3.死地へ
気がつけば、辺りは暗くなっていた。
柔らかな革のソファーの上で、接触面が暑苦しく湿っぽくなったことで身体を起こしたジャンは、自身の状況を理解した。
風呂場でのぼせ、ここまで運ばれたのだ。
「……起きたか」
対面のソファーで優雅に背を預け、その手に酒瓶を握っている金髪の男が声を掛けた。
時刻は既に深夜に移行している。
額の汗を拭って、ジャンはその場に座りなおした。
お手伝いの一人であるパスカルに向き直るなり、彼は言葉を続ける。
「風呂場で濃厚な瘴気を感知した。ありゃどういう事だ? 異世界と遜色ねえぞ」
故にヒトであるジャンは堪え切れずに意識を失い、だが異人種であるタマは変わらず平気だった。
新たな情報に、己の状況を再認識する。
異世界の瘴気と、この世界の空気が混じり合って魔力が生み出されたが――瘴気のみでは毒と同義。それを思い出せば、気絶したのも、むしろ気絶で済んだことのほうが喜ばしい事態なのかもしれない。
「単刀直入に訊こう。あそこには”なに”が居た?」
「んなもん、わかってたら苦労しねえよ」
異世界との交渉に携わる男でもあるパスカルは、彼の答えに、ふんと鼻を鳴らした。
まるで予想した言葉とまったく合致したように、つまらなそうな顔でのけぞった。
「だろうな」
「なあパスカル――」
そもそも、今日は彼に話があって戻ってきたのだ。
エミリオがダメだった。
――愚図は嫌いだ。
だから最後の望みとして、彼に。
それでもダメだったならばやはり一人で行くしか無い。他にはアテがないし、元クラスメートや他の友人は巻き込めない。
――雑魚は嫌いだ。
決して否定はできない世迷言を無意識に繰り返す思考を打ち消して、ジャンは大きく嘆息した。
それからパスカルに伝えるのは、やはりエミリオに伝えたものと同じ事。だが彼に説明するのは、その要領を得たために、より簡潔でわかりやすいものだった。
「そんな――おれは夢を見た」
「……そいつは、夢なのか?」
パスカルの言葉に、思考が停止する。
何を言っているんだ、と否定したい。わけがわからないと放棄したい。
だがそれは真っ先に考えた”ありえない”ことであり、そして考えられる中で最悪な事態だった。
また風呂場での出来事から、それを否定できる筈だったが――思い返せば”アレ”は”見せた”と言っただけだった。
幻覚とも、現実とも取れる言葉。
既に常軌を逸する魔法という存在でさえ連中の片鱗なのならば、領土を焦土に変えた上で”元に戻す”ことなども可能なはずだ。いわば、サニーの<修復>の強化版。
ということは、つまり――連中、一度はこの領土を陥落させている。そういう事になる。
否定したかった。
だがありえぬ事が、一五○年前からこの世界での常識となっている以上、それができない。
パスカルは意地悪そうに口元を歪めた。
「だが、そいつはありえない」
自身の言葉を、自身で否定する。
つまりは先の疑問の提示は冗談であり、それを受け取ったジャンの表情を楽しむだけの余興。
程よい具合に引き締まってきた場さえも楽しむように笑い、彼は酒を一口含んだ。
「まず大前提として説明しとかなきゃならねえのが、あの世界の体制だ」
ソファーに挟まれる中央のローテーブルに脚を乗せ、簡潔に説明する。
「あれは、あの世界総てを、一国が支配している。いわばわかりやすい天下統一のお手本だ。んでそこの王が居て、后が居て、王子に姫さま……修復、回復系統の術はその眷属しか使えねえ。加えて后は外から入ってきたから該当しない。十八人いる中で、さらに純粋に”術”を持つのは六人。その法――能力を持つのは一人」
いくら世界を統べるとはいえ、このアレスハイムの領土が広大なのには代わりがないし、ただの術では修復することはさすがに不可能。元通りにする、となれば論外だ。
辛うじて可能”かもしれない”となれば残る一人だが、
「該当者のお姫様は箱入り娘だ。わざわざ穢れた空気を吸いに、ここまで来るわけがない」
となれば、やはり悪夢は悪夢のままで終える。
ジャンは幻覚を見せられ、それに恐怖しただけになる。
「基本的に王族は好意的に親交を望んでいるし、お前の言うような”出来事”を望んでは居ない」
だが、と蒸留酒を飲み下しながら言った。
「うっ……げふう。近衛兵が居る。ここの騎士みたいな連中だが……唯一問題視するとすれば、そいつらくらいだな。他の連中はこの国だけでも対処できるレベルだし、それ以下はモンスター……異種族だ」
だがな、と言葉を継ぐ。
「だからこそ脅威だ。連中は、およそ規格外。科学の粋を集めた兵器でも、世界中の強者を打ち破る勇者でも、おそらく倒しきれない。いいところまでは行くだろうが、倒せない。俺はそう判断する。実際はどうだかわからんがな」
つまり、彼がそう畏れられるほどに敵は強いということだ。
パスカルが尋常でないほどの雑魚ならいざしれず、ある程度は実力があるのだろう。なければ先遣隊として選抜されない。
故に。
「連中が侵攻を決意したら、俺たちゃもう終いだ。どうあがこうと、あがくだけ。その結果を作れない」
「……諦めんのかよ」
その返答が、どれほど愚答かは彼自身わかっていた。
それは今まさに捌かれようとしている魚に言っているようなものだ。既にクモの毒牙にかかった虫に告げるようなものだ。
