復讐 ④
呼気が大気に触れた瞬間に凍りつきそうなほど、辺りは冷え切っていた。
燕尾服一枚で意気揚々と出てきたものだが、だんだんとクラリスの外套が恨めしくなりつつ――なかった。
もはや、ジャンにはその余裕すらない。
過呼吸を疑うほど呼吸は矢継早に繰り返されて、心臓は何かの冗談のようにドクドクと全身に血液を異常な速さで送り続けている。
唇は乾いてしまったのか感覚が鈍く、手足に強い痺れがある。頭もぼーっとして、既にまともな思考は行えない。視界は既に暗闇を映しているから、それが正常なのか否かの判断は出来なかった。だが、眼球を圧迫されるような感覚からして、それさえも鈍っていることだけはなんとなく察することが出来る。
「くそ……っ!」
既に背後から、また新手の足音が迫っている。腰の剣に手をやろうと意識するが、その行動はいつになっても実行されない。頭の中ではそれは既に幾度ともなく完遂されているものだったが、現実には反映されていない。
やがて、頭の中と現実との境界がわからなくなってきた。
「ちょっとッ!?」
自身の呼吸音の最中に、怒号にも似たクラリスの呼び声が届く。それと同時に、肩を力強く掴まれた。
彼女の足は止まっている――そして前方から、多くの足音が迫っている事に気がついた。
「ここで連中を潰して、一人からアジトを訊く。作戦の最終段階よ」
クラリスは心配げにジャンを見る。だが、既に人数と距離からして、悠長に彼を気遣っている暇などなかった。
紅い鱗に覆われる右腕が、やがて鋭い鉤爪を持つ竜の腕へと変異した。種族開放なぞしてやる必要もないと吐き捨てていた彼女は早速そうしていたのだが、先程はそうではなかった。
つまるところ、それはジャンに対するフォローをするつもりだったのだろう。
それを見て、ジャンは思わず、頬を緩ませて――。
「後ろを頼む」
ふり返る余裕など無い。
ならば、このまま正面突破をしたほうが早い。
フォローなんて、ふざけやがって――これは、おれの闘いだというのに、人にまかせて何になる?
自分の体調や具合など二の次。負傷なぞしていないのに、身体が動かなくなるなんてことは、ない。
自分に言い聞かせて腕を動かす。肘から先の主導権は依然として己のものであるが、その強い痺れからまるで他者の手であるかのような錯覚を覚える。それでもしっかりと剣を抜けば、それは先ほどとはおよそ倍以上の重さに感じられた。
心臓が頭に移動したのかと思うほど、拍動に合わせてその鼓動の音が良く聞こえるほど響いている。髄液が一時的に増幅しているのか、酷い圧迫感だった。
「なんだてめえ、そりゃ舐めてんのか?」
眼前にまで迫ってきた男が、今にも倒れてしまいそうなジャンを見て挑発する。
「ああ、面倒くせえ――禁断の果実」
既に体力など無い。
だが、代わりとばかりに魔力は大量にある。まず大気中のそれら。そして、背中の魔方陣が生み出した加えてくれる体内のそれら。
ジャンはようやく反応してくれた右腕の魔方陣に促されるようにして額に爪を立てれば、指先に硬い感触を覚える。そいつを引きずり出し、一瞥すること無くその真紅の果実を齧った。
「大地の激昂」
――大地はなんの干渉もないまま、ジャンの一歩先から隆起させた。それは恐ろしいまでの速度で石柱を構成させ、間髪おかずに肉薄した男たちを正面から穿つ。彼らにしてみれば、壁が突然現れて迫ってきたような感覚だったのだろう。
轟音と共に、衝撃が盛大な音と伴って大気に伝播する。肌にピリピリとした凄まじいその光景を、されどジャンは静観する余裕はなかった。
先ほどと同様に、四方から集団に対する攻撃が襲いかかり、数秒と持たずに十人を超える連中を再起不能に仕立て上げた。
石柱は攻撃を終了させると共にボロボロとその身を崩して山となる。スムース・クリミナルの彼らは、その下敷きともなっていた。
改めて考えれば、やはり禁断の果実なんて魔術はとんでもないものだ。
本来ならば大地に魔術的干渉をしなければ発動しなかった今の魔術を、ただ果実を口にするだけで再現できるのだから。
