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復讐 ③

 男は、いい加減にしてほしいと思っていた。

 転移魔術というものはすこぶる絶好調で、移動には勿論、軍隊の侵攻をするのにも便利であるのだが――眩い輝きの中、腹の臓腑が浮かび上がるような不快極まりない無重力感を経て再び大地を踏みしめた男は、うんざりとしたように首を振って嘆息した。

 シワが目立つ顔は、されど短めの白髪頭を整髪料で全て掻き上げ後ろに流すようになでつける。もみあげから伸び蓄える顎鬚も同様に真っ白だったが、歳の割にはまだ若く見える。といっても、実年齢の五八から五○歳前半、あるいは五○手前に見える、程度の誤差の範囲内だったのだが。

「まったく、わしはアレか。幼子か。これはアレだな、はじめてのおつかいといったところか?」

 柄にも無く、本来の丁寧な口調を崩して毒づく。

 その身体は歴戦の勇士を思わせるようなガタイの良さであり――ディアナ大陸かぶれのこの『ヤギュウ帝国』に合わせて見繕った背広は、座る際にはボタンを外さねばそれが弾けてしまいそうなほど、ぴっちりと身体のラインを浮き立たせていた。

 これが甲冑姿で剣を手にしていれば、どこかの騎士団長だと誰もが誤認するだろうが、実際のところ、彼には実戦経験は一度もなかった。

 いらつくようにグチグチと言葉を漏らす一方で、呼気と共に浮かび上がる白い蒸気を楽しげに見ていた。鼻は寒さ故に真っ赤に染まっていたが、稀にしか無いこの寒さを、彼は意外にも楽しんでいるようだった。

 辺りの銀世界も風情あふれるものであり、街の景観もいっそ荘厳と言ってしまっても良いかも知れない。

 振り返れば巨大な山が雪化粧をしていて、目の前の街には屋根に雪をたっぷり積んだ街並み。一様に厚着をする国民は誰も彼もが肌が透き通るように白く、幻惑的な美しさを醸し出している。

 もう十、いや二十年も若ければ仕事そっちのけでたらしこんでいたかもしれないのだが……。シワが目立つ手に視線を落として、彼――レヒト・アレスは肩を落とした。

「わしも老いたなぁ……」

「あまりはしゃがないでください」

「醜いとな?」

「卑屈すぎます」

 隣の、護衛として唯一ついてきてくれたケンタウロスの女騎士は、毅然とした態度で切り捨てる。

 相手が『国王』だろうとこの調子なのだから、皇帝相手でもどう出るか、甚だ楽しみになってきた。

 レヒトは顎鬚を撫でながら、片手をズボンのポケットに入れて、一本の紙巻タバコを引っ張り出すと、手馴れた様子で口に咥えた。

 指を鳴らせば、その何もない手の甲に浮かび上がる複雑な魔術紋様が大気中の魔力を必要な分だけ……つまり本当に微量なだけ集中させて、タバコの先端に閃光を瞬かせた。それに合わせて思い切り息を吸い込めば、吸い慣れた紫煙が肺を満たしていくのがよくわかる。

 いかにもうまげに紫煙をくゆらせれば、鼻や口から吐き出されるそれが蒸気なのか煙なのか判然としなくなった。

「軍部大臣も、少し信頼しすぎたか……わしも老いたな」

 先ほどの冗談交じりの下心丸出しの、王というにはあまりにも下世話すぎる言葉とは打って変わって、その台詞はどこか自嘲気味だった。

 ケンタウロスの騎士――ユーリアは肩ほどの高さにあるレヒトの頭を見下ろすように一瞥してから、短く、押し殺すようにため息を吐いた。

 ――今回の訪問は、ヤギュウからの報告にあったように、殺害されたジャン・スティールの死体の回収と共に、妥協案を提示して、この戦争というにはあまりにもおこがましい程の、私的な理由で国を巻き込んだ争いを、早くも終結させるというものだった。

 大臣は現在、自粛して自宅謹慎中である。彼の処遇はこの取引の後に判断される予定だ。

 なし崩し的にユーリアがその後継を務めるという噂があがる一方で、今回から大臣の代わりとなる副大臣の補佐となったエミリオも、割合に評判がいい。

 そう考えれば、アレスハイムはトップよりも部下の方が優秀なのが多いのかも知れない。

 良いことだ。

 レヒトは満足気に頷くが、ユーリアは、本当にそれどころではなさそうな顔だった。北国生まれかと思わせるような白く透き通るような肌は、今ではそれを通り越して青ざめている。

