救出作戦 ②
「兵隊の配置は終了したのかね」
憮然と淹れたての紅茶をすする軍部大臣は一息ついた所で、葉巻に火を点けながらそう口にする。
アールグレイを飲みながらタバコをふかすその姿はとても趣味が良いというものではなかったが――対面で、疲れきったようにテーブルに伏せる小柄な少女は、慇懃無礼とは全く逆の態度で顔だけを彼に向けていた。
彼女はドワーフ族の娘『ミキ』であり、王立第二騎士団――つまり偵察団の団長を務めている。
「”泳がせておいた”お陰で、なんとか。しかし連中も、こっちもこっちで”交渉”しているとは思わないでしょうな」
「なに、あちらさんもブリックにエルフェーヌと、無数の国との協定を結ぼうとしているのだ。お互い様で済むと思うがね」
「しかし、相手方にとっては本命だが」
「知った話ではない。なにせ、我々はヤギュウがここに侵攻してくることさえも知らないのだからな。いつも通り国際――いや、異世界交流をしているだけだ」
くゆらせる紫煙が揺れて膨張し、そうして大臣の口が丸くなると思えばそこから煙が輪を作って吐き出された。
ミキは嘆息してから紅茶で喉を潤し、退屈そうに頬杖をつく。
「国防部隊に元特攻隊長のユーリア……ま、もしもがあっても、これなら対抗できることは出来るけど」
「そして”予測通り”彼らも、ヤギュウ本国に侵入した頃合いだろう。となれば、そろそろ向こう側も進軍開始、と洒落込むか」
ここ何ヶ月か、彼女は単体で国中を歩いて回っていた。それは既にこの国内に侵入したと予測されるヤギュウ帝国本隊を探すためであり――およそ一ヶ月ほど前に発見した時、その数千からなる大隊規模の兵隊たちは、コロンの街付近の廃鉱に集合していた。
その後の探索によって、その最奥に転移魔術の魔方陣が刻まれていることが確認され、そこがヤギュウに繋がっていることも判明した。
ミキの魔法によってその行動の全ては、彼女の報告を受けた大臣以外知るものは居らず、故にアレスハイムにとっても大隊規模が”溝”へと行進した事には不意打ちを受けたことだろう。
そうした事は無論、情報漏洩を心配したことであり、彼らは事実それが正しいと思っていたし、指揮官クラスの連中はそんな突拍子も無い命令でも、大臣を信頼して行動を起こしてくれた。
「おそらく、今回は数日で終える戦闘だ。下手をすれば一日ともたない。さらにわざわざ自ら国内に”猛獣”を招き入れたのだ。援軍とてままならない筈だし、そもそもの主要の戦闘でさえも敗北する兆しもない」
「それなら良いんだが。問題は、あの三人組か。こちらも忙しい身で、応援に行かせる人でもない有様だし――」
考えても仕方が無いことがある。
ミキは言葉を切って嘆息してから紅茶を飲み干し、未だ残る己の仕事に戻っていくのを、大臣はただタバコをふかしながら見送った。
「ここが、ヤギュウ帝国か」
坑道は、本来奥へと続き道を分かつはずなのだが、その半ばが崩れ落ちてふさがってしまっていた。が、それは随分と前からその状態であったらしく、魔方陣はその手前に刻まれている。布に、血で描いた魔方陣は依然として妖しい輝きを放っていた。
そこを踏みしめ魔力を込めれば、輝きが周囲を包んで――。
視界に飛び込んだ光景は、凄絶としたものだった。
血で満たされた、寒々しい空間。そこらかしこに肉片、千切れた四肢、零れた臓物が撒き散らされていて、あの狭い会議室の一回りほど広いその部屋の壁沿いにコを描いて並ぶ机は、その上に無数の生首を飾っている。
――そこは恐らく、拷問室だとか牢屋、あるいは処刑室、死体安置所などのそういった部屋なのだろう。
目の前には、扉のない唯一の出入り口。足元には、血の池の中で魔方陣が輝いてその形を示している。
「ほうほう、貴君らがアレスハイムからの使者かね?」
燕尾服姿の男が、そんな出入り口の闇の中からぬうっと姿を現した。口元に生えたささやかなひげに、ニヤリと笑った際に覗かせる鋭い犬歯が特徴的な、円筒形のツバの両側がそり返った帽子をかぶる男だ。
彼は水音を鳴らして空間内に入るやいなや、黒い外套を翻して革張りの茶色いスーツケースを彼らの前に投げ捨てる。
溜まる血が飛沫をあげて彼らを濡らし――口元を抑えていたジャンは、いよいよ堪え切れなくなって胃液を口から吐き出した。
「貴様、あの吸血鬼で相違ないな」
