休日謳歌 ~束の間の休息~ ②
「魔術師団で一掃した後にくさび型の陣形で突撃、憲兵の第一から五、六から十までが左右に別れて突撃……要約すればこういった感じか?」
横柄に背もたれにもたれかかり、腕を組んでディライラ・ホークはそう告げる。
狭い会議室の中にはいくらか葉巻の匂いが程よく充満していたが、その場にいる誰もがそれを嫌っている様子はなく、またホークの前に差し出された灰皿には彼が口を付け灰と化した葉巻が一本横たわっていた。
隣のスミス・アーティザンは先日購入した色のついた丸メガネの具合を確かめるように中指で押上げ、その丁度良さに微笑みつつ頷く。
対面の大臣は傍らの副大臣に、そしてエミリオ、次いでシイナに視線を巡らして反応を促せば、それぞれが一様に首を縦に振る。
ホークは満足気に、にかっと笑い、紅茶が注がれたカップを手に取り一口含んだ。
「問題はソコだ。話によれば本来魔術師団の役割をするはずだった”異種族”が倒されたんだってな。しかも生息させた筈の森とは違う場所で」
「その通りだ。ジャン・スティールの証言から推測するに、知能を持つが故にこのままでは殲滅されると踏んで大移動したのだろう」
「ま、んなこたぁどォでもいいんだけど……問題は魔術師団だっつってんだろ?」
アレスハイム王国立第六騎士団――通称魔術師団は、その名の通り魔術ないし魔法を主戦力として戦闘を行う部隊であり、後方支援を主とするのはもちろん、その圧倒的な火力故に前衛に躍り出て戦場を乱し殲滅する程度の実力は携えていた。
魔術師団団長はその中でも魔術師として極めて高い実力を持ちあわせており、またそれを務めるに当たる最低限の条件は、戦略級魔術を所有しているということだった。
「そこの団長さんは、何が使えるんだ?」
「破滅の嵐のみ、となっている」
「ああ……なら完全詠唱でなんとかなるか。んで? 訓練部隊への穴も開けろってんだろ?」
ホークの呆れたような声色に、だが大臣は嬉々として頷いた。
「これより軍力を増強するには学習が必要となる。今でこそ根本的な身体能力の違いで異人種が頭となっているが、いずれはヒトと異人種とがバランス良く背中を合わせられるようになれば、と考えている。それこそが共存だ、とも」
ああそうかい、なんてホークは投げやりな返事をして大きくのけぞった。
これで作戦会議なんてものは終了したも同然だ。あとはあらゆる場面に対応できるように訓練しつつ、”総当り攻撃作戦”と名称する事となるその訓練を主として行わなければならない。
エルフェーヌからの情報によれば、ヤギュウ侵攻は十二月末に予定されているという。残り時間は一ヶ月半程度しか無く――傭兵団のみでもどこまで戦えるのか、といささか不安になった。
死ぬのだけは勘弁だ。
こんな腑抜け共の先駆けとなって。
いざとなれば逃げ出すのもやぶさかではないが――あそこまで世話してやったジャンが気がかりだ。どうせなら連れていきたい所だが……。
複雑な心境に陥るホークをよそに、一つの要因について先程から気になっていたスミスは大臣に目配せをし、発言の許可を得る。
おほん、とわざとらしく咳払いをして、彼は口を開いた。
「現時点でのヤギュウの軍事力に対抗すべく策はここまでにして、ですね――ヤギュウの背後関係を独自の機関を用いて調べさせました」
なんでもないようにそう告げるスミスに、意外そうな顔をしたのは大臣だった。
彼が訊くよりも早くスミスは続ける。
「我々はこの仕事に誇りを持っています。より確実に仕事を為すために、その下ごしらえはごく当然のものとして動かせてもらいましたが……」
「いや、構わない。正直な所、そこまでしてくれるとは思わなくてな。貴殿には、どれほど感謝してもしきれぬだろう」
「相応の報酬さえ頂ければ」
「ふ、金の亡者め――それで、報告を聞かせてくれ」
