第一話 『悪夢』
異界へと繋がる門が口を開け、一人の男が現れたのは――今から僅か二十八時間前の事だった。
その男はおよそ考えられる限りの破滅を巻き起こし、アレスハイム領土は壊滅。最大戦力が現存する城下町さえも幾度ともなく爆撃に飲み込まれており、戦局は既に極限を迎えていた。
「嘘だ……こんなの、嘘だ――」
青年の精神は、そのおよそ現実離れした現実を前にして半ば崩壊しかけていた。
つい先日己を半殺しにしてくれた鬼族の娘は、男から放たれた火球に飲まれた。
今まで見守ってくれていたケンタウロスの女性は、身を呈して青年を庇って首を飛ばした。
見知った仲間たち、友人の死体がそこら中に転げ落ちている。見知らぬ、だが奮闘した憲兵が山となっていた。
硝煙が鼻につく。
地獄の業火が身体に染み付き、全てが燃やし尽くされる景色に、頭がおかしくなりそうだった。
否、実際問題として、彼の精神は既に狂っているのかもしれない。
まともな頭で、その場に立っていられるはずがないのだから。
「何が嘘、なのかね」
轟と唸る炎の中、火が弾ける喧騒の中、だが男の声は、透き通るように響いてきた。
――周囲では、彼の手となり足となり動き回る連中。およそヒトの様相を呈していたが、その戦闘能力は尋常ではない。
勝てる勝てない以前に、まず立ち向かうことを愚かとするような敵。
だが何よりも――。
「どうした、青年?」
全身が慄える。
確かに彼の部下たる男たちがこの街を、城を落とした。真っ先に爆撃を受けた城に、もはや王は生きてはいまい。
だが何よりも、その元凶が目の前の男であるのは、初めて彼を見た青年でも確信できた。
ただ一言発するだけで、どこぞの鬼が放つ魔法の重力操作よりも凄まじい重圧が降り掛かってくる。
今すぐ跪いて屈したくなる。
生きていくためにはなんでもする――普通ならばそう思うだろうが、彼は違った。
この男と闘うくらいなら、時間を共に過ごすくらいなら死んだほうがまだ遥かにマシだ。
地獄を創りだした男は、この地獄よりも凄まじい憎悪の権化であるような威圧を孕んでいた。
「……くっ、ははは、愛いな。小僧」
決して下ろされぬまま構えられる剣は小刻みに震え、全身はどうしようもなく震えて仕方がない。
自分とて、なぜこの体勢を維持できているのか、なぜそこまでして維持しているのか分からない。
「貴君は殺されていない。これは偶然だが、故に必然だと言える。そういった運命なのだろう――そして奇しくも、この街で唯一生き残っている者は貴君だけだ」
「はぁっ……だ、だから――なんだって、言うんだ?」
勢い良く呼気をひとつ。己を奮い立たせるように、言葉を紡ぐ。
「何だと言われても困る話だが……この国の代表者として、貴君に選択肢をくれてやりたいと思うのだ」
――遥か南方、大昔に出現した異界とこの世界とを繋げる門から現れた男は、だがかつてこの世界に侵攻した知能なき獣とは異なるように、提案していた。
「我々が憎いか?」
これほどまでの悪夢を創りだされて――。
男が嗤う。
鋭い犬歯が唇から剥かれ、だがどこか気品のある笑いが響きだした。
彼はヒトの形をしているが、されどその男を構成するものはヒトでも、ましてや獣でもない。
故に得体が知れない。
逃げろと警鐘を打ち鳴らす本能を理性で黙らせ、青年は黙した。
「我々が羨ましいか?」
これほどまでの力を持っていて――。
どこかでまた、爆発音が鳴り響く。爆砕音が大地を揺らす。爆撃音がことごとくをぶち壊した。
「だから貴君にくれてやろう。我らが軍門に下り、圧倒的な力を手にするか。あるいは、この領土の全てを糧にし、それでも敵わぬとわかっていながら我らと対峙するか」
男が問う。
さあどうする?
