3.早朝
寛容さを信条とするアレスハイム国王レヒト・アレスも、つい先日招いた客人が原因の大事を、さすがに許容しかねた。
つい先日はまるで少女のように嬉々とした表情だったのに、今ではすっかり悲壮感に満ちているイヴを見下ろして、さしもの国王も嘆息する。
既に彼女らに差し向けられた追手らしき影は、ガウル帝国から出発した船舶を撃沈してしまっている。
国内で解決する問題ではないし、それを管理しているアレスハイムはこのお陰で世界から非難を浴びることになるだろう。
「その言葉が余す事無く真実ならば、一つ訊きたいことがある」
「……なんでしょうか」
錆び付いたように、ゆっくりと顔を上げる。ぎぎぎ、と金属をひねる唸り声が聞こえるような、ぎこちなさだった。
「母体は妊娠してからどれほどの期間で新生児を生み出すのだ?」
「あ……およそ、五、六ヶ月です」
「母体が、出産の際に子に力を授けるためにその命を燃やし息絶える……そういう事はないのか?」
「それはありません。母体の遺伝子と雄とを掛けあわせただけなので、母体が特別何かをするということはないです」
そうか、と国王は嘆息気味に頷いた。
ならば――と考える。この事は彼女には伝えないが、まず初めに確認された船舶の襲撃を見るに、イヴ・ノーブルクランの扱いは既に『生死問わず』である可能性が高い。
母体が新しい子孫を作れるならば、彼らの世界で意のままにできない娘などは、もはや不要。
ならばどうするか。
どうあっても、彼女は最高峰の遺伝子を継いでいる。最高機密といっても相違ないはずだ。
だから処分する。
自分がその立場だったら、その選択をしているはずだ。
「分かった。下がって良い。特に行動を拘束するつもりはないが、飽くまでキミが理解している常識の範囲内で行動してくれ。一応、女中を遣わせる。わからないことがあったら彼女に訊いてくれれば良い」
吐き気を催し、今にも吐物を吐き出してしまいそうな顔で深く頭を下げ、
「ありがとうございます」
彼女は間もなく、静かな足取りで王座の間を後にした。
――扉が閉まる。
その重々しい音を聞いてから、彼の玉座の後ろに隠れていた少女が姿を現した。
イヴを呼んだ時点で近衛兵も居ないために、少女は後ろで手を組みながらゆっくりとした歩みで、やがて国王の前にやってきた。
「それで、どう考えるかね」
偵察部隊の隊長であるドワーフ族の娘ミキは、彼の問いにわざとらしく首を傾げる。
「どう、とは何のことですか」
白髪頭に、顎に口元に蓄えた大量の髭、髪はすっかり色が抜け落ちて白く染まりきっている。その威厳は、目が合うだけで思わず息を呑むほどのものだったが――その年齢は未だ六○前。
対する少女は、まだ少女としての若々しさを持っていながらも八○過ぎであった。
国王は苦虫を噛み潰すような険しい顔つきで細く息を吐き、口にする。
「イヴ・ノーブルクランを連中に差し出すか否か」
先遣隊隊長でもあるミキは、それ故に異世界への理解が深く、彼らの考えもある程度方向性を理解している。だが、今回彼女を呼び出させたのはミキである。
個人的に話そうにもヒートがついて離れなかったため、仕方がなく利用をしたらしいのは、国王も理解していた。
「既に、加減なしに襲いかかってる時点でその余地はないと思いますがね。連中だって、あの娘を消せれば満足なわけだ」
「『付与者』はなんと言っている?」
「さあ。全く今回のことについて知らなかったみたいで、さっぱりだと。というより、私が気になるのは……」
「自由騎士団か?」
国王の言葉に、ミキは真面目な顔で頷いた。
「今の彼女らの仕事は、イヴ・ノーブルクランの護衛。だが今回の問題を考えるに、早い所彼女を”魔人”連中に殺害させたほうが、被害が薄い。なまじ、その事実を一番最初に知った彼女らだからこそ、一番困惑しているでしょうな」
「……やれやれ、何かの悪い夢だと思いたい」
椅子から滑るようにして、国王は深く背もたれによりかかった。呆けたように口を開け、呆然と虚空を仰ぐ。
数ヶ月前には戦争が終えたばかりである。
三ヶ月前には、世界的な催し事で多くの被害を出す爆破事件。
二ヶ月前には、刑務所内で蔓延っていた問題が解決したばかり。
ようやく問題なく一ヶ月が経過したと思ったら、一五○年前を彷彿とさせる、その予兆とも言える問題。
さすがにその再来を許してはいけないが……。
心労が堪えぬ国王は、また大きく嘆息してから座りなおした。
「すまないが、この領土を監視しておいてくれ。連中が侵入し次第、ひとまず”交渉”する」
「それは了解しましたが、私の部隊では数が足りません。かといって、下手な部隊だと監視に至りません」
「軍部大臣に言ってくれ。彼は優秀だ、見繕ってくれるだろう」
ミキは頷き、「ではさっそく」と踵を返して扉へと向かう。
