不穏な空気
「スティール、どうした? 今日は珍しく、ご機嫌斜めか」
戦術学の授業中、担当教員が不在のため、その日は自習になっていた。課題は一枚の用紙だけで、似たような状況下をいくつも連ねた所に、指定された装備や部隊を生還させる、ないし任務を遂行するためどう動けば良いのか――それを文章として綴るだけだった。
開始三○分もすれば課題は終了して、ヒマを持て余した折に、クリィムがそう話しかけてきた。
監督教員は既に十分も前に眠りこけている。だから、騒々しいというわけではないが、それでも教室内はいささかにぎやかだった。
「……? 質問の意図がわからんが、特にそういったわけではないぞ。どうしてだ?」
怪訝な表情で返すと、そうか、と呟くように頷いた。
鮮血のような朱の髪を軽く払って、頬杖をつく。視線は依然としてジャンを捉えていた。
「いや、常より刺々しいような気がしてな。まあ、ここ一週間ほどがそうだったから、ただ虫の居所が悪いというわけではなさそうだったが」
「刺々しい?」
「ああ、そうか――知らないのか――。異人種がとりわけ魔術やそれらに秀でていることは知っているな?」
それは個々の能力が抜群に高いから、というわけではなく、本質的に備える潜在的な能力のようなものなのだ。それは現在、魔術、魔法の発祥や起源を”溝の向こう側”と規定しているからであり、事実、この世界よりもより濃密にそれらが関わっているからだった。
故に異人種の方が魔術、魔法の熟練度は高いし、魔力の活用法も、魔石などの魔術仕様の物品への加工もそれらの方が随分と上手い。ヒトが持つ限界と異人種が持つ限界とはそれぞれ異なるし、それは仕方が無いことだった。
「まあな」
「勘違いされては困るんだが、お前は隣の席だから、常にその体内で息づいている魔力を感じていた。意識などしていない。私の研ぎすまされた意識が、高ぶり渦巻く魔力を感知するのだ」
彼女は平静を装っているつもりなのだろう。得意げにふふんと鼻を鳴らす彼女だが、その頬が淡く染まり始めているのが良く分かった。なぜ自分で墓穴を掘れるのだろうかと感心しながら眺めていると、彼女はひとつ咳払いをしてから、続けた。
「この最近は、その魔力がやや変わっていた。もっとも、魔力の”質”なんてものはその日の体調や感情によって異なるものだ。そうそう大きく異質なものになるわけではないが……そういう事だ」
「――でも、ジャンの魔力は他より少ないし、感じにくくない? それくらい抑えられてるってことだろうけど……意識しないと、ぼくでも難しいけど」
そういった無粋なセリフは、会話をしている反対方向からやってきた。
ラック・アンは他意なくそう告げて、ジャンが顔を向ければ愛想を見せるようにはにかんだ。
「お、おいお前。わ、私がスティールを意識していると言いたいのか?」
身を乗り出すように、異議申し立てる勢いで彼女が訊く。白々しくラックは肩をすくめた。
「別に?」
「……なあラック、一つ訊きたいことがあるんだけどさ」
息巻くクリィムは既に尾を逆立たせて、その短気さを見事に表すように取っ組みかかろうとするのを遮るように、ジャンは口を挟む。
視線はクリィムからジャンへと移り、彼はなんだい? と頷いた。
「やっぱり、魔法を持っていると魔力の絶対量には個人差があるのか?」
「まあね。魔法を使えば魔力を消耗するし、体外から吸収するのは効率が悪いし。だから魔力が回復するのを待つのが一番早いんだけど、それにも個人差がある。そしてキミのように、通常生活での体内魔力を抑えて生活することによって、戦闘と日常とのメリハリをつけられる。そうすれば、魔力の回復や、絶対量も増える兆しにある……と言われている。ま、ぼくも他のヘタなやり方よりは、効率的な方法だとは思うけどね」
「そうか……。ありがとう、参考になったよ」
「どういたしまして。ついでに、ぼくも訊きたいことがあるんだ。この問題なんだけどさ――」
ただクリィムの怒りをいさめるだけだった会話は、いつしか波長のあった者同士での話し合いに変わってしまう。
