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4.大渓谷

 大渓谷の最奥部に刻まれる深い谷に、目的の扉は存在している。それは巨人族宅の玄関のように大きいらしいが――まずは大渓谷を攻略することが、最大の難関だった。

 まずそこに到着したのが四月四日の午後。つまり一日半歩きっぱなしで間に合ったという事になる。

 道中で出会った行商人から食料と水を買ったために体力は万全……なのだが。

「うわあ」

 剥き出しの岩場が殺風景に死地を作り出している。ひたすらに黄色味がかった灰色の世界。起伏があるぶん、まだ砂漠よりは色気があるとは言える。

 だが、そこはスケールの大きな岩場にほかならない。

 既に存在する深い谷から噴き上げる風は余す事無く腐臭であり、口元を布で覆わねばどうにも堪えられない環境だった。

 深淵を見下ろして嘆息し、ジャンは岩場を進んでいく。

 ――にしても、基本的に谷底からスタートすると思っていたジャンにとって、壁のヘリを歩いているようなこの状況はどうにも肝が冷えていけない。

 こんな所で異種族が出てきたらどうするんだろうか。戦えるだろうか――考えている内に、

「マジかよ」

 岩が動いた。

 そう認識した瞬間、その巨岩は四肢を伸ばし四足で立ち上がる。

 岩でできた犬畜生が突如として、そこに現れたのだ。

 唸る声は聞こえない。だが低く伏せるように構え、牙を剥く姿はどう好意的に捉えても懐いているようには思えないだろう。

 足場は、彼が立つのがやっとなくらい。右手側は高い壁であり、左手側は柵も鎖もない断崖絶壁、深淵が大きな口を開けている。

 大剣を振るうには不十分な広さ。長剣では岩に対して十分な攻撃力を与えられない。

 ならばどうする。

 ――考える暇もなく、岩の犬が襲いかかってきた。

 ジャンは難なく壁際に飛び去る事によって一直線の襲来を避け、着地、そして振り返る岩犬に対し、彼は谷底へと背を向けるようにその際へと移動した。

 間も置かぬ一閃。

 地面を滑るが如き低空で、弾丸のような高速度でそれは迫り――ジャンはなりふり構わず壁側へと飛び込んだ。敵はもはや止まれず、崖の下へと落下した……筈であった。

 だが聞こえる大地を弾く音。

 首を回せば、つい先ほどジャンが立っていた位置に器用にも着地した岩犬の姿があった。

「くそ――」

 青年の持つ爆発力は、背中に刻まれる肉体強化の魔方陣からもたらされる。

 故に意識して瞬時に強化を働かせれば、背の陣からはまばゆい光輪が幾重にもはじき出され――瞬間的に、通常の数倍にまで至る身体能力を得る。

 頭の後ろから突き出る鉄棒の柄を握り、もう片手で固定具を外す。

 解放された大剣は、構えもないままに頭上、つまり大上段からの一撃を成し得た。

 岩犬が振り返るには十分な時間。それが飛び上がり、再びジャンへと襲いかかるには適切な時間。

 ゆえに再び、飽きる事無く飛び掛ってくる岩犬へと、同じく巨岩から切り抜いた無骨な大剣を叩き落す。

 鈍い轟音が響き、岩が砕けた。

 散ったのは当然として岩犬だったが――勢い余りある大剣を、彼は力任せに振りぬく術しか知らぬ未熟者ゆえ、完了した攻撃を止める手段を知らなかった。

 狭い通路で大剣を抜いた事に勝機を見出した彼だが、その先を忘れていた。

 剛力はされど己の体重を上回る大剣とその勢いに引っ張りこまれ、まずは崖のヘリを叩き切り――バランスを崩した青年は、敢え無く大剣と共に深淵へと飲み込まれていった。


 どれほど落ちたのか、定かではなかった。

 剥き出しの鋭利な岩肌に全身をズタボロに引き裂かれなかったのも、谷底に叩きつけられる衝撃で上肢と下肢とを断たなかったのも、ひとえにその大剣のお陰だと言えた。

 身の丈ほどの巨剣が盾となり、そして大地に垂直に突き刺さることによってクッションになった。

 意識を失わず、タイムロスを作らなかったのは殆ど奇跡的だったし、幸運だとしか言えないだろう。

 それでも幾らか地面に落ちた衝撃は身体に跳ね返っていたし、意識はおぼろだった。

「うっ……おげえ……」

 うつぶせになって、喉に詰まった吐物を吐き出す。勢い余って胃の内容物が全て吐き出されてしまう。

 鼻腔に突き刺さるようなすえた匂いにツバを吐き、ジャンは呼吸を整えながら立ち上がった。

 まだ頭がくらくらする。

 ひとまずその場に腰を落として、落ち着くまで待機することにした。

 その間に、状況を確認する。

 腹部に突き刺さるような灼熱の痛み。おそらく肋骨が折れているのだろうが、内臓に刺さったような感覚はない。後は全身に幾つかの打撲などの軽傷。それを考え、肉体強化を微量に発動させておく。

