休日謳歌 ~束の間の休息~
休みのない訓練漬けの日々。毎日のように持ち帰っていた過度の疲労は気がつけばある程度緩和されるようになっていたのだが、それを告げるにつき、その瞬間から訓練内容がさらに酷なものになったのにはさすがのジャンも閉口した。あの、嬉々として告げた直後に凍えた己の表情を、彼自身忘れることはないだろう。
そんな新たな日々の中、公認で学校にさえ通わなくなったジャンに一日の休みができた。十一月半ばの事である。
「私たちは仕事で、ホークも作戦会議に参加しなくちゃならない。ラァビとボーアだけじゃ”ただの訓練”になるから」
というのがシイナから伝えられた理由だった。
そういうわけで、今日ばかりはゆっくりと床に就いたのだが――意識が覚醒した頃、時計の針は午前五時丁度、つまり訓練が予定通りに行われていれば目をさますべき時刻に目を覚ましたのである。
そんな事もあってか、ジャンは久しぶりに早朝のランニングに出かけ、己の快調さを――そして怪我も痺れも無い右腕に巻かれている包帯の具合を確認して、その成長を再認識した。
やはりこの国に来た時よりも強くなっている。全力疾走したのにも関わらず息一つ切れるどころか、自身が本当に走ったのかと思われるほど身体が温まらない。そして筋肉も増量したせいか、この国に来る前に着ていた服がいくらか窮屈になっているようだった。
やや肌寒くなってきた空気を感じながら、ジャンは噴水のヘリに腰を落とす。
「でも、まだまだか」
剣術は要らない――シイナにそう言われた。ココに来て今更下手に固定概念を植えつけるよりも、彼なりの戦い方で剣さばきで戦い続けたほうが良い。だが覚えることは未だ山ほどあって、その中でも剣の扱いに関するものは約半分を占めている。
いずれはあの五人とそれぞれ一対一で、混じりっ気のない全力でのぶつかり合いを予定しているという。またそれも勝利が目的というわけではなく、最終確認というものなのだが……無論、最初から勝利を諦めて戦うわけもない。
「全然、むしろ丁度いいくらいさ」
身体がより冷え込んできそうな所で、いよいよ家に帰ろうと腰を持ち上げようとした所で、仕事場へと向かうまばらな人影の中に、大手を振って歩み寄ってくる甲冑姿がひとつあった。
警ら兵の一般装備らしく、腰にはサーベルを携え、小脇に兜を抱える男の姿。おそらくこれから傭兵団主導の訓練に向かうのか、あるいは歩哨組かのどちらかだろう。
その背後にある姿はさらに屈強な、禿頭が特徴的な男。今ではもう見慣れたエミリオだ。
「少年、朝っぱらから精が出るな」
「目が覚めちゃったんで。そちらは、これから訓練ですか?」
立ち上がって目線を合わせると、男は困ったように笑って肩をすくめた。
「訓練から逃げようとしたら捕まっちまってな」
「……大変そうですね」
これまで平和だった国の憲兵が、突然屈指の実力を持つ傭兵団に、これまでとは大きく異なる厳しい訓練を強いられれば確かに逃げたくもなる。職がなかったり、特に好きで憲兵になったわけでもない若者なら尚更だ。
少しばかり気持ちがわかったために叱責する気にもなれず、また年上そうだからそうするつもりも毛頭なかったのだが――振り上げた拳を、彼の頭に落としたエミリオは構わず怒鳴りちらしていた。
「どわっ!」
「少しは反省しろ! お前はな……スティールの垢を煎じて飲ませてやりてぇ位だ!」
「お、俺だって頑張ってるんスよ隊長! 才能がないんですよ、才能が! 天才なんかと一緒にしないでください」
「天才? 世辞なんぞ、通用すると思ってんのか?」
