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総仕上げ

 マリー・ベルクールの出会いから約二週間が経過する。

 彼女から受け取った魔術書に刺激されたためか、訓練の前後は自己鍛錬する時間がないからそういった肉体を鍛えるものはできないのも仕方がなかったが――魔術書を読み解く事はできていた。

 魔術書はその名称こそ堅っ苦しいが、言ってしまえば研究論文のようなものだ。

 そしてその内容は、研究機関こそ一、二年と短いが、随分と興味が惹かれる内容であったし、その魔術も応用に利いたいかにも戦術級らしいそれであった。

 だから訓練をこなしつつ、それを身に付け、詠唱を覚え、試用する日々が続いていたのだが――。

 気がつけば、十二月も半ばに入ろうとしていた。

 魔法を持たぬことを自覚して約二ヶ月。

 訓練が開始して約一ヶ月半。

 確かに訓練は厳しかった。最初期は死さえ覚悟したほどのものであったもののいずれは慣れ、最終的に行き着き先は技術の精錬。

 本当に自身は強くなっているのか。周囲はその実力を認め、褒めてくれているし、ある程度の自覚はある。だがそれが本当に戦争で通用するものなのかは分からない。戦闘の専門家ばかりを相手にしているせいで、そういった面でいまいち自信を持てないのだ。

 だから――。

「今日は本気でやろう、ジャン?」

 ボーアが真剣な眼差しでそう告げた時は、少しだけ嬉しかったが同時に、いよいよその日が来たのかと緊張もした。

 ――それが総仕上げである事を理解したのは、いつもの訓練場となる平原にボーアが一人でやってきた際であった。そして戦争までの期間もそう長いわけではない事も察知できていた。

 それを認識した瞬間――それまで会得した、身に付けたあらゆるものが頭の中を駆け巡っていった、気がした。

 依然として右腕に巻かれる包帯の下が熱くなる。胸の奥の高揚に、呼応するように魔力を注いでいるようだった。

「さあ、行くぞッ!」


 ボーアの強みは一概に、その肉体一つで敵に当たる素早さだと言える。攻撃手段は四肢、故に混戦ではなく単一との戦闘を得意とするのはもちろんであり、だからこそ複数を相手にするのは難しいのだが、それ故に彼女が得意とする一対一の場面では、彼女の強みが余す事無く発揮されることになる。

 ――走る一閃。その身軽な身体は容易に空中に浮かび上がり、その無防備とも言える肉体からは隙一つ見いだせぬまま振り下ろされた拳は、紙一重でジャンのすぐ脇の大地に落とされた。

 その鉄槌の及ぼす効果はおよそはかりしれぬ破壊力を持つ。故に大地には亀裂が入る間もなく爆ぜ、轟音と共にその破片を周囲に散らした。

 打撃を凌駕する爆撃――彼女はその体勢から軽やかに四肢を駆動して転じ、その地面に突き刺した拳を軸に身体を回転させる。足を突き出せば簡単にジャンの足へと超低空の蹴りを放つことが可能となるものの、されどジャンは、ただ何も考えず間抜け面で対処を待っていたわけではなかった。

 無防備となるその背中。にわかな跳躍と共にその背に襲いかかって――彼女が流れるように立ち上がり対応しようと拳を突き出さんとした所を通過。頭上を通り過ぎ、ジャンはその向こう側に着地する。

 虚を突かれたボーアは振り向きざまの肘鉄を顔面に撃ち込んだ。

 が、それを腕で受け、乗せ、対峙するまま身体を反転。彼女の股下に足を流すように深く踏み込み、背を向ける。そうするとジャンの右肩には彼女の左腕が乗せられ、顔を横切るその腕を彼は肘、そして手先をしっかりと両手で拘束していた。

 深い前屈姿勢。ボーアさえいなければ目上の者に対する屈服の辞儀がごとき姿勢は、背に彼女を持つが故にその肉体を背負う事ができ――その勢いを利用して彼が眼前に振り落とす。が、ボーアの両足はジャンの腹に巻きついた。

 故に拘束される側はジャンへと移り、緩んだ腕力から抜けた腕はそのまま首に巻き付き気道を締め上げ、血管を圧迫させる。

 間もなく視界が黒く染まり始めて、四肢に伝播する力が鈍る。

 が即座対応。その生命を刈り取る拘束は勢い良く後頭部を振り上げ、彼女の顔面を殴打することによって解除される。すぐさま腕を掴んで振り薙げば、まるで赤子に遊ばれる人形のようにボーアの肉体は投げ飛ばされた。

