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潜入

 受刑者の朝は早い。

 午前六時三○分――。

 まず牢獄が無数に並ぶ区画にけたたましいベルが鳴り響いて、共にそのベルの音が鉄格子の南京錠に刻まれた『施錠』の魔術を一時的に解除し、扉を解放する。いわゆる開房だ。

 その騒然とする目覚ましと共に、ニ○○人からなる懲役受刑者は、未だ夢心地――といった穏やかな顔ではなく、まだこの『刑務所』に入って日が浅い者は地獄を見るような、既に慣れているものは気怠げな格好で自身の寝床となる牢獄の前に並ぶ。基本的にその部屋は二人一組で使用するものであり、だからといって二段ベッドのどちらを使うか、によって優劣が決まるわけでもなかった。

 ここで未だ夢の中に入れば、筋肉の鎧に身を包んだ屈強な刑務官が使い古され血が滲んだ警棒を手に、その牢屋へと駆け込んできて、悪夢さながら、ベルの騒音よりも激しくたたき起こしてくれる。その際の”不慮の事故”で怪我をしてしまっても、七時三○分から開始される作業への配慮は一切行われない。それは”自業自得”と判断され、刑務官の心証を著しく悪化させるからだ。

 ――点呼が終了し、その後三○分かけて数人の刑務官が囚人を前にして居房の点検を行う。鉄格子が致命的な、あるいは局所的な錆びかた、ないし破損していないか。違法とされている道具などが隠されていないか。そして典型的に、穴が開いていないか、など。囚人の趣味によって、入手が許可された女性の色っぽいポスターだとか雑誌、あるいは小説など、居房によってその空気や内装が異なるが、一つの部屋でも長くとも五分はかからない。

 それから受刑者は、みな一列になって食堂へと向かう。

 長机がところ狭しと並んだ大広間に、一列になってカウンターに並ぶ。食堂は据置きされている配膳台の向こう側に調理場があり、そこでは『調理担当』の受刑者が朝昼晩に渡って総勢五○○名分の食事を用意する事となっている。彼らは極めて模範的な囚人と認められた者であり、余った時間は読書なり運動なり、自由に時間を使うことが許されていた。

 順番が来ると、配膳台に山積みされているいくつか窪みがあるトレーを取り、フォークを乗せる。流れに則って進んでいけば、ロールパンを二つにバターを一欠けら渡される。ついでコーンフレークを乗せられ、飲み物は自由に持っていける。種類はミルクにコーヒー、紅茶とオレンジジュースだ。

 食事が終われば、それぞれ持ち場に向かって作業着に着替える。

 およそ七時三○分に開始される作業に、それぞれ持ち場について準備を開始。始業のベルと共に作業が開始する。

 洗濯や清掃、畑仕事や離れにある工場での物作り。そして唯一ある図書館の管理。

 一度十時に十五分の休憩を挟み、十一時五○分から四○分間の昼休憩。畑仕事など、施設から外に出る者には調理担当者が運んできた弁当を、それ以外の者は食堂にて昼食をとる。昼には肉を挟んだサンドイッチが出る。

 十二時三○分から作業を再開し、十六時三○分に終了。

 その後夕食に移り、朝同様に全員が食堂に集合する。

 還房後に刑務官がしっかりと施錠がなされているか確認して周り、一九時まで余暇。その後仮就寝となり、ニ一時に消灯、就寝。

 土日の休日には時間がやや前後し、週に三度ある入浴は夕食の後に差し込まれる形となる。

 ――また、禁錮刑や死刑などが告げられたものは、懲役受刑者の居房の地下にある独房にて、その多くの時間、あるいは余生を過ごすことになっていた。


 しかし、模範囚とは程遠い印象のジャン・スティールは――その早朝のベルよりも早く、悪魔の囁き……というよりは、はあはあ、という醜悪な吐息によって目を覚ますのがお決まりとなっていた。