目の前でさらに怒気を増して掴みかかるエミリオに、男はぶんぶんと首を振りながら否定する。そこを全力で否定するのもどうかと思ったが、ジャンはどうにも蚊帳の外に追いやられたような空気を感じて、静かに噴水のヘリに座り込んだ。
が、警ら兵は力強くジャンを指さす。
エミリオは促されるように彼を見た。
「スティールのことか」
そうして禿頭は僅かにゆれると、困ったように彼を見てから――言わんとしていることを察して、ジャンは頷いた。エミリオは心底すまなそうな顔をしてから男を睨みつけると、やや声を抑えて低く唸るように告げた。
「こいつはなぁ……学習能力は高いが、別に天才ってわけじゃないぞ。そりゃある程度の才能はあるだろうが、少しは見所がある程度だ。お前とそんな変わりゃせん」
「それなのに英才教育やってんスか? 別に嫉妬だとか、ムカつくだとか言うわけじゃありませんし、俺たちの為に頑張ってるっつーし、歳も近いから応援だってしてますが……そんな事まで隠す意味は――」
「――隠しちゃいねぇっつうの」
エミリオは食い気味に遮り、やれやれと首を振った。
ついでに溜息を吐いた。
「こいつは誰よりも努力してんだよ。普通なら血反吐吐いて泣きながら勘弁してくれって請うくらいの訓練でも平気なツラ装って、圧倒的な実力者を相手にしてもビビらねえで立ち向かって――そもそも天才なら、ここまでやる必要はない。シイナを見てみろ、あんだけ強くても正直スティールほど訓練を積んでるわけじゃねえ。ただ試験で圧倒的な結果を見せつけただけだ。あれこそ天才ってんだよ」
真っ向から褒められているようで気恥ずかしくなって、ジャンはヘリに手を置いて軽く上肢を反らした。
周囲が言うほど才能は無い――と言うか、周囲はそれほど才能について言及しているわけではないし、そもそもそういった能力を持っていると認めているならばこれほどまで徹底的に訓練を組もうとしないだろう。つまり、あの屈指のメンバーが揃いも揃って訓練に打ち込もうとしている事実が、彼が天才ではない証明でもあった。
そもそも魔法というある意味での才能が無いのだから、せめてこういった面での才能もあっても良いものだとは思っていたのだが、どうやら無い。神はサニーに色々と二物以上を与えている代わりに、ジャンには何も与えないことでバランスをとっているらしい。なんと憎らしきことか。
魔術に至っては触れさえしない。
努力をものを言わせているだけまだマシであろうが――考えてみればなんだか釈然としないながらも、これがいつも通りなのだと自分を無理に納得させた。
――男も、その言葉と共に”英才教育”を、その本質を理解したのだろう。
気まずいようにうつむいてから、まるで子供の喧嘩の終焉のように、蚊の鳴くような声で口にした。
「……悪かった、少年」
「気にしないでください。お陰で、自分というものを再認識できたみたいだし」
そういった些細なやりとりの後、彼らはその場を辞して街の外、訓練場へと向かっていった。
ジャンはそれを見送り、暫くその余韻に浸るように噴水を眺めてから帰路へとつくのであった。
――まるで戦争の”噂”が嘘のように、外の訓練を除けば平和そのものだった。
「なんか、最近のジャンつまんない」
タマはあぐらをかくジャンの膝で寝転がりながらそう言った。
ボーアは相変わらずの、毛皮のベストにレザーのショートパンツ姿で勝手に寝台に寝転がり、ラァビは外套を勝手にクローゼットに引っ掛けて、寝台に腰をかけている。まるで手馴れた生活感溢れる行動は、タマの話によれば一ヶ月近くなる快適な溜まり場として機能していたお陰だという。
