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休日謳歌 ~その猫に肉球はあるか?~

 なんでも、この屋敷にはトロス、テポンの他には三人のお手伝いさんに加えてタマ一匹だけの構成で、両親は不在らしい。亡くなっているという事ではなく、単純に”溝の門扉ゲート”の向こう側、つまり異人種の故郷で暮らしているだけであり、完全な放任主義ということだ。

「うぅ……もう、朝……?」

 ガラス戸から差し込む陽が床を照らし、その反射がまぶたを照らす。ジャンはそこから意識が少しずつ浮上して、やがて覚醒した。

 だが眠気に半身がどっぷりと浸っている状況である。夕べは荷物の整理や、緊張やらで深夜まで眠れなかったこともあるが、なによりも布団が異様なまでに温かいことが一番の理由だった。

 羽毛布団は熱を逃さず、さらにジャンの熱を蓄えて身体を温める。さらにまるで人の肌のような抱枕が熱を持ち、心地よい毛皮が身体に抱きつく感覚が酷く心地よくて――。

「ん……?」

 抱枕など、この部屋にはなかったはずだ。

 ジャンは、己が掴む手を少し動かす。と、彼がこれまでの人生で触れた何よりも柔らかく、最上の弾力を持つ何かがその中にはあった。

 薄く目を開ける。

 共に、穏やかな吐息が顔に掛かるのがわかった。

 ――眼前に、タマの寝顔があった。

 絹の衣服は既に布団の中で大きく肌蹴ていて、タマはそのままジャンを抱枕にするように抱きついている。抵抗するように体の前に突き出された両手は、それ故に彼女のバストを存分に鷲掴む形となっていた。

「なんという事でしょう」

 思わず漏らすと、その声に反応したのか、タマのまぶたがぴくりと弾んだ。

 それからややあって、

「ん、ん……っ」

 艶やかな吐息と共に声を漏らし、力一杯抱擁するように伸びをする。

 タマは、それから眠そうに目を開けた。

「どしたの、ジャー?」

 ジャーというのは、タマが勝手に名付けたジャンの愛称だ。実にあざとい呼び名だとは思うが、タマ補正のお陰で特に疑問に思うことはない。ただ、それが伝播してしまったようにサニーまでそう呼んでくるのは、少しばかり恥ずかしかった。

「なんでお前は抱きついて寝てんだよ?」

 理性が手を離せと囁いている。

 だが、どれだけ理性がフルに稼働して腕力を駆使して彼女から引き剥がそうとしても、本能が許さない。故にたゆんたゆんと、肉球顔負けの弾力を味わうように手の中で揺れるだけであり――幾多の刺激を経て、手のひらに硬度を持った突起が生まれた。

「……ジャーのすけべ」

 言って、タマは頬を桜色に染めて、ぎゅっとジャンを抱きしめた。


「という夢を見ました」

「なにそれキモい」

 タマは心底軽蔑したような視線でジャンを見下ろした。

「ジャー? なにそれ、炊飯器?」

「いや、その……」

「大体なんで常に燃費の悪い人型になってなくちゃなの? ジャンを楽しませるためのマスコットじゃないんだけど」

「おっしゃる通りです」

 ネコの姿でカンカンに怒るタマは、寝台の上で正座する彼に対して、何度も布団を叩いて、尻尾をパタパタと振って感情を表現していた。

 そもそもこうなった理由は、タマが起こしに来た際に布団をひっ剥いで――生理現象を見られてしまったからだ。そこからごく自然的に、「何の夢を見てたの?」という流れになり、現在に至る。

