2.事前準備
ひとまず修道院で見知った修道士や、そこで働くサニーに感謝と挨拶をしてから退院を果たしたジャンは、居候先に戻る前に城へと向かった。
だが目的の人物は、城を目前とする手前の往来に現れた。
「どうした、死にそうな顔をしているな。まだ、万全じゃないのか?」
意識を取り戻したのは昨日。その情報は既に彼らに届いているのだろう。
――憲兵隊総隊長にして軍部副大臣。
その禿頭と屈強な鋼の肉体が特徴的な男、エミリオは冗談っぽく笑ってジャンを見ていた。
もっとも今回の騎士の選定に関わっていて、かつその実力は誰もが認める。
この国の最高戦力である特攻隊長に匹敵すると言われているその力は、ゆえに信頼するに値する。かといって血生臭く熱っぽい男ではなく、少なくとも冷静な者であった。
「そんなもんですね……」
「話は既に聞いているか? 最終選定は合格の結果に落ち着いた」
事もなげに彼はそう告げ、
「入団式は今日から六日後の四月八日。特に服装に指定はない。午前十時までに城に集合だ」
――四月八日。
その月日に、心臓が力強く高鳴った。
ああ、そうか。”その日”だったのか。
まるでお膳立てをしていたような日程だ。あながち、おれが、おれだけが生き残っていたのがただの偶然などではないような――。
「騎士には宿舎も用意されているが、お前はどうする――」
「あの」
食い気味に、言葉を遮るようにしてジャンは言った。
「おれ、夢をみたんです……」
どう言えば彼に信じてもらえるのか。どう伝えればこの危険性が伝わるのか。
少なくともそういった切り出し方をすれば、ただの談笑か何かかと受け取られてしまうだろうが、ほんの僅かな正常な思考で導けた伝え方――つまりあるがまま、己が感じたままを口にすることに決めた。
伝わるだろうか、あの悪夢が。
まあいい、これが終われば、最後の望みである居候先のお手伝いさんに相談すれば良い。彼ならば、この事実に勘付けるはずなのだから。
「……夢か」
一通りを話し終わると、エミリオはばかにするわけでもなく、ただそう呟いた。そこにどんな感情が、心情がこもっているのかはわからないが、少なくともそれを軽く流すような、あるいはその場しのぎの言葉ではないような気がした。
「お前はそれが現実で起きると確信しているのか?」
――先日聞こえたあの声は、決して幻聴やまやかしなどではなかった。
「そう信じたいんだろう。いつか起こると、いつ起こるかわからぬ不穏に恐怖するより、既にその日時が決定している方が決意のしがいもある。騎士になるにあたっての不安や緊張が、潜在下でそういう夢を見させたんだろう。専門家じゃないから、あまり適当なことも言えねえがな」
だがこの男は信じない。
無駄に食い下がっても、それが効果を及ぼすとは思えない。
ジャンは聞き分けが良いように頷いて、
「そうなのかもしれません」
彼に軽く会釈をしてから、その場を離れた。
――青年の、どこか雰囲気が変わったような背を見送りながら、エミリオは嘆息した。
そしてまた、精神的に不安定であるように見えた。
だがそれは問題ない。というか、どうでもいい。度外視しても構わぬ範疇だ。
重要なのは彼の言葉。みた夢の、その内容。
彼が本来、近日中に異界とこの世界とを隔てる門とも鉄扉とも言えるそれが開くかもしれない――その情報を知り得るわけがない。
その世界とは以前争い、和睦を結んだ関係だ。現在では定期的な交流を行なっているが……その派遣した一人の男が、不穏な空気を察知した。
大方、その条約とも言えぬ約束事を反故にするつもりだったのだろうが――。
「夢、か」
夢で済めばいいのだが。
戦力的には、確実に劣っている。
ひとまず報告しておくべきだろう。さすがのジャンも、実際に何かが起こるまで行動はしてくれないだろうし、また、されても困るのだが。
「圧倒的な軍力を持つ敵国との和睦……か」
連中がその気になればいつでもこの世界は陥落できるだろう。
こちらが提供しているのは文化と技術。だがそれを”提供”されず、”奪い取ることなど容易なハズなのだ。
だからそもそも、彼らが現れた一五○年前にそうしなかったのが、話に聞いてきただけのエミリオには、未だ理解出来ない。
「これまでこの世界を、観測してきたのか」
害なす存在か、それ以下のどうでもいい世界か……あるいは純粋に利害を一致できる関係となれるか。
前者では確実にない。二番目であれば、単純に領土を広げるため、三番となればやはり”奪い取る”ものとその算段が整った、ということになる。
そもそもこの世界は、彼らの出現を機に害しか受けていない。与えられたものといえば魔術の根源と異種族、そして世界を構成する一分となった異人種だ。