「息がくせえって、おとといから言ってんだろうがっ!」

 勝手に二段ベッドの上部に登ってくる筋骨が隆々とした角刈りの男の顔面に、力いっぱい肘を叩きこむ。男はどこか嬉しげな悲鳴と共にはしごから転げ落ち、そしてびたん、と地面に張り付くように叩きつけられた。

「つれないこと言わないでよスーちゃん?」

「てめえいい加減にしろよ、これ以上おれの安眠を妨害するようならな、マジで再起不能にするぞ」

「そんなぁ、あたしってばただちょっとだけケツを借りようとしただけなのに」

「なんだそんな事かちゃんと返せよ」

「うん、二分で終わる」

 軟膏の入った円筒状のケースを掲げて、男は痛みなど知らぬようににこやかに笑った。

 それに背筋が凍るような気配を覚えて――ジャンはベッドから飛び降りて、男の分厚い腹筋の上に着地する。鍛えに鍛えて筋肉が目立ち始めたジャンなど足元に及ばぬような男は、まるで肉厚のゴムを踏みしめたような感触だけを与えて、くふう、と息を吐いて身体をくの字に折り曲げた。

「貸さねーよ! おれの純潔まで返せんのか? ああ!?」

「責任は取る」

「じゃあお前の被害にあって人工肛門になった三人には責任を取ってんのか?」

「いやあ、あれは単なる性欲のはけ口だし?」

 鉄格子を背にしてジャンが立ち直れば、男はその一回りほど大きな巨躯で両手を広げて、野生動物が威嚇するようにその身をさらに大きく見せていた。

 これ以上騒げば刑務官が来るだろう。そうなれば、非常に面倒なことになる。

 ジャンは苛立たしげに頭を掻きむしった。

「まったく、なんでこんなことに――」

 今回の事のきっかけは、およそ一週間前の出来事だった。



「職業体験……ですか?」

 アレスハイム城、その王座の間に呼ばれたジャン・スティールは、王の言葉を反芻するように繰り返した。

 レヒト・アレスは頷き、その蓄えに蓄えた白い髭を撫でるような所作と共に言葉を続けた。

「一週間前の『展示会・見本市爆破事件』での働きを正当に評価して、貴君ジャン・スティールを例外的に騎士へと迎え入れようという意見が多く出た。が、誠に残念なことに貴君は、大枚叩いて入学した学校にろくに通っていないと来ている――もっとも、これはわしの不手際が原因だが――そこを配慮して、今月から無期限の職業体験を行い、そこでの評価で入団を判断しようと思う」

 ――諦めた道だった。

 騎士というのは、魔法を持たなければ決して就くことの出来ぬ職業であった。だからこそ、夢を見てこの城下町へ来たのだが、魔法を持たぬことが発覚し、絶望した。

 しかし、新たに道を歩み出そうとした所で、これだ。

 ふざけているのだろうか。

 高揚する心が、思っても居ない言葉を生み出した。

 だが、本当にそれで良いのだろうか。喪われた道が切り開かれたのは喜ぶべき事柄だが、それはあまりにも都合がよすぎる話なのではないか?

 そう思ったが、この話は既にかなり前の段階から考えられていたのだろう。

 まず不自然なまでの、国政で行われていたのではないかと疑うほどの、個人に対する集中的な訓練。それにはわざわざ他国から呼んだ傭兵団の隊長に加え、警ら兵隊長や騎士団の特攻隊長なども勢ぞろいした。

 そして次に、先週にあった武具メーカーの展示会・見本市への視察。

 後者の時点では、もはやこれは確定的だったのではないだろうか。致命的なまでにヘタを打たなければ、今回のような呼び出しはあったのではないだろうか。

 考えても無駄なことだが……いやしかし。

 この感情の昂りは、相手を負の感情で疑わねば収まる所を知らぬようだ。

 釣り上がりそうになる頬肉を気力で抑えつけて、ジャンは頷いた。

「正直な所、それほど目立った功績を残した覚えはないのですが」

「今回のことの対応は、貴君を始めとした有志が動いてくれた。巻き込まれたわけだが、そのきっかけは貴君が妙なことに絡まれたから致し方なく……と、多くのものから聞いたのだが、間違いだったかな?」