抜いた剣を杖にして呼吸を整える。だが、悪化こそしないが、落ち着く様子は未だにない。むしろ立ち止まればその分、その苦しさを意識せざるを得ずに余計しんどい有様になっていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……そっちは大丈――」
なんとかふり返る余裕を作って後ろを向き直る。
すると、そこには無数の男たちが大地と抱擁する姿と、
「ほらほら、さっさと白状しないとこの爪が綺麗に大動脈だけ掻っ切るわよー」
胸ぐらを掴み上げ、一人の男の首筋にその鋭い指先を突きつけるクラリスの姿があった。
そのガラス管は器用なまでに折曲って文字となっている。化学反応によって輝くそれは、『酒場』という名称をそこに掲げていた。ネオンと呼ばれるそれは嫌らしくぎらぎらと光っていて、スラムの中で最も大きいらしい酒場はそんな風に、過剰なくらい自己主張をしていた。
そこは通路の突き当りにあって、そのやや手前には一回り狭い通路が交差する地点がある。
大きな両開きの扉の前には、先ほどまでの追ってなど比にならぬほどの戦闘員。
それらの先頭に立つのは、ジャンに宣戦布告をした巨漢だった。肌を黒く染め上げ、ネオンサインに禿頭を照らす男は、彼らの姿が見えるなり、にやりと笑った。
彼らにとっても、ジャン達がここに来るのは予想内であったのだろう。
「あれが総力のつもりかしら」
ざっとみて百人は簡単に超えるだろうそれを見て、どこか呆れたようにクラリスが漏らした。
もっとも、贔屓目なしに見ても事実として一騎当千の実力を彼女は持っているのだから、確かにそう考えれば敵の数は足りないと感じても仕方がない。
が、これまでで既に、この同数またはそれ以上を倒してきているのだ。このアレスハイムのように城壁のない街はそれ故に広大であり、特に集中している城下町でもその人口は数万に至るだろう。その一部のスラムともなれば、数千といてもおかしくはない。
そう考えていれば、交差地点に迫る多くの気配を感じられた。
間もなく、そこには酒場の手前で待機する連中の数倍……あるいは十倍に近い戦闘員が、列をなして集合していた。
戦闘には、ホークが持つような長方形の長い銃火器――小銃と呼ばれる飛び道具を構えている。5.56mmの弾丸が数百メートル先の敵を殺傷してしまうような、まるで常識はずれの武器である。
軍事国家たるこの国のスラムを統べる連中だ。ディアナ大陸のどこからか、そういったものを密輸してもおかしくはない。そもそも麻薬なんてものはディアナから伝わった違法薬物だ。その武装は必然といえるだろう。
さすがのクラリスも、短く舌打ちをした。
「ま、こうなるってわかってたけどな」
「予想した中で一番、最悪な事態だけどね」
クリミアはあの酒場の地下で療養しているらしい。現時点で意識は未だ回復していないと聞いたから、いささか不安だった――彼が意識を取り戻すまで、その怒りに堪えられる自信はもうなかった。
「そういえば、喘息はもう大丈夫なの?」
「まあ、一応。落ち着いたってところかな」
剣を抜いて、痺れが切れた腕で構える。
傍らのクラリスは、頼もしく両腕を真紅の鱗に覆い――。
「かまってやる必要はないわ。たとえ数千、数万の軍隊だろうとあたしはこんな所で死ぬ訳にはいかないし――こんな連中に時間を使ってやるほどお人好しでもない」
ジャンはさきほどと同じく、剣を地面に突き刺した。
これからの戦闘を考えるに、やはり禁断の果実よりこちらのほうが魔力消費を抑えられるからだ。
――地属性の魔術は、割合にマイナーであり、この魔術を主として扱う魔術師はあまり見られない。それは大地を動かすほどの術である故に基本的に使用魔力が他に比べて大きく、またそれに見合った働きがない事から、そうなっていた。
だがジャンは違う。
まずその派手な錐状の突出は、とにかく威力を度外視して、外見が気に入った。それが高威力となるのは術者自身の成長によるものだが――初っ端からの派手さは、あらゆる魔術を武器を介して行なってみたが、これが一番だった。