現在、ボーアはラァビの部屋でお世話になっているらしい。そういった事もあって冒険者ギルドに雇用登録を強制的にさせられて、今ではジャンの代わりに一時的な相棒として仕事を共にしているという話だったが、特に最近はジャンの訓練で手一杯らしく、またそれで十分な報酬を受け取っているという事で、ギルドには酒を呑みに行くという、酒場代わりにしか利用していなかった。
「仕方ないだろ。おれだっていつまでもへらへら出来るわけじゃないんだし」
首を指先でくすぐり、ごろごろと喉を鳴らすタマの頭を撫で回す。
しかしタマの不平は終わらなかった。
「訓練訓練って、前だってしてたじゃん。ダメなの?」
「足りないんだよ。しかも、今までは独学だったけど今じゃお偉いさん方が直接指導してくれるんだ。比べ物になりゃしない」
「みんな寂しがってるのよ? 学校だって行ってないし……」
「んな事言ったって、おれがいたっていなくたって何が変わるわけでもなし。居ないなら居ないで相応に対処するだけだろ」
「ジャン冷たーい。冷たい人間になったわね。冷酷よ」
「人の事まで気にしてる余裕がねーんだよ。おれだって、完璧ってわけじゃないんだし」
気分的にはタバコを吹かしたかったが、どうにもあれは趣味じゃない。だからそういった所作をして大きく息を吐いてみせた。
「ま、一緒の時間を過ごせるだけ良かったと考えてあげなさいよ。休みの日に女の愚痴聞かされちゃ、参っちゃうわよ?」
ラァビはそんな光景を微笑んで眺めながら、場を沈めようと参戦する。ボーアは適当な蔵書を手にして読みふけっていた。
「むう……」
「これから起こる大事さえ終われば、また元に戻るわよ。ねえ、ジャン?」
「そうそう。だから、な?」
肉球を両手でぷにぷにとマッサージしてやりながら説得するように言う。彼女はしばし唸った後、それまで言いたかった文句を飲み込んだように渋々頷いた。
「でもさあ、ヤな予感がするのよねー」
「なら安心だ」
不安気に目を瞑る彼女の肉球を揉みながらジャンは微笑んだ。
どうして? と首を傾げるネコへと、頷く。
「タマの勘ほどあてにならないもんはないからにゃうわっ!?」
迸る一閃は、目にも留まらぬ速さでジャンの膝下から飛び上がったと思うと、鼻筋に三本の鋭い爪痕を刻んでいた。薄皮が引き裂かれ、そこから鮮血が浮き上がるように漏れ始める。共に燃えるような痛みが、ジャンのスマートな語尾を間抜けなものへと変えていた。
思わず顔を抑えて悶えるジャンに、タマはわざわざ人型へと変身して、立ち上がり、指をさして高笑いをした。
「にゃははは! たまの休みだからって、エっラそうにしてるからよ!」
「た、タマぁ! おしおきだ!」
溢れんばかりの涙を浮かべて、ジャンは立ち上がりざまに飛びついた。不意を突かれたタマは避ける間もなく襲い掛かられ、バランスを崩して倒れてしまう。ジャンはそれに覆いかぶさるようにして――。
手の中に、独特な柔らかさと心地よさを持つ感触が、確かに伝わった。
顔は鼻先が触れ合う程の近さであり、タマはその現状に、眼を見開いて丸くする。そしてこの状況を理解できぬように硬直していた。ジャンはここぞとばかりに指先、掌を動かして存分に揉みまくる。気分は既にマッサージ師だ。追加料金でどんなことでもしてやれる自信がある。
「ん、ちょ、ジャン……! や、やめ――」
「おしおきだっつってんだろ? おれも最近、全然タマと構ってやれなくて悪かったと思ってるし、こんな時にこんな事で悪いとは思うけどさ」
繊細な指使いは、武器職人よりも細やかで絶妙だ。そのたびにタマは息を殺し、紅潮してしまう顔を一生懸命に背ける。だというのに股下に置いた膝を両足で挟み、尻尾でばたばたと床を叩く。
「ははっ、身体は正直ってわけか」
「ば、ばか……そんなんじゃあ……ッ!」