「つまり……おれが居なかったら、誰も動かなかった、と?」

「動いたには動いただろうが、最善の手段は取れなかっただろう。もっとも、今回とて最悪であり最善であったのだから……」

 レヒトは言葉を濁すように、台詞を尻すぼみさせていって咳払いをして言葉を止めた。

「ともあれ、貴君がどう疑おうと決定したものは決定してしまったのだ。それを受けるか否か、出来れば早い回答が欲しいのだが――」

「ぜっ」

 言葉を出そうとして、口の中にあふれていた唾液が垂れそうになる。

 ジャンは興奮を飲み下すようにツバを飲んで、喉を鳴らし、片膝をついたまま、顔をあげた。

 その顔はさぞや輝きに満ちていたのだろう、レヒトは、まるで玩具を買い与えてやった子供の予想通りの反応を見るように、微笑んでいた。

「是非、お願いします。職業体験でも、なんでもやります! 騎士になれるなら、おれは……っ!」

「ふむ、そこまで我が国の騎士になりたいと望んでくれているのならば、正直素直に嬉しいと思う。――さっそくだが、ならばまずはじめの職業体験だ」

 感慨に浸る間も無く、レヒトが指を鳴らせば近衛兵の一人が一枚の紙切れを懐から取り出し、王へと差し出した。

 ――この幾度か続く職業体験をそつなくこなせば、いつか騎士になれる。逆を返せば、ミスばかりしていれば騎士になる夢が再び断たれるということだ。

 もしかすると、この職業体験の状態で都合よく面倒な仕事を押し付けられるかもしれない。

 だがそれでも、もしそうなったならば最早騎士と判断しても良いのではないか……今は、どうあってもポジティブにしか考えられずに、レヒトの言葉を今か今かと待っていた。

 王は一つ咳払いをしてから、口を開く。

「城下町より東に進んだ所にある『シサイド刑務所』に、危険な薬物が出回っているという話だ。ここ二週間ばかり、第二騎士団が捜索を行なっているが、売人の足取りはつかめていない。そこで、貴君には内部から流通経路を見つけて欲しいという事だ。ちなみに現在までで、薬物過剰摂取オーバードースによって死亡した受刑者が二名出ている――」

 その後、幾度ともなく刑務官が総出で抜き打ちで居房の点検や所持品のチェックなどを行なってきたが、その成果は皆無と言ってもいいくらいであるらしい。

 故に刑務官からの流通を疑っては見たが、数年前の大規模な人事異動によって総入れ替えされて以降、イレギュラーな大仕事に参加した受刑者への酒やタバコの差し入れすら行われていない。

 加えて不定期に行われている薬物チェックも、受刑者全員がスルーしているということだから、おそらくは違法薬物などではなく、新手の脱法ドラッグか何かなのだろう。

 そこで、ジャンには直接刑務所に受刑者として侵入し、あらゆる受刑者から情報を聞き出して、恐らく居るだろう『調達屋』と接触する。これが最初の目的であり、最終的には経路を見つけるというものだ。

 情報の漏洩や、刑務官による処罰の躊躇、あるいは度合いの低減によってあからさまな”待遇の差”が目に見えぬように、刑務所側にはその作戦内容を告げずに置き――背中や肘の魔方陣は、意図的に傷つけられぬように、人工皮膚によってカバー。が、どちらにせよ、刑務所自体に施されている魔術制限によって、魔術自体が発動しないようになっている。

「加えて、魔法を持つ者には特殊な首輪が付けられていてな。魔法が発動すると自動的に首輪が締まり、骨をへし折るようになっている。だから事実上、魔法さえも封じられているということだ」