新たな葉巻をポケットから出す。副大臣が差し出したオイルライターからの火で煙をくゆらせるのを見ながら、スミスは一つ息を置いて、飽くまで淡々と告げた。
藍色に没する空を見上げながら、ジャンは散歩へと洒落込んでいた。
うたた寝を終えた後、気がつけばボーアとラァビは部屋から消えていて、居るのは未だ人型のまま膝の上に頭を乗せて眠っているタマのみとなっていた。
サニーはサニーで、休日だというのに朝から家にはおらず、テポンやトロスもテストが近いからか忙しそうにしている。それを邪魔しないようそっと家を出たのは良いものの行く宛など無く――気がつけば、最近はめっきりご無沙汰となった本屋の前にたどり着いていた。
ぽっかりと間抜けに開いた入り口から覗く内装は、ある程度片付いて小綺麗な様子だ。が、変わらぬ薄暗さが相も変わらぬ不気味さを醸し出していた。
「ん……なんだ、少年か。どうしたこんな時間に」
本の整理をしていたらしい男は、その入り口付近を横切ってから、後退してそこに立ち尽くすジャンを凝視し、記憶の中から彼のそれを引きずりだした。
そうしてなんでもないような顔でそう訊きながらも、”中佐殿”は中へと促す。
――この本屋の店主、通称中佐の本名はわからないし、訊いても彼が教えてくれることはなかった。だから中佐で通っているし、他の常連客も好き好きに適当な名前で呼んでいるらしい。
カウンターの向こう側に腰かけ、ジャンはそこに寄りかかるようにして立つ。その上に叩きつけるように置かれた本はいずれも装丁やページがボロボロになってしまっているものばかりで、どうやら売り物にならないモノを回収していたらしいことが伺えた。
「ヒマなもので」
「訓練はないのか」
「良く知ってますね」
「あまり私を舐めるなよ。本国ではごく優秀なエージェントとして活躍していたんだ」
中佐は鼻を鳴らす。だが愛称からして明らかなまでに軍人だというのに、エージェントとはどういうことだろうか。
そういった疑問が顔に出ていたのか、彼は苦笑したように頬を歪めた。
「元々退役軍人でね。若くして中佐の階級を得た後はそういった機関に引きぬかれたのだよ。これも才能のお陰としか言い用がない。コネもあったがね――そして、仕事の基本は情報収集。うわさ話から政治の裏話まで、全ての情報は揃っている」
「……ここでの商いとしているわけですね?」
「さあな。何を言っているか、私にはわからないが……少年、君も必要があったら訊いてみるのもいいかもしれないな。合言葉は”ハツユキソウ”だ」
彼はそういって片目を瞑ってみせる。
そういった中佐の姿はまだ若い、二十代後半のようにも見えたし、四十代前半の紳士然とした男のようにも見えた。割合に個性的な風貌だというのに、不思議や謎が多い人物だ。ウィルソン・ウェイバーと同じガウル帝国の出だというのに、彼はまったく掴みどころがない。
「ハツユキソウ?」
「ああ、ディアナ大陸北方の雪山の頂上付近に生息すると言われている花だ。花言葉が『好奇心』と言う」
「なるほど」
「紅茶はいかがか?」
話題もなく、会話も続く兆しが見えぬ。
そう判断したのはジャンだけではなかったらしく、中佐は話が途切れる前にそう提案した。
「いや、そんなに居座るつもりじゃ……」
「構わんのだよ、この時間帯に客なんぞ来んし、そもそも本屋は飽くまで趣味で営んでいるだけだし」
「ああ……じゃ、お願いします」
だというのに、意図せず長居する羽目となった。
苦味と酸っぱさの向こう側に、舌にこびりつくまた別の苦味を覚えさせるコーヒーを飲み下した後に、ジャンはあからさまに不味そうな顔をしてみせた。
「どうした、不景気な顔をして」
瓶入った砂糖を匙で加減などせず己の行く道が如くカップに入れる、というよりは最早こぼすに等しい所業を繰り返していれば、いずれは砂糖が下の方でどろどろに溶け残ることになる。彼はそれをいかにも美味そうに、コーヒーというよりは既に砂糖水というようになった生ぬるい濁り汁を飲み干して彼は言った。