故に気に入った。
彼がこれを使い続ける理由は一概にそれだけであったのだが、禁断の果実の魔力消費は、肉体の魔力を根こそぎ持っていく。大地の激昂はそれ以上のものを、大気中から瞬時に消費して行う術であったが――中位魔術としては、あらゆる属性から見て最高位の物理的威力を誇る攻撃魔術だった。
「んじゃ、あたしは雇われ傭兵らしく一番大変な方にいくから。そっち頼んだわよ」
くるりと踵を返した彼女は、ぽん、と軽くジャンの肩を叩く。
そうしてから千に至ろうとする戦闘員へと無防備に走りだして――直後に、凄まじい熱風が背中を嬲ると共に、背後が眩く輝くのを知覚した。
振り向かずとも、彼女が火焔を吐き出したのが良く分かった。
同時に響き渡る絶叫と悪態。
それをきっかけにするように、酒場の前で待機していた百人に近い連中が、隊列を保ったまま動き出した。
「まったく、バカなんだか執念深いだか……」
純情というには妙に物騒かも知れないが、それが適当かもしれない。
クラリスはその身軽さを武器に本隊よりはるかに多く、挟み撃ちを目的に構成された遊撃隊の先頭で小銃を構える列に肉薄。そうしてタタタ、と乾いた発砲音をかき鳴らしてとんでもない衝撃を与える弾丸を、その分厚く頑強な装甲たりえる鱗が、全てを弾き跳ね返す。
そうして種族開放――右腕は瞬間的にその拳を本来の、竜としての大きさに変異させる。故に人数人を鷲掴みできるその巨大な手が鉤爪を伴って振るわれ、一度で十数人の鎧を引き裂き、その肉体をズタボロに切り裂いた。
回りこんでくる連中には容赦なく灼熱を吐きつけてやれば、その鎧は赤を通り越して白く染まり、ドロドロとその形を崩して溶け始める。また皮膚を炭にされた男たちは悲鳴を上げながらその場に崩れ、間もなく息絶える。
――これほど人を殺したのは久しぶりだったが、何の感慨もわかない。
彼女はそう思いながら、心から自然に溢れて漏れる感情を口にした。
「ざまあみろ」
この街で知り合った幾人かの友人はむりやり麻薬を摂取させられるなり拉致されて、数日後に人気のない雪原で倒れているところを発見された。その数時間前に不特定多数の連中との性交の形跡があり、また全身はアザだらけで骨折、打撲などの怪我も多数見られ、胃や膣内には精液が確認できた。
つまりは拉致って強姦だ。捜索の結果は、犯人を突き止めるに行かなかったが――そう公言を控えた憲兵ですら、数日後に駐屯所に首だけの状態で送りつけられていた。
これだけで、犯人は判然としたようなものだ。
だが、国の対処は未だ無い。おそらく、クリミアがリーダーであると発覚することを恐れているのだろう。もしそれが全国民に知れ渡れば、皇帝がそれを黙認していることが知られ、すぐさま暴動が起きるだろう。国が破綻するのは目に見えている。
クラリスは己の実力に自信を持っている。その気になれば、スムース・クリミナルをたった一人で壊滅することができる、とも。
だがそうしなかったのは、一国民である彼女が国すら黙認するその組織を崩壊させたその後を恐れたからだ。壊滅させることはできたとしても、一人残らず殺しきるのはさすがに難しい。それに規模を把握しているわけでもないから、必ず”漏れ”がある。つまり、生き残りはあるということだ。
恐ろしいのは、その連中がまた新たに組織を創設すること。
自分が狙われるのはまだいい。だが、連中は確実にこの国の民を狙うはずだ。不特定多数の善良な民を惨殺し、そうしておびき寄せ、クラリスを血祭りに上げる。最終的にはその死体を晒し、気がつけばスムース・クリミナルは復活しているという具合だ。
だから、これについては国が対処しなければならなかったのだが――ジャン・スティールは個人的にそのリーダーを憎んでいる。
そこからクラリスが望んだのは、その恐ろしいまでの執念深さを、連中が胸に刻む事だ。
暴れれば、悪さをすれば狡猾な青年にどこまでも追われて殺される。その恐怖さえ抱かせられれば、連中は静になる筈だ。
つまり、この状況での彼の登場は僥倖だったと言える。