およそ口をきくことすら恐れ多い男が、さらに選択肢を強いる。
青年は選ばねばならない。
つまるところ、生か死かの汚れのない二択。
「お、おれは――」
四月八日。
青年が幼少期からの夢が叶おうとしていた記念すべき日は――目の前の悪魔によって、夢もろとも全てを奪われる事となっていた。
「――はぁっ!」
がばっと布団から飛び起きて、ジャン・スティールはそのまま寝台から転げ落ちた。
体中が打ち付けられて酷く痛い。
鼓動がやかましいくらい高鳴っていて、呼吸が激しい運動の直後のように乱れている。発汗のせいで床がすべり、ジャンは立ち上がろうとした時にまたド派手にすっ転んで、盛大に衝突音を掻き鳴らした。
「夢……か?」
恐る恐る広い私室を横切って、バルコニーへと向かう。
空は澄んだ青一色で雲ひとつ無く、そこから見える路上には子供たちが元気そうに走り回っている。
――アレスハイム王国は健在だ。
ゆえに、即座に”アレ”は単なる悪夢だったと言える。
単なる、とは言うが、酷く縁起の悪いものだったが。
「まったく、最悪だ」
――居候としてここに住むこと一年近くになるが、こんな夢は初めてだった。
「なァにが、最悪なの?」
声は後ろから聞こえてきた。
寝台の上には眠そうに大きくあくびをする猫が気持ちよさそうに伸びをしていた。
「ああ、タマ。実は――」
微笑みながら、人語を操る猫へと説明する。
じつはこんな夢を見た。最悪だった。ったく、タマでいいから慰めてくれよ、と軽口を叩くつもりだった。彼の日常はそうやって再び始まる筈だった。
――猫の首がとぶ。
切断面から、噴水のように真紅の液体がびゅうびゅうと音を立てて吹き出し、手先がぴくぴくと痙攣する。
「――これこそが、悪夢だ」
悪魔が微笑みながら肩を叩いた。
「あ、あ、あ」
開け放したバルコニーから侵入した男。
つい先ほど夢で見た悪魔。
彼は飽くまでヒトのようなナリをして――。
世界が歪む。
景色が赤く染まり始めるのは、決して眼球の毛細血管が破裂したからではないだろう。
酷く熱い。
濃密な血の臭いが嗅覚を麻痺させた。
「さあ、貴君の選択。私が聞こう」
「う、あ、ああ……お、おれは――」
――さっきの悪夢ではその選択を決められたのか、否か。
これが夢なのか、否か。
そして今、殆ど脊椎反射的に口にした答えは果たして正しいのか、否か。
男の不敵な微笑が、全身をめぐる血液を凝固させた。
次の瞬間、青年は再び戦火の中にいた。
だがそれは先ほどとは状況が変わり――無数の男たちによる、一方的な略奪であり、惨殺。
かつて己が過去にされたことの再現――と言うよりは、その過去を再び見せていた。
見覚えのある懐かしい顔が恐怖の色に染まって散っていく。まだ幼い子供たちが血祭りに上げられていく。
自宅が崩れ、隣家も巻き込まれた。
その中心に立つ己に誰もが気づかぬように通り過ぎ――眼の前の男だけは、確かに彼を捉えていた。
否、彼は青年しか見ていなかった。
取るに足らぬ、戦火の中で唯一生きていただけという青年を。偶然死ねなかった男を、全てを、この世界の不条理さえも覆せるだろう男は彼を見ていた。
何がおかしいのか、何がそそられたのか。
二つの選択肢のうち、どちらかを選んだことが――あるいはどちらも選ばなかったことが、楽しいのか。
どちらにせよ今の彼には、ついさっきとも感じられる選択の結果の記憶はないし、目の前の男と出会うのも”初めて”だった。
まるでまた夢を見ているかのようで。
だけど記憶だけはまだ真新しくて。
男は再三に渡る選択の説明を義務のように行い、再び青年に強いた。
生か死か。
ただの二択は、だが果てしなく極端で――。
「おれは」
迷わない。
畏れない。
理由は分からないが、すでにこの状況を知っている。
男が創りだした戦火ではない、という事実が。そしてこの既知が、彼の肝を据えさせた。
「お前を殺す」
立ち向かうだと? 屈服するだと?