 クソでも我慢しているのか――緊張を和らげるために国を出る前にそう言ってみたが、無視された。なんとなく察しはついていたが、ジャン・スティールのことについて気に病んでいるのだろう。

 レヒトとて、彼のことは知っている。

 かつての『カミンの悲劇』の生き残りであり、最近では騎士の中でも噂になっている『騎士適性の無い、最も優秀な騎士候補生』と言うのが彼であるのは、世俗にそう詳しくはない彼でも理解はあった。

 大臣の独断で、騎士の特攻隊長に警ら隊長、そして傭兵隊長などを彼一人の訓練のためにあてがっていることも、その為に軍事予算から彼らの給与分を削っているのも知っていた。たまに来ては嘆く副大臣を慰めていたのは、何を隠そう彼だった。

 が、その青年はもう死んだ。

 気分的には、友人がちょいちょい自慢してくる手塩にかけて育てていた子猫が馬車に轢かれて死んでしまったのを聞いたような心情だった。可哀想に思うし、慰めてはやりたいが、なんと声をかければいいのか分からない。そんなところだった。

「さて、行くか」

 フィルター近くまで灰に飲まれたタバコの吸殻を指で弾いて空中に飛ばす。そうして指を鳴らせば、刹那に魔術紋様が鈍く輝き、閃光。瞬間的な高熱と共に、それは灰にすらならず、ススを散らして常に吹いているそよ風に撫でられ、どこかへと流れていった。

「はい」

 ユーリアが頷けば、頭の高い位置でくくられる金髪がりん、と揺れる。

 彼女は先を歩くレヒトの数歩後を付き添いながら、その肉体に巻きつける絨毯のような衣服の下に身につける、タイツ状のボトムスをチラリズムで通行人に見せつけるが――どこかの貴族か、お偉いさんか。そういった考察にばかり熟考するものばかりで、彼女の個人的な魅力に目を奪われるような物好きは居なかった。



 それが、およそジャンたちが裏路地で一悶着起こしていた頃合いで――彼女らが本格的に皇帝とやりとりをしている時間帯、ジャンらは、哀れだと泣いていた。

「……大丈夫よ、ジョネス、あたしが手伝ったげる」

 正確には、クラリス一名のみだったのだが。

「ジョンです」

 噛んだ。

「ジャンでした」

「ジャンでしょ?」

「はい」

 クラリスはあれから、場所を変えて適当に武装を整えている間に、今回の発端となることを適当に掻い摘んで話してもらっていたのだが――ジャンが彼女を、理屈屋の屁理屈な女だと認識していたものを一蹴するほど、彼女は感情に素直で従順だった。

 楽しければ笑い、悲しければ泣く。

 だから意図せず同情を誘い、今ではすっかりと乗り気になっていた。

 が、彼女が提案した作戦は、作戦というにはあまりにも雑多な戦術であった。

 つまりは一進一退ヒットアンドアウェイ戦法。追ってくる敵をその度に蹴散らしてから逃げ、相手に誘われるままに逃げ道を誘導され、それを幾度か繰り返した所でおそらくは最終的に囲まれる。そこを突破した際に、一人からアジトを聞き出し……といった具合だ。

 ホークいわく、彼女の実力、その純粋な戦闘能力だけで考えれば、ホークを凌駕すると言われている。ただ頭の巡りはそうそう良くないらしく、戦闘時は常に誰かと組んで戦闘するらしいから、実際にホークと対峙してみても彼に勝つことはできないらしい。

 これまでで、八二戦八二敗というのが、彼女の戦歴だった。

 ともあれ、今回は頭を使う必要など無い。

 敵を蹴散らし、アジトを壊滅させ、敵を殲滅し、最終的にクリミアを潰せればそれで満足なのだ……なのだが、どこか引っかかる。

 その違和感は、あの時ホークに止められてからずっと胸の奥底で渦巻いていた。

「まあいいけど……それで、クリミアの事なんだけどさ」

 クラリスはジャンの注目をひいてから続けた。

「ただ殺すっていうのは、やっぱりダメだと思う。ディライラが本能的に止めたのは、それが理由なんじゃないかな?」

「……どういうことです?」

 今ではすっかり頭が冷え切っているために、クリミアの話題が出ても頭に血が上ることはなくなった。だからといっておとなしくできるというわけではないので、他の事を考えて気を紛らわせていた。そんな折に、クラリスがそんな事を言ってくるのだから――ジャンは純粋に、疑問を呈した。