 一進一退。

 決して状況がどちらかに向いたわけではない。

 ――握り締める剣を投擲。

 当然の対応として、彼女は横に跳び避ける。

 その回避の間に、ジャンはその機動を予測して肉薄していた。

 彼女は軽く飛び上がり、振り上げる肉感あふれる腿から撃ちだされる膝で顔面に襲いかかる。ジャンはそれを寸でで避け、横方向に回避すると共に地面に突き刺さる剣を握り、拾い上げた。

 振り向きざまに、彼女の着地点を狙い、再び投擲――。

 着地と共に彼女は踵を返し、切先を己に向けて迫ってくる木剣を肉眼で捉えた。

 短く呼吸を繰り返し、ジャンが走り寄ってくるのをその白身の無い深淵を思わせる黒のみの瞳で見つめていた。

 木剣の投擲には合わぬ大きさが持つ軌道が妙なまでにゆっくりに感じられた。

 集中力が高まり、意識がただそれのみに集中する。

 手を伸ばし、黒く染まるそのつま先でやがて眼前へと迫る木剣の刃に触れてみせて――。

 やがて彼女は、己に向かってきた木剣の柄を掴んで持ち直すと、握り直したその勢いを利用してジャンへと投げ返した。

 ジャンの動きは、それまでとは大きく異なって驚きに満ちた表情に塗り替えられていて、横に跳ぶ動作は大げさで、それ故に跳躍は大きくなる。着地点はその場より遠く離れることになって、ボーアは身軽に走ると、その場で彼が落ちてくるのを待った。

「こな、くそっ!」

 ヤケクソ気味に放たれた拳は着地と同時にボーアの脇の大地に穿たれ――予期し得た着地故に、彼女は無情なまでにジャンの横腹を力いっぱい蹴り飛ばした。

 鈍い音を立ててジャンの身体はふわりと浮かび上がる。共に勢いに飲まれて宙を滑り、彼は文字通り”吹き飛ばされた”のだ。

 そのまま、まるで何かの冗句のように数メートルを滑空した後に大地に叩きつけられ、為す術もなく幾度か弾み放り投げられたおもちゃよろしくゴロゴロと転がり、やがて止まる。

 激痛が、脈動と共に全身へと拡散する。息が詰まり、大地をつかむ腕は震えっぱなしだ。

「冗談じゃない――」

 あれほど血反吐を吐いたのに。

 あれほど痛みを負って、力加減をしてボコボコにしてくれたのに。

 ――まだこれほどまでに力の差があるというのか。

 まだ己は未熟という地点にすら立っていないのか。

 ならば何故褒めた。

 なぜ励ました。

 なんで、おれになら出来ると希望を――。

「ふざけんな……おれは……」

 元々、それは勝てる勝負などではなかったし、彼自身、勝利をつかむことは出来ないなりに努力しようと考えていた。だが興奮に煽られ、高揚し、気がつけば己は勝負に勝てるのだと錯覚していた。

 その思い上がりが、ジャン・スティールを憤慨させる要因となっていた。

 己は強い。そう潜在下で認識するがゆえに起こる、虚栄心プライドの崩落。それを阻止せんとする精神的な昂りは、男としてはごく正常な反応だと言え、

「おれは、アンタに勝つっ!」

 『負ける要因は騙してきた相手なのだ』と己に対して虚構を創り上げてからの憤慨から、自身に怒り奮い起こすという方向へと転換できたのは、ジャンの新たな成長でもあった。

「ああ、その調子よッ!」

 ――再び切迫。

 交差するボーアの拳の速度は、それまで放たれていたものと比較できぬほどの最大限度に練られた速さであり、手負いの格下が反応できるものでは到底なかった。

 故にその拳は勢い、体重、速度を伴う凄まじい威力を誇ったままジャンの腹部に突き刺さり――くの字にへし折れた肉体。落ちる顔面へと太ももまで伸びる革のブーツに覆われた膝が叩きつけられる。

 さらに脚が伸びて身体を蹴り飛ばし、ガラクタのように吹き飛んで大地に嬲り尽くされた――。



 翌日。

「今度はあたしか」

 ラァビは珍しく、外套を羽織らぬ格好でやってきた。

 タンクトップ調の下着なのかインナーなのか分からぬ薄い衣服一枚は、その下にある豊かな双丘によって押し上げられ、また腰から下は茶色い毛皮に包まれていた。頭には半ばから折れる長い耳。うさぎらしい特徴が見える彼女は、それでも両手に物騒な武器を嵌めていた。

 ジャマダハルと呼ばれる腕に装着する系統の武器は、その腕を防護するように立体型の刃を腕の先にまで伸ばしていた。むろん、そんな武器ものの訓練用は無いために実際に相手を殺せる代物だ。

