保護 ②
「結局、おれの世話で一日が終わってしまいましたね……」
あのあと、どこからか獲ってきたイノシシを解体して、血を抜き、新たな食料とする間に、調理中だった干し肉を昼食とした。
その後は他愛もない話や、ジャンがどうしてあんな所で倒れていたか――その説明が終われば、既に時刻は夕方に。今度は野菜スープとパンがついた食事を終えれば、ジャンの整容へと移った。
包帯を外して身体を拭き、そして再び薬を塗って包帯を巻く。
今度は下着一枚になって足も同様に塗布――運良く疲労のために性的な反応はなく、ジャンは彼女の期待はずれなため息を受けながらも、平静を装うことができていた。
至れり尽くせりの一日で――最後は寝台の端にジャンは追いやられて、すぐ隣に彼女が布団の中に潜り込んでくる。
鼻を掠める石鹸の香りは、外にあるという樽を用いた簡易浴槽での入浴が行われた結果を知らしめていた。
ジャンは相変わらず仰向け以外では寝られなかったが、彼女はそんなジャンを見つめるように横になる。
白目のない、どこまでも深い闇たらしめる瞳はどこか恐ろしげもあったが、彼は既に愛嬌さえも見出していた。世話焼きで、口は少し悪いが頼りになる姉御肌だ。締まった肉体や、素手で外に出て狩りが出来るのだから、その戦闘能力は極めて高いのだろう。獲物の刺創を見れば、周囲の障害物を即座に武器へと転換して使用したとすぐに察せられる。
つまり、遊撃戦であれば敵はないといえるほどなのかもしれない。
怪我が治れば戦い方を教えてもらえないだろうか。いや、それ以前にお礼をしなければならないのだろうが……。
「まあね、覚悟はしてたけど……人様の世話なんてもうコリゴリよ」
変な怪我しやがって、と彼女は冗談交じりにジャンを殴る。包帯越しの衝撃はひどく鈍いものだったが、じんと響き、それでも和らぎ始めていた痛みが全身に伝播したが――大きく息を吸い込み、彼女に笑顔を向けた。
「そういえば、お名前を伺っても……?」
「あー、そういえばね、忘れてたわ。いいのよ名前なんて、好きに呼べば?」
「そんな。ここまでして貰って――」
言いかけた言葉は、彼女がジャンの唇に添えた人差し指によって遮られた。
顔を向ければ柔和な微笑み。月光に褐色の肌が照らされ、艶やかに潤う唇が静かに開いた。
「好きでしたのよ。あんたは、勝手にされただけ。帰りたいと思ってるのを無理やり拘束して、わけわかんない薬塗りたくって、身体を締め付けるように圧迫して、自分の料理を毒見させただけ。それでいいのよ。これが終われば私を忘れなよ」
「な――なんでそこまで……」
「こんな世界に居たって苦しいだけよ。あんたは、あんたの道を進めばいいのよ。騎士は……ダメだったんだっけ?」
「あ、ああ……はい。おれは、魔法がないですから。今回、暴走する羽目になったのも、それがきっかけでした」
彼女の言葉に思わず視線が泳ぎ、無意識に忘れようとしていた事実を思い出す。心地の良い、自分にとって都合の良い世界に逃避しかけていた意識が現実を直面させられて、それでも彼女の前だから気分は害さず、どこか気恥ずかしすら感じていた。
憎しみや怒りや、失望や絶望感は今はもうない。緩和されたのはあの八つ当たりに加え、魔法の体験、さらに彼女との接触が大きく影響されたゆえだろう。
「もう、ならあたしの魔法をあげたいくらいよ」
彼女から伸びる腕が、枕と頭の隙間に潜り込む。そうしてもう片方の手が優しく向こう側の肩を掴んで、優しく抱き寄せた。
身体が完全に密着し、たおやかな肢体を余す事無く感じられる。吐息が耳にかかり、鼓動は早鐘を鳴らすように拍動し始めた。
緊張や動揺によって顎が震え、焦点が定まらない。
女性とは普通に話せるはずだったが――こういった、一層深い接触は苦手だ。どうにも緊張して、頭が真っ白になってしまう。
ジャンは胸いっぱいに息を吸い込んでから、横目に彼女を見た。
「あんたは今、成長しようとしているのね。自分の殻を破ろうとしている。だけど、”どう”破れば良いのか分からない……そんなトコね」
「……なんで、アナタはこんな所で生活をしているんですか?」
結局なんて呼んでいいか分からずに、そういったぶっきらぼうな呼び方になってしまう。
だが、藁をもすがる思いで手にした質問は、確かにジャンが疑問にしていたそれだった。
窓から見える景色は針葉樹の群ればかり。となれば、ここは林、あるいは森の、少し開けた場所であるのは明白だ。
いつ異種族が襲ってくるかも知れない危険地帯に、わざわざ住居を構えるなんて正気の沙汰ではない。
だから”なぜ”と考えた。暇な時間を使って考えてみたが、答えはでなかった。
――そして彼女、”ボーア”はその質問に、思わず言葉に詰まった。
こんな僻地に住む理由……それは割と現在までに至った問題の根底に関わるものだ。
彼にこんな話はしたくないし、気まずくなりたくない。こんな少年に同情されたくないということもあったが、自分の過去を誰かに知られたくなかった。
