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2.付与者

「それで、ここが最後」

 ぶらぶらと数時間掛けて街を見回し、途中で食事をとってまた歩き。

 そうしてジャンの言葉を共に訪れた施設が、ようやく最後の場所だった。

「なにここ」

 鉄門を前にして、イヴは素直な感想を述べる。

 その向こうには土を固めた広場が広がっており、その向こう側にはそう特徴もない長方形の建造物。窓が階ごとに全面に埋めこまれていて、区切りがなく横に長く伸びていた。

「騎士養成学校だ。今の時間だと、もう学生は居ないかもしれないが……まあ、ひとまずそれだけ。どうする? 見学していくか?」

 正直めんどうなこともあったし、またイヴ本人も疲れている様子だったから、まず断るだろう。

 そう思っていたのだが。

「ここに卿は通っていたのか?」

「ん? ああ……たかが、ニ、三ヶ月くらいだけど……」

 苦笑して、頭を掻く。

 あの頃は自暴自棄になって色々と暴走していたから、いまさらになって思い出すのは気恥ずかしかった。

「けど?」

「事実上の退学だな。結果的に、ここに通ってる連中より一年早く騎士になったわけだが」

「へえ。じゃあ見てみようかな」

 何が彼女の好奇心を煽ったのか、そう言って彼女は意気揚々と敷地内へと足を踏み入れた。

 ジャンは面倒そうに嘆息して、その後についていく。

 ヒートは頑として無表情だが、心情は穏やかで微笑ましくイヴを見守り――なんだかんだでしっかりと働いているジャンを見て、ユーリアは微笑んだ。


 校舎内、図書館などの施設を案内して、最終的には校舎裏へと案内した。

 イヴはその意図を理解できていないようだったが、地面に埋め込まれている扉をこじ開けた際に噴出する瘴気によって、ヒートは勘付いた。

「貴君に『禁断の果実』を与えた者がいるわけか」

 者、と形容する事にジャンは疑問を覚える。

 あの姿を見れば、それが人型ですらないことは明らかなのだが――ジャンは指摘せず、また何か意味があるのだろうと思って、ただ頷いた。

「なぜここに居るのかとか、よく分からないけどな」

 扉を開ければ、薄暗い中に階段が見える。ジャンは慣れたように足を入れ、ゆっくりと降りていった。

 地下に降りるとやはり光はなく、そして冷え切った腐臭と、肌寒さが彼らに襲いかかった。

 ユーリアはその肉体的特徴から――つまり身体が大きすぎるために、入り口から入ることが出来ず、彼女は待機することとなる。

 階段を降りて通路に立ち、そこを暫く歩いて行く。

「言ってしまえば親交の証。この世に広まる魔術の殆どを、彼女は持っているからな」

 その中で、ヒートが説明した。

「力で敵わなくとも、魔術は効果的。我々に対する対抗手段であり、またこの世界に対して甚大なる利潤となる」

 すなわち、圧倒的な力を持つ異世界に対して”対等”たりえるように、バランスを整えてやるために、それを与えたということになる。

 そもそも魔術も単なる儀式でしか知らなかった彼らにとっては、魔術の効果はおよそ想像を絶するものだった。それゆえに、異世界の言葉を鵜呑みにして頷いた。

 実際には、ただそれだけでは到底均衡しえぬ程、未だ異世界は計り知れない力を隠し持っているのだが。

「わかっているだろうが――」

 ヒートが続けようとした所で、イヴが睨む。

 ああ、そうか”まだだった”と意味深な呟きの後、彼は「何でもない」と訂正する。

 やがて扉の前に到着すると、その天井には光源があった。魔石ではなく、魔術。魔力を燃焼して発光するそれは、そのすぐ下にいる真っ赤なワンピースを身につけた銀髪の少女を照らしていた。

