6.煉獄
「用が済めば扉を開いて差し上げる。貴女はどこからでも”視える”のだから、安全な扉の内側に引っ込んでいてください」
男が告げると、発光する銀髪を掻き上げるようにして、彼女は嘆息した。
「随分偉くなったような物言いだな。だがいいわ、私が”邪魔”にしかならないなら、言うとおりにしておこう」
刀の柄を握りつぶせば、その刀自体がことごとく粒子化し――霧散する。もとから何も存在していないかのように武器の失せた手を振り払い、軽く跳躍して扉の隙間に潜り込んでいった。
「スティール・ヒート」
低く底冷えのするような声が、そう名乗る。
「貴君を完膚無きまでに殺す者の名だ。貴君らの世界では、そうするのが定石なのだろう?」
――ジャンがその驚愕の色を隠せなかったのは、決して彼に人間かぶれの面があったからというわけではなかった。
「スティール……だと?」
ジャン・スティール、スティール・ヒート。これは何かの偶然か、あるいは必然的な出会いなのか。
これに意味があるのかすら分からないし、そもそも向こうはファーストネームだが、ジャンはファミリーネームだ。
さらに言えば、彼は鋼鉄だろうが、綴り的にはジャンは盗人である。この違いは格段に大きい。
「些細な奇遇だ」
気にするな、とヒートが鼻を鳴らす。
「そもそも、まったく世界の異なる我々が、全く同じ人間の形をとっている事自体に驚愕をしてもらいたかったのだがね」
「……確かに」
それこそが偶然というべきか、はたまた必然か。
未だ、この扉の向こう側が異世界であるという事に現実感がもてない。彼が、異人種以前の人外だということが理解出来ない。そういうものだと認識していても、納得はしていない。
だが彼らと対峙するにあたって――否、未知のものと付き合うに当たって、その仔細をことごとく認識して固定観念を作る必要はない。
分かり合う方法といえば、単純に日常を共にするか――。
「だがよ、んなもんいいから――早速」
拳を固め、腰を落とす。拳法家のような構えに、ジャンは思わず大剣を担ぐのを止めた。
「始めようぜっ!」
――肉体と肉体でぶつかり合い、命を賭して闘うか。
誰からとも無く、二人はほぼ同時に駈け出した。
ヒートが勢い良く扉を殴りつけた。
巨大な扉はけたたましい音を立てて閉まり、男はその反動を利用するように急加速でジャンへと肉薄した。
初速から豪速球――思わぬ速さに、ジャンは即座に大剣を突き立てて盾に変える。否、正確には”変えようとした”。
ジャンがヒートを疾いと認識した瞬間、既にその拳は眼前にまで切迫しており、
「――っ!」
無意識が、軽減させた肉体強化を強制的に限界まで引き上げる。
瞬時に処理速度が加速し――迫る拳へと、大剣を叩きおろした。
――攻撃を避けられる最低限まで強化を下げた。そのつもりだったが……その最低限、というものが、ジャンにとっての最大限であることを認識する。
短く舌打ちし、ジャンはさらに拳に乗った大剣を滑らせ、刺突に利用する。
「上手い」
上手いが、
「甘いな」
ヒートは空いた手で腕の上を滑る大剣の横っ腹を殴り飛ばし、だが勢い良く吹き飛びながらも未だヒビ一つ入れぬ岩剣の頑丈さと――それにつられること無く、潔く武器を手放して長剣を持ち替えるジャンに、思わず口笛を鳴らした。
表面の手甲をにわかに融解させ、大剣を受け止めた拳を再び飛来させる。
だが、ジャンはそのまま長剣を落としてしまう。切っ先はすぐ下の地面に突き刺さり――ジャンは足を滑らせるようにして深く屈みこみ、咄嗟に拳を頭上でやり過ごす。
刀身には、気がつけば奇妙な紋様が眩く輝いていた。
「大地の激昂ぁっ!」
ヒートの眼下が、瞬時に隆起する。そう認識した瞬間、彼の加速にも負けぬ速度で、腕ほどの太さのある石柱がヒートの正中線を捉えて穿った。
さらにそれだけには終わらず、その数歩分先、さらに先……そういった箇所から追随するように隆起現象が巻き起こり、額、顎下、喉、水月――ことごとく急所を狙い、貫いていく。
その勢いに乗せられたヒートはやがて扉の高い位置に勢い良く叩きつけられて、