これでクリミアの死亡、そして組織の壊滅に、そこから現れる麻薬や銃器の流通経路が明らかになれば、国も動かざるをえない。最終的には、城の目下であるのにもかかわらず最も治安の悪い街となっていたここが、平和になるはずだ。
――鉄を溶かす業火。そして爪撃。
一度で十数人を叩き潰すがゆえに、気がつけば――。
「どうしたの。怖いの?」
既に本隊よりも数が少なくなった男たちは、周囲に広がる、痛みに喘ぐ仲間たちを見下ろしながら、傷一つ内クラリスを前にする。が、その全身は小刻みに震えていた。
まるで子羊だ。
これで、少しは被害者の気持ちもわかってくれただろう。
「もう、しょうが無いなあ」
こういった気持ちさえあれば、まだ更生の余地がある。
だから彼女は、己が作り出した死体の山を乗り越えて、彼らの前へと突き進んだ。彼らは飛び道具など無く、剣のみの装備だ。さらに鎧すらもない。
だから、一閃。
容赦無く、目の前の数人の四肢が切り裂かれて宙を飛ぶ。さらに突き出せば、爪が肉体を貫通した。
――だからといって、生きて返すつもりなどさらさらない。彼らが涙を流してその額を地面にこすりつけたとしても、彼らが手にかけた被害者は戻ってこないのだから。
「来たか、糞ガキ!」
「ああ、随分豪勢な出迎えだな」
「黙れ、発現めろ――」
男は早速、腰だめに置いた拳に意識を集中させた。興奮の最中だと言うのに、それを抑えつけてのその選択は、おそらく正しいのだが――ジャンの場合、その感情の昂ぶりは相手を効率よく殲滅するための起爆剤となっていた。
つまるところ、最初に言葉をかけたという選択が、まずミスだったのだ。
「大地の激昂」
幾度目かになる発動は、その為に随分とスムーズなものになっていた。
轟音と共に隆起するのは敵の眼下。故に、彼の拳が光を帯び始めたその直後に――石柱が男を殴り飛ばし、その表面に張り付けて後衛に控えた仲間を薙ぎ払っていった。
耳につんざく絶叫が、背後の騒音にまけじと響く。
四方から襲いかかる石柱は、その断末魔すらもかき消して、その数を少なくさせる。
ジャンは剣を引きぬいて走り――いとも容易く、アレほど威圧を与えていたというのにもかかわらず戦闘不能になった百人に届かんという連中の脇を超えて、正面の玄関口を蹴り開けた。
「おらあッ!」
けたたましい音と共にひしゃげた扉の向こう側から影が動く。叫び声と共に閃く斬撃は、鋭くジャンの頬を撫でるように、切り裂いた。
傷は浅く、薄皮一枚程度の負傷だ。血がぷっくりと膨らむようにして溢れ出すが、大した傷でも痛みでもない。
だが……。
「くっ!」
剣を振り下ろせば、敵の刃に”引っかかる”。
薄暗い空間で目を凝らそうとしても影としてしか映らぬその男と、その武器は、おそらくは”櫛状”に細かく間を開けているのだろう。つまりは『ソードブレイカー』仕様だ。
なるほど、選択は正しい。ジャンは心中で、褒めるように頷いた。
ここにたどり着く敵は、少なくとも圧倒的な物量を前にしても突破してくるようなやつだ。つまり、そういった大雑把な筋肉バカであるか、とんでもない格上であるか……ともあれ、数が相手でも通用しないということになる。
となれば、次に待機させるとすれば純粋な技巧派。己の力のみで生き抜いてきたような要員だ。
さらに相手が近接戦闘を得意とするのが判然としている今回の場合、それを相手にできるような者を残しておけば良い。
――剣が意思に反して、手の中で強く捻られる。握力を弱めても柄の回転によって摩擦が皮膚を焼くだけであり、体勢を崩し掛け、そうして気がつけばバスタードソードを失っていた。
先ほどの、口だけの巨漢とはいかぬものの、それでも男は大柄だった。ジャンの一回りほどの巨躯は、それでも彼よりも素早く滑らかに身を駆っていた。
体勢を立て直すよりも早く、猿臂が鋭く額を叩く。
姿勢は崩れ、思わず跪く――その勢いを利用して前転。ジャンは男の脇をすり抜けて立ち上がり、首元を狙って振るわれる刃を、後退して避けた。