――奴らがいなかったら、どんな世界になっていただろうか。
少なくとも、未だに剣や槍で効率悪く敵を蹴散らす戦争はなくなっていただろう。科学が進展したディアナ大陸を見ればよくわかる。
「もっとも」
言っても仕方のない話だが。
エミリオは踵を返し、城へと戻る。今日は非番だから適当に歩こうと思ったが――忙しくなりそうだ。
微笑みに歪んだ口元を引き締め直して、最悪の事態――連中との戦闘が起こった場合の作戦を考えながら、歩き出した。
豪邸に戻ると、一人のお手伝いさんが出迎えてくれた。
透き通るような白い肌に、タコの足を頭から生やすようにする彼女は、気軽いキャミソールにショートパンツ姿だった。相変わらずの格好だが、やはりどうにも、仕事をしているような人間には見えない。
どちらかといえば小金持ちの娘のような格好だ。
「お帰りなさい。そして、退院おめでとう!」
「ああ、ただいま」
「今、スクィドがお昼の準備してるけど、食べるでしょう?」
わざとらしく深くお辞儀をして――たわんだ緩い胸元をむき出しにする。豊満なバストはそれだけで溢れ出そうなほど顔を覗かせるが、
「ええ、頼みます。ちょっと部屋を片付けてくるんで、できたら呼んでもらえます?」
今の精神状態では、決して揺らげない。
彼女、オクトの返事も聞かずにジャンは脇を避けて階段を上る。その背を見送りながら彼女は頬を膨らませてむくれるが――どうにも、その妙な静けさが気になった。
まるで決意が固い者のような……死を覚悟した戦士のような顔が、網膜に焼き付いていた。
――片付ける、といっても大した荷物があるわけじゃなかった。
書籍にしたって養成学校で使用する教科書を幾冊か。この街で見知った本屋で購入した小説や魔術の専門書籍を幾冊か。友人から貰った、公開されていない新魔術の魔術書を一冊。
そして巨岩から切り抜いたような身の丈の無骨な大剣が一振り。
「にゃあ」
と声を上げるのは、彼の私室の寝台で大きなあくびをする――女性。
「おっひさー」
眩しいくらいの金髪を振り乱しながら立ち上がり、大きな猫の手を振り上げて手を振ってみせる。
「そういや、そうだな。最近はあんま話す時間もなかったし」
「ったく、もう。かーなーり、いや、けっこう寂しかったんだぞ」
喉元の黒い革のチョーカーに触れながら、寝台から飛び降りる。シャツの下の、何かの冗談かのように豊かな胸が暴れるが、これみよがし、というわけではない。
元は猫である彼女ら獣人の人化には、彼自身未だやや納得が行かない。ヒトの形になるのはいいのだが――その体型やら顔の作りやらは、やはり生まれ持っての個性なのか、それとも自在に変えられるのか。
ともあれ猫は猫であるほうが好きなのだが……。
背中から元気よく抱きついてくるタマに苦笑しながら、帯剣する長剣を机の上に置き、読みかけの魔術書をその上に。
「いい加減離してくれ」
肩口に顔を押し付けるタマを優しく引き剥がそうとするが、彼女の抵抗は強い。
自主的な解放を望んだが、
「いやよ。まだプレゼントのお礼も言ってないし」
「関係ねーだろ」
引きずりながら、帯剣用の背負うベルトを引き出しから取り出し、腰のベルトもついでに外しておく。
準備は概ね完了したから、たまには構ってやろうかと嘆息した途端。
「ねえジャン」
彼女は飛び退くように彼から離れると、そう口を開いた。
「臭い」
「……そりゃあ、まともに身体も洗ってないからな」
昨日は念のために入浴を控えさせられたし、それ以前はそもそも意識がなかった。意識を失う前は死ぬほどの戦いをしていたから、仕方が無いことだろう。
「ごはんまでにまだ時間があるし、お風呂行ってくれば?」
「ああ、そうしようかな」
頷き、扉の近くにある備え付けのクローゼットから数着しかない着替えを用意する。面倒だからブーツはここで脱いでおこう。
そうして扉を開けたのは、タマだった。
「一緒に入る?」
「無理すんなよ。風呂なんて大嫌いだろ」
「だって寒いんだもん。それに水は飲むものよ――でも、否定しないってことは?」
「無理強いはしない」
得意げに鼻を鳴らすジャンに、タマはうんざりしたように肩をすくめた。
本気で言っていないとわかっていてそう返すのだ。
からかいがいのない男。前まではどこか抜けていたけど、今はそれすらもなく、つまらなくなった。
でも、
「プレゼントのお礼、まだだし」
いたずらっぽく頬を緩めて腕に抱きつくと、さしものジャンも驚いたように目を剥いて、徐々に頬を紅潮させていった。
――ジャンはジャンだ。取り繕ってるだけで、何かが決定的に変わっているわけではない。
素手で撫でるように背中を洗ってもらいながら、その無駄に広大で荘厳な風呂場でジャンは考えていた。