「だ、らぁっ!」
大剣を担ぎ、扉を蹴り飛ばすようにして垂直に跳躍。扉に叩きつけられるヒートへと、岩剣が迫り、間髪おかずに振り下ろされる。
「言っただろう」
無防備に垂れ下がる腕が不意に引き上がったと思うと、火花を散らし、大剣は易々とその手に受け止められた。
反射的に引こうにも、その握力が許さず、押し切ろうにもその剛力が許可しない。
「甘いとな!」
急所のみならず、その四肢を押さえ込んでいたならばまだ反応速度が遅れていたかもしれない。
阿呆が、注意深いと思っていたが――。
ヒートの思考は、そこで失せる。
彼は見たのだ。ジャンの表情が未だ決して陰りを見せていない事を。
そしてまた――眼下から迫る、巨大な気配を感じた、その刹那。
巨大な六角柱は、その先端を針のように鋭く尖らせて足元から迫り、
「ッ!」
大剣を手放し、空中へ身を投げる。
刹那、接触。
金属を引き裂くような金切り声が谷底に反響しながら、ヒートは『大地の激昂』に突き上げられた。
瞬間的にその深い深淵からニ階層目――ジャンが落ちた谷底へと吹き飛ばされ、彼の知覚できぬ範囲にまで叩き上げられる。そんな凄まじい勢いに圧倒されながらも、ジャンは緊張を解くことが出来なかった。
ジャンはそのまま着地するが、力が抜けたように尻餅をつく。
背中の魔術を解除し、それ故に途端に襲いかかってくる瘴気によって気分が悪くなる。喘ぐように呼吸を繰り返し、激しく高鳴る鼓動を聞きながら、全身の痛みの余韻を感じる。
「くっ……はぁ……これで、どれだけ時間が稼げるんだ……?」
さすがに、あれで倒せたとは思えない。
この濃密な瘴気故に魔術が強化されているのは――肉体強化の効率、そして魔力の燃費が良くなっていることから理解できていた。既に限界間近であるはずなのに、身体にはまだ余裕があるのだ。
だから己を囮に使い、『大地の激昂』で一泡吹かせたのだが……。
意識が朦朧としてきたところで、再び背中の魔方陣を起動させる。体外の瘴気を取り入れて燃焼し、全身に活力を強制的に流し込んだ。
「ったく、よぉ……随分頑丈な出来で……うらやましいぜ」
やれやれと立ち上がり大剣を手に取ろうとしたところで、その大剣をヒートに掴まれたままだったことを思い出す。流石に今は手放しているだろうが、地面に叩きつけられたような音が無い所をみるに、二階層目あたりに落下したのかもしれない。
決定打がなくなったわけである。
――深淵の中、さらに黒い影が迫ってくるのを見る。
それが高速度で落下してくるヒートだと知覚できたが、確かにそうだと認識できたのは次の瞬間。
轟音が響き渡り、大地が激震する。
ジャンが思わず姿勢を崩して転びそうになる中、仁王立ちするヒートは天高くそびえる六角柱の脇に着地した。
「正直な所、驚いた」
本気で対峙していたというわけではないが、少なくとも手を抜いた覚えはない。ジャンを強者と認定する以前よりも、少なくとももっとまともに戦っていたはずだ。
ならば、なぜあの攻撃を食らってしまったのだ?
分からない。油断した覚えはないのだが。
股ぐらがにわかにしびれているのが、僅かに彼を苛立たせた。
「だから貴君も、驚いてもらいたい」
そういった気持ちに他意はなく、純粋なものだった。
この戦いはどちらかの死によって完結する。だがその前に、彼が見せてくれた本気に敬意を表し、己の持ち得る全て――というか、この能力の最大活用を見てもらいたかった。
ジャンは脇目もふらずに地面に刺さったままの長剣を抜き、構える。
もはや『大地の激昂』に攻撃力が無いのが確認できただけで十分だ。そしてあの攻撃はあまりにも直線的すぎるゆえに、目くらましにも囮にも使えない。
「ならさっさとしてくれよ。日が明けちまうだろうが」
四月八日に異世界の連中が襲撃しに来る――エミリオにはそう伝えてあるため、もしかしたら様子見に来るかもしれない。
確かに来てくれるのは嬉しい。生存確率は跳ね上がるだろう、が気に食わない。
ゆえに、それだけは避けたかった。