脇を締めて、拳を構える。後ろ足で床を蹴るようにステップを踏む、拳闘士の構え。それは以前、イヤというほどエミリオに叩きこまれたものだった。
武器を失った場合、魔術を持たぬものは逃げるか死ぬか、あるいは死を覚悟して素手で立ち向かわなければならない。エミリオの場合は既に最初から素手であったからそんな恐怖や不安を抱く必要などなかったが、個人である程度の実力を持つ者は、個人での仕事をこなすことになる。だからこそ、そういった技術を身につけなければならない。
まさか、こんな所で使う羽目になるとは思わなかったが――。
背中の魔方陣が、体内の魔力を一時的に増幅させる。魔力は全身に伝播し、全ての神経系を鋭敏に、そして筋肉を膨張させた。
「ふっ」
短く息を吐いて、肉薄。
振り薙がれる刃は、その過程を止めたように動きを遅くしていた。実際には彼の動体視力が異常なまでに跳ね上がっているだけなのだが、それ故に、その間をかいくぐる。
一撃で仕留めるために、僅かに腰を落として右腕を振り上げ――顎下に鋭い一発を叩き込んだ。
男は為す術もなく天井を仰いで大きくのけぞり、身体を浮かび上がらせたと思えば、そのまま近くの円卓を巻き込んで倒れこみ、吹き飛ばされた。
そんな騒音の中でジャンは床に転がるバスタードソードを拾い上げ……。
「よう、ごきげんか?」
酒場のカウンターの手前で、両手両足にギプスをつけたクリミアの姿がある。
その手前には、最後の護衛らしき三人が居たが、先ほどの闘いぶりを、あの圧倒を目の当たりにして意気消沈、戦意を失ってしまっているらしかった。
それもそのはずだ。仮に自分が逆の立場だとしたら、同じ気持ちになる。
たった一人の、しかもこれほどの組織を持つ男の為に、まずあの人数をたった二人で苦戦すること無く飽くまで余裕を持って切り抜け、そして一度は危ういと思わせた敵を、一撃で打ちのめした敵が目の前にいるのだ。
とても頭がまともなやつだとは思えない。あるいは、それほどの執念を持った男を敵にして勝てるか――いや、生き残れるか、正直自信がない。
そう思われていれば光栄だ。最も、こんな連中に尊敬されてもちっとも嬉しくはないのだが。
ともあれ、クリミアが起きているようでよかった。
ついでに、部下の恐れを共有してくれていればさらに良いのだが……多くは望まない。そう貪欲でも無い、慎み深い男なのだ。
「くっ」
歩けば、近づけばクリミアの表情が歪む。そうして漏れた苦々しいような声は、怒りゆえだろうか。
「死にたくなきゃ失せろ」
無表情で言ってやれば、肩を大きく弾ませた三人組は驚いたように顔を見合わせてから、一様にそそくさと出口を目指して逃げていく。足音が失せた頃、また外から近い位置で悲鳴が聞こえた。先ほどの三人を、クラリスが始末してしまったのだろう。
「くっ……」
「どうした? あんだけ粋がっておいて――」
「来るな……」
目の前までやってきた途端に、口から吹き出るようにクリミアが言った。
「来るな……た、助けて、くれ。い、命だけは……」
今にも泣き出してしまいそうなほど、その表情は恐怖に飲まれていた。いい年をした男が哀れなくらい目を細めて眉をしかめて、口角を下げて小刻みに震えていた。その中で、鼻につんと突き刺さるようなアンモニア臭が臭ってくる。どうやら失禁しているようだった。
――あれほどの組織を統率し、あらゆる犯罪行為に手を染め、だというのに軍隊でもエリートとされる騎士団に属した男。どれほどボロボロに殴られても、決して己の死を認めず生き残ることを信じてやまなかった男。そして、ジャン・スティールの人生をどうしようもなく滅茶苦茶に蹂躙しつくした男。
それが目の前に居る。
その仇は、己を見て恐怖し、プライドなどかなぐり捨てて失禁してまで生にすがり付いている。
見ていて楽しいものではない。醜く、見るに堪えぬ光景だった。
――こんな事のために、今日は苦悩し決死の覚悟でここまでやってきた。
確かに仇討ちは楽しくなど無い。それは当たり前だし、今だってこの姿を見て高笑いできるほど怒りが湧いてきている。
だというのに……。
(おれは、何をやってんだ?)