 斬ることより刺すことに特化した武器であるから彼女には似合わぬと思ったが――この総仕上げは”本気”でぶつかり合うこと。

 つまり彼女は、通常は手を抜いて仕事にさえかかっていたという事になる。

 また、そういう配慮もあってか今回は真剣を持つことが許されたし、その真剣もいつか親代わりのドワーフから渡されたバスタードソードであったのだが……。

「ま、行くわよ」

 不安の中で、戦闘は開始する。


 簡単な言葉が火蓋を切った。

 共に、ボーアと同様に高く飛び上がったラァビだが、彼女の跳躍はボーアの比にならぬ。それはウサギ故の常軌を逸する跳躍力が為せる技であり、同時に彼女の経験、そして判断力がその無防備な体制からの脅威となる攻撃に転じさせることができた。

 ――落ちてくる彼女は地面に上肢を向け、その両手を槍の切先が如く頭上に揃え、落下する。そんな彼女に対応するすべなど無くジャンは付近で落下、着地する彼女を待てば、

「なーに、呑気に見てんのよ?」

 着地とほぼ同時に、巻き上がる砂煙より早く飛び出た影は即座に背後に回りこんで――後ろから伸びたジャマダハルは喉元に優しく触れ――ず。その切先が刃に引っかかり、ジャンは反射的に喉元に迫ったその刀身を勢い良く弾くと共に後頭部でラァビの顔面を殴打した。

 ジャンはそのまま振り向きざまに剣を薙げば、彼女の武器と衝突して甲高い打撃音をかき鳴らす。

 ――まさに一見必殺。

 ただの反射神経や直感のみで構えていれば、確実に太刀打ち出来なかった一撃だ。

「へえ、やるじゃない」

 勝気な笑顔。

 ジャンの連続するしなやかな斬撃に、ラァビの力強い対応が衝突時に火花を散らす。

 一本の剣に対して二本の腕だ。それ故に対応すべく撃ち出す斬撃は威力はともかくとして高速度を保たねばならぬのだが――幾度目かの衝突の後。それらの全てを凌駕するように、ジャンは弾かれた剣とは裏腹にラァビへと無防備なその肉体を肉薄させた。

 それに疑問を抱くよりも早く、彼女の突きが反射的に心臓を狙う。

 そんな必殺に特化した攻撃を得意とするからこそ、誘いやすい。ジャンはそれでも表情を一つ変えること無く、剣を振り上げる中でそれ掬い上げるようにして防ぎ、懐に潜り込めばもう片方の腕を叩き落とし――剣の柄尻をラァビの水月に叩きこむ。

 が、その衝撃は虚空を撃ち、彼女が流れるような動作で後退していくのを見た。

 そうしてジャン自身の攻撃動作が完了した直後に彼女は大地を弾き――。

「でもまあ、こんなモンでしょ」

 腕と一体化する刃の切先が、冷たく鋭く、その額の薄皮を切り裂いていた。



 さらに翌日。

「ま、そういうことだから」

 そう言ったのは――身の丈の数倍はあろうかという大剣を肩に担ぐ真っ赤な女性。黒いボディースーツにサンダルのみという気軽というにはあまりにも気軽すぎる軽装は、それ故に彼女の見事なプロポーションを浮き出させていたのだが、

「……りょ、了解です」

 その超重量級とも言える特大装備に目を奪われるばかりで、ジャンはシイナの滑らかでありながらもたわやかで、引き締まる肢体に視線を向けることが出来なかった。


 彼女が大剣を振るえば、肉薄することが出来ずにただしゃがみ、やり過ごす行動しか残されていなかった。

 振り下ろせばその衝撃が大地を揺らし、それに乗じて走りだせば再び薙がれ、飛び上がり――その横っ腹を打ち払われて、ジャンの身体は遠くに吹き飛んだ。

 大剣のイメージはその緩慢さ、鈍重さであり、それらを引き換えに破壊力を得るといったものだ。

 だがそれは実際には違う。

 しっかりと等身大の大剣を扱った経験のあるジャンが言うのだから間違いはなかった。

 ――振り下ろされる大剣はその質量故に落下速度が早く、また薙げば勢いを増して走るだけでは容易に追いつかれてしまう。つまり彼女を倒すには少なからずともその懐に潜り込む必要があったのだが、大剣に似つかわしくない高速度での連撃がジャンを打ちのめした。