 彼女は、自分自身でも曖昧なその思いを言葉に変換する事に苦戦しているのか、あー、だとか、うーと唸りながら、指を折りつつ口を開く。

「仇を自分の力で叩きのめすことは、もう実質成功してるわけよね」

「うん」

 反射的な反応故に敬語は失せたが、彼女は気にしない。

「なら、今度はその精神を屈服させるのよ……あのー、あれね。心の底から、本当に申し訳ないと思わせるってこと」

「そんな良心を持ってたら、そもそもこんな事になってないんじゃないか?」

 ――そもそも、外見的にそう歳が離れているようには思えなかった。

 だから、それを機にごく自然的に口ぶりを、ホークと言葉を交わす際と同様にする。

 彼女はやはり構わないといった様子で、首を振った。

「ならアレよ」

「拷問か?」

「うん、なんかそれ的なやつ。心の底から、ジョネスを敵に回したことを後悔させること。やり方はどうでもいいの。相手に負の感情を――負の感情って言ってもアレよ、糞野郎が! とか、ぶっ殺してやんぜ! 的なんじゃなくて、怖い、悲しい、みたいなやつね」

「……ウラドを呼んできたほうが良いんじゃないか」

「あー、ダメダメ! 絶対、ダメだから。あたしアイツ嫌いだし」

「へえ」

 ――適当な相槌を打って、ジャンは大きく伸びをした。

 窓の向こう側の雪原は既に紅い輝きに飲まれ始めている。動くとすれば、この時間帯が最も適切だろう。

 自分に用意された私室で、ジャンはこれから戦闘するにあたって明らかなまでに場違いな燕尾服姿に、その腰のベルトの上に、帯剣用のベルトを重ね、バスタードソードを提げる。

 ジャンに倣うようにしてクラリスは、今回限りの相棒が投げ捨てた外套を最利用するように羽織り、その裾が床を擦るのに気づいて、首元を幾度か折り曲げ長さを調整する。

「さて、行くか」

 ジャンの毅然とした――そして覚悟し、冷め切った視線を受けながら、クラリスは言葉も無く頷き、その傍らについた。


 馬車一台通るのがやっとであろう通りは、閑散としていて不衛生的であり、また壁に走る塗料での芸術的アーティスティックな落書きが、より一層この区画の雰囲気を不気味に仕立て上げていた。

 そこを歩いていた折、既に顔が割れているジャン・スティールが、恐らくスムース・クリミナルなのであろう連中に囲まれるのは、そう難しいことなどではなかった。

 瞬く間に、十人近くの集団が二人を囲む。

 洗練されたムダのない動作。背中合わせになる二人に対して、それぞれ二人が対応する。

 だがそれも所詮、私設軍隊もどき――国の最高峰たる戦力を訓練に当てられた青年に、そして飲み込みの、学びの良さを認められた青年に苦戦を強いる事はできない。

 突きと大上段からの袈裟斬りが同時にやってきた。

 それに対する判断は、直感と、彼らの立ち位置から咄嗟に脳裏によぎる。共に身体は、殆ど反射的に駆り、その後は意識的に指先の感覚すらも意識して剣を振るう。

 速度の早い突きを避けて、即座に剣をふるって敵の剣を叩き上げる。大きく”バンザイ”でもするように片手を上げた男の刃が、大上段からの真っ直ぐな斬撃に否応なく対峙した。甲高い金属音をかき鳴らし、無防備たる男の首を、ジャンは刎ねる――そう行動したはずだった。

「ぐああ……ッ!」

 男の二の腕に深く刃が喰らいつき、筋肉が断裂。骨を半ばまで切断し、力任せにへし折るほどの鋭い一撃が、突きを放つ男に振り込まれた。腕がひしゃげ、切断面に新たな関節を作るようにそれを折り曲げた。

 一名撃退。

 おかしい――考える間に、その大柄とも小柄とも付かぬ己の肢体は翻る。

 立ち直る、騎士と言うよりは倭国の『サムライ』然とした男は、既に追撃を放っていた。

 が、速さが足りない。狙いが甘い。その行動は訓練されその身に染み付き反射的に振るわれるほどに精錬されてこその剣術だった。素人が扱えば、それはただ棒切れを振るう猿だ。