悲劇ぶっているわけではないが、この過去こそが今の自分を作っている。嫌な事ばかりだったが、それを一蹴されることは己を否定されることと同義。それがたとえ相手が正しいとしても、だ。
何も正論ばかりが、自分にとって正しい訳ではない。正しいことが正しいとは限らない。
綺麗なままの世界では生きて行けないのだ。
まだ純粋であろう彼には、まだ早い。せめて、この怪我が治って、もう二度と合わなくなる時にでも……。
「さあね、気がついたらこんなトコに住んでたから覚えてないわよ、んな事は」
「そうですか。街に来ようとは思わなかったんですか?」
「必要に思わないからね」
「色々あって便利ですよ?」
「その利便さを知らない者にとっちゃ、どれほど便利なものだろうと便利じゃないの。その生活に満足できれば万々歳よ、住めば都って言うでしょ?」
「あー、確かに……」
最初は鉱山も地獄だったが、一年経てば、二年、三年と経てば我が家のように振る舞うことができた。もう故郷がなくなった彼にとって故郷たらしめる要因は、そういった生活に深く関わった人間関係や、どんな悪環境でも慣れてしまったから、というものだろう。
今では夢のような環境で寝起きしているが、慣れてしまった今では記憶の中の劣悪な環境が浮彫のように浮かび上がって、目立ってくる。よくあんな所で満足できていたな、と思えることができた。
だが後悔など無い。
そして二度と戻りたくないと思うわけでもない。
ひたすらに懐かしく、まさにジャンにとって故郷なのだ。
「アナタには、故郷ってあるんですか?」
だから、つい思い出してしまってそう口にしてしまう。
彼女にどんな背景があるかもしれないのに――もしかして同じような境遇だったかも知れないのに、そんな無神経な質問をしてしまった。
が、ボーアは飽くまで微笑みだけを湛えて、小さく首を振った。
「もう無いわ」
「……すみません、おれ、何も考えないで――」
「ああ、違うのよ。滅んだとか、そういうんじゃなくて……」
どう言うのかな、と彼女は少し迷ったように漏らしてから、そう、と続ける。
「縁を切られたの。もう帰れないって事。ま、ちょくちょく行ってるんだけどね」
「縁を……それはまた――あ、いや、なんでもないです」
「いいのよ、別に隠すことじゃないし。そうねえ、理由は……」
そう、理由。
アレスハイムを追放された理由。
当時となっては忌々しく腹立たしいものだったが、成長して、大人になって、政治というものがわかってきて、彼らのそういった選択は必ずしも間違ったものではない――国として生きるには、むしろ正解なのだと理解することができたから、その意識は薄れている。
それはまだ、目の前の少年と同じくらいの年の瀬だったろうか。
懐かしい。あの時いきがっていた多くの”老害”はもう居ない。取り分け、その中で誰よりも先に”送ってやった”あのジジイは、既に多くの者の記憶からも葬り去られているはずだ。
そんな話を言っていいものだろうか。
いや、このうぶな少年はごまかせる。
――自分の過去を知られたくはない。
だが同時に、知っていてほしくもあった。
否、誰かに、自分のことを考えていて欲しかった。自分のことを、その存在を、ボーアという女が居ることを記憶に刻んで欲しかった。
その欲求だけは、あの門から叩き出された時から消え去ったことはない。忘れたことなど無い。唯一、彼女を苦しませ続けているのが、その孤独感だった。
「ヒトを、殺しちゃってね」
胸に走る鈍痛――直後、痛みから解放されるような妙な快感、快楽が全身に走る。心臓から末端のつま先まで広がる電撃にも似た衝撃。それが、脳髄に染み渡るほどの強烈な幸福感となって広がった。
自分のことを、”真実”を話したのは彼が初めてだ。
疲労からの眠気や、懐かしい人のぬくもり。緩和される孤独……それらがもたらした彼女の状態が、それを口にさせていた。
後悔はない。
だがこれで、にわかに依存欲求が強くなった。
下腹部に鈍い痛み。それは緊張による鈍痛だ。
言葉の後、ジャンの顔を見れずに布団に顔を埋めた後、暫くの時間が経過したように感じた。
だが実際には、ものの二、三○秒だ。
期待していたのは「冗談でしょう」や「はは、まさか」なんて否定的な言葉。それらは、今の告白を”無かったこと”にしてくれる魔法のセリフだ。今の、この状況を少し前までに巻戻してくれる。この気持も、感情も、全てはジャンから強制的に引き剥がしてくれる。
しかし、ソレ以外のセリフは――肯定的なそれは、無自覚にボーアを受容することになる。
それがもたらす結果は、ボーア自身未だ知らない。
だから、胸がにわかに膨らみ、喉が鳴る、その声が発される瞬間になると、ジャンを抱く力がにわかに強まってしまった。
「――そう、なんですか」
その言葉は、彼女が待っていたそれらに該当しない類の言葉だった。
そして最も――勝手なことだが――失望に値する反応だった。
それが意味するものはただ一つ、どう答えて良いものか分からずに流す事。