「ふん、なら見ていたまえよ。これで絶望してくれれば、少しはうれしいかな――」
そう告げた男の全身は、徐々に明るく染まり始め、次第に赤熱してきた。
やがて全身の甲冑、その鉄仮面までを加熱し融解しだすと――大地に熱が染み出し、彼を中心にして周囲の大地が燃え上がり始めた。
石が真っ赤に芯まで溶け始め、そのどろどろとした溶岩が既に赤から白へと変質する大地へと流れだす。
――地面はひび割れ、そして溶ける。
周囲は余すことなくその熱にやられてしまって、ジャンは思わず階段に飛び乗ると、次の瞬間には彼が立っていた場所までもが飲み込まれていった。
凄まじい熱が肌を焼く。間接的に熱にあたっているのに、既に火にくべられているのかと錯覚するほどの高熱が全身を嬲っていた。
ズボンが燃え出し、肌が焼け、肉が焦げ、骨が溶ける。
スティール・ヒートの本質はここからである筈なのに――その片鱗を見ただけで、ジャン・スティールの敗北は完膚なきまでに決まってしまったし、
「くッ……くく、はははははは!」
それを察してか、否か。
ヒートはジャンを見るなり、唐突に腹を抱えて笑い始めた。
頬がひきつる。腹筋が痙攣しそうだ。腹がよじれ、呼吸困難に陥りそうなのに――だめだ、楽しい。なんだこの気持は、初めてだ。どうしようもなく楽しい。嬉しい。
ああ、そうだ。
仮想の模擬侵攻で彼を見た時から、こんな気持が芽生えていたのだろう。
正直に言ってしまえば――。
「なんだ、その顔は?」
ジャンは依然として、その表情に微笑みを携えていた。
それは決して諦観ゆえの、どうしようもな現状から逃避したいという心理的状態から来るものではない。
それは決して、ヒートの攻略法を見出して、それ故に余裕を持っているわけではない。
だが彼は笑っていた。
瞳には光があり、未だ死していない。むしろこれから闘うのだ、というような意気込みすら感じる。
溶岩のすぐ上。炎に包まれながら、おそらく既に呼吸すらできないだろうにも関わらず。
「貴君は未だ、守りたいものを守れると思っている」
彼がここに来る動機となったのは、少なくともそういったものだった。
今とて、それに違いはないはずだ。
だがこの状況でそれを覆さぬのは、ヒートでさえも頭がオカシイのではないかと思わずには居られなかった。
「愚かだ、愚かよの! これ以上貴君にできることなど無いというのに! わたしに近づくことすら出来ぬというのに!」
だが、しかし。
「嫌いではない」
そうだ、正直に言おう。
「その男気に惚れ――」
「禁断の果実」
その瞬間。
ジャンが何を言ったのか、何をしようとしているのか、ヒートには理解できなかった。
炎に包まれながら、ヒートの主張のことごとくに彼は同意していた。
ああそうだ。愚かだ。どうしようもなくバカでクソッタレだ。両親が生存していたら、親不孝者になっていたに違いない。
だが仕方がないじゃないか。これほどの強い敵を前にして、”心が踊って”しまっているのだから。
街を出る時にパスカルに言われた言葉は、確かにその通りだ。結局は、どうせ死ぬなら誰よりも早く、誰の死も見ずに死にたいからここに来ているのだ。そんな気持ちは微塵も無いが、本質的には違いない。
ゆえに、決めていた。
ここに来て、スティール・ヒートと対峙して、その決意が固まった。
もう守るものなどどうでもいい。守れぬのだから、ひとまず横に置いとこう。
そう、もうそういう関係など無しにして、おれは鋼鉄が気に食わない。
だから私闘だ。
やろうぜ、ただの私闘をよ!
「禁断の果実」
ならば、これが最初にして最後の抵抗手段。
見せてやる。おれの全力を。
――その切っ先から解けた鋼鉄を滴らせる剣を握ったまま、ジャンは空いた手で額をつかんだ。
指先に確かな硬い感触。しっかりと掴んで引き出せば、その手の中には真紅に染まる、リンゴともイチジクともつかぬ果実が現れた。
この魔術をくれた少女は、最大で三口が限度と言っていた。この魔術を繰り返すのに、ジャンでは三度で限界が来るというわけだ。
だが――それを、一口で丸呑みしたらどうなるだろう?