その一方で、虚しさすら感じていた。
自分の行いが正しいことだとは決して思わない。相手がやってきたことを、そのまま返してやるのが最上であり理想だと思っていた。
だが、なんだろうか。この理解不能な寒々しさは。
「部下から、聞いている……組織はもう終わりだ、悪さもできねえ……もう、足も洗う。騎士も、辞める。だから、い、いのち、だけは――」
その言葉で、ジャンは悟った。
なるほど、どうやら同じやり方で相手を屈服させただけではなく――くそ忌々しい事に、この姿はクリミアそのものになってしまったらしい。
つまり、少年期に見たあの悪魔とも見えた騎士の姿に。
――思えば、長いことこの憎しみを滾らせていたように思う。
国情が分かる青年期は、というかついこの間までは、この連中が帝国の人間だと知って、仇討ちを諦めていた。個人が立ち向かえる相手などではないと。ならばせめて、自分が騎士となって偉くなり強くなり、弱き者に手をさしのべてやろうとさえ思っていた。
だが、今はどうだろうか。
偶然であるがその帝国に来て、皇帝に交渉までして己の命を確保し――そして個人の動きで、仇討ちを成し遂げている。
数ヶ月前ではとても考えられない事だ。
また、この数カ月で随分と強くなった。
色々な経験もした。色々な人とも会った。充実した日々を送れたと自覚できる。
また、そんな人達は自分の帰りを待ってくれているだろう。心配だってしてくれる。そんな優しい人達だ。
「……お前ってやつは」
力が抜けたように、嘆息した。
この男は、ジャンを何者かを理解していない。
つまりその執念深さを恐れているのではなく、純粋なまでに高い戦闘能力に怯えていたのだ。
「ふざけんな……いい加減、思い出せって言ってんだろうがっ! 記憶喪失だって悪い冗談はやめてくれよ? なあ!?」
剣を投げ捨て、その胸ぐらを掴み上げる。力強く前後に揺すれば、クリミアは為す術もなく頭を揺らすだけだった。
「な、なにを、思いだせって……」
「八年前、カミンの村だ。てめえがぶっ潰したアレスハイムの村だ!」
「し、しらね――」
言いかける言葉を遮るように、ジャンは力の限り右腕のギプスを殴りつけた。
空間を引き裂くような大音声での絶叫。ジャンは構わず、さらに既に腫れ上がっているクリミアの顔面を殴りつけた。
「こんな所で嘘なんざ、賢くねえな」
「あ、分かった! 言う! 言うから、もう、やめてくれ……!」
クリミアが吐露したのは、ただの不幸自慢だった。
国に捨て駒部隊の隊長にされたこと。それを取り消すように上申しても取り合ってもらえなかったこと。自暴自棄になって治安の良いアレスハイムに行って、極めて安全で危なげのない村を交渉材料にしようとしたこと。だが、そうする前に部下が手を出して、そのまま勢いで村を壊滅したこと。
飽くまで”自分は”悪くなく、”被害者”であることを主張しているようだった。
愚かだ。
屑だ。
どう罵倒しても、煮えくり返ったハラワタはおさまりそうになかった。
それに、特攻部隊長に任命された理由を、彼自身自覚していない。その実力に物を言わせて好き放題にしてきた過去を、彼はまるで当たり前のように受け入れているのだ。
「ま、まさか、生き残りが、いるだなんて――」
まるで念入りに殺して回ったような言い草だ。
目撃者を一人足りとも生かさずに、隠蔽しようとしたような背景が見えてくる。
「な、なんで、お前みたいな……ヤツに」
ここまでされなければならないんだ。クリミアはそう続く言葉をつぐんで飲み込んだ。
「悔しいか?」
「あ、ああ……」
「まだ生きたいと思うか」
これまでさんざん好き放題に生きてきたのに。
「もちろんだ。俺は、まだ……」
「もう二度と、悪事に手を染めないと誓うか?」
「もうしねぇ……さすがに、懲りた。もういい、貯金で、どっか越して、ひっそりと暮らすさ」
「てめえ様が殺した連中に足を向けて眠るわけだな。のうのうと生き残って、てめえのわがままのために人を殺した過去を、いつかは武勇伝として語る訳だ」
犯罪者が死刑を免れて生き残っているようなものだ。
まあ、良い。
ジャンはにっこりと微笑んで、屈む。捨てた剣を拾えばクリミアは怯えた顔をしたが、それを鞘に収めた途端、その表情はにわかに驚いたようなものに変わった。
「お前は随分と痛い目にあったんだ。これからは、もう精一杯報われなくちゃって考えてんだろ? お前をこんな目に合わせたおれが言うのも、なんだが」
「いいさ、気にしねえよ。自業自得みたいなもんだし。だが、夜道は気を付けろよ? ははっ」
「あははっ、おっかねえな! おっかねえから――」
なぜここで笑えるんだ。なぜここでまだ生き残れることを確信できる?