なぜ手が肉球からヒトのものにかわってしまったのか、だとか、あどけない少女のような性格に反比例するようにスタイルが抜群でどうしようのっぴきならないことになってしまった――だとか。
頬が紅潮するのは、頭が沸騰するのはこの蒸し暑い風呂場のせいなのだと誰にとも無く言い訳をしながら、
「なあ、タマ」
まずは彼女に打ち明けた。
「ん、なに?」
それほど背中を洗うのが大変なのか、やや呼吸を乱しながら返事をした。
「おれは明日、引越しするんだ。なんでも騎士には宿舎があるらしくてな、いつまでも世話になっちゃいられねえし――」
「なんで?」
食い気味に、彼女は言葉を遮った。
「なんでって、だから、居候だし、迷惑もかけられないからって」
「迷惑って……誰が言ったの?」
誰も言っていない。
そもそも引っ越す予定などもない。
既に居候というのは形骸化し、ジャンとサニーは家族のように迎えられているし、事実彼女らもそう思っているはずだ。どれほど鈍感なものでもそれくらいはわかるし、そもそもジャンは鈍感ではなかった。
またゆえに、せめてけじめを付けてこの家を出ていくなんてことはかえって彼女らに対して失礼に当たるし、引き止めるだろう……と思うのは、さすがに思い上がりだろうか。
「もう家族じゃないのよ。なんでそうやって、いつも勝手に考えるの? そうして来たから? そういう生き方だから?」
――確信めいた言葉に、思わず熱湯を飲み込んだように胸が高鳴った。
確かに、いつもそういう生き方だった。
自分がやらなければ物事は動かない。自分が戦わねば誰も守ってくれない。
だから強くなろうと思ってきたし、実際にある程度は強くなってやった。
「そうなんだろうな」
彼女が出来る限りの事をやって彼を止めようとしても、それは成功しない。
なぜならば局所的に考えれば、彼の行動は彼女のためであるからだ。
大きく見ればこの街の、領土のため。
「……もう決めたことだから、変えられないの?」
「ああ。だがサニーは残るぞ。あいつは多分、ここにずっと居てやれるだろうな」
「なら、あたしも決めた」
言うやいなや、彼女は背中から優しくジャンを抱擁する。脇を通して胸に手を流した。
甘い吐息が耳に触れる。柔らかで、どうしようもなく淫靡な双丘が押し付けられた。
「もうあたしはジャンのペットだから、ジャンと一緒に行くよ。いいよね?」
「おれのペットって、なあ……ここの家の、だろ?」
「あたしは拾われただけだし。オクトやスクィドと一緒」
「拾われたんならこの家にいるべきだ。恩義とか、そんなのあるだろ?」
「もう……ジャンは考え方が古いのよ。それにテポンも、好きにしていいって言ってるし」
本来ならば断ることこそ失礼な申し出だ。
だがどうあれ、彼女の言葉を取り消させるのは難しそうだし……このままこうしているのも、のぼせてしまいそうだ。
しかし――そんな生活も、いいものだろうか。
「ねえ、ダメ?」
「そうだな」
わざとらしく、思惟するように間を置いて、
「ったく、しょうがない――」
「嫌なのだろう」
不意に。
それは唐突に、現れた。
視界を覆い尽くす湯気が黒く染まる。
途端に鼻腔に突き刺さる凄まじい腐臭が、場を覆いつくした。
だがタマは微動だにしない。
その声は、きいたことのない言葉を継いだ。
「いつまでも動かぬ愚図が嫌いだ」
悪意のこもった声で、それは言った。
「いつまでも弱い、雑魚が嫌いだ」
恨みがましいような声で、言葉を紡いだ。
「だから己が動かねばならぬ。ゆえに己が強くならねばならぬ」
男とも、女ともわからない。
影は影のまま、空間の空気を響かせる。
「メッキを剥がせ。いつまでこの世界で、この世界だからこそ違和感でしかないぬるま湯に浸るつもりだ?」
「――誰だ、てめえは……」
「門扉の出現が世界を狂わせた。いや、果たして狂ったのかは定かではないが」
会話が成り立たない。
そして共に動かぬタマに不安が募る。
おそらく相手に確かな身体はないのだろう。というならば、思念体か、あるいは魔術によって声のみを伝えているのか。
「我々の出現はどう出るか、貴君は見たのだろう。我々が見せたのだ」
「おれに、何をさせたいんだっ!?」
全裸で叫ぶ。それがどう見ても滑稽であったはずなのに、ジャンは猛り狂っていた。
ふざけるな。ぬるま湯だと? そのぬるま湯を冷水に変えようとしているのはどこのどいつだ。
クソ野郎が、てめえのものさしで人様を勝手に測りやがって。
「なんにせよ、待ち侘びている」
言いたいことがありすぎる。
聞きたいことがありすぎるのに、その影は瞬く間に霧散した。
それにつられるように、ジャンはその意識を薄れさせて――。
再び動きを取り戻したタマは、突然脱力して姿勢を崩すジャンと共に、濡れたタイルの上に倒れこんだ。