1.襲撃
「ウィル……やだ、救けて、いやだよ、こんなの――」
両手を縛られ、天井から垂れる鎖に繋がれる。無防備な姿の少女は、既に半ば精神を崩壊していた。
ああ、またこの夢か――どうしようもないとわかっていながらも、男はもがき、彼女へと駆け寄ろうとする。
だが背中からのしかかって来る重圧から逃れられない。それは決して見えぬ力などではなく、屈強な男による拘束だった。まだ少年の体躯である彼に、それを振りほどく事など出来るわけがない。
オレにもっと力があれば。
そう思った時もあった。だが強く願ったのは、離れた場所からでも彼女を守れる力だ。
力があってもそこに居なければ意味が無い。駆けつけても速さがなければ間に合わない。そんな不条理を、唯一無視できる、そして己の努力次第で無限に広がる可能性たる力。
それが魔術だった。
――やがて少女は犯され、少年の仲間が突入してくる際に慌てて人質にしようとする。だが、その首にナイフを押し当てる力が強すぎたために、喉元を切り裂かれた。あっけなく、彼女は凄惨な死を遂げたのだ。
まさに悪夢だ。
こんな夢をまた見てしまったのも――あの事件が原因なのかもしれない。
やはり寝覚めは最悪だった。
だが不思議と寝汗は無く、しかし気づけばシャツを着ていたはずなのに、半裸になっていた。
《おはようございます、主人》
目立たぬ控えめな、エプロンドレス姿の少女。どこかノイズの走る声でそう告げる彼女は、簡素な寝台のすぐ横で控えていた。
起き上がり、寝台に座るように体位を変えると、足元には水の入った桶。縁にはタオルがかかっていた。
「ああ、おはよう。これはお前がやったのか?」
《はい。ご迷惑でしたか》
「ああ、二度とするな」
声を低く、あからさまに不快そうに彼女を睨みつける。だが、彼女は微動だにせず、その人形のように整った顔を無表情に、主人たる彼『ウィルソン・ウェイバー』を見ていた。
感情のない表情。熱のない瞳。
ヒトに限りなく近い人工物であるがゆえ、彼女には明確に心というものは存在しない。だが、近いものはある。そう確信していたはずだったが、
《承知いたしました》
――とでも言うと思いましたか? 独占欲の強い主人はこれだから、やれアレしろ、やれ何しろと、人形にしか強く出れない。ダメですね、内弁慶な主人を持つと――。
いつもならばそう続くであろう言葉を夢想して、ウィルソンは思わず苦笑した。
何が契機なのかはわからない。消失したのか、封じ込められたのかすらわからない。
だが明らかなまでに、本来あったはずの”個性”は失われていたし、驚くほどに”従順”になってしまった。
訊いても答えぬ彼女に、既にウィルソンは問う事を諦めていた。
彼女のメンテナンスを行った上層部に掛けあっても、一切の説明はない。技術部に赴いても、その権利がないから口を出せないという。
気に食わないなら、と上層部の提案で外見の違う人形を寄越してみせた。中身は同じだから、いっそのことこっちがいいだろう――そう告げたことに、彼はどうしようもなく苛立った。
去り際に「贅沢な野郎だ」やら「貴様に魔術の才能さえなければ捨てていたものを」などと吐かれたが、もはやどうでもいい。
気がつけば、旧友の居る大陸へ渡航する船舶に乗船していて、そこで安堵したのか、客室で眠ってしまっていたらしい。
「なあ、タスク」
声をかければ、彼女は向いてくれる。だがいつものような胡散臭い笑顔や、いかにも面倒そうに目だけを向けるような事は決して無い。
《どうしましたか》
という返答も、一定の無音からそう答えるようプログラムされている。それはウィルソンでもかなり苦労するほど、難解で専門的な魔術言語を使用しなければ実現しない機能である。
彼女の脳は生体脳を移植したものだが、その性格や人格は技術者や、脳に刻まれた記憶によって偏ると言われている。そして事実、そのとおりだった。
が、今ではそれがない。
理由はわからない。
どうしようもないとわかっていながらも、彼はその堂々巡りから抜け出すことが出来ずにいて。
ゆえに。
「ッ?! 何だ、この――」
その敵の襲来を、実際に敵が現れるまで気づくことが出来なかった。
凄まじい衝撃に、床が大きく傾いた。