「久しぶり、ジャン」

 少女は薄く微笑んで、首をかしげた。

「それ、誰?」

「ああ、今まで中々これなくて悪かった」

 彼女のお陰で、命拾いする機会が多々あった。ここ最近でようやく自覚できたが――。

「こいつらは異世界から来た……客人、かな。ノロの事を知ってるってんで、ちょっと連れてきたけど……迷惑だったか?」

 連絡を入れるにもここに来るしかないし、そもそも彼女にそういった感情があるかも定かではない。

 ジャンの問いに、彼女はふるふると首を横に振った。

 そうして身体を斜めにし、開け放たれている扉の向こう側へと誘った。

「ちょっと臭いけど」

 その腐臭が瘴気であるのは、つい最近知ったことだった。

 まず先頭に立っているジャンが中へ。相変わらず、その柔らかい感触を踏みつぶしながら、割合に広大な空間に余す事無く肉が張り巡らされている、その圧巻とも言える光景を前にした。

 ここに来るのも、およそ半年ぶりとなる。以前は遊びにこないだけで触手を使って襲ってきたが、その来れない理由を知ってか知らずか、最近はそうしてこなかった。

 そもそも、学校に来ていないから不可能だっただけかもしれないが。

 菱形の角を取ったような巨大な肉塊が、天井から吊るされて地面へと支柱を伸ばしている。そんなモニュメントじみた物体を眺めているジャンの背後では、気味悪げに肉を踏みしめるイヴの足元から、蠕動していた肉が不意に隆起した。

 油断した彼女の足に巻き付き、さらに横方向から肉が鞭のように柔軟に伸びて、無防備な諸手に絡みついた。

 その柔く生暖かい肉の感触が彼女を襲い、そして器用に拘束する。

「なッ……?!」

 触手はさらに軽々とイヴの身体を持ち上げて空中に貼りつける。

 続くヒートへと同様の行為に及ぼうとするが、熱く熱した甲冑の表面がそれを可能とさせなかった。

 ――拳を握り、ヒートがノロを睨みつける。だが彼女は、毅然と彼を見つめ返すだけだった。

「『付与者エンダウメント』、貴君は何が目的だ」

「それはこちらのセリフ。アナタ方が特に理由もなくこの世界に訪れるわけがない。何が目的?」

 蠢く触手がイヴの身体に這いずりまわり、彼女に酷く強い嫌悪感を与えていた。

「あの肌の色は王族……このまま、後続者を作れないように犯すことも可能」

 そう言って、ミミズのようにうねる触手が空中のイヴへと伸びる。その鎧の股間部に当たると、器用に隙間へとねじ込もうとするが、その鎧が身体に張り付くようなものであるために難しい。

 ヒートは怒気に満ちた表情でノロに掴みかかろうとして――それに意味が無いことを知る。その隣に隆起した肉塊が、途端に彼女と同じ風貌を作ったのだ。

「ああ、分かった。全て説明しよう。だから姫さまを解放しろ」

 ヒートの言葉にノロは小さく頷き、彼女を下ろして、地面に立たせた。

 その成り行きを、ジャンはただ見守ることしか出来なかった。



 同時刻。

 ジャンの居候先である豪邸を訪れる、ひとつの影があった。

 ちょうどジャンらと入れ違いになるようにノロのもとから帰ってきたタマは、我が家の鉄門の前で微動だにせぬ妙な人影に眉をひそめつつも、声をかけた。

「何か用?」

 振り返ると、スカートが翻る。すらりとしなやかに伸びる長い足には白いソックスがはかされており、スカートの中まで長く続いていた。

 エプロンドレスと言う格好から、また新たなお手伝いさんが来たのかと思ったが、そんな話は聞いていないし、新たに一人増やすほどこの屋敷で重労働はない。むしろ、一人で十分なくらいなのだが。

 無言のままの彼女に、タマは顎をしゃくって屋敷を指した。

「そこ、あたしん家なんだけど」

「そうですか。ここはアレスハイム城下町で間違いないのですか?」

 まるで目隠しでもしてここに来たのか、彼女はそんな珍妙なことを尋ねてくる。タマは思わず気取られながらも、頷き、肯定した。

「そうだよ」

「ならば、スティールさまをご存知でしょうか?」

「……なに、ジャンの知り合い?」

 その言葉を契機に、タマの機嫌はやや傾く。

 あの男はやたらめったらに他の女を引っ掛けてくるのだ。気が多いというわけではないが、無意識なのか意識してやっているのか、妙に好感度をあげようとする。

 彼の悪い癖だ。

「はい。事態は一刻を争うので、出来ればご存知でしたら、案内をしていただけないでしょうか?」

 彼女は、ジャンと入れ違いになったのを知っている。声をかけようと思ったが、なにやら先日の二人とユーリアを連れていたので、仕事だと思ったから配慮して帰ってきたのだが……。