アレほどになれば根本的な味などは関係ないのだろう。
ジャンは一つ、肩を落とすように嘆息した。
「いえ」
カウンターの前に置かれた椅子に腰をかけたジャンは、家を出る前に遅くなると声を掛けておいて良かったと思った。
そうして、そういえば最近はみんなで顔をあわせて食事をしていないことを思い出す。殆ど国の主導とも言える訓練は回避することなど出来ず、またするつもりもなかったのだが――それ故に学校に行くことはなくなり、生活する時間帯が変化し、すれ違いが殆どとなる。
テポンらより早く起きて、彼女らより遅く帰り風呂に入るなり、床に伏してしまうのだ。食事は訓練帰りに否応無しで付き合わされるために、腹具合の問題はない。
ただでさえ居候なのに酷く申し訳ない話だったが、「ある意味で国の仕事なんだから」と皆は気にするなと言ってくれた。
たまに学校が懐かしくなるが、時間さえあれば友人らとは会えるのだ。特にラックは、訓練を興味深げに見学しに来ていることを知っているし、その影にクリィム――もといリサ――が居るのも彼は知っていた。
またテポンやトロス、サニー経由で聞く話によればここ最近、ルーク・アルファが躍起になって己を追い込んでいるという話だ。一説によれば、ホークにボロ負けしたことがきっかけだという。
「酒のほうが良かったか。まったく、ませた少年よ」
「いや、そういう話じゃ無いんですが……別にいいです」
「そうか。何か気になる事があれば遠慮せず言ってくれたまえよ?」
「善処します」
ついにはカップの底、というよりは半分近くまで残っている砂糖を匙で掬って舐め始める中佐に、病気になってくれるなよ、という憐憫の視線を浴びせながら不味いコーヒーを呷る。どうせなら出がらしのほうがまだマシだったことだろう。
中佐はそんな間抜けな所作の中で、ふとまるで己の天敵を発見した小動物のように顔を天井に上げた。そして無造作にカウンターに手を突っ込んでから滑るように背後の書棚にぶつかる勢いで後退すれば、実際に衝突し、その衝撃によって書棚の上に積まれた様々な書籍が落ちてきてカウンターに直撃し、その震動からカップが揺れて転げて落ちて、その身の崩壊と共に見る堪えぬ茶色いどろどろとした砂糖の塊が床にぶちまけられるのを、カップが割れる鋭い破壊音と共に見送った。
何事ぞ、とコーヒーを飲み干しながら本棚によって造られる通路に身を隠せば、丁度ジャンが先ほどまで居た椅子の頭上――その天井に、魔方陣が展開した。
朱の瞬き。
読めぬ魔法文字がその輪郭を赤く染める中にところ狭しと並び、また理解不能な図形が無造作に配置されているのを見る。それは見たこともない魔方陣であり、また魔方陣が術者の居ない所で発現することを彼は知らなかったから、その現象は酷く難解で畏怖すべきものであった。
が、その中心点が眩く真っ白に輝き始めて――。
「きゃああ――ぁあぁあッ!」
そんな甲高い亀裂音じみた、空気を切り裂くような女性の悲鳴と共に、何かが床に落ちたような凄まじい衝撃が小さな本屋に襲いかかった。
本棚が鈍く揺れ、カウンターに飛び上がった中佐は”小銃”を構えてその銃口を床に向ける。
ジャンは何があったか分からぬなりに本棚に見を隠していたが、やがて聞こえる、
「いたたた……」
「まったく、無茶をしすぎです!」
なんていう内輪もめの声から、なんだか危険は無いように思えたので、そっと顔を覗かせた。
天井から――正確には魔方陣から落ちてきたのは、一人の少女と一人の男だった。
少女の方はまるで人形のような美貌を持つものの、やはり少女然とした女の子だ。フリフリの黒いドレスを着て、黒と白のストライプ調の長いソックスを履く格好。前髪は切りそろえられて、もみあげは結われて三つ編みに。長いその黄金の髪は大きな房となって、同様に三つ編みにされていた。