そんなもの、愚問だ。
立ち向かうのは大前提。屈服など論外だ。
彼はまるで自分が負けぬと信じているし、事実、今青年が立ち向かっても到底勝てる相手ではない。
ならば度肝を抜かせてやろう。己の血の色すら知らぬような男を、血の色に染めてやろう。
クソッタレが、ふざけるな。
おれの街を焼き尽くした以上、ただで帰れると思うなよ。
――慄える声は確かに言葉になっていたのか。
いや、そもそもそれは果たして声として口から発されていたのかすら定かではない。
だが男は驚いたように目をむいて、しかし途端に、くつくつと肩を小さく震わせた。
「それが果たして無知ゆえなのか。無感だからなのか。あるいは本当に心から、このわたしを殺せると信じているからなのか」
如何にも楽しそうに髪を掻き上げ、男は言った。
「三度に渡る問いに、三度とも同じ答えを紡ぐとは。さらに最後は記憶など残さなかったはずなのに。貴君のトラウマの体現すらしたのに、だ。正直わたしは驚いている」
「あんたがどう大物だろうとおれは知らない。あんたはおれにとっての仇であり、敵だ。だから殺す。愚かだろうな、あんたにしてみれば」
「そうとは思わんよ。だが特別、賢しいことだとも思わんよ。普通だろう。狂っている中で唯一縋れるものは、わたししか無いのだからな」
だから、
「たとえば貴君が私を打倒できたとして」
仮に、
「貴君が全てを犠牲に勝てたとして」
「おれがその後」
「どうするのか。わたしは問おうと思う」
青年の実力と運が相まって男を斃せたとして、その後の生き様はどうするのか。
「私は死を厭わない。だがせめて殺される相手くらいは選びたい。取るに足らぬ者に殺されるとなると、いささか死にきれんのでな」
「あんたの世界にある魔術、魔法……それに準ずる力を調べて、利用して、あんたがしでかしたことを元に戻す」
「どうやって」
「異世界への門を開くしかないだろうが」
白々しく訊いてくる男へと、だが青年は声を荒げずに答えてみせた。
「それが、たとえ命を糧にする事になろうとも、か?」
「そりゃ、冷静になって命惜しさに何もしないかもしれないな。だがよ、察せよ。阿呆じゃないんだろ? あんたにこんな挑発してる時点で、本当に命を惜しがるような奴に見えるかよ? 馬鹿かキチだろうが」
「ふふ、ははははは――なるほど、な。あながち、ただの偶然で生き残ったわけじゃないようだ」
力は凡人よりやや上。思考はすでにまともでないから図れないが――この世界の無数の実力者にも劣る青年に、目がとまった理由。
彼はそれを、そこはかとなく理解した。
「なるほど。なるほど。相分かった。中々面白い世界のようだな、中々楽しそうな者のようだな」
楽しげに、歌うように男は言って、
「いずれ会う時が来るだろう。今度は、我々の意に沿うような演出を頼むよ」
踵を返し、崩壊した村の中に男は姿を消した。
ただ一人残された青年は、ぷつりと緊張の糸を切ったように意識を消失させて――。
「……こ、ここは」
他者の声なのかと錯覚するような掠れた声が、自分の口から紡がれた。
腹部に重みを感じる。
体を包む暖かさがある。
眼の前には木目調の小奇麗な天井があって、すぐ近くの壁に埋め込まれている窓からは、眩しい日差しが差し込んでいた。鋭くも柔らかい、朝の光だ。
「きゃあっ?!」
身体を起こせば、腹に寄りかかっていた何かが崩れ、ごとりと音を立てて床に衝突した。
だが心配する間もなくそれは飛び起き、驚いたような顔でジャン・スティールを凝視し――。
「……やっと起きた」
少女はどうしようもなくだらしない程に顔を弛緩させて、彼の胸に飛び込んだ。
サニー・ベルガモットは鋭利な刃物のように伸びる長い耳をぴんと立てて、声を出すこと無く、静かに涙で胸を濡らしていた。
「もう、寝坊だよ」
「ああ、悪かった」
確かな存在。
サニーの頭を撫でながら、これまでずっと看病をしてくれていた彼女をねぎらうように声をかけた。
「ありがとな、サニー。また迷惑をかけちまった」
これが仮にまた悪夢であろうと、関係ない。
もしそうなら逃げ場はないし、だが違うならそれでいい。
もはやなるようになれ、であるのだが、そのどちらかが確定した時点で徹底的にあがいてやる。
恐怖がないのは、既に麻痺しているからなのだろうか。それともどこかが狂ってしまったからなのだろうか。
なにはともあれ、朝はまたやってきたし――。
四月一日。
ジャン・スティールの、新たな生活が始まった。