暫くしてつんざくような悲鳴が響き渡り、何かが軋み、破壊される炸裂音がかき鳴らされる。
桶がひっくり返り、床が水浸しになる。
だがそれを気にしている余裕などなかった。
ウィルソンは壁に背中を張り付けるようにして姿勢を維持し、船の体勢が落ち着いた所で、迷わず扉を蹴破って外に出た。
そして共に全身を嬲る凄まじい突風。潮混じりの湿っぽい暴風は、目の前に広がる海から吹いていた。
そこは廊下があったはずである。その向こう側は壁であったはずである。
しかし廊下は無造作に破壊されており、壁は既に取り除かれて残骸すら無い。つまり、船はその横っ腹に巨大な穴を穿っていた。
「なにが起こっていやがる……ッ!」
岩礁に乗り上げたにしても、位置が不自然過ぎる。砲撃を受けたにしては、砲弾も硝煙の匂いもないし、そもそも発砲音が聴こえなかった。
ならば何だ。いったい何が。
そう考えた所で、タスクが肩を叩いた。
《濃厚な瘴気を知覚しました。数値化して計測しますと、およそ異種族だとは考えられません》
衣服を引き裂き、吸い込まれるような白い肌を露出する。さらにその腹部に指を突き刺して、力任せに引き裂いて――彼女が自動に選出した刀剣の柄が、開かれた傷口の深淵から抜き出されていた。
ウィルソンは迷わず引き抜き、ごく普遍的なブロードソードを手に構える。
異種族ではない敵。これを可能とする者となると、考えられる存在は異人種。あるいは、”扉の向こう側”の敵。
もし旧友の言葉が事実だったとしたら、後者の可能性が限りなく高い。
「タスク。ジャンに通信しろ」
《不可能です。瘴気によって魔力が乱れ、正常に発信されません》
「……タスク」
《どうしましたか》
「もし、オレが以前に話した過去を覚えているなら――頼むから、最期に」
言葉は続かない。
それを許容しない。
眼の前に突如として出現した黒い影が、力強くその腕を振り下ろしていたからだ。
ウィルソンは咄嗟に術を紡ぎ、目の前に十からなる半透明の障壁を作り出す。
だがその拳は、まるでガラスに投石したように容易に障壁を砕いて行って――滞りなく、構えたウィルソンの剣と接触した。
火花も散らず、あっけなく力負けした彼は顔面を殴り飛ばされ、床と水平に吹き飛んだ。
なすすべも無く壁にぶち当たり、だが勢いはそこで消えるわけもなく。
けたたましい音をたててウィルソンはその壁を突き破り、さらに幾枚かを突き抜けて、その向こう側の海へと着水した。
高く水柱が上がり、そうして静寂が訪れる……かに見えた。
――霧散した、障壁を作っていた魔力が室内できらめき、床に落ちていく。その最中で、空気中に溶けきらなかった魔力が床に魔方陣を作り出す。
《……これは》
観察、認識。その魔方陣のデータを記憶から検索。合致し、それが何の効果を及ぼすものか判然としたときには既に、魔術は発動していた。
タスクを眩い光が覆い尽くす。やがて船舶の穴という穴から閃光を噴出して――。
それが収まった次の瞬間、その場からタスクの存在は消失しており、
「何者だかしらねえがな、タイミングが悪い。オレァ今、ちょうど機嫌が悪いんだ。憂さ晴らしに付き合ってもらうぜ」
海上から飛び出し、己が開けた穴に飛び込み受身を取ったウィルソンは、微動だにせぬ黒い影に対してそう啖呵を切った。
「身を呈して仲間を逃したとは、人間らしいと言うのかな」
黒い影だと認識していたが、そう口にする男はどうやら肉体自体が黒いらしい。
甲冑を身につけているわけでもなく、ましてやそういった衣服を着込んでいるわけではない。
その皮膚が黒鉄でできているらしいのは、先ほどの拳撃からおおよそ察知できた。それで全身が覆われているのだとしたら――彼は異人種ですらない。
全身を鉄で覆うような存在はこれまで確認されていないが、予想はされてきた。
無機物を主にした異人種。だが、この禍々しさはとてもそれに類するものだとは思えない。
「いいや、違うね」
ウィルソンは言葉に応えて、相手に対して斜めに構える。
「壊したくないからな」
「壊されたくないから、じゃあないのか」
「バカが、誰が壊すって?」
「俺が」
「クソ野郎、てめえが壊せんのは船までだ」
親指を突き立て胸を叩き、そしておそらく南西であろう方向を示し、
「オレはもちろん、タスクはまず無理だが」
