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保護 ③

 ジャン・スティールの肉体が、彼の動きに十分耐え切れるほどに回復したのは、ボーアの小屋に来てから三日目の朝の事だった。

 ――そして、あらゆる苦難や苦悩、自身を苛む現実から唯一守り安息させられる空間がやぶられてから三日目の朝でもあった。

 断裂したいくつもの筋は結合し、焼き尽くされていた細胞はその多くを再生させた。今では自立行動を可能とし、単独での整容はもちろん、外出さえも可能だとジャン・スティールは意気込んでいた。

 そして身体の”なまり”を訴えていたからだろうか。

 いつものように薬を塗布し包帯を巻きつけた後、ボーアは今日に限って彼に上下のそれまで来ていた衣服を身に付け、靴を履いた。

「なら、狩りでも手伝ってもらおうかしら」

 立ち上がればジャンの方が気持ち目線が高い。だが目立つほどの身長差はなく、ボーアがブーツを履き込めばその差は瞬く間に塗り替えられてしまう。

「狩りですか。懐かしい」

 悪戯に、まるで突然幼子に一人でおつかいに行かせようとする、少し冗談交じりの声色は、そんなジャンの漏らしと共に熱が篭った。

「したことあるの?」

「まあ。最近はめっきりでしたが……大体半年くらい前までは当番でやってましたね。大型動物なら自力でシカくらいまでは」

 自信あり気にジャンは鼻を鳴らし、へぇと感心するようにボーアは頷いた。

 この年頃の若者はそんなサバイバル精神はたくましくない。街や村に住んでいれば、自然的に加工された食肉などが販売されているのだ。金さえあれば、わざわざ危険を顧みずとも生活が出来る。食は安定する。

 そしてまた、そういった生活に慣れきった者が狩りに初挑戦する際は、その行為を侮りがちだ。ただ動いている、逃げるモノを仕留めれば良い――そういった、根底に軽視があり、根本たる命の尊厳、命に対する尊重の精神は置き去りにされている。

 由々しき事態だが、所詮精神論だ。人それぞれという言葉があるように、そもそも狩りの本質にそれを重んじるものが少ないことは確かである。

 果たしてジャンにはそれがあるのだろうか。

 仮に無かったとしても、たかがそれでどうこうなるわけではないが……。

「趣味での狩りはやっていなかったの?」

 引き締まる腰に両手を添えて、片足に重心を傾けて立ち直る。

 ジャンは胸の前で両手を閉じ、開きを繰り返して調子を確認しながら答えた。

「飽くまで生活に必要な分ですね。深い意味もないし信条もありませんが、そうそう無駄に命を散らすのは好きじゃないんで」

「ははっ、そう! そうよね、不必要に生きているべき生命は蹂躙すべきじゃないのよね」

「……でも、異種族との戦闘があるから――とやかくは、言えないんですけどね」

「何言ってんのよ、あれは蹂躙すべき生命よ。同じ命だから、なんて言ってたら、命がいくつあっても足りゃしない。それに野生動物だってそうよ、油断してたらこっちがやられるかもしれない。襲いかかってきたら迷わず立ち向かう。知能もへったくれも無い連中に、倫理観を掲げても意味が無いわ」

 彼女は親指で己の喉を掻っ切るようなジェスチャーをして、悪意を孕む笑みをみせた。狂暴な印象を残す顔には、どこかあどけなささえ残っているような風だった。

 それから無邪気に笑って、ジャンの手を引いて外へと促した。


「武器は無いんですか?」

 やはり小屋は森の中にあり、少し歩みを進めれば彼らは、木々生い茂る森の中へと入り込む事になる。

 既にここがアレスハイムからどれほど離れた場所で、どこに位置し、どこに近いのかは分からない。まだ早い段階ならば推測も可能だったのだろうが、あの”偵察兵”との戦闘の場所さえも忘れてしまったし、あれからどれほどの時間が経過したのかさえも曖昧だ。

 不安定な腐葉土を踏み鳴らし、蜘蛛の巣を避けながら森を進む。

 ジャンの問いに彼女は、静かに頷きながら手を伸ばして眼前にあげた。

 塗料を塗ったかのように黒い爪は、彼女の意識が集中すると共に瞬時に鋭く尖ってその長さを倍以上にする。それは鋭利であり、爪でありながらも決してヤワであるような様子はなく、まるで抜き身の刃のような危なげな雰囲気さえそこにはあった。