 横薙ぎで彼を吹き飛ばし、そして振り下ろす衝撃で足止めをする。また薙いで嬲り、足を止め、嬲る。

 一方的すぎるその戦闘は、間もなくジャンが膝から崩れ落ちる結果で終了する――かに見えた。

「一泡、吹かせてやる……っ!」

 しかし、ジャンには人並み以上の体力があるのだ。それは以前からの、自身の誇りとも誇れる部分とも言える特徴であり、今回の訓練で徹底的なまでに鍛え上げられたものだった。

 だからそういった体力的な余裕と激痛による腹の底に据えかねていた、一方的な攻撃による怒りが覚醒し、せめて負けるのならば一度くらいは攻撃を成功させたいという意欲が彼の胸中で爆発していたのだ。

 それ故に――。

「……ッ!?」

 振り薙いだ大剣から、もはやおなじみとなって吹き飛ばされるジャンの姿がないのは彼女にとって驚きであり、

「こなくそぉっ!」

 そしてまた、勢い良く彼女の背後へと振り上げられる大剣から転げ落ち、未だ大剣が頭上に至らぬというのにも関わらずダメージを度外視して肉薄してくるジャンの行動は全くの――想定内の出来事であった。

「くらっ! え――っ?」

 突き出す剣。だが穿つ切先にはシイナの姿など無く。

 軽いステップによって脇、というよりも遥か横方向に移動した彼女の両腕は、既にジャンの頭上に恐ろしいまでの圧迫感を覚えさせていて――その木でできた大剣の刃がジャンの頭部に触れた時点で、彼の敗北は決定した。



 エミリオはその両手に手甲を嵌めていた。さらに言えば鎧に付属するものではなく、拳の形に造られた本格的な近接格闘用の武器であったのだ。

 加えてそれは指まで精巧に造られたその手甲は、まるで素手であるように拳を作ったり、また掌を見せたりすることが出来る。

 そうして彼は現れるなり――簡単な挨拶も無しに、襲いかかってきた。

 硬く握られた拳は、握る以前に鋼鉄である。だが固められれば鋼はより強靭な武器となる。

 彼の姿が辛うじて認識できる。そういった位置で、ジャンは確かにエミリオが跪いているところを視認した。

 その刹那である。

 大地が激震する。そう理解した瞬間に、エミリオから直線上に大地が隆起し、そう認識した直後に――ジャンの足元から針のような鋭さを構成する大地が虚空を貫き、ジャンを穿つ。

「ふっ――ざけんな!」

 咄嗟に地面に剣を突き刺し針を砕く。同時に前方へと走りだせば、そのおよそ人智を凌駕した速度で迫りつつあるエミリオの姿があった。

 一秒ともたずに肉薄した男の一撃。既に拳が当たらずとも、亜音速に近き速度より押し出された大気が空気の弾丸となって襲いかかる。反応速度を遥かに上回る一撃がまず腹部を強打し、怯んだ隙に本体とも言うべき鋼鉄の砲弾がエミリオの、心臓を止めてまでやり過ごしたくなる威圧的な姿と共にやってきた。

 腕を振り上げ剣で応対。

 バスタードソードが火花を上げてエミリオの拳を受け止め、また力強く腰を落とせばその勢いによって肉体が背後へと押し出される。剣が悲鳴を上げるように軋み、それをいなそうとするより早く、第二撃が容赦なくジャンの顔面を捉え――。

 肉体はごく柔らかく、ふわりと浮かび上がった。

 顔面を基点にして身体は弧を描くように空を飛び――永久に感じる浮遊時間の直後に襲いかかる強烈な大地の衝撃は、それから十数メートル彼の身体を引きずり横転させ、ボーアの時よりも遥かに大げさに嬲り続けていた。

 無論としてジャンの意識は第二撃の着弾時に根こそぎ奪われており、エミリオは言うまでもなくその時点で今回の戦闘の終了を認識し、背を向けて帰路へとついていた。



 最終日。

 いよいよ、本当に心の底から負けられないと思う相手の順番がやってきた。

「よォ、ご機嫌いかが?」

 左目の眼帯をさすりながら、ホークはシャツに麻のズボン、革のブーツという気軽な格好でやってきていた。もちろん腰のベルトには、対となるフランベルジュが装備されている。

「良いウォーミングアップのお陰で良好だよ。全員にボロ負けしたけどな」

「そりゃそうだ。律儀に肉体強化パワー・ポイントも使わねェそうだしな」

「せっかくそいつを使わないで訓練してきたのに、ここでやったら意味ないだろ。それ」

「関係ねェよ。どのみちエミリオは魔術使ってきたんだろ?」

 股下から迫る針を連想して、ジャンはわざとらしく背筋を震えさせて――剣を抜いた。

「なんにしろ、おれはこの身体で全力でぶつかる。それだけだ」

「ま、全力ならオレも全力であたるのが礼儀ッてもんだ。なら、行くぜ」

 ――こいつには一度負けた。

 その上で、丹念に訓練をしてもらった。

 だが、未だ胸から腿にかけて、さらに顎したから頬に掛けての傷は薄く残っている。そういった恨みや辛みがあるわけでは決して無いし、今ではこの目の前の男を一人の戦士として尊敬すらしている。