流れるように、その漆黒の男を指した。
「オレはてめえをぶっ殺せる」
「俺が何者だか、理解して言っているのか?」
男の言葉を受けながら、ウィルソンは男が放つ瘴気を取り入れ魔力に変換し、体内で爆発的に増幅させる。
何もない整った顔面に、線が浮かび上がる。右の額からまっすぐに落ちる一閃は瞳に吸い込まれ、その瞳がその中で複雑な紋様を出現させる。
「魔人、だろう?」
――彼がまだ、魔術師としての実力がない頃に刻んだ魔術。
それは、彼がジャンの背に刻んだ肉体強化の陣のようなものだった。
つまりは、世界的に認められている魔術者の全霊を込めたが故に、それを再現できる魔方陣。
ジャンとの違いは、その魔術が禁呪扱いされていることにある。
「ふん――その上で、俺には敵わない踏んだか」
――禁呪として認定されるものは、ごく破滅的な威力を誇る戦略級魔術。あるいは非人道的な効果を持つものであるが、タスクを逃したところを見るに、やはり前者であるのは確実だった。
男は鼻を鳴らし、構え、
「魔術師風情が、近接格闘の俺と対峙したことがまず間違いなんだよ」
床を弾く。
その瞬間、床はひしゃげて穴を穿ち――男の拳は、まっすぐにウィルソンの顔面を捉えていた。
拳が顔面に叩きつけられ、ウィルソンはそのまま踏み込んだ勢いに飲まれて再び吹き飛ぶはずだった。
西瓜を叩き割るかのように、その内容物を撒き散らす予定だった。
「……ッ!」
だから、少なくとも男は驚愕していた。
――拳は勢い良く空振りして壁を殴り飛ばし、その一面をことごとく粉砕した。
木片が己を叩くこと無く、その向こう側へと吹き飛んでいくのを感じながら、彼は静かに振り返る。
「言っておくが、これは瞳の魔術の効果じゃないからな」
短距離でこそその真価を発揮する転送魔術。その改良は、彼が独自に行い、彼を含めて僅か三名しか使用出来ぬものだった。
だが、魔人が驚いたのはその点ではない。
「なるほど、実際に殴り飛ばすまでそれが”実体”かわからんといった具合か」
ウィルソンに触れた瞬間、その手応えは確かにあった。
だがさらに力を込めれば彼の肉体は途端に粉砕され、霧散する。
つまりは――
「義体か。つくづく、無詠唱なのが癪に障るな」
詠唱するか、魔術紋様を利用するか、魔方陣を使用するか。これらのどれかでしか魔術を発動できない筈のものを、まるで息をするような自然さで行い続けるウィルソンに、男は少しばかり――脅威を禁じ得ない。
何がどう間違っても、この己を倒すことが出来る人間など居ないはず。
そう確信しているのにもかかわらず、緊張した。
が、その緊張が男を慎重にさせ、ウィルソンにとって不利な状況に導いていた。
されど、その戦況が魔人へと傾くことはない。
「消え失せろ――」
男が、この空間を占める不吉な魔力を感じて咄嗟に船舶から抜けだそうとする。だが、足が動かない。正確には、まるで底なし沼に飲み込まれたかのように身動きが取れなかった。
――まず始めに、壁が粒子化し、溶けてなくなった。
次いで天井、寝台、その全てが消失し、その影響を受けるように魔人も、気がついたときには右腕が喪失なっていた。
「逃しもしない。オレがやられるわけにもいかない」
「クソ、貴様ァ――」
「黙って死ね」
ウィルソンがにらみ、魔人の腹に穴が開く。彼に見つめられ、その”消化”の速度が倍増した。
「クソ気に食わねえ……貴様は俺が殺す! クソが! クソが! アァアァアァアァ――ッ!」
――魔人が溶けて、消えてなくなる。
共に久しい戦略級魔術により凄まじい疲労が彼の身に襲いかかり――意識を失い、唯一の生き残りである彼は、無防備なまま海へと落下した。
その頃になると、既に船舶は破片すら残すこと無く消失していた。
四月九日、午前十一時ニ八分。
魔人の断末魔と共に、ガウル帝国南方の港から出発した船舶は消滅した。
その翌日、船長、乗船員、乗客の計三ニ名が行方不明扱いとなるが、彼らが発見されることは決して無く――。
――ウィルソン・ウェイバーの失踪時期は重なり、また港で多数目撃情報があることから乗船し、なんらかの事故や事件に巻き込まれたとして、ガウル帝国では捜査を開始することを決定する。
が、本格的に動き出すことになるのは五月下旬の予定となっていた。