ジャンは迷うこと無く手のひら大の果実を口に押し当てると、大きく空けて、押し込んだ。
味はなく、口を閉じて咀嚼すればあふれるほどの瘴気が口の中に広がった。まるで一年放置した生魚を口の中に放り込まれたような腐臭が溢れたが――構わず飲み込み、一息つく。
禁断の果実は、見たものを見たままに繰り返す。
一口でさえそれなのだから、丸呑みとなれば――。
第三階層目となる扉のある谷底は、唯一階段を設えている。理由は、異世界の王族も利用するからだ。
だというのに。
そこに階段はあったはずなのに。
「……はッ、ははッ、ははははは!」
ヒートが高らかな笑いを響かせる。
その眼前には、階段が溶け出し、この谷底へと溶岩が流れこんでくる光景があった。
凄まじいこの熱は、殆ど活火山も同然だ。その火口の中と言っても過言ではないこの光景に、ヒートは笑うしか無かった。
これほどの威力は、まだ見せていない。
だというのに目の前の青年は――勝手に、スティール・ヒートの”全力”を”再現”していた。
「ったく、てめえはこんな熱血キャラかよ?」
凄まじい熱さは、されど彼自身が術者となることで無干渉となった。
つまりどれほど甲冑を融解させ傷を治癒させたとしても、溶岩などの灼熱までは彼とて耐え切れぬ――そういう証明になっていた。
だが、とはいえ、ならば彼を倒すためには火山にでも落とさねばならぬことになるのだが……。
「貴君、その魔術は我らが世界の代物だと認識しているのだが」
「ああ、悪いな。貰ったんだ」
「ふッ、貰った、だと? ”あれ”はそう容易く懐かぬと思うのだが」
「知らねえよ。つか、やっぱ”あれ”は一種だけなのか。他の異種族みたいに、腐るほど居ると思ってたけど」
「居らんよ。そもそも、あれは我らが技術の粋だ。生物としてすら、存在が曖昧なのだが――まあ、いいだろう」
「ああ、どうでもいい」
背中の魔方陣が光輪を排出する。
最大出力、最大放射、限界突破――再びそう繰り返し、限界をさらに突破させた。
だがもう、これが限界。
いくら魔術の燃費が良かろうと、いくら身体が予想以上に持ったであろうとも、それ以上は耐えられない。
つまりは、これが最後。
大してヒートは余裕がありすぎる。ただすこしばかり、ジャンの”複製”した能力による熱に堪えているか、くらいの差でしかない。
ああ、駄目だ。どのみちもう既に頭が沸騰してきている。
考えがまとまらない。
既に使い物にならぬほどドロドロに溶け出した剣を放り投げ――。
「行くぞ」
「こっちが行く」
その溶解した長剣が、炎を上げる溶岩の海に着水した瞬間。
同時に、両者は大地を弾いて溶岩の飛沫を上げる。
目にも留まらぬ速度で、両者は接触。
男の拳が迫る。腰溜めに構えられた拳は、狡猾に顔面を狙ったもので、それを避けるのは容易かった。だがその隙、左手が貫手を作り胸へと迫っている。それを認識していながらも、ジャンは避けなかった。
本来はそうなるはずだった。一番最初、あの女が来なければ既に死んでいるはずだったのだ。だから彼自身も、最後はこの技に決めたのだろう。
だがさしものジャンも、ここで終えるはずがない。
その鋭い指先が肌の上から胸骨を砕いて肉を抉る中で、渾身を込めた右拳は、鋭く男の顔面を捉えていて――。
凄まじい打撃の衝撃に、腕がしびれる。拳がぐにゃりと変形し、右腕に細かな亀裂が大量に走るのを覚える。
スティール・ヒートは真正面から顔面を穿たれながらも姿勢を維持し、拳を受け止めていた。
ジャン・スティールは己の拳撃で拳を砕いて――男の左手が、その胸を貫くのを、妙なまでにゆっくりとした感覚で捉えていた。
肉が裂け、骨が砕かれ、心臓を貫く。
大量に鮮血を吹き出し、吐き出す青年は、途端に脱力してヒートにもたれかかった。
彼は大きく息を吐きながらジャンから腕を引き抜き、落とすと、膝まであふれる溶岩の中、彼はゆっくりと灼熱にその身を焦がしながら沈んでいった。
「まったく――ここまで、やられるとはな」
鉄仮面に亀裂が入り、そして破片が飛び、顔から引き剥がされて落ちていく。
術者なき現状では溶岩の熱は急速に引いていく。何よりも影響が大きかったジャンのそれが失せたために、冷却の速度も一入だった。
「――随分、楽しそうなものだな。そんな表情、初めて見た」
扉も介さず、先ほどの女の声が聞こえた。振り向くまでもなく、彼女はすぐ傍らの宙に浮いている。
熱の影響は一切無いらしく、それが幻影なのか本体なのか、彼にも判別がつかなかった。
ヒートは指摘された笑みを払拭するように嘆息し、それから肩をすくめる。
一瞥すると、彼女はまるで楽しい催しを見た後のように大きく息を吐いていた。
「後は頼んでよろしいですか?」
念のために訊いておく。気分屋だから、ここでヘタ打つとどう展開がこじれるかわからないのだ。
「ああ。今の私は気分がいい。今宵、抱かせてやる」
「まだ死にたくないので、遠慮させて頂きますよ」
「ふん、ここまでしておいてよく言う……まあいい、上の谷に上っていろ」
「ええ、了解」
ただ一度の跳躍で、『大地の激昂』をも凌駕する高さまで登り上がるヒートを見送った彼女は、また一つ嘆息し、
「やれやれ、遊んだら遊びっぱなし。男はいつまでも、ガキなのだから」
まるで母の如き穏やかな微笑みを見せ――その銀髪が、輝きを増した。