 まだその時は怒られてはいなかった。

 だが、先日のタマに対する印象があまりに強かったせいで見た夢である。

 もっとも、さすがにそんな事は口にできないので、秘密なのだが。

「まあなんでも良いけど。朝ごはん食べるなら、用意してあるけど」

「すぐ行きます」

「もう二度とキモイこと言わないでよね。嫌いになるから」

「はい……あ、最後に一つ、いいですか?」

 何か心残りがある。胸の中に感じたそのしこりの正体がわかった所で、ジャンはそう声を上げる。

 後ろ姿を見せたタマは、いかにも不機嫌そうな顔でジャンを見る。

「あによ」

 ぶっきらぼうに訊いてきた。

 ――言うか、言わざるか。

 されど、後悔するならば確実に告げたほうがいい。何もしない後悔は、何よりも苦しいからだ。

「ごっ、語尾に”にゃあ”だとか”にゃん”は付けないんですか?」

「……あの」

 口ごもるように、彼女は続ける。

「もしかして会話成り立ってなかった? 言葉通じてなかった?」

「いえ、大丈夫です。タマの言葉は全て理解できてます。今日も可愛いし」

「フォローすれば良いってもんじゃないけど……真性ね。そんなにネコ好きなの?」

「大好きです。もうタマんねえです」

 タマの姿が、不意に消える。

 否、ジャンの肉眼で尾を引くように肉薄する陰だけは捉えられていた。

 音もなく気配が近づく。僅か一秒にも満たぬ時間の中で、その白に茶色にこげ茶の混じる三毛猫は、地面を弾いて眼前に迫った。

 目の前ににネコが現れた。そう認識するよりも早く、振り薙がれた一閃があった。

 それから間もなく、タマは軽々とジャンのすぐ近くに着地する。

 すうっと、鼻筋から血が線状に三本浮き上がったかと思うと、鋭い痛みが並のように押し寄せてきた。

 鮮血が吹き出るわけでもなく、また傷があると教える程度の出血だけがそこにはあったが、痛みは見た目に反して非常に強い。

 まず目が開けられない。痛みのせいで、思考がままならない。

 タマの声は、横になって悶えるジャンの耳元で聞こえた。

「安心して。消毒してあるから……にゃあ」

 ぽん、と頭を肉球で叩く感触を残して、気配は走り去るようにすぐ遠くなっていった。


「お食事はどうでした?」

 暑いからという理由だけでキャミソールを来て、腿までがあらわになる短いズボンを履く女性は、それでも体裁を整えるようにヘッドドレスだけは身につけていた。

 そんな彼女は顔や肌、足が驚くほどに透き通るように白く――その腕、足、指に細かく吸盤を付け、また太い四本の房を好き放題に背中に流す頭には、されど髪はなく、髪のような触手があるだけである。

 彼女はタコ族の異人種であり、この屋敷のお手伝いさんの一人だ。

「ええ、美味しかったです。なんだか、もっと味わってずっと食べていたかったです」

「あらら、嬉しいことを……ふふ」

 嬉しそうに彼女は笑う。しかしそんな褒め言葉に頬を紅潮させたり、恥ずかしがったりするようなウブな姿は一切無く、経験豊富な大人の女性の雰囲気を醸し出していた。

「でも、わざわざスミマセン。最後まで寝てたおれを待っててくれたみたいで……」

 長く伸びる机には、まだ日が登ってからそう時間が経って居ないであろう頃合いなのにもかかわらず、ジャン以外の顔は無い。彼女の話を聞くに、既にテポンはサニーを連れて買い物に出かけてしまったらしい。トロスは入学してから日課にしているトレーニングに出かけたばかりで昼頃まで帰ってこないらしく、この屋敷に残されたのはジャンと、お手伝いさん、それにタマだけになる。

「いいのよ、別にやることなんてあまりないし。それに、あまり褒めてもらったことがないから嬉しかったしね」

「いや、ホントの事を言っただけですし」

「あまり褒めると、サニーちゃんが拗ねるわよ?」

「ああ、そう。サニーで思い出したんですけど、もしサニーが料理を手伝いたいって言ってきたら、断らないでやってほしいんですよ。あいつ、なんだか料理が趣味だか生きがいみたいで、ずっと料理ばっかしてましたし」