転入してきてから間もなくこんな仲になった二人に、クリィムは短く息を吐いた。
最近はなんだか蔑ろにされているような気がする。特に省かれているだとか、無視されているというわけではないのだが――まるで普通のお友達のような関係だ。
いや、それでいいのだ。
そうでなければならないのだ。
だが、妙な欲求が胸の中に渦巻いているのを、彼女は知っている。
彼女が師と仰いだ者から受けた愛情、その個人にとっては自分が特別な存在で居られた、そういった意味で必要とされたあの感覚。長らく森の中の生活で忘れていたが、ヒトとの、異人種との生活でそれを思い出してしまったのだ。
自分が社会の歯車として生きる生活。自分が必要とされる世界。
ここに来て、最近では上手くやっていけていると自覚しているし、ジャンもそう認めてくれている。
だがそれだけだ。
それ以上がない。
しかし自分がそれを、ジャン・スティールに求めているのかと言えば――わからないし、仮にそうだとしても認めたくはない。彼にそうする理由がないし、惹かれる要因も無かった。
「ったく、不抜けている」
彼女は自戒するように、頬をつねってから首を振る。
「意識を変えねば、な」
いつまで続くか分からないこの生活を、少しでも自分にとって快適にできるよう。そして今では自身の保護者となるエクレルの思惑通りの生活を。
面倒な話だが、それができていなければ命はない。
こいつらが卒業するまであと一年と半分――果たして耐え切れるか。
彼女はにわかな不安を覚えながら、授業終了を告げる鐘の音を聞いた。
同時刻。
――アレスハイム領、エルフェーヌ領その境目で落ち合う二人の男が居た。
砂粒の地。常夏の地。色気のない黄色がかった灰色の世界で、二人は共に白い外套を頭までかぶって居た。
「わざわざこんな所に呼び出して、いったいなんのつもりだ?」
まだ若い男の声が、イラついたように発される。それにわざとらしく怯えたように、もう一人がたじろいだ。
「そんなに怒らなくたっていいだろう。何も、ここで貴男を殺すというわけでも、脅すというわけでもないのですから」
「ったく。砂漠中にあるエルフェーヌならともかく、アレスハイムの気候は安定しているんだ。この暑さは慣れてないから、俺にとっては酷く厳しいものになっている」
外套をはためかせ、肌と衣服の間に新鮮な空気を送り入れる。だが熱された大気は、それ故に熱風となってしまう。逆効果だった。
男は短く舌打ちをして、やれやれと立ち直る。目の前の、耳の長い男は可笑しそうに肩をすくめた。
「相変わらず、堪え性のない人ですね」
「そんな話をしにきたわけじゃ、ないんだろ?」
「まったく、貴男という人間は無粋ですね。久方ぶりに再開したのですから、まずそれを宿そうという趣はないのですか」
「このくそ暑い中で、何を言ってやがる。……お前も相変わらずだな」
折れたように息を吐いて首を振る。
腰に備えた革製の水袋を手にとって口につけ、一口分だけ水分を摂取してから大きく息を吐いた。
「さ、本題に入ろうや」
近くの木陰を親指で促すのを見て、男は頷いた。
「いくらか楽になった」
頭に被る外套をはずして、黒と黄とが混在する髪の男は、エメラルドグリーンの瞳で色味のない景色を眺めてつぶやいた。
「なら良かった」
妖精族の男は、その細身を包む外套を軽く広げるようにはだけさせて、短く息を吐いた。
「それで、本題なのですが――ヤギュウ帝国、というものを知っていますか?」
「ヤギュウ……ああ、この大陸の遥か北方にある海岸線の。良く知っているさ、連中は土足で人様の領内に踏み込んだ上に、村一つを壊滅させたんだ。はぐれた部隊の独断だっていうのが公式的な発表で、金で解決した。だが連中は挑発したのさ、溝近くで最近国力を増大させている俺たちを。今のうちに植民地か支配下か、そういうのにしておこうとな」
「今我が国で来客として迎えております」
「――ッ!? まさか、貴様ら……?」
今すぐこの男を殺そうという意思はない。殴ろうというつもりさえない。だが反射的に作ってしまった握りこぶしに、彼は少しだけ気まずそうな顔をした。