「魔術、魔法を使うまでもなくこいつがあるわ。それとも、ジャン? あんたが必要なの?」

「ええ、まあ……徒手空拳はやったことがないので」

「なら小屋の裏に剣があるわよ。あんたの身の丈くらいの大きさの」

 彼女はいつか”拾ってきた”その剣の外観を思い出す。

 自身には扱えぬあの巨躯。巨岩をそのまま打ち砕いて剣の形にしたのかと言うような無骨さ。だというのに力いっぱい地面に叩きつけてもビクともしない頑強さで、そして持ち手の大きさからオーガ族が元々の持ち主だったのではないかと推測された。

 が、彼女が見つけたときには既に放置されていたのだ。岩の刀身にはコケが自生し、鋼鉄製の柄に巻きつけられる緩衝材なのだろう布にはキノコが生える。それは長い間、森の中で眠り続けていた証拠でもあった。

「あー、素手でなんとか頑張ります」

 ジャンはさすがに男らしくがっしりとした体つきだったが、それでもあの巨剣を扱えるような筋力は持ち合わせていない。病み上がりなら尚更だ。

 そもそも、あれほどの武器は大型異人種――鬼族や、そういった戦闘に種族の特性を重く置いている異人種が装備するべき代物なのだ。下手に、無理に扱おうとするべきものではない。

「あはっ、そうね。あんたはまず、あたしの言うとおりに動いていればそれでいいの」

 ――守ってあげるから。

 言葉を飲み込んで、長年の間狩場となっている森の中を、まるで我が家の庭のように――実質的には本当にそうなのだが――歩きまわり、そして気配を感じると共に彼女は立ち止まる。即座に身体を伏せ、草むらの中に身体を隠した。ジャンをすぐ近くの木の影に隠し、そして人差し指と中指の二本を立てて、指し示す。

「シカが来るわ」

「鹿? ――ああ」

 疑問を呈する間に、茂みをかき分けて果たして鹿はやってきた。

 こんもりと盛り上がる丘の少し下、中腹辺り。距離にしておよそ数百歩という遠距離にして、僅かな気配と臭いという野生の感性を最大限に生かして、ボーアはその獲物を見つけていた。

「ここから少し進んだ先に小さな川があるわ。海に続くわけじゃないけど、それが小さな池を作ってるのよ」

「つまり、処理はそこで行うってわけですか」

「その通り」

 ――しかし、足の早い野生動物を前にして、弓も持たずに狩りをするなんてかなり”ホネ”だ。

 だがボーアは嬉しげな顔で鹿を覗き、そして鹿は何も知らぬように数匹の雄鹿、雌鹿は群れをなして近づいてくる。そしてやや窪み地帯となるそこは当然のように風下であり、存在を察知されることはない。

「ま、狩りって言ってもそう難しいことじゃないんだけどね」

「いや、道具も何もないんじゃ――」

「しッ。ほら、見てて」

 中腰になって指の腹でジャンの唇を押さえる。

 その直後だった。

 ぼん、という篭った爆発音が大気に伝播した。

 ――多くの鹿が一目散に逃げていく中で、一匹の鹿は糸か縄か、そういったものにがんじがらめにされたようにもがいて、その場から動けなくなってしまう。

「やっぱり、異人種は魔術を使わなくちゃね?」

 彼の唇を抑えていた指で自分の唇に触れてみせてから、また彼の手首を掴むようにして、捕らえた鹿へとまっすぐ走りだした。ジャンのペースなんてお構いなしの猪突猛進――それは獣人族の中でも、イノシシ科に分類されるからなのだろう。

 地面がもっとまともならば、より早く、そして力強く攻めこむことが出来るだろう――そういったイメージに、再び彼女に対する違和感が過ぎって、ジャンは考える。が、やはり誰だったのか思い出せずに、ただジャンは手をひかれるがままについていった。


 ボーアの説明に寄れば、魔方陣を刻んだ紙を罠として設置しておいたというだけの話だった。そしてそれを踏みつけた衝撃で魔術が発動し、ツルやら何やらで備えていた罠を起動させる。