 なるほど、しっかりと考えられている。

 体術ならば、警ら兵――つまり警察と軍の両方を兼ねる憲兵――の隊長を務め、さらに軍部で副大臣の仕事をこなすエミリオからみっちりと教え込まれているために、下手な素人や軍人さえも、素手で対処できるだろう。

 相手が武器さえ使ってこなければ、の前提だが、刑務所であるかぎりその心配は無用である。

 だが、それよりも気になったのが――。

「いやしかし――受刑者は、職業ではないんじゃないですか?」

 話の腰を折られて、レヒトは途端に不機嫌に舌を鳴らした。

「やかましい、『潜入捜査官』という立派な職業と考えられるだろう。ともかく、数日後に遣いの者を寄越す。それまでに準備を済ましておけ――」



 その後、人工皮膚の施術やら、当分家を明けるなどの旨を伝えた後、ふと思いだした。

 机の上に置きっぱなしにしておいた、タスクから渡された――否、金貨一枚で買い取ったプレゼント。それは、あの事件の前にタマと約束した物品だ。漠然と、何かを買って欲しい、と言われていたから困ったが、猫といえば、の品物だから間違いはないだろう。

 いつも世話になっているし、サニーにも何かを買ってやろうとは思ったが、誕生日の時にネックレスを買ったのを思い出す。これ以上甘やかすのはよろしく無いとの判断が、それを却下させていた。

 ――だから出かける前に、タマへ、と張り紙をしてあの包みに張り付けて置いたのだが、果たして気づいてくれただろうか。

 そう心配するのは、馬車の中だった。

 そしてやがて、海沿いにある殺風景な建造物の前に止まって――ジャン・スティールは受刑者として、犯罪を犯した連中と共に中へと連れ込まれて……。

 その後の出来事は、まさに想像通りだった。

 居房に入るまで、鉄格子から手を伸ばして脅かしたり、罵詈雑言をわめきちらすなど、受刑者からの洗礼の一部を受け――そして、例の『同性愛者』の居房へと叩きこまれた。夕方で、ちょうど余暇であったから……。

 思い出すだけでも気分が悪くなる。

 ジャンは、その男を前にして、大きくため息を吐いた。

 壁に張り付いた時計は夜光塗料が塗られているのだろう、暗闇でもよく分かり、現在の時刻が未だ午前二時であることが確認できた。

 いくらあの事を思い出しても、その時のような高揚はもうない。むしろ、なぜ仕事を選ばなかったのか……ただそれだけが悔やまれた。

「……なあ、頼む。もう寝かせてくれよ」

 はしごを掴んで、ジャンは今にも泣き出しそうな声で懇願する。

 男――『トニー』は、やれやれと肩をすくめてから、無言のまま下のベッドにその巨躯を滑りこませて寝転がった。

「そうねえ、好きな男に強要しても、気持よくないしねえ」

 そういう問題ではないのだが。

 ともかく、今は眠れるのならばそれでいい。奴が殺気とも取れる興奮をまき散らせば、否応無しで目が覚めるのだ。それまで眠れれば充分だ。

「ああ、満期までじっとしてろ」

「ねえ知ってる? 獄中出産ってできるらしいわよ?」

「てめえは獄中死してろ」

「ひどいわっ! あたしに死ねっての? 何もしてないのに!」

「強姦未遂は何もしてないに含まれてんのか……まあ、だから捕まったんだろうけど」

「いや、ただの窃盗よ。盗んだのは貞操だけどね」

「強姦じゃねえか……」

 はしごを登り、硬いマットレスの上に寝転がる。随分と最悪な寝心地だったが、それでもコンクリートの床よりは遥かにマシだった。冬で海の近くであるから、城下町より遥かに寒かったが、三日目となれば慣れざるを得ない。いや、実際には慣れてなど居ないのだが、そう思い込まねばやっていけなかった。

 明日はがんばろう――本来の職務に対してそう考えていると、自然と意識は吸い込まれるように落ちていった。

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