 だからこそ、勝たなければならない。

 己の中の、一つの壁だと彼は認識していた。

 あらゆる方向に伸び始める未来への選択肢。その道は全て高く頑強な壁がそびえ立ち塞がれている。

 何かを選ぶにも、その選んだ後に突き破る力を持たなければならない――つまり、前に進むためには、このディライラ・ホークに勝利しなければならない。

 だからこそ彼は昂っていたし――。

「……なんだ、ありゃあ?」

 ホークが空を仰ぎ、その明らかに鳥よりも遥かに大きく、素早く空を跳ぶ黒い影を捉えた時には、爆発的な怒りさえも抱いたものだった。


 

 その鳥は、およそ鳥とは言えぬ格好だった。

 鳥人ハルピュイアといった風体でもないその姿。黒い外套マントに身体を包み、その背中にはコウモリの羽根のようなものが生えている。頭にはつばが長く、円筒型の黒い帽子が被せられていて――そういった姿の中に抱かれる、もう一つの人影があるのをジャンは捉えていた。

 グレーと黒とのボーダー柄のセーターに、デニム生地のショートパンツ。黒いタイツに、膝丈のレザーブーツ……その服装は、いつの日か誰かが着ていたものそのものであり、

「おいあんたらッ! あいつを追ってくれェッ!」

 老け顔の男が短い黒髪をなでつけるようにして前髪、横髪全てを後ろに流した髪型で、首元の蝶ネクタイを強引にはずして握り締めながらそう叫ぶのを見た瞬間、記憶の中の判然としなかった人物像が浮き出し、一致する。

「あいつは、ベルクールさんか! なあ、ホーク――」

「お嬢様が”攫われた”んだッ!」

「――しち面倒臭ェな! しかも奴ァ吸血鬼ヴァンパイアくせェぞ!」

 空を飛ぶその姿は、男の全速力も虚しくやがて森を越え、空の彼方に消えてゆく。

 まだ日は高く、その姿はそれでも点となって認識できるが――その飛行速度は、肉体強化を使用しても追いつけるか分からぬ速さだった。

 紳士然とした男はやがて立ち止まり、肩で呼吸を繰り返しながらジャンの両腕に縋るようにつかむ。

 その表情は怒りに飲まれたソレであり、青筋が立ち、外見年齢は既に中年男性よりやや若いと言ったものとなる。

「あのお嬢様バカが魔術師のクセに無知でな。招き入れちまったんだ」

 整った髪を苛つようにかき乱し、大きく息を吸い込んで立ち直る。

 そういう彼の言葉、そして外見は冷静そのものであり、視線は依然として空を飛ぶ吸血鬼に向いているし言葉の中の感情に焦燥や怒りが孕んでいることはうかがえるものの、態度は釈然と、現状の説明を続けた。

「訳がわからないまま誘拐された。ただ単に目を付けられただけだと思いたいが……お嬢様が居る限り、こいつも使えない」

 背広の胸元に手を突っ込んで引きずりだすのは、一丁の拳銃だ。銀の光沢を持つそれはグリップから程ない位置に”レンコン”のような円筒が差し込まれている。その拳銃はそこに弾丸を仕込んで撃ち出す仕組みだ。

 一般に、回転式拳銃リボルバーと呼ばれるものであり、多岐に渡る弾丸や、高威力の弾薬を使用できる上、その構造の単純さから不具合を起こしにくく、信頼性の高い武器だ。

 それを無力げに下げて、さらに男は深く頭を下げた。

「傭兵に、その見習いだということは聞いている。そして俺自身も手伝おう――時間がない、手伝ってくれないか?」

 男の言葉に、二人は目を見合わせる。

 後、肩をすくめるように苦笑して、ホークは腰に手をやり、ジャンは手を差し伸べた。

「オレはディライラ・ホークだ。傭兵だなんて物騒な名前で呼んでくれるなよ」

「おれはジャン・スティール。これでも騎士を目指した身。正義は人一倍あると自覚していますよ」

 二人の言葉に、咄嗟に顔を上げた男は光明を見たと言わんばかりの顔で、歳の割に情けない顔でジャンの手を強く握り返した。

「あ、ああ! 俺はハンス・ベランジェ、よろしく頼む!」

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