 今回の仕様は、魔方陣を中心にしてツルを四方八方に伸ばしておいて、魔術が作動した瞬間にツルが高速回転してまず足元を掬い絡め、そして転んだ所で全身にまとわりつくといったものだった。

 ――腹をかっ捌き、頭を落としてから手近なツルで近くの木に吊るし上げて血を抜く。水場の近くだから作業も滞り無く進み、食用に使える内臓を木の葉に包み、鹿の両足を結んで木の棒に引っ掛けて運ぶような時間になると、既に辺りは暗くなり、空は夜のとばりが落とされようとしていた。

「やっぱり、二人でもこんな時間になっちゃった」

「いつも家でやってるんですか?」

「いや、徹夜で作業して持って帰ってる。でもジャンが来てから時間がなくてね」

「なら、おれも動けるようになってよかったですよ。あのイノシシもまだ調理中だし、今日は鹿の内蔵がありますしね」

「そうそう。ジャンは料理出来る?」

「い、いやー……そういうのはちょっと。住み込みで働いてた時も、ずっと寮母さんとかに任せきりで」

「そうよねー。でも、料理が出来る男って格好いいって良く言うけど、やろうと思わなかったの?」

「特別、そうは思わなかったですね」

 ジャンは特に感情を込めず、そう流すように告げる。

 ここでサニーの名前を出さなかったのに、特別な意味はない。だが少なくとも、彼女にそうした事をすべきではないように感じたから、という理由があるのは確かだった。

 だが、それ以上の深い意味はない。

 ジャンは、そういった事については求められぬ限りは話さぬようにしていた。

「――ふう、くたびれた」

 やがて家の前について、ボーアは雑に投げ捨てる。

 最初は燻製にして保存しようという話が出ていたが、燻製器が出来上がっていない現状を見ればまずそれが不可能だった。だから、今日はこのままにして、明日辺りにさらに解体し、そして使っていない瓶に押し込めての塩漬けだ。

 処理が終えて三日前後で完成するそれは、冬が到来してもまだ保つ。この量だから、むしろ食べきるほうが難しい。恐らくこれからも狩りを続けていくのだろうし、それに何年もそれを続けているのにも関わらずあの鹿の群れだ。居なくなってしまう、という可能性は極めて低い。が、冬眠の可能性はある。

 冬が来るまでにあと二、三頭ばかり獲ってくれば十分といったところだろう。

 これまで世話になったのだから、この位の恩返しは……。

 そう考えている間に、不意にボーアの身体が垂直に弾むように跳ねた。

 目を見開き、半開きにした口からは鋭い八重歯が見える。彼女は呆然としたようにジャンを見つめてから、我に返り、そしてふり返る。

 そして、そうした瞬間から――彼女の顔からは血の気が失せ、それまであった陽気さの一切は消え失せた。



「こいつ――あいつかッ!」

 気配。そして魔術、魔法を持ち得ないのに本質的に孕んでいる魔力。それらが合わさった禍々しい雰囲気が、異種族の気配というものだった。

 だが、今回はその中でもとびきり嫌な気配のするそれらだ。

 ボーアは脳裏に蘇る、一度だけ対峙したあの異種族――全身に石灰をかぶったかのような白い肢体に、豚の身体。馬の蹄に、二対の触腕。縦に長い楕円形の面には、鋼鉄製の並びの良い歯が常に噛み合わせを確かめている。さらには、あの全てを見ているかのような、気色の悪い散らばった無数の眼。