歯を噛み締め、胸いっぱいに息を吸い込む。昂ぶる心を落ち着かせて、腕に入れた力を、感情によって増幅した魔力を意識的に抑え込んだ。
「彼らは近々、アレスハイムに攻め込む算段をしているようです。協力しなければ排除する。出来れば戦線協定を結んで欲しいが、不可能ならば補給基地として役割を果たして欲しい、と」
「……随分と本格的だな。理由はやはり、”溝”による地理的なものか?」
「恐らくは。我々も無論、アレスハイムに協力を致しますが……この大陸で、どこまで根回しがされているかが不鮮明で。私もこれから忙しくなりますよ」
「連中の評判は悪い。軍事力は”あの時”を見るに中々にシンドそうだが……ったく、よりにもよってこんな時に、か」
「何か特別に都合が合わないのですか?」
「いや。ただ聞いた話だが、養成学校は豊作らしくてな。上級生下級生共に、期待できる者がクラスに一人は居るらしい。それに、お宅の騎士もウチに来ているらしいしな」
男はまたうんざりしたように肩を落とした。息を吐き捨て、厄介だと言わんばかりに顔をしかめた。
――国同士の争いなんて、いつ以来だろうか。
少なくとも、溝から異人種らが来てからはそんな余裕なんて無かったから、一五○年は平和だったのかもしれない。
もっとも、この大陸では、の話だが。
しかしまさか、アレスハイムがよりにもよって狙われるとは――愚かな選択をしたものだ。彼は考えて、つくづくヤギュウに同情する。
まず異種族を相手にしてどれほどの部隊数が残るだろうか。
そして疲弊しきった所で、精鋭部隊たる騎士団が畳み掛ける。これで終わりだ。後はない。確実に、作戦なんて言えないくらいの簡単な段取りで終わる。
異種族という自然の異形なる雑兵が、異種族戦に慣れていない兵たちを叩いてくれる。ただでさえ血の気が多い愚かな連中は、異種族というものに対して付き合おうとすら考えなかった連中は、自然淘汰よろしく殲滅されれば良い。
だが問題は、国交についてだ。
恐らくその作戦が実行されれば、アレスハイムがどれほど取り繕うとも、ヤギュウは一方的な嫌悪感を催すだろう。当分は、まともなやりとりができないことを覚悟する必要がありそうだ。
「なるほどな。だが、確定していない以上、想定としてしか作戦を立てられないな」
「情報が入り次第、早馬を走らせます」
「ああ、助かる。というか――お前はこんな事をして、国家叛逆にはならないのか?」
男が言えば、彼は驚いたように呆然と男を見つめてから、気が抜けたように笑った。
何か、間違ったことでも言ったのかと妙な羞恥心に駆られて思わず視線を外すと、すかさず彼は口を開いた。
「いえ、エルフェーヌにはそんな法律が無いですし――残念ながら、ヤギュウには交友関係は無いんですよね。アレスハイムには様々な支援をしてもらいましたが、距離的にもヤギュウは……」
言わずもがな、と肩をすくめる。
確かに、と男は背にしていた木から離れて、砂粒の海を眺めては、ため息をついた。
「……っ、ユーリアをよこせば良かったと、今更心底思っている」
舌を鳴らして、首を振る。
男は外套を頭にかぶって、背中を見せたまま、エルフェーヌの外交官へと手をふった。
「お気をつけて」
――これで建前上、気安くアレスハイムと関われなくなったわけだ。
馬も無く魔術も無く、その身一つで歩いて帰っていく男を見ながら、彼は現状を認識した。
エルフェーヌはヤギュウに力添えする以外の選択がない。国力がそう強いわけではない上に、いくら騎士を実力重視で選んだとしても、国自体が小さければ立ち向かえない。
ヤギュウは、単純な軍事力ではアレスハイムを上回っている。この大陸では随一と言っても過言ではないのだ。
だから、いくらああは言っても、ヤギュウには協力する。もっとも、前線に出るわけではないからそう気重になるわけではないが、彼らの気持ちを裏切るようで胸が痛いのには変わりがない。
「まったく。少しは平和を、満喫しようとは考えられないのですかね」
やれやれと肩をすくめて、彼も自国へと足を向けた。
――そんな表面下のやりとりは、その後もあと”数度だけ”続く事になる。