頭がオカシイのか。しかもなぜ、くそったれな冗談なんぞかませる余裕がある。
貴様が迎える夜道など、もう存在しないのに。
「――今の内に殺しておくか」
「え――っ?!」
笑顔をかき消す。同時に全ての感情をかき消したジャンは、男がその意味を理解するよりも早く、両手で、筋肉のついた太い首を力いっぱい締め上げた。
鶏の首を絞めた経験はあるが、やはりそれとは大きく異なった感触だった。
首の筋がこわばり、気道を確保しようとする。浮き出た血管が、その脈動を教えていた。鼓動は次第に早くなり、暗がりの中で、激しく首を動かしていたクリミアの動きが鈍くなってくる。
声はない。
その顔が苦しみから絶望へと移り変わっていくのが良く分かった。
そうして口が、ぱくぱくと何かを紡ぐ。
その瞬間――。
「があっ?!」
四肢が、何かに掴まれた。
そう認識すると、直後、それらは意思に反して力強く外側に開かれる。ジャンは仁王立ちしたまま、大の字になっていた。
筋肉に酷く食い込む鎖がそこにあった。骨が軋み、右腕から、ぼきんと嫌な音がした。
全身に激痛が伝播する。
思わず叫びそうになるのを必死に抑えて、息を呑む。視界がぼやけるのは、瞳に涙が滲んでいるせいだった。
――目の前のクリミアは激しく咳き込んだ後、一つ口笛を吹いてみせる。
すると、瞬く間に空間は光に満たされて――酒場に眩いまでの照明が灯ったと思えば、すぐさま、カウンターの奥の扉が勢い良く開いて盛大な音を掻き鳴らした。
無数の靴の音。カウンターを飛び越える着地音。多くの影。鋭い金属音。
そうした連中はおおよそ二十人近くいて、余す事無く、皆が皆一様に剣を抜き、ジャンを取り囲んでいた。
「がははッ! 俺の演技はなかなか”サマ”になってただろう? ジャン・スティール!」
演技とは言ったが、怪我はほんものなのだろう。依然として椅子に座ったままだったが、その態度は一変していた。元通りのくそ野郎に戻っていたのだ。
「貴様の素性は既に洗っている。確かに言ったとおり、『あの悲劇』の生き残りなんだろうがな……」
まるで他人ごとのように、彼は部下がつけたタバコを口に咥えた。
「てめえの事は勿論、んな昔のことなんざ、ろくに覚えてねえよ! ま、一度抱いた女の感触ならいつでも思い出せるけどな! 俺は専門家だからよ!」
ガハハ、とまた下品な笑いに、物騒に剣を突き立てる男たちは同様に低い笑いを漏らしていた。
「ま、俺も忙しいから貴様にかまってやれる時間もねえ。このクソ野郎が結構な部下を殺してくれたからな。どっちにしろ、こんな騒ぎがあっちゃ、さすがに俺も国を離れなくちゃならねえし――」
胸いっぱいに紫煙を吸い込み、肺は勢い良く半ばまでを灰に変える。
クリミアは唇からタバコを噴きだすと、たっぷり味わうように煙を吐き出した。
「てめえら、殺っちまえ」
それが丁度よいタイミングだった。
「禁断の果実」
背中の魔方陣が眩く輝く。腕は吸い込まれるように引き上がり、指先は体内の魔力の結晶たる果実を引きずりだした。
一齧り。
空気中に溶け始める、煌く魔力の残渣を眺めながら、剣の刃が迫ってくるのを理解しながら、口にした。
「覚醒めろ、俺様の法」
――虚空に黒い穴がぽっかりと大きく空いた。床にも同様だ。ジャンがそれを認識した直後に、クリミアの部下は動きを止めた。