 故に、その心臓に刃を突き立てて切り抜ける――そうしたはずなのに、ジャンの斬撃は横腹を鋭く切り裂いただけだった。

 男が呻き、剣を落として腹を抑える。地面に叩きつけられる金属音と共に彼は膝を崩した。

 一名、撃退。

 何か、おかしい。

 おれは奴らを殺すはずで剣を振っているし、実際にそれが狙った通りの箇所を撃ちぬけば目的通りの破壊力を持って敵を殺害してくれるはずだった。

 右腕を咄嗟に見てみるが、今は鈍く輝いてすら無い。

 高揚もない。

 敵と対峙すること自体、早くもなんらかの作業と化しているようだった。

 おれは、何をしているんだ――何と戦っているんだ? おれは、まだ己すらも統率しきっていない、未熟者だったのか。

 考える間に、新手がやってくる。

 味方が散ってもまだ次が。それが倒されてもその次が。せめて一度の対峙で一撃でも、決定的でなくとも傷を与えられれば良い。最終的には勝ちさえすれば……そういった行動理念であるのは、仲間の負傷を気にもとめない様子から理解できた。

 そしてまた、それがジャンと同様であることも。

 また、対峙しようとして――腕を掴まれる。反射的に鋭い肘鉄を食らわそうとして、すぐ後ろにいるのがクラリスだった事を思い出した。

「作戦通りに!」

 彼女が叫ぶ。

 作戦は確か、一進一退ヒットアンドアウェイ

「了解!」

 叫んで返し、ただ凌ぐ事を目的に襲いかかってきた一閃を打ち払う。

 その間にクラリスが、己に対峙する連中に対してむちゃくちゃに突っ込んで、道を作った。ジャンは、そこを通って逃げ出すクラリスの背に襲いかかる連中を力任せになぎ払い、後を追う。

 彼女が進んだ先は、その区画をさらに進む方向だ。

 無論、無茶苦茶であるが故の選択ミスなどではなく、予定通りの行動である。

 背後からは油断なく男たちが追ってきている。建物によって造られる路地を通りすぎれば、その度にそこから飛び出てくる伏兵が、戦闘員の総数を徐々に増やしていく。

「ジョネス、大丈夫?」

 クラリスは呼吸一つ乱さずに訊いてきた。

 一方で、こんな距離など無論として余裕綽々であるジャンは、されど喉からひゅうひゅうと甲高い呼吸音をかき鳴らしながら、激しく息を乱して尋常でないくらいの鼓動を繰り返していた。

 ――ロメオによる左肺、そして気管支の破壊による後遺症は、この時にまで支障をきたしていた。

 肺胞の減少により、血中の酸素濃度が低減し、気管支の未熟な回復によってその直径は小さくなり、必然的に呼吸は苦しくなる。

 肉体は元気だ。体力はまだあると自覚できる。だが、やっていられない。すぐにでも足を止めて呼吸を整えて、適当な酒場にでもよってぶどう酒を飲みながら落ち着きたい。すぐにシャワーを浴びて、髪を乾かしてからベッドに寝転びたい。タマの肉球に押しつぶされたい。

 その欲望を、理性で切り捨てた。

 やはり理性は、あらゆる感情を排他してくれた。

「勿論!」

 親指を突き立てて、ジャンは前方に力強く跳躍しながら、空中で振り返った。

 それがやせ我慢であることなど彼女はすぐに見抜くだろう。だが危ういのは、そういったやせ我慢すら出来ない状況だ。

 ――無数の敵を前にして、ジャンは地面に着地すると共にバスタードソードを地面に突き刺した。舗装された硬い、石のような大地に、浅く刃がねじ込まれる。同時に右肘の魔方陣を展開。辺りに、体内からの魔力が吹き出されて、度合いが濃密になる。

 剣の刀身に紋様が浮かび上がった。そうして眩く輝き、発動する。

大地アース・ピックりっ!」

 地響きもなく、その予兆もない。

 大地は瞬時に隆起し、鋭く尖る錐状の地面が集団を襲う。が、それだけに終わらず――バスタードソードは意気揚々と、その輝きをさらに増した。

 この感覚は……。

 柄を強く握りしめ、その可能性に応じるように、その先を夢想した。

「いけるか……大地アース激昂・ピックっ!」

 ――戦闘級魔術レベル・ミリタリーは基本的に、その威力や規模から下位、中位、上位の三段階にわかれている。

 彼が今まで扱えていたのは、才能がなくともある程度の者は使用できる下位魔術。

 次は魔力の流れ、その扱いを繊細に利用できるようになって初めて発動できる、中位魔術。

 最後は洗練された白兵戦と同様に、血のにじむ努力を経て魔力の利用、そして魔術についての知識、経験などの多くのものを得てようやく扱える、上位魔術。

 彼のソレは中位であり――その直後に、大地に鈍い震動と共に、大地の隆起に襲われていた連中にはさらに、前後左右の地面からごく低空飛行で飛び出す、角張った長方形の石柱が、瞬く間に肉薄した。