「ふぅん……そうね、なら今夜あたり手伝ってもらおうかしら」

 そういう彼女は、どこかイタズラっぽい笑みを浮かべていた。怪しく、何か企んでいそうなソレだが、ジャンには彼女が何を考えているのか皆目見当もつかない。

「それじゃ、オクトさん。ごちそうさまです」

「お粗末さま。あ、ジャンくん。これから何か用事でもあるの?」

「そーですね……特には無いです」

「ちょっとおつかい頼んでもいいかしら? 他のに頼むと、いちいちうるさくってね。もちろんお礼はするわよ?」

「いや、大丈夫です。お世話になっている身ですし。それで、おつかいっていうのは――」


 その男はジャン・スティールから注文の内容を聞き終えると、椅子から立ち上がり、その埃っぽい空気をかき乱すように乱暴な様子でカウンターを乗り越えてきた。二メートルほど離れたジャンを睨みつけるようにしてから、わざとらしいと言うよりも、どこか演技がかった動作で、近場の本棚へと向かう。

 本棚が無数に並ぶ店内。そして本棚と本棚で作られる通路の、その終着点にカウンターがあった。

 胡散臭い口ひげを生やす男は、髪を脂でオールバックにして、片眼鏡を掛けた紳士然とした外観だった。どこか気難しく神経質そうな顔立ちに反して、その”本屋”は客があまり来ないのか、掃除があまりなされていないのか、空気中に埃が漂っている。

 くしゅん、と顔を揺らしてタマはくしゃみをして、ジャンはそれに続くようにくしゃみをした。

「いつ来ても最悪」

「まあそう言ってくれるなタマゴウチ少佐。奴らから姿を隠すための隠蔽工作の一種だと、何度言ったら分かってくれるのだ?」

 ジャンの肩に乗るタマは不快そうに、店主から視線を外した。

「その名前、わけわかんないし」

「やはりまだ記憶は戻らないのか。やはりガウル帝国の内戦の代償は大きいか……」

 店主はそう口にしながら本棚を漁る。

 オクトの説明によれば、彼はガウル帝国という、この王国が存在する大陸の向こう側、海を越えた先にある大陸からやってきたという。そこであった内戦から逃げてきたという説明はなしだが、タマを、その恐らく飼っていたであろう愛猫と信じ込んでいる。しかしその愛称を完全に拒否していたおかげで、今は間をとってそんな珍妙な名前になっていた。

 そしてオクトは、この店を贔屓にしている。理由は単に、品揃えが良いからだ。

 どんな理由で本屋を営んでいても毎月新書を仕入れるし、客も居ないというわけではないから経営を維持できている。そしてどれほどマニアックな本でも、古書でも妙に揃っていた。

 ジャンとて興味がないわけではないが、今日はおつかいだ。また後日、個人的に来たいと思っていた。

「ったく、なんであたしまで連れてきたわけ?」

「いや、だってオクトさんが、こっちのほうが話が早いって言ってたし」

「もう……ま、”中佐殿”の様子は相変わらずで良かったけど、もう二度と来たくないわ……くしゅっ」

 また小さくくしゃみをする。首を振り、前足で顔を撫でるように拭いた。

「中佐殿! ちゃんと掃除してよ!」

「何を言うタマゴウチ少佐、この古臭さ、カビ臭さが良いのではないか。なあ少年、あながちわからんでもないだろう?」

「え、いや……まあ。こういうところが図書館とは違う、本屋の良いところでもありますよね」

「おお! さすがタマゴウチ少佐に見初められた男! 分かっているではないか!」

「ですが、せめて簡単な掃除くらいはしたほうが良いのでは?」

「むう、先程からさすがにそこまで言われればしないわけには……っと、見つけたぞ少年! 望みの品はコレで良いのだな? ははは! うっかり新刊をしまいこんだから少々手間だったが、見つかって安心だ!」