「ふむぅ、なにゆえ狼っころなぞが紛れ込んでいるか理解できかねますが……ま、ま、細かいところは置いておきましょう。これで心置きなく、進軍は開始したわけです」
――ミシミシという繊維の悲鳴が聞こえたかと思うと、間もなく断末魔が響き、ハンスの両腕が図太く変異する。指先は黒く染まり、尾てい骨あたりから毛を膨らます尾が生えてきた。
「やはりな……、ジャン。こいつは罠だ。オレたちを、国から離すことが目的だった。そしてまんまと引っかかったわけだ――オレたちが主戦力なんかじゃねェっつー誤算を除けば、正しい判断だな」
「ほうほう、何を仰ります。貴君らは戦闘的な面で不安を抱いて強制離脱を促したわけではないのです。いわば戦略的、取引に使わせていただこうという腹ですな」
紳士然とする吸血鬼の言葉に、苛立ちをぶつけるハンスは勢い良く壁を殴り、砕く。壁には大きな穴が開いて崩れた破片が机を砕き、そうすると吸血鬼は「おやおや」と困ったような声を上げる。
彼は巻き上がる煙を吸い込まぬよう、外套で口元を抑えた。
「そんな事はどうでも良いんだ、貴様――お嬢様をどこにやった!?」
「そんな私情で私の収集物を壊されては困りものです」
「”私情”だと? 貴様……マリー・ベルクールはただの道楽家の娘なんかじゃない。名だたる資産家の孫娘だ! 魔術師組合創設者の孫だぞ……世界を、敵に回す覚悟があんのか? その貴様の性器ほどに小っせえ肝っ玉でよお!」
「我が判断は我が主の判断――が、遅すぎましたな」
ハンスの怒号に、素知らぬ顔で男は血溜まりに浸るスーツケースを指さした。
「肉体はこの中にございます。貴君らが来た時点で、既に人質としての役目は終えられたのでね」
「貴様……ッ!」
ならば交渉の余地なし――そう判断したハンスは瞳を細い楕円形に形を変え、瞳を暗い茶色から琥珀色へと変色させ、すると途端に彼の中に孕む魔力はその量を爆発的に増幅させた。
音を立てて彼は走り、息をつく暇もない鋭い一閃。その予備動作を見せぬ故にタイミングが図れぬ右腕の一撃が男の腹部に食らいついた――誰もがそう認識した状況で、しかしその事実は覆る。
指先が突き刺さった確かな手応えはなく、その男の姿は影となり黒く染まって霧散する。霧は瞬く間に彼らの背後に移動すると、再び人の形を作り……男は帽子を脱いで胸に当て、微笑んだ。
「無知とはなんとも恐ろしく愚かしいことですね。私はいち早く、そのケースの中身を見て脱力するあなた達が見た――」
言葉を遮る一閃が男の顔面を切り裂いた、が。やはり顔は一瞬だけ霧状になり、すぐに戻る。
男は不快そうに剣を抜いた青年、ジャン・スティールを睨みつけた。
「騎士見習い以下のお子様が、私に手出しできるとでも?」
「なんなら、てめえは騎士だってのかよ」
「ええ、無論わたばっ――」
さらに一閃。ジャンの耳に憎らしくこびり付く声は、そんな奇妙な悲鳴にも似た声を残して顔面を両断される。
「なにが騎士だ、クソ野郎!」
ジャンの咆哮に、男は帽子を目深にかぶり直す。
彼にとってはその所作すらもその心を苛立たせた。
――いかにも偽物らしいスーツケースを投げ込んで、誰か知らぬ死体をいかにも本物だと言うように見せつけて、驚き嘆く姿をせせら笑いながら見る。悪趣味だというのは、彼の”私室”を見るだけで容易に理解できたが、それは悪趣味を通り越して下衆だ。
気が長い方だと自称しているジャンでさえ、ハンスには同調せざるを得ない。
驚きなのはむしろホークの方だ。
彼はここに来てから口数が少ない上に、既に気配を絶ち切って周囲を伺っている。出入り口の前からこの吸血鬼が消えた時点で松明をその向こう側に放り込み、様子さえも伺っていた。
さすがは隊長と言うところだろう。彼にならば、マリーの捜索を任せられるかも知れない。
「貴君、騎士を愚弄するつもりかね」
男の、底冷えするような声は明らかなまでに怒気を孕んでいた。
ジャンは睨み返し、ツバを吐き捨てて剣を構える。
「誰が騎士をバカにした?」
「ぬう……?」
「おれがバカにしてんのは、てめえ一人だけだ気狂い野郎!」
「貴君――」
「二人共、ここはおれに任せろ。悪いがハンスさんは、抑えて先に行ってくれ! ベルクールさんは、あんたが助けるべきだ!」
ジャンの言葉に二人はにわかに顔を見合わせると、声もなく頷き、そのまま向こう側へと走り去っていく。血溜まりを鳴らす足音はやがて確かな大地を叩くものに代わり、しばらくして扉を蹴破る轟音。そうすると間もなく、気配もろとも音は消え失せた。