だから思わず、ある意味で爽快を得て、諦められたという意味で、胸がすくような気持ちになった。
「それは、どんなヒトだったんですか? 話したくないなら構いませんが……」
追撃。
それは、そのセリフは彼女が待っていた否定、そして肯定ともとれない曖昧な表現だった。
しかしただ一つのその言葉で、彼女の得た爽快感は瞬く間に一蹴されて――胸を締め付ける鎖が緩んだような気がした。胸にぽっかりと空いた穴がにわかに縮まった気がした。
人の暖かさだ。
だめだ……欲しくなる。求めたくなる。
目の前に、自分と話して、自分を求めてくれる人がいる――どうしようも無く求めていたそれが、思わず爆発しそうになって、彼女は奥歯を噛み締め、寸でに食い止める。
もう胸の高鳴りは包帯越しに伝わっているだろう。高揚ゆえの体温の高さは吐息から察せられているだろう。
彼がバカな男なら、それを性的な意味で捕らえてくれるかも知れない。それで誤魔化せたのだ。
だが、こいつは――未熟で、世間知らずだからこそまだ純粋で、まだ坊やなのに……だからこそ、ボーアを期待させた。
「……ねえ、ジャン?」
「はい」
「――なんでもないわ。早く寝なさい。怪我の治りが遅くなるわよ」
これ以上会話をしていれば自分が駄目になる。
自分という重荷を彼に背負わせるわけにはいかなかった。
今日一日を通して分かったが――仮に彼が彼女を、あの時の”はぐれ”だと認識しても、嫌いはしない。むしろ何か理由があったのだと配慮してくれるはずだ。
彼は決して正義漢というわけじゃない。自分のできる範囲で、自分のしたい事をしているだけだ。結果的にそれが良い方向に向いているだけで、その根本的な行動意欲や真髄は、その現状を自分にとって居心地がいいものに維持するためのものに過ぎない。
周囲に取り繕いへつらって場を収める。なりふり構わなければそういったものだ。
ごく貧弱で、一人では何も出来ない種類の人間……。
そうだ。この気持は――この守りたくなるような気持ちは、彼をかつての自分と重ねているからだ。
以前も自分はそうだった。いや、今でもそうなのかもしれない。
だからこそ、自分よりも弱い人間に近づきたくなる。
否定はしないし、それでいいと彼女は思っていた。
少なくとも、当分の間は彼によって心が満たされる――その後のことは知らない。どうでもいい。今は、今だけは他のことを考えていたくなかった――。
「ジャン、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
――間もなく、傍らで自身に抱きついてくる女性は寝息を立て始めた。
温かい人のぬくもり。そして柔らかさ。意識せずには居られないものばかりだったが……それを凌駕する彼女の過去。
ヒトを殺したという事実。否、それが彼女の勘違いをそう信じているだけかも知れないし、あるいは自分の中のそういった妄想が彼女の中では真実となっているだけかも知れない。
だがやはり、おそらくそれは事実なのだ。
そこから見る、今日一日の生活は、ジャンに対する世話焼きは、久しぶりの来客に浮かれているもの他ならない。
ヒトを殺したことによって街を追放された。それは彼女の意思でないとなれば、それまでを孤独にすごしてきたのだろう。
人恋しかったのだ。どんな過去があれど、それでも彼女は人間で、自分と同じ感情を持っている。どんなに強くても、一人の女性なのだ。
サニーの幼少期を思い出す。
あの時の彼女は、いつもジャンの手を握って離れなかった。それは最後まで、施設に送られるまで意識を保っていた彼女だからこそ、その全てを声を押し殺して見守ることしか出来なかった彼女だからこそ、もう一人になりたくないという気持ちが強かったからだろう。
目の前の彼女に至っては、今からその境地にたとうとしている。
最後をはぐらかしたのは、自分の全てをさらけ出すことになるから。彼女はそれをすべきではないと判断したのだ。
(……おれは、どうすべきなんだろうな)
彼女を守りたいと思う。
それは、彼女が単純に女性として美人だからというわけではない。
一人で孤独に生き抜いて、そして久しぶりに出会った人間に、それまで耐えてきた孤独を忘れようとしている。
強い女性だ。
強さの種類は違うが――ジャンがこれまで尊敬しつづけている、ケンタウロスの女騎士と同じに強い。
やはり、おれは強い女性に惹かれるのか……そう思いながら、彼はボーアを一瞥してから、眼をつむった。
(おれは、どうするべき……か)
街の生活。そしてここでの出会い。
街はともかくとして、自分を信じ、頼ってくれる人達がいる。それを切り捨てる選択を、思い切る勇気を彼は持たない。さらに、出来ることならばこの彼女にも、自分以外の人というものを多く得て欲しいとも思えていた。
もし、彼女さえよければ……。
考えても仕方がない思考を打ち切って、ジャンはそのまま意識を深淵の中へと踏み入れさせた。
――そうして、彼らの夜は更けていく。