逆らえない者には逆らえない。それが物理的であればあるほど、抗うことすらままならなくなる。
それを一番わかっているだろうジャンにしては、随分阿呆だな――と、真意を察していながらも、パスカルは鼻を鳴らした。
彼との会話は重ねることに意味がある。
いくら両者ともに最終的な結論が決まっていたとしても、その過程を楽しむことに意義がある。
ジャンは口を衝く事によってそれを選択し、パスカルは長年の経験からそれを選択した。
「馬鹿か、お前は。出口のない空間、吊り天井の鎖がぶち切れた。この状況でお前はどうすんだ。精神論じゃどうにもならねえよ。現実として、吊り天井をぶっ壊すくらいの力が要る」
「だったらぶっ壊せば良い」
「拳が腕ごとぶっ壊れるがな」
「やってみなけりゃわからない」
「やってみて死んじまえばそれまでさ」
――そうだ。もっとヒートアップしろ。熱くなれ。脅威を受けて狂喜を浴びて、自分を追い詰めろ。
それが仮想であったとしても、この男の真価は発揮される。
彼の強みはその驚異的な爆発力でも、将来性でもなんでもない。
言ってしまえば常識はずれの勘働き。そして素手でイノシシに立ち向かうような怖いもの知らず。
事実彼は恐怖するが、己で乗り越えることが出来る。失禁しようが失神しようが、最終的には二本の脚で立ち上がる。彼はそんな男であるはずだ……というのは、どこかの騎士に受け売りだが。
それでも真に受けてしまっているパスカルは、やはりそう信じてしまっているのかもしれない。
「ああ、そりゃ死んだら終わりだ。だが足掻きもしねえ、諦めて終わりってのも終わってんだよ」
もしかしたら亀裂が入っているかもしれない。もしかしたら部分的に脆いかもしれない。
可能性はいくらでもあるが、動かなければ完全なゼロ。
何も出来なかった過去があるからこそ、ジャンの信条はまず動くこと、そういったものに傾倒していた。
「加えて言っちまえば……」
途端に、ジャンは口を閉ざした。
勝手に興奮し、勝手に気づき、勝手に冷却する。自己を極めるからこそ、自己完結する。
だがパスカルは楽しそうに言った。
「どうした、言っちまえよ」
「言わねえよ」
「ああそうかい」
もう伝えることは伝えた。ジャンとて、話すべきことは全て終えたし、協力できないにしろ引き止めてくれた事を有りがたく思っていた。今回はそれで十分だった。
関係の薄いパスカルでさえそうしてくれるのだ。妹として関係を深めてきたサニーはどうなるだろうか。
あまり考えたくないことだが、
「仕方がない。おれがやらねば他は動かねえ。クズ、グズどもの代わりに世界を救ってやる……ったく、格好良いなあ、てめえさんはよ。英雄気取りで死ねりゃさぞかし気持ちがいいだろうな」
前者はジャンの心情を語り、後者は己の本心を口にする。
したたかに懐を殴り飛ばされたように、ジャンは言葉に詰まった。
「要は死ぬのが早いか否か。絶望する前に死ねるか否か」
「言っただろ」
結果はわからない。
「おれは生きて連中を倒すって」
「言ってねえよ」
「なら言ってやる。無理でも、無駄でも、おれはあいつらの前に行って、侵攻を阻止してみせる」
「野望が小さくなってんぞ」
「うるせえよ。ほっといてくれ」
どれだけ格好良いことをほざいても、怖いものは怖いんだ。
少しの保身くらい、許してくれたっていいだろう。
――立ち上がると、居間の壁に大剣が鎮座していた。その脇には、使い慣れた長剣。床には腰に携え背負えるように改良された帯剣ベルト。
「そいつ持ってくんの、苦労したんだぜ」
変わらず酒を呷りながら、軽口を叩くようにパスカルは口にした。
「死ぬにしても、生きるにしてもよォ」
ベルトを装備しながら、ジャンは聞いた。
「どうせ男として生まれたなら、存分に格好つけてこいや」
――よくわかっている。この男は、男として生きることをわかっている。
腰に長剣、背中に大剣。
着古されたシャツに、肌にやさしいなめし革の上着。それらに一切の防御力は期待できないが、敵が敵だ。防御をする事になった時点で死は確定だろう。
持ち物はそれ以外にはないが、
「ああ、行ってくる」
他に必要なものも、それ以外にはなかった。
男の激励。そして日常に埋もれるいつもの挨拶。
戦士として生きる者にとっては、それだけで十分だった。
まず初めに後悔したのは、しまった、という迂闊さにだった。
「どっちに行きゃいいんだ……?」
眠りこけている門兵をたたき起こして外に出たのまでは良かったが、大渓谷がどの方向にあるのかはわからない。
下手に力に自信があるものが果敢に勇猛に向かわぬよう、それは学校でも教えていないことである。
だから分からない。瘴気をたどっていこうにも、その腐臭が鼻をかすめない。
頭を抱えていたところで、ひゅん、と空気を斬り裂く音と共に矢が足元に突き刺さった。
見上げれば、どうやって登ったのか――街を包み込む高い壁のヘリに、パスカルの姿があった。
「海沿いに歩いて東に行け! 迷わず行けよ、行けばわかるさ!」
「東ってどっち!?」
「……海に向かって左手の方向だ。方向音痴も大概にしとけよ!」
「ああ、サンキュ!」
全く、せっかく格好つけて行ったのに……。
ジャンは既にいなくなったパスカルに軽く手を振ってから、街壁をぐるりとまわって海の方向へと歩き出した。