 異形たる存在。

 名前も知らないその異種族は、正直な所畏怖の象徴でしか無かった。

 ――そして現在は、ジャンすら感じられるほどの地響きがそこにはあった。

 理由としては――考えたくないが――途方も無い数の”白いやつ”が迫ってきているのかもしれない。

 ボーアはイラついたように頭を掻き毟り、そしてにわかに止まっていた思考をフル回転させる。

 誰かと居ると楽だった。頭を使わなくて済むからだ。誰かが考えてくれるから、それに従えばよかった。身体が慣れた行為を、慣れたままに見せびらかすだけで良かったのだ。

 が、もうそう言ったわけにはいかない。

「何体だ? ”以前まえの地響き”から考えれば……一、二○○前後ってとこか……ッ!」

 泣きたくなる。歯を噛み締めて、思わず目を細めた。

 もうあんな気持ちの悪い敵と戦いたくはない。正体不明の、訳のわからない敵を相手にしたくはない。

 膝が笑う。

 脳裏にあの気持ちの悪い笑顔が浮かぶたびに、胸がぎゅっと締め付けられるように苦しくなって――。

「楽勝、楽勝! あんなの、万全のおれとアナタなら、屁でもないでしょう!!」

 ――ジャン・スティールは今何が攻めて来ているのか、正直な所判然としていなかった。だが少なくともそれは人ではないだろうし、彼女の怯えようからまともな異種族でもなさそうだと考えられた。

 となれば、あの”偵察兵”と共闘するハメになった際に現れた、未確認の異種族だろう。あの”白いやつ”だ。男も、随分と気持ちの悪いやつだと言っていた。

 が、彼でも倒せたのだ。

 十三体を相手にして、たった一人が。

「バカかッ! 素手で、どう戦うっての? ジャンは!」

 顎が震えて、ガチガチと歯が鳴る。

 あれほどまで強く、優しかった彼女の面影はもうない。だが、その弱さは――ジャンだから見せてくれていた。少なくとも彼は都合よくそう解釈する。

 たった三日ほど一緒に居ただけでそこまで信頼してくれる筈がない。しかし好意には思ってくれているようだ。

 ならば、ここでの活躍で一気に距離を詰めるのもアリかもしれない。少なくとも、ジャンはこれから彼女に”街”に来てもらうならば、そうしなければならないと考えていた。

「何言ってんですか。あれがあるでしょう?」

 ジャンは親指で、くいっと小屋を指し示す。そこには閉まった扉と、その手前に転がっている鹿の死骸しか無いのだが――ボーアは察する。そして瞬く間に、表情を怒気に塗り変えた。

「あんなの使って戦えるわけ無いだろうがッ! ただでさえ、はち切れた筋がくっついたばっかなのに――」

 彼女が言い切る前に、ジャンはその頭を二度ほど優しく叩いてみせる。それから頭に手を載せれば、ジャンの腕の震えが、直に伝わってきた。

 ボーアがそれをきっかけに、良く彼を観察する。と、表情には余裕がなく、額から流れでた汗はその量をひどく多くしていた。不安を噛み締め、焦点が定まらずに視線が宙を泳ぐ。

 そうだ。彼も怖いんだ。

 ジャンは何も無茶を、その過剰な自信で通そうとしているわけではない。

 彼は彼なりに己の可能性を、彼女に対して励ましとして語ったのだ。つまりは、こんな少年にさえ気遣われていたのだ。

 表面上だけは、彼を護る側でいようと思ってたのに――。

 胸が高鳴る。

 それは緊張していることもあったし、こと上無く不安で仕方が無かったが――今この瞬間はジャンと心が、意識が繋がっている。

 その興奮が彼女の緊張を解いていた。

 そうだ。そうなんだ。

 彼がいてくれればいいと思った。それは、ただ一緒にいるだけでいいと思っていた。なぜ彼なのかは、彼女自身いまだよくわからないがーー今は違う。

 一緒に戦って欲しい。

 一緒に生きて欲しい。

 欲求は確かな形となって、新たにボーアの胸に刻まれた。

 もう、この戦いが終わったら、だめになってしまうかもしれない。

 頭の芯がとろけるように熱くなるのに、力が、体の奥底から湧いてくるような感覚を覚えて――。

「あんたは家から油をもってきて。奴らの弱点はその柔な皮膚だから」

 指示をして、ジャンが頷き、家の中へと駆け込んでいった。

 ボーアはそれを確認してから――巨剣なんて目もくれずに、振動の方向へと走りだす。

 大地を弾き、そしてそうしようとした瞬間、彼女の中から迷いや不安や、その全てが吹き飛んだ。

 ――依存するわけにはいかない。

 彼に頼るわけにはいかない。

 理性がそう叫んでいた。

 だから一人で立ち向かう。死んでもいい、彼に自分という重荷を背負わせないためなら、どんな事だって――そうジャンに対する言い訳を正当化して、身体を駆った。

 そして、悪夢とも言える長い夜が始まった。

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