8.帰結
淡い紫色の肌、吸い込まれるような漆黒のつややかな髪。
瞳は妖しい琥珀色で、その周囲は黒く没する。
青年とも少女とも見える姿の彼女は――共にユーリア、サニー、タマらを引き連れて、ジャン・スティールの私室に押しかけていた。
それは帰宅した翌日でも翌々日でもなく、着替えが終えてすぐの事である。
その光景を、眩いばかりの美青年然とした風貌のスティール・ヒートは、薄ら笑いを浮かべながら長い金髪を掻き上げる。そんな優雅そうな所作の元、全てを見守っていた。
「もうっ、すごく心配したんだから! もう心配かけないって、言ったのに……」
まずそう口火を切ったのは、サニーだった。
「言ってないけど」
少なくとも、そんなすぐ破りそうな約束はしない主義である。
ともあれ、胸に飛び込んでくるサニーの頭を撫でつつ、穏やかな口調で宥めてやる。
「ほら、でももう、多分考えられる限りで一番最悪なことが回避できたし、な? もう大丈夫だよ」
「じゃあ、引っ越すって言うのも嘘だったわけ? あたしを避けるために?」
タマはタマで、そのたわやかな胸を腕に押し付けながら迫ってくる。だがどうにもその行動は冗談などではないらしく、その表情は怒気に染まっていた。腕に感じる幸福な柔らかさなどを堪能する暇も与えぬ様子で、ジャンは静かに呼吸を整えた。
しかし、やはり獣人らしく、どこか恐ろしいものがある。油断すれば首を掻っ切られそうな、そんな鋭さがあった。
「ああ、いや、まあ……アレだ。その通り。だって、言えば着いて来るって言うだろ?」
「あたりまえだよ! 力が足りなくても、盾くらいは……」
「お前らを守るために出てったのに、お前がまっ先に死んだら意味が無いだろ」
「なら、私も”守られる”側だったのか? 少なくとも貴様より、実力は上だと自負しているのだがな」
随分と棘のある言い方で、ついにはユーリアまでが責めてきた。
「――ははは、貴君は幸せものだな」
「ああ、幸せすぎて圧死しちまいそうだ」
苦笑して彼女らを見渡せば、確かに異人種なれども、誰も彼もが美少女だ。真剣に考えて、これほどモテるのは困りものだ。
もしこの期を手放したとしたら、あとが怖い。
その後、まともな会話が成立するようになったのは――それからおよそ半刻、一時間後だった。
退屈そうに彼の寝台に腰掛けていたイヴは、場が落ち着くのを見計らってやおら立ち上がり、彼の前に移動する。
その頃になるとサニーは泣きつかれてジャンの膝を枕にして眠っていたし、タマは猫の姿に戻って膝の上で丸くなっていた。
ユーリアは気まずいようにやや離れた位置で座り込み、つまりイヴはようやく彼と会話ができるようになったのだ。
「卿を見ていると苛々する」
開口一番に、喧嘩をふっかけてきたのかと錯覚するような言葉が投げられた。
だがその意図はなんとはなしに察せられる。口にはしないし、した所で怒鳴られるだけだろうから心に留めておくが……ジャンはまた苦笑し、肩をすくめた。
「おれもそう思う。よくこんな阿呆を慕ってくれるもんだ、ってな」
「いや、卿は……、無粋かな。敢えてそうしているのだとしたら、馬鹿になってる理由はなんとなく理解できるし」
「何が言いたいのか、良く分からないな」
「その白々しさも苛つく。どうやって、これほどの女を引っ掛けてきたの? 卿はそれほど魅力的な男なの?」
どうだろうか。
どうにも、自分が魅力的であるようには思えない。言ってしまえば、むしろ彼女らのほうが”曰くつき”というか、ワケありなのだが。
サニーは恋愛的な愛情はないし、故におおっぴらに家族としての愛情をひけらかすから勘違いされる。
タマは虐げられるのが好きなのか、それとも個人的に好いてくれるのか分からないが、これは”懐いている”範疇にすぎないだろう。
ユーリアに至っては、もはや愛情も恋愛もかけ離れている。どちらかと言えば憧れの対象だし、口にすれば怒るかもしれないが、今まで頑張ってきた分ねぎらうという意味で、守ってやりたい対象だ。
「そうだったらいいんだけど」
「……なんか」
と口調を崩し、
「死ねって思う」
膝を折りたたんだような座り方から、膝を抱えるような三角座りへと移行する。膝と胸の間に顎を埋め、上目遣いというよりは睨むようにジャンを見た。
「あんた、姫なのに口悪いよな」
「ああ! 卿、それ偏見! 姫君ゆえに言葉遣いが整っているなどと思われとうないわ! 俗世に興味を持って何が悪い!」
「別に悪かないが、偏見じゃないだろ。事実だ」
そういった事が、いくら姫という肩書きを持っていようとも彼が敬語を使おうと思わぬ所以だった。
無論、彼女は侵略する気など無いし、誓ったといったが――ジャンはいつでも動けるよう、常にヒートへの警戒を怠らない。だが彼は本気なのか否か、適当に書籍を手にし、寝台の上で横たわっていた。
「ともあれね、私はこれから国王に挨拶してこなければならない。卿、色々となんだかんだで迷惑をかけた」
嘆息し、気怠げに立ち上がる。
それから寝台へと顔を向けると、既にヒートは本をしまってその場に控えていた。
「この埋め合わせはいずれ」
「貴君、さらばだ。また会えることを期待しておく――再びわたしと戦うまで、死んでくれるなよ」