 衝撃。

 響く悲鳴。絶叫。悪態。

 多くの者が集まっているために潰される者は居らず、どうにも死者は出ていないようであるし、命に関わるほどの重傷者も居ない様子だったが、それでも戦闘に参加できるものは、ごく僅かな数へと減っていた。

 ジャンは剣を抜き、鞘に収める。

(強く、なってる……よな?)

 にわかな不安。

 剣同士での戦闘では思うとおりに動かないのに、魔術だと予想以上の力を発揮する。求めているものとは大きく異なるちぐはぐな結果に、されど酸素不足故に深く考えられなかった。

「上出来! さ、行くよ!」

 空は藍の色に没し、薄暗いその通りは既に闇に飲まれ始めている。

 急がねば、誘われる以前に道に迷ってしまいそうだった。

 ジャンは手を引かれるままに、ぜえぜえと呼吸を繰り返し、今にも死んでしまいそうな拍動の中、クリミアを思い出すことによって強く意思を持ち直した。



 木箱は、テーブルの上に置かれていた。ちょうどツボでも収まっていそうな、上等な桐の箱だった。

 窓の外は暗くなり始めている。だがそれでも構わず、客室でレヒト・アレスとロメオ・ヤギュウは対峙していた。控える近衛兵はラウド・ヴァンピールのみとなるのは、彼の背後で待機するユーリアに対する評価といったものだろう。

 彼はその趣味を除けば、この国で最上位に近い実力を持っている。その一番上に上れない理由は、純粋に白兵戦が驚くほど弱いから、というものだった。

「わたしは残念ですよ。こんな事になってしまって」

「そりゃあこっちの台詞だ、小僧。貴様がまだガキだった頃、散々言って聞かせただろう。わしの国に手を出したら承知しないぞ、と」

 年齢は約二○歳ほど離れている彼らは、それ以上に顔見知りといったところのようだった。口ぶりから見れば、歳の差以前の上下関係があったらしい。

「それを、貴様……こんな――」

 テーブルの上の木箱を手にして、フタを開ける。すると、鼻腔に突き刺さる腐臭が空間内に溢れ始める。中には血にまみれ、青白く変色する青年の頭が無造作に突っ込まれていた。原型はなく、無数の傷から拷問の様子が見て取れる。

 が、甘い。

 レヒトは無造作にその髪を掴むと、強引に木箱から引きずりだして、目の前に掲げた。

「……ッ!」

 背後でユーリアの押し殺した悲鳴。ロメオの奥で、機嫌がよさそうな口笛が聞こえる。

「わしを愚弄するつもりか? なんだこれは」

 まぶたを指で開けようとして、そこが”開かない仕様”になっている事を確認する。また首の切断面を見て、そこが紅く塗りたくられているだけなのを見る。顔に近づければ、吐き気をもよおす腐臭の中でゴムの臭いがした。

「雑すぎる。もっとまともな造形師でも雇えば、わしも騙せたのだがな」

 その偽物フェイクを燃やしてやろうと思ったが、部屋の中でそうするのはいささか気が引ける。喚起するにも、夜であるために空気が冷たすぎるだろう。それには、あまりにも堪え切れない。