 空は既に、すっかり茜色に染まっている。東の空から藍色の闇が広がり始めているのを見て、さすがに仕事も終えた頃だろうと考えた。

「ええ、良くわかんないけどいいよ。ついてきて」

「ありがとうございます」

 ――無表情を貫く彼女の顔に、僅かな焦燥が浮かぶのを、だがタマは気付けなかった。



「私が説明する」

 触手の不快感を拭うように身体を抱きしめ、太ももをつねるイヴは、平静を装ってそう告げる。

 それをノロは腕を組んで見守り、頷いた。

「私がこの世界を学びに来たというのは、嘘だ。私は逃げてきた」

 その言葉を平然と受けるノロに対し、その背後では唐突すぎて、何かの冗談なのではないかと疑るジャンが居た。

 何が目的だろうか、と。今度は同情票を誘って、なにをしでかすのだろうかと、彼女の登場時の行いを回想して、そう思わずには居られない。

「それで?」

「理由は……ジャン・スティールにも言ったように、世間知らずのお嬢様の、ただのわがまま。下手に洗脳されないで、中立的な考えを持ってしまったがゆえに疑問を抱いてしまったことが原因だった」

「そんな曖昧模糊な理由? 出し渋るなら無理やり吐かせるよ、ジャンも景観的にそっちの方が喜ぶだろうし」

 彼女は冷徹な呟きのもと、即座に触手を伸ばしてイヴへと襲来させる。

「おい! んなもん嬉しくねえよ、やめろ!」

 ノロの肩を掴んで制止の意を怒鳴り散らすと、触手はその寸前で停止した。強く目を瞑ったイヴは恐る恐る目を開けて触手の停止を確認し、今にも崩れ落ちそうな足取りで数歩退がる。

「どうして?」

「そのやり方は気に入らねえ。ふざけんな、そんな事をしたら……」

「殺す?」

 出来るわけがない。

 純粋に問う彼女を見て、心のなかで強く呟いた。

 彼女のお陰で命を救われてきたようなものだ。それなのに、目の前のそう親交も薄い女が犯されただけで彼女を殺害するなど、逆恨みも甚だしい。

 だがイヴが犯されるのをただ見ていることもできない。

 我ながら、気の多い男だと思う。だがそれが許せるような、柔軟な性分だったらどれほど楽な生き方ができたことだろうか。

「いや……だが、許さない」

「そう。善処する」

 どうでも良かったようにイヴへと向き直り、無垢な笑顔を彼女に見せた。

「アナタはジャンに感謝すべき」

「え、ええ……そうだね。卿には、色々と借りがあるし」

 少し冗談めいた言葉は、本気のものかはわからない。

 彼女は一拍置いてから、再び語り始めた。

「ノーブルクラン家は元来、ただの貴族だった。何がどうなって世界を統べる王座に着くようになったのかは説明すると長くなるし、本筋から外れるから説明はしないが……ともあれ、我々の一族は高貴な血筋を守らねばならない」

 その為には強い力を持つ者が要る。強き者をかけ合わせ続ける事、それを身内に置くことがノーブルクランの第一目的であり、それ故に女系一族である。どうあれ力の強い者は男であるために、世界中から強き雄を集め、その中で殺しあわせて最後に残った者を婿養子にする。

 王族として生まれた女は適齢に至れば、その生き残った雄と子を成す。

「我々はある一定の年齢までは男女両性として生き、そしてその期間までに特定の条件を満たすことによって性別を決定する。だから息子が生まれることはない」

 それが、異世界での常識であるかは分からないが、少なくとも『アレスへレ王国』ではそれが決まりであり、当然の事であった。

「私はまず、性別を決定するに至るまでの年齢――人間で言えば十五までは、純粋にあの世界で育った。だけど、そこである程度自由に行動する権限が与えられてから、元来好奇心旺盛な性格だったから、色々なことに興味を示した」