その気にさえなればジャンなどからは容易に逃げ出せる男は、それでも立ち尽くしたままでジャンと対峙している。
最早緊張など無く、怒りと、それとは裏腹に沈んでいく腹の底が彼を満たしていく。そして同時に、右腕に込めた魔力が、それ故に包帯を透かして魔方陣の存在をあらわにしたが、男はそれを気にした様子はなく、
「ウラド・ヴァンピール」
男は指を鳴らすと――刹那。ジャンの足元にあった転移魔術の魔方陣が一瞬消え、そうして今度は”別の”魔方陣が展開。彼が足元の輝きの明滅を知覚した瞬間、新たな魔方陣は瞬時に魔術を発動させた。
床を浸す血だまりが波打ったと思うと、それは磁力に反応する砂鉄のように奇妙に動きを変え、そして無数の水が細い柱を作り――その先端は鋭く、彼が新たな魔術の反応に意識を向けた瞬間。
上下左右、四方八方から血液が鋭い針となってジャンの肉体を突き刺した。濃厚な血の色がジャンの姿を飲み込んだが故に認識できず、
「貴君を殺した者の名だよ……といっても、やはり”遅すぎた”かもしれんがね」
ウラドはようやく、微笑を取り戻したのだ。
僅かばかりの幸福感を胸に携えて。
そしてそれが崩壊するのも、本当に僅かな時間を置いてからだった。
「おれはジャン・スティール」
声はすぐ背後――そして頭上から聞こえた。背後は壁、それに沿って配置されている机しか無いはずだが……いや、それ以前に、あの無数の針の襲撃から逃げた影を見逃すはずがない。
ウラドは胸に沸き立つ嫌な予感ばかりを気にしながら、振り向いた。
「あんたを殺す男の名前だ。なあ覚えておいてくれよ、伊達男さん」
彼が背にする壁は、妙なまでに明るい。まるで月にでも照らされているような明るさであり、また包帯に包まれている右腕も禍々しいまでの魔力を放っていた。
――ジャンがここに残ったのには、理由がひとつだけある。
本当ならばハンスに任せても良かったのだが、以前本で読んだことがある。それは小説だったが、ドラキュラの物語だ。その物語の中で、ドラキュラは狼男を仕えていた。たったそれだけの理由だったのだ。つまるところ、ハンスがこのウルド・ヴァンピールに勝てるか否かで考えた場合、そういった縁起の悪さから、ジャンはそれを未然に防いでいた。
それ以降はごく私情だが、やはりアレほどマリーを想うハンスなのだから、彼が助けるべきだと思った。彼らがそういった恋愛感情を抱かない仲だとしても、やはりそういったものがベターであり王道なのだ。
そして最後に一つ。
彼が騎士であるということ。それもとびきり、騎士道精神を無視している外道男だということだ。武勇にも程がある。
肉体強化による運動能力は、瞬間的にジャンの限界を容易に越える。
さらに動体視力は鷹や鷲など目ではなく、故に彼は最低限の針の破壊から抜け道を作り、薄暗いこの空間を利用して壁を蹴り、素早く彼の後ろに回りこんだわけだが――今度はそれは通用しない。そしてまた、こんなものばかりを使っていてもこの吸血鬼は倒せない。
「大きく出たな、貴君。英雄にでもなったつもりかね、小僧が」
「騎士の出来損ないが、偉そうにしゃしゃり出てどうしたんです。そんなに誇る実力で、見栄を取り繕わないと害虫駆除も出来ないくらい肝っ玉が小さいんですかね?」
――騎士は子供の頃からの憧れだった。そして英雄でもあった。
どこぞの軍事に詳しい者や、その力を政治的に利用する政治家たちばかりが注目していた存在ではない。多くのものがその存在を崇めたし、憧れた。勇気や希望さえも与えてくれた。
そんな騎士は、少なくとも個人的な趣味に則って人を残酷に殺したりしないし、好き放題に解体して最終的に生首ばかりを並べたりなどしない。それはまず人間として異常であるし、それ故に、騎士を名乗って良い存在などではない。
「つまり」
ジャンは、平静を装っていたが、いい加減限界になりつつあるのを、奮い立つがゆえに全身が小刻みに震えるのを確認して、理解した。
「御託はいいから、さっさとかかってこいよ!」
右腕の包帯を引き剥がすと同時に、あらわになるのが右下腕を包むように刻まれた魔方陣。それはまるで胎動するように、脈拍に合わせて明滅した。そして肘の魔力解放もまた魔力を吹き出し、背中の肉体強化は適切な加減で肉体に活力を与え続ける。
それからもう、吸血鬼が微笑みを見せることは無くなった。