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復讐

「面倒くさい。ああ、面倒くさい」

 深夜、客人は全て寝静まった頃。

 ロメオ・ヤギュウはそれでもいまだ明かりが灯る玉座で、魔方陣を展開しアレスハイムからの生き残り約五○○○名を帰還させたラウド・ヴァンピールにそう漏らしていた。

「どう致しました?」

 夜勤の近衛兵は扉の前で出張っている。本来ならば中で待機しているのに外にいるということは、彼がわざわざ追い出したということだろう。

「今回の客人で唯一の名の知れぬジャン・スティールについて調べてみたのだがな……これがまた、とんでもない曰くつきだった」

「曰くつき、と申しますと……?」

 外套で身を包むようにして跪くウラドは、顔だけをロメオに向けて首を傾げた。

 ロメオは頭を振って、短く舌打ちをする。

「確か八年ほど前に、いただろう。このわたしを陥れようとした愚かな男たちが」

「八年前……となれば、確かアレスハイムの、どこかの村を壊滅させたと言う――クリミア率いる特攻部隊の?」  

 ラウドの台詞に、彼は頷いた。

 ――きっかけは、その八年前に創設した特別攻撃部隊というものだった。

 通称『特攻部隊』は、かつて倭国で提案された『カミカゼ』という計画から引用された部隊だ。生存確率の極めて低い、捨て身覚悟での特攻を主とした”使い捨て”の部隊。それを創設したときは、まだついに今回行われた戦争の、具体的な案が生まれてきたばかりの頃だった。

 が、そういった部隊は割合に民からの反対はなかった。

 元々、犯罪の経歴を持つ者を主として集めた部隊だったからなのかもしれないが、その中でもクリミアという男は騎士という身でありながらも私的な理由で事実上の強姦や軽犯罪者の行き過ぎた拷問による殺害などを幾度となく繰り返していた。

 だから、そんな彼が特攻部隊長に選抜されたのは最早必然とも言えるのだが――そんな彼が勝手に部隊を駆り、起こした行動がアレスハイムの適当な村を襲い、最終的な責任者である皇帝に全ての責任をなすりつけるという行動は、さしものロメオでも想像の範疇を逸脱していた。

 結果的に村は壊滅。

 アレスハイムの騎士団が駆けつけた頃は全てが遅く、生き残りは二人の少年少女だけだったと言う。

 ――クリミアを処刑することはできた。だがそうしなかったのは、一概に皇帝の甘さ故だった。

 五年の懲役のみを課し、特攻部隊は解散。

 アレスハイムには多大なる謝罪と賠償を行い――五年後、クリミアとその部下はその後適当な部隊にあてがわれることとなった。

「その部隊が壊滅させた村の生き残りの一人が、そのジャン・スティールだったというわけだ」

「それはまた……」

 ウラドは気の毒そうに、言葉をつまらせる。

「奇遇なことですな」

「これを知られれば、奴は真っ直ぐ殺しに向かうだろうか」

「……彼と直接関わった私が申しますと、おそらくは」

 こくりと頷く部下を見て、ロメオは苛立たしげに頭に爪を立てて髪をかき乱した。

「くッ、もう面倒だ。わたしはどうすればいいんだ? 好きにさせてやればいいのか」

「アレスハイムと言えばあの悲劇、という者も少なくはありません。それを知るのはもはや必然かと。となれば、その行動は自然にそこへと移行することでしょう」

「……ならば監視しておけ。手を出すな……だが、随時報告を」

「了解致しました」



 事態は好転し、戦争は事実上の休戦状態へと移行した。

 捕虜や人質としての待遇はなく、またあそこでの肝の据わった取引が功を奏したために、右腕の魔方陣も模写だけに終わり、その存在はいまだしっかりとくっついている。

 またヤギュウ帝国皇帝にも気に入られたのだが――。

「……嘘、だろう?」

 ヤギュウ帝国に来て二日目。つまり部屋を用意された、その翌日。

 ジャンらはこの国での実質的な被害をもたらしていないために兵隊や騎士から恨まれることはなかったが、それでもハンス、マリーの警戒心は解けていない。だが一時的な休戦だから、個人的に少しは溶け込もうと話している折に、にわかに信じられぬ情報が飛び込んできた。