穴から無数に吐き出される図太い鎖の束が、小器用に全ての連中の四肢にまとわりつき、何も無い空間に磔にしてみせていた。
ジャンは力任せに”意思の強さによって威力が変わる鎖”を引きちぎり、床に立ち直る。
すると、クリミアは目を見開き、口をあんぐりと開けていた。
これは演技だろうか、それとも本心だろうか――正直なところどうでもよかったが、さすがにこれは後者だろう。
「あんたは学ばねえな。さっきもこうだったじゃねえか」
さっきはこの後、仲間が突入してきて助けてくれた。だが、その仲間を先に出してしまった彼にとって、もう為す術はないはずだ。
「く、い、命だけは――」
さすがにもう、この男が窒息するまで待ち切れない。そんな時間首を占め続けていれば、怒りのあまり高血圧で倒れてしまうかも知れない。
だから剣の柄を握り、腰だめに構えてみせた。
「そうやって、あんたはこの世界を生き抜いてきたんだろう。立派な処世術だと思うよ」
だがな――。
続きの言葉は、もうクリミアの耳には届かない。
鞘から吐き出された滑らかな一閃。そこから閃く全てを置き去りにする鋭い剣撃。流麗な動作から薙ぐ斬撃がクリミアの首に吸い込まれるように放たれて――。
肉を切り裂き、骨さえも断った。
刃は初めて思いのままに目標を切り裂いて、クリミアの腫れぼったい顔面は肉体から刎ねて宙を舞い、弧を描いて、鈍い音と共に床に弾んだ。切断面の首からは鮮血が噴きでて、その返り血がジャンにも降りかかったが、最早それはどうでもいい。
先程まで生きていた男が死んだ。
もう二度とクリミアには会えない。彼にも家族はいたし、彼を信頼する者だっているかもしれない。
愛していた者も。彼が無くてはならぬ存在であった者さえも居たはずだ。
しかし、もう取り返しがつかない。
クリミアは死んだのだ。
改めて理解してみても、それは妙に現実感がなく――そして爽快感も、やはり高揚もない。
一仕事終えたような、重荷から解放されただけの疲弊感だけが残っていた。
ああやって、嘘や強引な力任せの行動で生きてきた男だ。
そういった生き方は、正直立派だと思う。その行動力や、人に好かれる、人を操る能力がなければなかなか出来ない事だ。
だが。
「その愚行に、二度目はねえんだよ」
やり方さえ間違わなければ、彼はまだまっとうな人生を歩んでいたはずだ。
出会い方さえ違えば、彼の死を素直に悲しめたはずだ。
――ジャンは剣を振って血糊を払うと、そのまま鞘に収めた。
短く息を吐き捨てて、指を鳴らして鎖を消し去る。
「面倒かけやがって――」
思えば、人を殺したのはこれが初めてだったかも知れない。
だが、なんというか……。
「こんなもんか」
罪悪感の破片もない。何の感情もない。それが、この”人殺し”のショックを和らげるために精神が、あの過呼吸の時のように感覚を鈍らせているだけかも知れないが、それでも、これは呆気なさ過ぎた。
まあいい。
目的は達成したのだ。
踵を返して、クラリスが待っているであろう交差点へと向かう。
武装した連中は、そんな無防備に背を見せるジャンに襲いかかることも出来ず――ただ呆然と、彼を見送るだけだった。
それが、この国を数年間悩ませてきた犯罪組織『スムース・クリミナル』の、あっけない最期だった。