 魔術であったり、魔法であったり。近衛兵から白兵戦の稽古をつけてもらったこともあるし、魔術によって働く様々な機材のプログラムもたしなむ程度に覚えたりした。

 世界での決まりごとや、学術なども興味を持った。

 二十になると、この世界からの先遣隊の交流への参加も許可された。

 そこで二十年間かけてようやく出来上がった世界観が崩壊した。

 普通に考えて別の世界があるという事を容認……というか、理解しきれなかったイヴは己の世界と別の世界とを統合的に考えてしまうようになった。

 単純に言えば、凄まじく影響されやすい性格である。そしてそういった事が決して無いように二十年間、閉鎖的な環境で育てられてきたのだが――何がどう間違ったのか、持ち前の好奇心がそれを阻害する。

 それを契機に、扉の向こう側にあるとされている世界について、先遣隊から伝わった文化や歴史などを、学者顔負けの勢いで勉強しつくし、再び五年が経過した。

 その頃には子を生む適齢期に至っており――。

「私に自由がないことを、そこで理解した。私は”種”を高める為に強い子種を産む。その為だけに生まれ、生きてきたのだと」

 言うまでもなく、絶望した。

 なまじあらゆる事を知っていた分、それが既に決定事項であり絶対的なものであることは理解していたし、ゆえに諦めがつくはずだった。

 だが、それでも彼女は最精鋭とも言える結晶だ。集結した己の実力に自信のある雄程度には引けを取らない。

 そこで彼女は提案した。

 殺しあうのではなく、自身に勝利したものを婿に取ると。

 だが誰一人として勝利出来なかった場合は、扉の向こう側の世界へと旅立たせてくれと、条件を立てた。

 その提案の結果として、結局殺し合いは続行。その生き残った一人と決闘し、勝敗を決める。そういうこととなり、彼女は敗北した。

 敗因はごく純粋に、経験の差。彼女自身に凄まじい地力があろうとも、たかが一年程度稽古をつけただけの少女が歴戦の勇士に勝利できるわけがない。

「だから逃げてきた。だって、好きじゃない男と性交渉するなんて嫌だし」

「では、そこのスティール・ヒートは何のために連れてきたの?」

「単純に、護衛。近衛兵は基本的に眷属だから、婿の対象にはならないし。小さい頃から、彼には育てられてきたし。そもそも近親相姦はご法度ということで、生殖機能が破壊されているし」

 眷属――つまりは、元々ノーブルクランに仕えていた従者などのことだ。血族の場合もあるし、そうでない場合もある。

「なら、どうやって眷属を増やすの?」

「生き残った雄の一族を迎え入れる。そこでまた近衛や部隊長として育成する」

「雑兵は?」

「一族に伝わる秘術で”造る”。高い知能は持たない代わりに、そこいらの戦士を凌駕する強い力を持つことになる」

「意思は?」

「あるが、知能が低い。その一個上、部隊を統率するのは一応眷属だから問題はないが」

「そう」

 納得するように、ノロはようやく頷いた。

 そうして彼女――イヴ・ノーブルクランが選択した行動が、結果的に何を引き起こすのか。

 ノロは核心を口にする。

「アナタ方に対する追手が来る可能性が大きい。その対処をするために、ジャンのような勝手に使命感を覚えるような、都合の良いある程度の実力を持つ者を選んだ、ということで相違無い?」