 それは、この国のとある部隊が『カミンの村』を壊滅したという事。

 カミンの村は、アレスハイム領内のやや北東にある、どちらかと言えば鉱山都市マイン・アバンにほど近い村だ。

 そして――ジャン・スティール出生の村でもあった。

「本当だよ。ありゃあ俺もやり過ぎだとは思ったな。だから、今回は正直、ボロ負けしても仕方がねえと思ってたし。大きな声じゃ言えないがな」

 目の前の男は、口をすぼめて手を添えた。

「そもそも士気はそう高くなかったんだ。その上、あんな”大魔術”なんか見せられたら、よ?」

 ――にぎやかな食堂は、昼時故に休憩中の兵士やら警備兵やらで多く賑わっている。並ぶ長机の間に入って空になるコーヒーカップを気にする女中は、忙しそうにパンやコーヒーなど、おかわりの品物を配っている。

 ホークは暇つぶしに外に出払っていて、またハンスとマリーは一緒の部屋にいるのだが、個別の部屋で食事をとっている。あれほどの事をされたのだから仕方がないだろうと言えた。

「目的はなんだったんだ? その部隊の」

「元々は戦争を吹っかける予定だったらしいんだが、それに手をこまねいている皇帝の指示を待たずに勝手に暴走した結果だ。結果的に、その行為が今回まで戦争を長引かせたんだけどな」

「そいつらは、今回参加したのか?」

「その事で部隊は解散。部下は全員、例の大魔術に巻き込まれて死んだが――確か、隊長の方は、アレだな。援軍の方に入ってた。ほら、あの騎士だけで構成された五○○人の」

「へえ……そいつの事、詳しく聞かせてくれ」

 ジャン・スティールの目は据わっていた。

 このまま探しだして、皇帝の許可をもらって決闘をするのもいい。夜道を狙って惨殺してやるのも良い。

 だが、他にもっと良い方法が思いついたのだ。

 どちらにせよ、皇帝はじっくりと思念にふけっている。作戦の実行までまだ二、三日かかっていることだろう――もっとも、ジャン・スティールを殺害したという情報は、昨夜の内に送っているらしいから、逆にアレスハイム側から先に動きがあるかも知れないが。

「お、おう……どうしたんだよ」

「いや、そんな勇猛な騎士さんの事を知りたいなって」

「……でも、あんま評判良くねえぜ?」

 願ったり叶ったりだ。

 最終的にはどうしてやろうか。

 ああそうか――皇帝のあの微笑は、この感情によるものか。

 ジャンは納得しながら、躊躇いがちにもすべてを話してくれる男の声を、一字一句聞き逃すこと無く頭に叩き込んだ。


 思い立ったが吉日。

 ジャンの行動は、思い切ったものでありながらも的確であった。

「クソっ! ああ、胸糞悪い!」

 近くのメイドに頼んで新調してもらった洋服は、まさかのウラドとおそろいの燕尾服だった。腰から二つに別れる裾は、さながらつばめのよう。円筒の帽子がないのが、まだ救いだろうか。

 しかし、だからといってそのことに苛立っているわけではない。

 着替えている途中。

 あるいは眩いばかりの雪に覆われる街を眺めれば、あの日の事が脳裏に過るのだ。

「そ、そんなに気に入らないなら脱げば良いのではないかねッ!?」

 なぜかついてきているウラドは、見当違いに怒鳴る。

「わ、私の基本的な服装がこれだから――」

「違うよ……なぁ、あんたも知ってるだろ」

 目の前で多くの人間が虐殺されていった。

 友人さえも、まだ年端もいかぬ子供さえも遊ばれるように殺され、犯された。

 ただそれを見ていることしか出来なかったが――この事実を知ったのが、今日でよかった。

 もしこれがこの国に来る以前や、あの皇帝と交渉する以前であったならば、とても平常心ではいられなかった筈だ。

「ああ、もう三度は聞いた」

「ならおれから離れててくれ」

「そうは行かぬな。武器も持たぬで一応敵国の人間が国内をぶらつくのだ。護衛につくのは至極当然」

「二回もぶっ倒されたのにか?」

「貴君、それを言わないでおいてくれたまえ」

 立つ瀬が無くなるぞ――ウラドは気まずげに笑う。ジャンはそれ以上、ついてくることに口出しはしなかった。

 ――この国は、既に配置からして背水の陣を敷いていた。

 城下町、その城の背後には断崖絶壁。海が広がる。

 城の門から伸びる跳ね橋を渡った所で街があり、そこを行き来する住民はまるで戦争など知らぬような日常風景を作り出していた。最も、本当に知らぬのだろう。ジャンたちとて、訓練の総仕上げの最中に巻き込まれたのだから、アレスハイムも同様かもしれない。

