらう」
どちらからともなく、誰にも認知されぬ激しい戦闘が開始した。