これから殆どの判断は軍部、騎士らで行い、国王の出る余地はない。
だが来るべき出番を夢想しながら腹を決め、彼女が音を立てずに扉を閉めるのを見送ってから、ポケットの中にある紙巻の細タバコをつまんで、口にくわえた。
家に帰った後の記憶は無い。
部屋に戻り、寝台に飛び込んだまま、ジャンは泥のように眠ったからだ。
起きた後は、ただ呆然とする。まだ朝が明けたばかりの時間だったが、居候先であるそこを後にして外に出た。
朝露が往来を濡らす中、まだ肌寒さを感じながら、ジャンは深く嘆息する。
――気がつくと街の中心である噴水広場にたどり着いていて、ジャンは仕方なく、その輪となる広場の外縁沿いに設置してあるベンチへと腰を落とした。
《事情を聞きました》
不意に、ノイズ混じりの声音が耳に届く。声がした前方向へと顔を上げると、彼女は前で手を組んだまま、やや離れた位置で彼を見つめていた。
「……起きてたんですか」
《私は睡眠をとらないので》
「ああ、そうだった」
《隣、よろしいですか?》
歩み寄る彼女はそう尋ねる。だが答えも聞かずに座る――はずだったから、彼は返答しなかったが。
動かない。
その妙な間に気づいてうつむかせた顔を上げれば、彼女は生真面目に、ジャンを見たまま停止していた。
「あ、ああ……どうぞ」
気後れしたように頷き、余裕のあるスペースをさらに詰めて広くする。
彼女はジャンとそう距離も置かずに腰を落とし、背筋をぴんと伸ばして姿勢を正した。
《スティール様はどうなさるのです?》
そうした彼女は、何を意図するのか、不意にそう尋ねてくる。
何に対してそう問うのか――わかっていながらも、答えられない。
《イヴ・ノーブルクランの勝手な行動が世界を滅ぼす可能性がある。それを回避できるかもしれないのは、早急に彼女の身柄を異世界の魔人へ差し出すこと。貴方は優柔不断だから、最後の最後まで決められない――主人は貴方をそう評価していた》
だが、
《一度そうすると決めた時は、もう誰にも止められない》
ジャンは結局一人で大渓谷まで向かったのを思い出して、気恥ずかしくなった。
まったく、随分な過大評価をしてくれる。
嘆息して、肩をすくめた。
「そこに力が伴ってなきゃ、意味のない行動ですけどね」
《そう。色々と稽古を積んだようですが、無茶苦茶すぎて素直に吸収しきれていない……正確には、まったくタイプの違う師をいくつももって、この短期間である程度実力をつけられたのは、むしろ凄いと思います》
近接格闘型、規格外の武器を使う者、双剣、徒手。一時期彼の面倒を見てくれた者たちは、だが彼が学ぶべき戦闘技術に合致していなかった。
だがジャンはそれでも死に物狂いで食いついていった結果、彼らの戦闘体制を己の技術に組み込み、それでいて戦闘の経験を積んでいった。
本来ならば実るはずのない果実である。
その点は、まず才能があると言っても過言ではないようだが、ここまでして目覚しい結果を残さないとなると――大器晩成型。
恐らく、今が人生の境地だとすれば、彼が必要としない時点でその実力が最大になるであろうものだった。
故に、今彼の中で眩く輝くのは目覚しい程の気概に、強者をも打ち倒す可能性を持つ戦術的鋭さ。
もっとも後者の場合、彼が圧倒的に弱者だと認識されなければ、その可能性は如実に減るのだが。
《ですが、一つ》
彼女は指を立て、ジャンへと顔を向けた。
《私は正直な所、貴方に騎士は合っていないと思っていました。もっとも、それは主人も同意見だったようですが――貴方は、貴方が思ったように動くべきで、その時にこそ真価が発揮されるのですよ》
だから、自由騎士団なるものに所属したと聞いて、納得した。
いや、安堵した、とも言うべきか。現在ではその感情は”理解不能”だが、奥深くに眠らせてある記憶から探ると、この想いはそれに合致する。
「おれの思ったように……?」
《だから――》
彼女は薄く微笑んだ後――鋭く目を細め、彼を睨む。
その厳しさを孕む視線に、ジャンは思わず身体を硬直させた。
《自分で何でも出来ると思わないこと。ただ貴方は、自分で出来ると思ったことをやればいい。やりたいと思ったことをやればいい》
力がなくとも、足りなくとも。
ジャン・スティールに手を貸そうと思える者がいるのだから、その者らに道を切り開くために。その者たちと共に、自分がなすべきことをなせば良い。
彼女はそう言うと、静かに立ち上がる。数歩進んだ所で足を止め、ジャンへと振り返った。
《私はスティール様を応援してます》
最後に見せたその柔和な微笑みは、彼が見る初めての彼女の笑顔だった。
――それから数時間後、午前十一時○八分。
アレスハイムから大きく離れた北方、砂漠と平原との境目に存在する森林。
その中に存在する小国『エルフェーヌ』へ一直線に飛来する影を捉えたのは、エルフェーヌでも、アレスハイムの者でもない男だった。