 レヒトはそれを桐箱に納めてからテーブルに戻した。

「やはり、衰えていませんね。わたしは正直、騙しきれると思っていましたが――」

「そんな話はいい。貴様の妥協点はどこだ?」

 ロメオが褒めた還暦に近い男の瞳が、狡猾なまでに鋭い眼力を持って睨んだ。

 全く、久しい再開だというのに――漏らして、嘆息気味に肩をすくめた。

 単刀直入に。ロメオはそう頭に置いて、告げる。

「『異世界』探索の結果の提供です。技術でも、情報でもいい。そちらが隠蔽している情報の開示を求めます」

「いいだろう」

 レヒトが頷く。

 微笑はない。冗談だ、という様子は一切ない。

 まるで、買い物に行く際についでに何かを頼まれた時のような、快いまでの気軽さ。

 それに、罠か、とロメオが警戒する。

「どうした。目的の値段より高くふっかけたのに、それを了承されて驚いているのか?」

「い、いや……」

 否定しようとして、ぎらりと嫌らしく輝く眼光に、全てを見透かされているような気分になった。

「ああ、その通りです。なぜ、これまでひた隠しにしていたそれを、そこまで簡単に?」

「……なにも隠してきたつもりなど、無いのだがな」

「だが、わたしが探索の要請を出した時、断ったでしょう。他国も」

「あれは既に行なっているから、不必要だと言っただけだ。貴様らは、それ以上は関わって来なかった。つまり、聞いて来なかっただろう?」

 ――国の一つの財であるそれらをわざわざ自ら公言するわけにもいかない。

 レヒトは困ったように片手で頭を抑えて、わざとらしく大きく息を吐いた。

「もっとも、寄越せと言われて素直に手渡せるものでも無いが」

 ならば人質の価値が、それに値するとでも言うのか。

 確かに他国の人間がいる時点でそれを渋ってもいられないのだろうが。

 それで、とレヒトはつづけた。

「これに際して、一つ条約を設けようと思うのだが」

「ほう、条約……ですか?」

「うむ。まずこの情報開示は原則的にアレスハイム王国、ヤギュウ帝国間でのみ行われ、そこで得た情報、そこを元にする技術の他国への提供や開示の一切を禁ずる」

「ええ、構いません」

「なら明日にでも書類を送らせよう。わしはもう帰りたいんだが……あの連中はすぐに呼び出せるか?」

 重い腰を上げて、やや前屈み気味だったから腰にキたのだろう。拳で腰部を申し訳程度に叩いて、大きく背中を反らせる。

 そんなレヒトを見て、ロメオは思わず、といったように背後のラウドと顔を見合わせた。

「どうした。まさか、本当に拷問まがいな事をしているわけでは――」

「ああ、いや、そんな事は、決して」

「だったら何だというのだ?」

 顎鬚を撫で付けながら、もう片方の手は苛立たしくポケットをまさぐる。だが長居する予定ではない故に、ストックしていたタバコはもう底をついているようだった。

 忌々しげに舌打ちをすれば、ロメオは言いにくそうにレヒトを見上げ、

「ジャン・スティールの事なのですが……」

 ――またその名前か。

 うんざりしたように嘆息して、レヒトはそのふかふかの上等な革製のソファーに座りなおした。浅く尻を置いて、その背もたれにふんぞり返る。

「現在、この城下町のスラムの地区を統率する大規模な犯罪組織『スムース・クリミナル』に命を狙われているようで……」

 足を組もうとして、されど太ももにがっつりとついた筋肉がそれを邪魔する。足首を膝にひっかけるようにして、体勢を維持した。

「経緯は?」

「そのスムース・クリミナルのリーダーが、クリミアという騎士団の一人で――八年前の、あの悲劇の実行犯ということが、知られてしまって」

「その事実を隠蔽しようと?」

「いえ、それが」

 ロメオ自身、それを実際に口にするのはいくらか屈辱的なことだった。

 まずクリミアの素性を知っておきながら放置している己の不甲斐なさ。それは事実上、加担しているとしか言い用がない。国のトップが、この有様なのだ。

 加えて次は――まだ騎士ですらなく、歳も一回り以上したである青年に、四肢をばきばきにへし折られて失神してしまった男が、この国で上位に食い込む実力の持ち主であるということ。

 恥だ。

 今ならば、迷うこと無くあの男を処刑するだろう。むしろ、あの時の自分はどうかしていたのだ。いくら、まだ軍事力がさほどでなく不安が残っていたとはいえ……。

 ええい、ままよ。どちらにせよ、ここまでで大まかなところは察せられているのだ。むしろひた隠すことこそが恥だ。先ほどの言葉を、そのまま返されてしまう。

「どうにもその連中は、そんな男に随分な忠誠心を持っているらしく、ですね」

 息を呑む。

 部屋の中は温かい程度の室温だったが、気がつけば額にびっしりと汗をかいていることを自覚した。

 喉を鳴らして、乾いた口の中で無理やりツバを飲み込んだ。

「皮肉なことに、リーダーの仇討ちと相成っているようです」

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