 強化された肉体の自己治癒能力の増加に頼った治療法だが、完治は望めないだろう。

 だがどのみち戦いが始まれば、すぐにこれよりひどくなるのだ。度外視できる程度まで回復さえすれば十分である。

 そして――この場所は、ひたすらに暗かった。

 見上げればまだ明るい天空が見えるが、その明かりがここまで届くことはない。

 左手を見れば深い闇。右手を見ても深い闇。

 そして何よりも、そこには吐物など比較にすら出来ぬほどの凄まじい腐臭――瘴気が溜まっていた。

「くそ……気持ち悪い」

 また催し、嘔吐する。下腹部に込めた力が引くと、そのまま意識がすうっと薄れて、彼はその場に倒れ込んだ。



 青年が目を覚ましたのは、幾度目かになる無意識の嘔吐によってだった。

 胃がひっくり返るのではないかと言うほど、もはや胃液すら出ない嘔吐を繰り返し、ジャンは袖口で口元を拭って身体を起こす。

 酷いダルさや、止まらない吐き気。体の痛みは随分と軽くなったが、体調は最悪だった。

 どれほどの時刻が経過したのか――見上げる空は夜の帳が落とされている。藍色の、遠すぎて瞬く星さえも見えぬ谷底で、ジャンは嘆息した。憂鬱なのは、その次に吸い込む空気が尋常でないほど不快である事だった。

「ここまで来たか」

 再びあの声が聞こえてくる。

 それは確かな人の姿をとっていたが、黒い影でしかなく、その輪郭以外を見せることはなかった。

「待ちわびた、がな。正直な所、期待はずれだったな」

 呆然と虚空を見つめるジャンへと、その声は嘆息混じりに肩をすくめる。

「誰も己の言葉を信じてくれず、単身ここまで来たのはいいが谷に落ち、瘴気にあてられどうしようもない……」

 今すぐ呼吸を止めたい。

 こんな空気を吸うくらいなら、窒息したほうがまだマシだった。

「よもや思考もままならぬ。幸いなのは、体内で魔力を蓄えられるからなのだろうな。いくらか瘴気に耐性があるだけ。なければ、昏倒したままな筈ゆえ」

「うるせえ、黙れ」

「元来饒舌ではないのだ。むしろ嬉しく思ってもらいたいのだが――まあ、いい。貴君がこのままであるのならば、我々はそろそろ規定の時刻だ。出ていこうと思うのだが」

「――なんだと……?」

 ちょっとまて。おれは、どのくらいの時間意識を失っていたんだ?

 この空は、一体夜を幾度繰り返したんだ?

 規定の時刻――四月七日、いや、あの扉が開くという事ならば六日の深夜、あるいいは七日の早朝だ。

 くそ――ここまで来て、こんな、ところで。

 立ち上がり、影を通過してその向こう側に横たわる大剣を掴み上げる。

 背中の魔方陣が眩く輝く。

最大出力マキシマム……最大放射マキシマム限界突破マキシマム――」

 全身の筋肉が膨張し、蠕動する。すべての感覚が研ぎ澄まされ、主観時間が極めて細く長く伸び、千分、万分にまで分割された。

 瘴気に流れが出ていることに、そこで初めて気がついた。

 右手側から左手側へと緩やかな瘴気の川ができている。つまりはすべての発端……最奥部は右手側だ。

「そう。看過できぬなら止めてみせよ」

「黙れって、言ってんだろうがよっ!!」

 大地を弾く。

 すると地面が削れ、深くえぐれる。大剣を担いだ青年は凄まじい速度で大地を駆った。

 瘴気が暴風となって掻き乱され、停滞したそれらを全て吹き飛ばしながらジャン・スティールは弾丸が如く貫いた。

 やがて、そう間もなく前方に深淵が現れて――踏み込み、跳躍。

 胃の腑が浮くような極まった不快感を覚えながら、彼は再び落下して――

「開けんじゃねえっ!!」

 にわかに隙間を作る扉の最下。

 その扉を今まさに押し開けんとしていた影に対して、加速した勢い、重力、絶大な重量、そして全身全霊の全力を込めた一撃を叩き込んだ。

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