きりりとした細い眉に、勝気な性格を表すようなやや釣り上がりがちの碧眼。
男のほうは黒の背広姿であり、首元には蝶ネクタイが飾られている。うんざりとしたような顔つきには苦労が伺え、やや老けたような顔ではあったがまだ若いのだろう。
「でもここに居たのを、見たのですもの。わざわざ離れた位置に降り立って移動するのも面倒じゃなくて?」
「少しは動いてください。だから太るんですよ」
「ふ……ッ!」
「しかし――この状況は芳しくないですねえ」
男は立ち上がるなり両手を頭の後ろに回して、膝立ちになった。
彼女も状況を察して慌てたように辺りを見回してから、何も言わぬまま銃を突きつける中佐に無力と無害を示す。
「……ッたくもう! あの男はどこなのです?!」
「俺に聞かんでください」
銃の恐ろしさを知る両者。加えてその近代的な服装から、ディアナ大陸の人間であることは明白だった。
ならばあの魔方陣は転移魔術のものだろう。
最も、大陸間ほどの遠距離移動が可能であるなんて事は聞いたこともないのだが。
「――内輪揉めはもう済んだかな?」
中佐の言葉に、少女は長い睫毛を踊らせるように目をぱちくりさせながら、小さく頷いた。
「およそ常識的な人で良かったですわね?」
「”お嬢様”を基準にすればおおよそ殆どの人間が常識的にはなりますがね」
「あ、あんたって人は――」
「――悪いが後にしてくれないか」
静かな怒気を孕んだ中佐の言葉に、お嬢様と呼ばれた少女は怯えたように頭を小刻みに上下させる。
中佐は頷き、口を開いた。
「貴様らは何者だ。何を目的にしどこから来た。装備を放棄し、所属、階級を述べよ」
「装備といっても、私の美貌はどう捨てたら良いのでしょう?」
「その得意げな鼻っ柱をへし折って差し上げましょうか?」
「あなたは少し黙りなさい!」
その整った顔を力強く歪めて、彼女は男を睨みつける。
中佐は短く息を吐いて短く舌打ちをしてやれば、再び二人の間から緊張が迸った。
そうして顔を見合わせてから、少女は頷き、男は仕方が無いように口を開いた。
「魔術師組合から派遣された者です。今日は遣いとして派遣されたまでであって、特にあなたに目的があってきたわけではありません」
「魔術師組合……ガウル帝国か」
「はい。水晶からある青年の姿が見えたので、転送座標をココに指定したのですが……」
「ある青年……貴様らは、そいつと何の関連がある?」
「我々の兄弟子たる男の友人……と聞いています」
「名は?」
「私はマリー・ベルクールですわ」
「貴様じゃない。その兄弟子だ」
「う、うぅ……」
マリーは分かりやすく顔を赤くしうつむいた。
「ウィルソン・ウェイバー」
そんな機能不全に陥るマリーを放置して告げる男の言葉がきっかけとなって、驚き跳ねたジャンの身体は思わず本棚にぶつかって音を立てた。
その場にいる者が一様にその方向へと顔を向ける。中佐だけはその存在を知っていたために銃口を向けることはなかったが――その反応から、確かにジャンとの関係を見ぬいたのだろう。彼はカウンターから飛び降りると、そのままカウンター下に小銃をしまった。
「少年、彼らに害はない。出てきても構わないぞ」
依然としてカウンター上に屹立する砂糖の瓶の蓋を開けた中佐は、気が抜けたような声でそう言った。
再び通路に身を隠したジャンだが、その行動の無意味さを知り潔くそこから躍り出る。
と、共に、マリー・べクレールと名乗ったお嬢様は「あ!」と声を上げてジャンを指さした。
「居ましたわッ!」
「見りゃわかります」
「ちょっと! 出てきてくださいませ! ジャン・スティーッル!」
マリーの悲鳴にも似たヒステリックな呼び声に、ジャンはそれ以上そこに留まる理由が見いだせずに出れば、その直後にさらに出てこいと呼ばれて戸惑った。