 まるで全てを見ていたかのように彼女が言った。

 本来ならば、イヴらとの戦闘を知らぬはずのノロである。

 驚いたようにノロを見ると、彼女は振り向き、また無垢に笑った。

「伊達や酔狂で、ジャンの中にわたしの細胞を埋め込んだわけじゃないよ。ただ『禁断の果実』の陣を刻むだけなら、それは必要ないし」

 つまりは、

「ジャンを通してある程度は見てきた」

 なんでもないように、彼女はそう言った。

「ジャンの気に入るような言い方をすれば――今まで、出会ってから外の世界を見るためにあなたを利用してきた。そういうことになる」

「おれそんな印象だったのかよ」

 もはや、色々なことを一気に知り過ぎて現実感がなくなっている。

 だがどれもこれも紛れも無い現実で、寝ても覚めてもこの事実が付きまとってくるのだ。

 しかし、もうどうでもいい。

 正確には、どうにでもなれと言ったところだろう。

「いつも、何かしらに対して怒ってる感じ」

「それは置いといて――話を戻すぞ」

 嘆息混じりに、ノロに並んでイヴらへと対峙した。

「なあ、あんた。この世界に来る事をパスカルには伝えたっつったがよ、逃げ出してきたって事は、伝えたのかよ?」

 威圧的な言葉。

 だがそれは、仕方がなく、また当然であるものだった。

 もしノロが予測するように追手が来るならば、無論として彼女らはそれを知っているわけだ。だがその対処法は未だ明かされない。まさか考えていないわけではないだろう。だが……一抹の不安が拭えない。

 拭おうとしても、彼女の場合――拭った先から、それがにじみだしてくるのだ。

 イヴはジャンを一瞥し、視線をそらす。彼の向こう側、首、胸元、足、そしてあさっての方向。

 きゅっと固く閉ざした唇が、柔らかに緩む。

「伝えていない」

「なら、個人でどうにか出来るってわけか? 既にこんなにも扉から離れているのに?」

 まるで他人ごとじゃないか。

 自分さえ良ければ――良いのだろう。

 逃げ出してきた理由が、自分のためのものなのだから。

 もっとも、別にそれは構わない。自分で解決出来る範疇のことならば。

 彼女の逃避は明らかなまでに無関係の場所を、さらに世界規模で迷惑をかける可能性がある。むろん、それは迷惑などというレベルで済む問題ではない。

「言っただろうが、下手すりゃ戦争だってよ」

 どれだけ頭が良かろうと、どれだけ力が強かろうと。

 結局は一国の姫。世間知らずで、わがままだ。

 それを自分で口にして、いかにも自身の不甲斐ない部分を理解しているような事を言ってはいるが、自覚はない。無意識に、外からの非難、攻撃から自分で自分を擁護しているのだ。

「ヒート! てめえもだ、何ぼさっとついてきて、暴れてんだよ! 護衛で近衛兵なら、それこそてめえが止めるべきで、第三者の観点で考えるべきじゃねえのかよ!?」

 おかしいだろう。

 いくら滅んでも自分たちになんらかの害が及ぶ場所でないにしてもだ。

 これほど軽視していいものなのだろうか。

 言い訳を考えているのか、あるいは彼自身、彼女と同様に今回のことをそう深く考えては居なかったのか。

 まだ異世界で、この扉を介して逃げ出したという事に気づかれていなければ幸いだが――。

「今からでも間に合うかもしれない。すぐに異世界に戻れ。こっちの世界に来たいなら、正式な手続きを踏め。もしてめえらのせいでこの世界がどうにかなっちまったら」

 もし故郷の悲劇が、この世界全土に及ぶような事態に陥ったら。

「おれは、てめえらを――」


《スティール様!》

 その声は、ジャン・スティールの言葉を遮って響き渡った。

 イヴらの背後、その扉から駈け出してくる女性。

 彼女はまず目の前で立ち尽くす二名に構えてから、すぐさま無害なのを理解して避ける。やがてジャンの前に現れたのは、侍女服を身につけた女だった。

「……タスクさん?」

 突然現れたのは、旧友の相棒。ヒトならざるものでありながら、限りなくヒトに近い機械。

 彼女越しに扉を眺めては見るが、ウィルソン・ウェイバーがやってくる気配はない。

 タスクが単独で広く動くのは、まず初めてのことで――それ故に、彼はウィルソンに何らかの問題が生じたことを、即座に認識した。

《我が主人マスタであるウィルソン・ウェイバーが、この大陸に渡航の最中に謎の敵から襲撃に遭いました。敵の姿が私の情報記憶データに存在しない事から、およそ異種族とも異人種ともつかぬ異形の存在と言えます》