 暖かそうな毛皮の外套コートを羽織り、耳あてまである毛皮の帽子を被る。肌は恐ろしく白く、目は利発そうな蒼眼。また服の上からでも分かるほどスタイルは良く、また長身だった。男性は男性でやはり身長が高く、顔立ちが整っている。

 無自覚なコンプレックスを抱きそうになるのを抑えながら、ジャンはウラドの案内のもとで男から聴きだした酒場の近くにある、パン屋を目指した。

 人通りの多い道路は雪がはけてあり、また溶けた水は溝へと流れているために、通路が水浸しになることはなさそうだった。

 やはり北国の知恵というものか――そう感心していると、傍らのウラドが小瓶を差し出した。

「正直、貴君の行動に賛同はできないがな。だが、個人的に私も奴はあまり好きではないし、聞いた所によれば妻子が居るというのに他の女をはべらせているらしい。この際だ、がっちりやってしまえ」

「これは?」

「媚薬効果のある香水だ。私特製でな。下手に男が反応しないよう、女性にのみ反応するようになっている。あと、貴君はある程度顔立ちがいいのだから、犬を威嚇するような顔はやめておきたまえ。にっこり笑顔の優しさに、女性はすべからく堕ちるものだ」

 ――かくして、城からそう遠くはない位置のパン屋の前で立ち止まる。

 人通りが多い、大通りの一等地。ここなら随分と商売がしやすいだろうと思いながら、ジャンは小瓶の蓋を開けて液体を数滴、手首に垂らしてこすりつけ、それを服にもなすりつける。

「手馴れていますな」

「ま、うちの妹が身なりに気をつけろってうるさいもんで」

「できた妹さんだ。今度戻る時に紹介してくれると嬉しいですなあ」

「いや戻るってか帰るからな。二度と来ないから。つかお前歳幾つだよ」

「……ははっ、細かいことは気になさるな」

 乾いた笑い声をあげて、ウラドは軽くジャンの背中を叩いて出入り口の扉に押し付ける。

 仕方なく扉を押し開ければ、来客を知らせるベルがちりんちりんと音を鳴らした。

「あ、いらっしゃいませー」

 元気な女性の声。

 店内は、昼下がりということもあって閑散としていた。

 背後の扉が閉まる。が、ウラドの姿はそこにない。

 やはり紳士、空気が読めている。

 ジャンは心の中で彼を褒めちぎりながら、店の壁に沿って――あのウラドの悪趣味な趣味部屋のように並ぶ机にトレイが並び、その上に並ぶ無数のパンを、適当にトングでかっさらい、適当な空のトレイに乗せる。

 カウンターへと向かえば、そこにはまだ三十前くらいの若い女性が店番をしていた。バイトかと思ったが、左手の薬指に嵌められている金のリングを発見し、間違い無いと理解する。

「これ、お願いします」

「はい! ありがとうございます!」

 丁寧な挨拶。声はやはり若く、顔にはシワひとつ無い。

 綺麗なブロンドは長く、それを首あたりで纏めて、その髪を肩から前に流している。エプロンを着込んでいるためにスタイルはよく分からなかったが、それでも子持ちとしてはすらりとしたものだった。

「あー、あと」

「はい?」

「お姉さん、少し良いですか?」


 相手がそうしたから、まったく同じ手段でやり返すというのは正しいやり方だとは言えなかった。

 だが最終段階では殺害の計画まで立てている以上、彼にとってはそれまでを如何にして精神的に傷つけるかが肝要となっているのだろう。

 どこからどう見ても普通の青年だ。むしろ、グレていないことだけが奇跡的に見える。人当たりの良さから善人に見えるから、こういった選択や思い切りの良さが随分と悪人らしい一面に見えて仕方が無いのだが――もし、今回で彼が初めて人を殺すのだとしたら、本当に計画が最後まで行きつけるかが不安だった。

「複雑だ」

 ウラドは、店に暫く滞在してから手ぶらで肩を落として出てくるジャンを見て、短く息を吐いた。

 彼はこれから、昼間からろくでなしが集まる酒場へと向かう予定だった。あの媚薬の効果が継続している彼女をそこに連れていけば、およそろくでなしにとっての天国、今回ジャンに目を付けられた男にとっての地獄が見えるだろう。