そして同時に、彼女は前を見ていながらも、周りは無論として前すらも見えていないことが判明する。感情を熱しすぎているのだ。
「出てきてますが」
と男は軽くマリーの頭を叩いた。明らかなまでに判然としている上下関係から考えれば彼が下であるのは明確であるのにも関わらず、こんな仕打ちは果たして許されるのか。疑問に思うが、マリーはひたすらにぷりぷりと頬を膨らませながら怒るばかりで、権力的な制裁に至ることはない。
「ちょっと――ウィルソンさんの遣いって、どういう事です? そんな連絡ちっとも聞いてませんよ」
再びもみ合い、というよりは叩き合いを始めた二人を制するように声を張り上げる。カウンターの奥に引っ込んだ中佐は手早くゴミ箱に割れたカップと砂糖を拭いた紙を投げ捨てて、そのおかわりを用意する。
今度は匙を使うのも面倒になったのか、瓶を傾けてそのまま流し込んでいた。
「”先輩”はアナタが心配になって、コレを持って行ってやれって、わざわざ渡したのですわ」
マリーは言うなり、床をきょろきょろと見回してから見つけたバッグを手に取り、おもむろにその中から一冊の本を取り出した。革張りの仰々しいその表紙には魔方陣が刻まれていたが、それが一体なんのものなのかは分からなかった。
「詳しい話は良くわからないのですけれど、この”魔術書”が必要になる状況は少し、説明いただきたいのですわ」
凛とした目元を軽く撫でて、彼女は優しく微笑んだ。それを両手で差し出す彼女に、ジャンは応じて受け取る。
「お嬢様。こちらはもう夜なんですから、適当な宿でもとって出直しましょうや」
男の言葉に促されたように開け放されている出口へと顔を向けて、迷うこと無くマリーは頷く。
「そうですわね……。ではスティールさん、私たちはここで。そちらの説明も兼ねて、また後日、この場でいかがでしょうか? あなたも、同じガウルの者として聞いておいたほうがよろしいのではなくて?」
ちらり、とマリーは中佐に顔を向ける。
「貴様、私を知っているのか」
驚くでもなく、砂糖をすすりながら中佐が訊いた。
彼女は少女らしいあどけない笑顔で頷いた。
「ガウルでの有名人ですもの。変装もしないでこんな所で呑気に生活していると訊けば、抵抗軍がどう出るか――彼らにとって、あなたは悪魔にも等しいのですから」
「まったく、脅しかな? 勝手に巻き込んでおいて貴様らは……だから魔術師という連中は嫌いなのだ」
中佐は心底うんざりしたような顔をして肩をすくめる。そんな彼にマリーは意地悪なまでに天真爛漫そうに笑って、再びジャンへと向いた。
「すいません、異存はないんですが……訓練の関係で、会うとしたら今より遅い時間になるんです」
「ああ、でしたらあの白い魔石で連絡を下さいませ。使い方は、分かりますわよね?」
一応、と頷くと、マリーは身を翻した。
そうして男とともに扉付近まで足を向けてから再び踵を返し、
「失礼しますわ」
スカートの裾を軽くつまんで持ち上げるように一礼して、本屋から離れていった。
それから程なくして、ジャンも本屋を後にした。
そんな帰宅途中に、奇遇とも言えるタイミングで、帰路についていたサニーと出くわした。
「あ、ジャン」
というのが、割合に久しぶりに感じる彼女の開口一番だった。
「サニー、こんな時間までご苦労様」
「うん。でも、好きでやってることだしね」
やや伸びたせいか、肩より下まで髪は流れ、またその毛先は不揃いになっている。最近はあまりよく見ていなかったせいか、身長は変わっていないというのに少しばかり大人っぽくなっているような気がするのは、気のせいではないだろう。
「自分のやりたいことが見つかって良かったじゃないか。これじゃ、一足も二足も先に行かれちまったかなあ?」
「そんな事ないよ。だって、私はジャンの背中を見て決めたんだもん。ジャンが居なかったら、今の私なんて居ないよ」