「……ちょっと待ってください。謎の敵に襲撃に遭った?」

《肯定です。本来、通常の敵ならば一枚で事足りる障壁を十枚連ねても、その敵は拳ひとつで打ち破りました》

「渡航って言ったよな。どこの海に?」

《ガウル帝国南方から、このアレスハイム城下町北東の港へ向け五時間ほどが経過して居ましたので、およそこのニ大陸の中ほどかと思われます》

 その位置には小さな島すら無い、まったくの大海。

 船が破壊されれば為す術もなく、敵に狙い打ちにされるはずだ。そしてタスクを転送魔術で逃がすことしかできないほど、彼には余裕がなかった。

「まさか――」

 異種族でも無く、異人種でもない。

 ジャンが思わずヒートを見ると、タスクも倣うようにそこを振り向いた。

「なあヒート。扉が開くってことは、そんな大掛かりなことなのか?」

「大掛かりということはないが、こちらと向こうの空気が入れ替わるから、誰にも気付かれぬということはない」

「馬鹿野郎が――追手じゃねえか!」

 彼女らはアレスへレから逃げ出した。

 逃げ出した、という事は少なくとも門から遠く離れたいと思うのは至極当然。

 船を襲撃した、という事は空を飛べるということ。空から見れば、海が視界に入る。その静かな海の上で動くものがあれば、すぐに気付けるはずだ。

 それが船であれば、彼女らが船で逃げた可能性を理解する。

「だが、船はこちらを向いていたのだろう」

「いるかも知れない。捜索する側にとって、その可能性があるだけで襲撃する理由にゃ十分なんじゃねえのかよ?」

《スティール様》

「……なんです?」

《主人が私を逃したのは、敵が強いからという理由ではおそらくないでしょう》

「どういうことです?」

《恐らくは、主人は戦術級以上の魔術を使用したのでしょう。その被害を喰わぬよう、私を避難させたのだと思われます》

「つまり――」

《主人は未だ生きています。しかし、少なくとも無傷であるとは考えられない……私の知り合いは、本国以外ではスティール様以外に居りません》

 そう告げるタスクは、されど無表情を貫いていた。

 まるで自身の立場を弁えているようなものだったし――本来ならば、己で出来ることを全て試してみてから誰かに頼る筈だった。

 だがジャンは、その違和感に気付けない。

 タスクとはウィルソン同様に長い付き合いだったが、現在の状況が、彼の思考の余裕を奪い尽くしていた。

「だけど、海で失踪したら、探しようがない……」

 陸地ですら、かなり難しいのだ。いくら障害物がないにしろ、水がなければ限りなく深い谷である。

 沈んだら、引き上げることは不可能だろう。

《探すのを、手伝ってください――そういう事できたわけではありません》

 彼女は毅然と告げる。

 その瞳は、ウィルソンに完全なる信頼を寄せていた、ように見えた。

《主人は私をアレスハイムに送りました。これは、スティール様に預けようとしたと判断します。つまり、彼が私に会うには私がここに居なければならない。下手に捜索に出て、入れ違いになるのはうまくないです》

 だから。彼女は胸に手を当て、僅かに眉尻を下げた。

 彼女の中に感情が芽生えたのかは、定かではない。

《ですから、当分の間、私を預かっては貰えないでしょうか?》

「ああ、それはもちろん。ウィルが来るまで、責任持って預かりますよ」

 ジャンの言葉に、タスクは僅かに表情を明るくする。

《ありがとうございます》

 そうして深く頭を下げて――彼女の影になって見えなかったイヴらの顔が見えた。

 その表情は晴れない。むしろ、酷く責任を感じているようなもので――だがジャンは、それを見てもとても胸がすくような気持ちには、ましてや爽快な気分にはなれなかった。

 彼らがいくら反省しようとも、起こってしまったことは戻らない。

 既に随分と責め立てたが――牙を向けるべきは、彼女らではない。

「作戦会議だ」

 問答無用で襲いかかってくるような連中だ。おとなしく姫を差し出しても、どう出るか分からない。

 ジャンはそう告げてその場を後にする。

 その後ろをタスク、そうしてイヴにヒートが続き――。

 外に出る頃になると、すっかりと空は藍色の闇に飲み込まれていた。

 春と言えどもまだ薄ら寒い夜、その中で寒そうに身を抱くユーリアへと全てを説明するのは――とてつもなく憂鬱だった。

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