 加えて、それが始まりであるのは、想像に難くない。

 あと二、三時間もすれば義務教育から帰ってくる娘がいる。彼女も、母同様に弄ばれるのだろう。

 こう考えればジャン・スティールは混じりっ気のないクズだ。どうせなら出生からこれまでを語ってお涙頂戴したほうが幾分かマシになる。カルト教団に推薦するのもいいかもしれない。

 が――結局は、その始まりにすら着手出来なかった。

 それが単なるビビりの結果なのか、良心によって悪意が押しつぶされたのかは知れない。

「やれやれ、どういう事だか」

 皇帝は今頃、いかに大臣を失脚させようか、幾通りもの案を吟味している頃だろう。下手にあの時に気に入ったからと、ジャンを身内に誘いたがったりしないことだけが救いだった。

 報告に行こうかと思ったが、まずはジャンだ。

 彼はそう考えて――空を飛ぶその身を、勢い良く滑空させた。


「どうしたと言うのだ」

 ウラドはその傍らに降り立つと同時にそう訊いた。

 ジャンは先程まで息巻いていた姿はどこへやら、喉からひゅうひゅうと高い音を鳴らしながら、口を開いた。

「ここ二、三年、奴は一週間に一度戻るかどうかの生活を繰り返しているらしい。家に金も入れないし、戻ってきたら戻ってきたで呑んだくれて、身体を求めるだけだとよ」

「あの奥さんだと大して精神的なダメージにならないから、か?」

「ああ、それもあるが――あの奥さんは駄目だ。良い人すぎて、おれには……とても」

 やはりビビった結果だ。

 ウラドはこれみよがしに嘆息してみせたが、ジャンは微動だにせず、柄にも無く呼吸を乱したままだった。

 これでは、本当にあのクリミアを殺すことはできないだろう。

 できることなら出会うこと無く、そのまま国に帰って欲しいものだが――この調子だと、対峙しても勝てるかどうか、対等に戦うことすら危ういかも知れない。

 クリミアは人間的にクズだが、実力は割合に高い。無論として吸血鬼であるウラドに勝つことはできないが、それでもその戦闘能力は軍でも上位に食い込むほどだ。

 彼が生かされた理由には、そういった要素も含まれている。

「それで、どこに行くつもりかね?」

「奥さんが言ってたのは、行きつけの酒場にいるって事だ。今日は訓練も休みだから、そこに居るかもって」

「武器も無しに突撃か?」

 日差しを気にして外套をきつく締め付け、帽子を目深にかぶり直すウラドは、説教でもするように威圧的に言った。

 が、ジャンは依然として前を向き足を進めたまま頷くだけだった。

「……好きにしろ」

 彼とて、この国を信用したわけではないし、好きになったというわけではない。

 こんな喘息に似た症状になったのは、ロメオの攻撃によって肺が破壊されたせいだ。マリーに治療してもらおうにも、道具が足りないから国に戻ってから、と言われている。だからこそ派手な運動は厳禁とされていたのだが、もはや構うものか。

 人質として殺されかけて、だが妙に皇帝に気にかけられた。

 心情的には、今まで威圧的だった上級生が優しくしてくれたようなものだ。安堵できても、気を許すには至らない。

 またウラドも同様だ。

 彼に至っては、感情移入さえしないから”どうでもいい”というところだった。今日はロメオの指示でわざわざついてきているが、ここで死のうがどうしようが、正直なところどうでもいい。最も、死ぬのは国として困るから危なくなれば止めざるを得ないが――ここまで粋がり驕っているガキは、少し痛い目を見なければ分からないだろうと考えていた。


 少し入り組んだ所に、その酒場はあった。

 建物と建物に挟まれて出来上がる路地の奥地。大通りから外れたそこは薄汚く、また壁には塗料での落書きが豪快に行われていて、どこか怖気の走るような場所だった。

 また、どこからともなくすえたような腐臭も漂ってくるが、気のせいだと信じたい。

「ここはスラムに近い場所だ」

 ウラドの要らぬ説明に、されどジャンは構わず酒場の凍えたドアノブを捻り、押し入った。

 蝶番が錆びた音を立てて、扉が開くと共に中の満ちた酒気が風を起こしてジャンの全身を撫でて行く。薄暗い赤灯によって照らされる室内ににわかな灯りが差し込んで、扉が閉まれば、淀んだ暗さに空間が満たされる。