「そうか、ここが良いのか?」
輪郭にそって流していた指で、構わず力いっぱい握りしめてやる。途端にそれの形は歪み、痛々しいまでとなるのだが、彼女は既に人間であれば耳がある頬の先まで顔を赤くしていた。頭の上にある耳をピント逆立てるようにして、また尾も、四肢の毛が空気を含むように逆立ってもふもふとしたさわり心地の良さが倍増した。
「乱暴にされるのが好きなんだ? あんだけおれに偉そうにしてたのによ」
「ち、ちがう……これはっ! んん!」
そっと顔を近づける。
琥珀の瞳に映る自分の顔が分かるほどの距離で、じっと見つめた。
タマはそれまで顔を背けていたというのに、近づけば見返し、焦点を合わせる。彼女の眼には既にジャンしか映っておらず――。
「時と場所を考えろ」
スパン、とジャンは己の蔵書で頭を叩かれた。
タマから離れて顔を上げれば、どことなく頬を上気させたような顔のボーアが立っていた。
「好きにするのはいいけど、せめて二人っきりの時にして欲しいものね」
ラァビが続く。
ジャンは抗議した。
「別にイヤラシイことしてたわけじゃないんだし」
未だ手の中に残る肉球の感触に思いを馳せながら言った。
「揉んでただけです」
「言葉を選べってのよ」
今度は本の背表紙を垂直に振り下ろす。その威力たるや、鈍器の如し。
眼窩から目玉がこぼれ落ちないように目を抑えて甘んじれば、衝撃が頭蓋骨を透過して直接脳を殴打したような力が襲いかかった。
思わずめまいを覚えるが、しっかりと踏ん張って立ち直る。ボーアは再び本を振り上げた状態で待機していた。
「こんな所で死ぬのはさすがに勘弁ですよ?」
頭を両手で抑えながら、やや引け腰になる。次の攻撃は避けてみせる、という態度の現れだったが、ボーアは興味が失せたように本を下ろし、寝台に飛び込んだ。
「……ジャンの馬鹿が」
そっと呟くボーアの言葉。彼女はおそらく誰にも聞こえぬような声で漏らしたのだろうが、獣人二人は耳が良い。さらにジャンも、耳と目がいいのは少し自慢なもので、聞こえては居た。反応に困ってスルーするのは当然とも言えたが。
タマに助けを求めようと振り返れば、彼女は意外にも人型のままで、自失呆然としていた。片手で胸を押さえるように、片手はみだらに放り出されていて、身体は無防備な体勢のまま。豊かなバストは、それでもその双丘を保っていた。
再びラァビに視線を戻せば、彼女は寝台に腰をかけて居る。下半身のウサギたる部分が妙に愛らしく感じられた。
「愛されてるわね」
「……ありがたい事です」
ジャンは慈しむような視線を受けながら、一仕事終えたように一つ息を吐いて床に腰を落とした。
せっかくの休みだというのに、休む暇もない。
だが、ヘンに気を使わないお陰で、いつもの、それまであった日常を再現してくれるおかげで心は随分と癒されていた。
――戦争なんて、デマだったら良いのに。
この平穏を噛み締めながら目を瞑れば、自然にそう願っている自分が居た。
その戦争に向けて訓練をしている。だが誰だって、その力が役に立たない日ばかりであることを祈っているはずだ。
ならばせめて、そんな彼らが一日でも長く生きながらえるように頑張らなければならない。
その為には訓練だが――休むことも、また訓練だ。
「でも、ジャンはいい加減いろいろな人に色目を……」
ラァビが何かを話しかけてくるが、眼を開けていても意識はまどろみ、声が届かない。
重力に逆らえずに眼を瞑れば、彼に対する全てが遮断されて――。
――ラァビはそんな彼に一つため息を漏らして、布団の下に敷いてある毛布を引きぬいて、彼に掛けてやってから、静かにその場を後にした。