 中佐殿は比較的新しい、革張りの本をジャンに手渡すと、腰に手を当てて豪快に笑う。豪気というのはこの男のためにあるような言葉な気がした。

 本のタイトルは『あなたが死ぬまでにやっておきたい一○○のこと』というもの。一見自己啓発本のように見えるが、内容は深い恋愛小説らしい。オクトは最近この作者に熱中しているらしく、すべての単行本はこの店で購入し、新刊を心待ちにしていたとの事だ。

「ええ、これで大丈夫です」

 本を念のために確認して、中佐に手渡す。彼はそれからカウンターの奥へと飛び上がるように引っ込むと、手早く紙袋に本を入れて、カウンターに置いた。

「お代は既に受け取っているから、このままで大丈夫だ。心ゆくまで堪能するがいい! っと、少年は何か気になる本はあったのか?」

 ジャンはそれを受け取りながら、タマの首の下をくすぐるように撫でる。そうして不意気味の質問に少し驚いてから、首を振った。

「たくさん本があって、まだよくわかんないです。また後日来たいので、その時はよろしくおねがいします」

「ふむそうか……残念だが、待つとしよう。用がなくとも、私はいつでもここに居る。来てくれると嬉しい!」

「は、はい。失礼します」

 軽く会釈をするジャンに、中佐は結局本名を教えてくれること無く、敬礼してその姿を見送った。

 あらゆる意味で後ろ髪引かれる思いに駆られながら、ジャンはそそくさとその店を後にする。


「でもジャンが居て助かったわ。いつもなら一人だもん」

 気を良くしたのか、彼女は人型になってジャンの横を歩いていた。なぜだか衣服は着たままの格好で、四肢はやはり毛皮に、掌は肉球へと変化し、頭にはネコミミ、尻からは尾を生やす。

 そして腕を組む、胸を押し付けるということはなく、シャツにデニム生地のズボン姿で傍らにつく。肉球、正確には掌球は、その往来でも構わずジャンの手の中にあった。鷲掴むような形で、他者から見れば手をつなぐように見えているであろうものだ。

「おれもタマと一緒でよかったよ」

「どうせあたしの肉球からだが目的なんでしょ?」

「そ、そういうワケじゃないよ! タマと一緒にいると楽しいし」

「楽しい……? 可愛いとかじゃなくて?」

 彼女はマジマジとジャンを見つめて、首を傾げる。

 うん、と彼はうなずいて、わかりやすく説明した。

「まあかわいいよ。ネコでも、人型でも。でもさ、タマと一緒にいると……こう、一緒に居るだけでも心が踊るんだよね。楽しいってそういうことだと思うけど」

「そ、そうなんだ……あ、や、やっぱりジャンって結構変わってるよね。女の子に、みんなにそう言ってるんでしょ?」

 いつでも余裕を持っているような彼女は、頬を桜色に赤らめてそっぽを向く。だというのに、指球はぎゅっと締まって指を包んだ。

「別にそういう訳じゃないけど……この街だと、タマが初めてだし」

「は、初めてなんだ。あたしが、初めて?」

「まあ、そうだな」

「へ、へえ。……ねえ、ジャン?」

 呼ぶ声に、顔を向ける。タマはそれに応じるように手を離して、その肉球を顔面に押し付けた。

 すこし固い角質層の中には、ぷにぷにと柔らかい独特の感触がある。変わらずのお日様の香りがして、ジャンの吐息に、抑えるようなタマの声が聞こえた。

「ジャン、またキモイこと言ったから、お仕置きだからね……っ!」

「た、タマ……こんな、み、みんなが見てる、ところで……!」

「うふふ、肉球って、結構ビンカンなんだからね!」

 すっかり上気してしまった顔を隠すようにそっぽを向きながら、また肉球を強引にジャンの顔に押し付けて、足早に往来を歩く。

 肉球のお陰で他の事に頭が回らなくなってしまう彼の特性に少しだけ感謝しながら、タマはそそくさとジャンを連れて屋敷へと戻っていった。

 ジャンはまた、不意打ちの幸福を堪能して――。

 そうこうしている内に、楽しい休日は終わりを告げた。

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