「ははっ、嬉しい事言ってくれるなあ」
相変わらず甘え上手な言葉に、ジャンは懐かしくなってその頭を撫でてやる。彼女はくすぐったそうに首を傾げたが、寄り添ってきたりはしなかった。
やや依存傾向は薄れているように見える。
ならば、徐々に自立してきているのだろうか。
選択できず否応無しに距離を置かれたせいで、彼女に自発的な成長を促せたのだろうか。まさに結果オーライというものだろう。
これならば、彼女はいつでもどこでも上手くやっていけるはずだ。
ここ八年以上付きっきりでの付き合いだったが、これほどまで安心できたのは初めてと言えよう。
「でもね」
「ん?」
「強くなるのはいいの。傷つくのも、私が治してあげるからいいの。でもね……絶対に、ね?」
彼女は意を決するように立ち止まる。
手を胸に当て、一生懸命に言葉を紡ごうとする表情はうつむいているせいで窺えない。
声が震えているように感じるのは、やはり気のせいではないはずだ。
ならば、彼女はつまりそれまで隠していた、あるいは秘めていた心情を告白するという具合なのだろうか。
ジャンが頷く。
と、サニーも表情をこわばらせた。どうやら微笑んだらしい。
こわばった顔で、口元はまるで今にも泣き出しそうなように歪んでいた。
「黙って、どこかに行ったりしないでね?」
果たして彼女が決心して口にするのは、そういったものだった。
そんなことか――軽々しくそう吐き捨てることはできたし、受け止めた上で流してやることもできた。
だがそんな事をするべき言葉ではないことを彼は知っている。
同じ境遇だからこそ、今まで通りに居た人間が突然居なくなってしまう事を恐れている。それがどれほど大事な者であろうとも運命は容赦なくその命を散らしてしまうことを知っている。それに抗うすべなど無いことを知っている。
故に、彼女はそれに怯えていた。
ただ思っているだけならば己の中で、そんな事はないと完結できる。
だが他者へと告げた時点でその可能性は可能性として存在することになる。そのただ一言のみで、恐れている可能性は倍以上に成り得るのだ。
だからこそ、ジャンは彼女にある種の尊敬の念すら抱いていた。
いつもならば付きっきりで甘えてばかりの甘えん坊さんが、いつの間にか自分で選び、自分で決め、自分で行うほどまでに成長していたのだ。
一方で己はどうであろうか。
人に流されるまま訓練し、ただ力をつけて駒になろうと尽力する。ただそれだけだ。力はあれども、成長などは一切していない。
されど虚しくなることなど無く、むしろより活力を得られたような気になった。
ジャンはサニーのぎこちない微笑みに微笑み返し、肩を叩いた。
「約束する。おれは、サニーの前から勝手に姿を消したりしないさ」
最早彼女を子供扱いする必要など無いだろう。
そう言ってやると、ぱあっと途端に明るくなる彼女の笑顔はまるで華が咲いたようだった。
サニーは肩に置かれた手を手に取ってぎゅっと握り、指を絡めて固く掴んだ。横に並び、妹と言うよりはもっと別の、親しい異性のような表情で頬を上気させたように桃色に染め、寄り添った。
「約束だからね!」
近づけば、ややゆるい襟元から首から下げるネックレスが見えた。それはかつて、というか数カ月前に彼が彼女にくれてやった誕生日プレゼントである。
まさか日常的に身に付けてくれているとは思っていなかったために、なんだか嬉しくなった。
――空は藍から濃厚な紺色に移り変わっていて、そこに散りばめられる星の屑はキラキラと弧を描く三日月と共に大地を照らしていた。されどもその灯りは太陽にまでは至らず、ごく慎ましく、そして情緒的なものであった。
空気は冷え切り、最早季節は完全な冬になりつつある。
だが、サニーと触れ合う腕や握られる手ばかりはしっかりと暖かく――。
明日から始まる学校や訓練の合間となる、つかの間の休息は、やがて終わりを告げた。