 軽快な音楽が、微量な音量で響く。

 どこの酒場もそうなのか、やはりここもいくつもの円卓に、カウンター席という一般的な内装だった。

 客は意外にも多く、そしてその殆どの客の身なりは薄汚かった。麻の衣服は薄汚れて、近くを通りすぎればすえた臭いがする。また酒を瓶ごと煽り、酔って寝てしまっている者も居る。

 どうあれそういった連中の目付きは一様に悪く、その格好からはすさんだ背景が見えてくるようだった。

 ここが、スラムという場所か。

 ジャンはそう改めて認識してから――カウンター席壁際で、壁を背にして座る男を発見する。それはそう難しいことではなく……むしろ、それを見つけたことを、ジャンは後悔した。

 男の隣に座っている女性は彼と向い合って、上肢を深く下げている。おじぎをする格好だ。が、その顔は男の股間に埋もれていた。また耳を澄ませば、水音を立てて――その顔は上下している。それがとてつもなく卑猥である淫猥な行為であることは、年頃であるジャンにはすぐに理解できた。

「なあ、あいつがそうなのか?」

 正装である彼らは周囲から目立ちやすい。だから空間の隅の円卓を陣取って眺めれば、ウラドはどこから出したのか、蒸留酒を煽り始めていた。

「ええ、彼が何を隠そう、クリミアですな」

「なら、隣の女は?」

 肩をむき出しにする派手なドレスは紅く染まっている。足はふとももからむき出しになっていて、屈めばその深く開いている胸元からたわやかなバストが零れてしまっていた。

「ああ、娼婦でしょう。スラムは、寒ささえ凌げればどこでも事に及ぼうとするのでな」

「下衆が」

 心底むかつくようにジャンは吐き捨てる。

 ウラドがおちょこのようなグラスに蒸留酒を注いで差し出せば、ジャンは迷うこと無くそれを受け取った。飴玉でも放り込むようにその琥珀色の液体を口腔内に流しこみ、燃えるようなアルコールを飲み下す。

 ――それから五分ほど監視していれば、ついには本番行為にまで移行していた。

 カウンターの向こうにいる主人はまるで日常茶飯事であるようにポルノ雑誌を手に読みふけっているし、客はその光景を気にすらしない。

 程なくしてそれが終わると、カウンターに金貨一枚を叩きつけてクリミアは席を立った。

 娼婦の女は息も絶え絶えにカウンターにへたりこみ、垂れてくる液体にハンカチをあてがう。ジャンはそれを一瞥してから、追うようにして酒場を後にしたクリミアの背についていった。

 ――扉を開けて、左右を確認する……までもなく、目的の男はその正面の壁にもたれかかっていた。

 襟を立てるコートを着こむ男。黒髪は額の真ん中から分けられていて、肩まで伸びている。

 細い眉に鋭い目付き。顔つきはいかつく、そのいで立ちはマフィアの若頭のようだった。

「俺を尾行つけてるのは、てめえか?」

 ポケットに両手を突っ込み、その長身は見下すようにジャンに言葉を吐き捨てた。

 背後にはウラドの姿はない。

 だが構わず、彼は頷いた。

「だったらなんだってんだ」

「俺を誰だか、分かってんのか?」

「ああ、知ってる」

 ジャンは底意地が悪そうな笑顔を作り、歯を剥いて頬肉が攣りそうなほど吊り上げた。

「随分な早漏野郎だってことはな」

「てめえ!」

 コートを翻して、男は腰に刺さる短剣を、流麗たる動作の中で抜き、そして深く踏み込む――鋭い一閃。それはジャンの反応速度を上回るほどの速さで鋭くその喉元へと飛来した、が。

 ジャンもただ流されるままに二ヶ月間訓練を受けていたわけでもなく、また白兵戦能力はホークに認められているほどだ。故に、短剣は虚空を貫く。

 肩口の遥か上を流れる腕をそのままにして、ジャンは片手でその腕を払い、掴み――下方へと力いっぱい引きずり落とす。するとクリミアの身体はいとも容易く姿勢を崩し、

「ッ!?」

 その顔面に、ジャンは力の限りで振るう拳を叩き込んだ。

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