「あんだけの戦いをして、他のやつで死ねるかどうか不安だがな」
「ははは! いい気概だ。その調子で、ひ……いや。精進せよ」
二人はそう言うなり部屋を後にした。
念のためにその後を追ってみようかと思ったが、無事に家を出て往来を歩いて行くのを見て、ジャンはなんだか妙なまでに面倒になって諦める。いっそ国と関わってしまえば、対処は騎士の役目だ。もやは個人の手に負えるものではないから、さっさと挨拶とやらを終えてもらったほうが気が楽だった。
家に戻ろうと振り返った所で、ちょうど馬蹄が石畳を叩く音がした。
「なあ、ジャン」
先ほどの、彼女らしい怒り方をしたユーリアは既に影もない。
どこか神妙な顔つきで、無理に気勢を張るような態度。それが、妙にジャンの胸に引っかかっていた。
「なんです? もう、説教はうんざりですよ。過ぎたことを言ったって、そこから学ばなくちゃ意味がないですし」
だから敢えて、見当違いなことを言ってみる。
そうすると、既に先ほどの事は頭から吹き飛んでいたのだろう。驚いたような、当惑したような顔をしてから、納得がいったように頷いた。
「いや、そうじゃない。ただ一つ、訊きたいことがあってな」
「訊きたいこと?」
反芻するジャンの言葉に、彼女はゆっくりと首肯する。
「場所、変えますか」
「いや、ここで良い――」
やや思案するように顎に手をやり、言葉に躊躇う。
ややあって、彼女はようやく口を開いた。
「お前は私を、足手まといだと思っているのか?」
それは彼女にとって、あまりにも純粋な疑問だった。
信頼してくれているならば、今回声を掛けてくれるはずであろうものだ。だがそうしないどころか、姿すら現さなかった。
彼にとってはなんでもないことだったかもしれない。
だが長年、少年の時分から彼を保護してから見守って来ていた彼女にとって、それはジャンに見放された――いや、彼の完全な自立を意味している。
しかし、もしそうでないならば……。
今回のことは理由が理由であるため、入団式が不参加でもそう咎められることはない。
ゆえに、問題は以前から気にかけていた入団する部隊である。
仮にまともな信頼関係さえ築けていないとしたなら――。
「……そんな事はないです。ええ、絶対に」
だから彼女は、そんな上っ面だけかもしれない言葉でも、思わずこわばった頬の肉を弛緩させてしまう。
「こんな事言うと絶対に怒ると思ったから、さっきは言わなかったんですけど……たぶん、このままユーリアさんに勘違いされたままだと気まずいんで、言ってしまいますと――」
そして不意に始まる独白に、思わず心拍が高まった。
「今までユーリアさんがおれを気にかけてくれていたように、今度はおれがユーリアさんを守ってあげたい。そう思ってたんです」
「……そうか」
反応が薄い。
それはジャンにとって意外だった。
見限られたか……そう思って表情を伺うが、気がつけばユーリアは背を向けていた。
尾が高く持ち上がっているのを見て、少し安堵した。下手に気分が沈んでいるわけではなく、むしろ高揚しているらしい。
「分かってます、ユーリアさんが守られるほど弱い人じゃないって。だけど精神的に支えになれるくらいにはなりたいって」
「だが、そうするには十分な信頼関係が必要になるわけだが」
「ええ、独りよがりでそう思ってるだけじゃ、ただユーリアさんのためにはならないってわかりました」
たった今、なのだが。
今までそれが正しいと思っていたが、口にして、自分の中で整理してみれば結局自分が間違っていることに気づいてしまう。
どうしようもないことだ。
外に出さず、自分の中だけで完結してしまう彼にとって、一度正しいと思い込んだものは中々訂正しにくいものだ。なにせ、それが間違いだと気づくことが遅いのだから。
「お前は真っ直ぐ過ぎるからな。悪く言えば考えなしだ」
嘆息し、振り返る。
ユーリアはやはり無表情のままだったが、その顔はどこか柔らかい。
口調は穏やかだし、口を開く度に口角が上がった。
「まあいい」
わざとらしく。
それは誰が見ても白々しく肩をすくめていた。照れ隠しなのか、それが彼女にとっての感情の表出なのかは、定かではなかったが。
「ともあれ、これから戦友となるんだ。よろしく頼むぞ」
彼女がそう言って手を差し伸べる。
ジャンは頷き、それに応えた。
――いくらかつて国の最高戦力だと謳われた女性だといえども、その手は柔らかく、温かい。
やや見上げる身長というのが男として少しばかり恥ずかしかったが、まあ馬だから仕方が無いだろう。
固く握手し、視線を交差させる。
ふたりは暫くの間、飽きることなく見つめ合っていた。
そうして、彼が幼少より望むべくして選んだ道は、ようやく荒地から整地へと移り変わる。
亀裂の入る乾ききった殺風景な土地から、舗装された石畳の上へ。そしてその先が、どこに続くのかは誰にも分からない。
――この世界にとって切って離せぬ存在である、異世界とこの世界とを隔てる扉の開扉。そして一国の姫の登場が、激動の火蓋を切っていた。
これより悪夢とも吉夢とも成り得る一年間。
その幕開けは、そんな人生最大とも言える出来事からだったが、果たして本当に”人生最大”と成り得るのか。それは誰にも分からない。




