転入生
(荘厳、かな。やっぱり、見る立場が違うとこうも思う所が変わるものか……)
アレスハイムの門をくぐった少年は、足を止めて遠目にも見える城を眺めた。肩から提げるショルダーバッグは膨れるほど荷物が入っていて、また左手に握る革張りのスーツケースは彼の腕には過負担なほどに重かった。
ラック・アンは今日からこの国で暮らすことになる。隣国ということだが街の外観は大きく異なるし、文化も少し違う部分もあるだろう。もっとも、その多くは重なっている部分もあるだろうが――見知らぬ土地。母国の領内ですら無いここでは、孤立と同意義だ。
「騎士さん達にゃ話が通ってる。お前のフォローは頼もしいくらいにしてくれる筈だ。これからお前が世話になるのは、その地図にある通り。一人暮らしになるだろうが、慣れるまでは手伝ってくれるそうだ」
漆黒の外套を纏う男――ドラゴは気怠そうに言いながら、門の手前で白墨で魔方陣を描く。
そうして書き終えてから、一仕事を終えたように息を吐いた。
「学校は明日からだそうだな。距離が距離だけに、あんま遊びにこれないが……年末には迎えに来る。年越しくらい、母国でやりたいだろ?」
「色々とお世話になります。ぼくの療養のために、こんなにわざわざ……」
「ま、大切な戦力だからな。今じゃそうでもないが、いつ大きな戦いがあるかわからんし。それに、”あんなこと”があるまでは大切な教え子だったしな?」
「はい。その節は――」
「いまさらいらねえよ。ソレじゃ、達者でな」
ドラゴは気さくに軽く手を上げると、まもなく彼が足元に置く魔方陣がにわかに輝き始めて……。
魔方陣が円柱状に光を放つ。彼はその中に飲まれて、
「さよならです、師匠……!」
その光が失せれば、魔方陣の中からはドラゴの姿は跡形もなく消え失せていた。
――転移魔術。彼が行ったのはその魔術だ。現段階ではその魔術の簡易化には成功していないために、詠唱か、あるいは魔方陣の形成でしか術を発動させることができない高等魔術である。
それは実戦段階では中々に使うのは難しいものだが、こういった日常生活の助けとするには十分すぎるそれだ。
そしてまた、その魔術を扱いきれるものもそう多くはないとされている。もっとも、エルフェーヌ国内に限った話だが。
「明日から学校、か。忙しい日程だな」
これから寝食をすることになるだろう共同住宅に、明日から通う事になる学校の制服やら教科書やらが準備されているはずだ。
となれば、今日は荷物整理で一日が終えてしまうかも知れない。
しかし、エルフェーヌでは既に騎士だというのに――養成学校に入学とは。
彼は短くため息を吐いてから、考えても仕方が無いと、石灰で刻まれた魔方陣を足で踏みにじってから街へと足を運んだ。
九月一日。それは残念なことに月曜日であり、夏休みが九月を飲み込んで始業式の日時を延長させてくれることはなかった。
――くそっ、夢であって欲しかった。
ジャン・スティールは焦っていた。
そして走ってもいた。
隣にはサニーもいないし、トロスもテポンも、おなじみのメンバーは誰もいない。
夕べは、特に疲れていたというわけではなかったし、今日に備えて早く寝た。それ故にゆっくり眠ることが出来たのだ。そう、残念なほどゆっくりと、寝すぎてしまったのだ。
オクトに身体を揺さぶられて目覚めたときには既に全員が登校した時間であり、彼は完全に出遅れた形となっていた。
急げば遅刻は免れる。そんな時間に、ジャンはせめて胃に何かを入れておこうとバナナを一本咥えたまま、勢い良く家を飛び出した。
「居候なのに寝坊って……そりゃあ無いよなぁっ!」
自堕落にも程がある。
いくら雑務の手伝いをしているからとはいえ、裏で幾度ともなく渡そうとした家賃をオクトに何度も断られているとはいえ、それでもテポン一家に甘えていいというわけではない。
確かに帰郷もあったし、あれから新装備と魔方陣を試しても見た。その疲労があったせいかもしれなかったが――。
「ったく、気を引き締めなくちゃ……」
――持っていくか迷ったが、やはり身につけていくことにした木彫りのネックレスを手に取りながら、緊張に高鳴る胸を抑えて一つ息を吐いた。
右腕の肘やや上の部分から、袖は少しの所作から揺れて中身がないことを目立たせる。もう慣れたことだが、まだ朝でも外に出て居る往来の人々は、それを見ては、見てはいけない物を見てしまったように顔を背ける。彼にとって、そういった同情まがいの視線ばかりは、未だ耐え難かった。
これではまるで、自分が弱い人間のようではないか。
ふざけるのもいいかげんにして欲しいモノだ、とラックは思う。弱ければ腕をなくして尚騎士としての再起を望まないし、わざわざ隣国まで来てそんな事をしようとは思わないはずだ。
木彫りのお守りには、剣と盾が掘られている。それは、妖精族の”成功祈願”の紋章だと――幼少の頃から姉として世話を焼いてくれた幼なじみが言っていたのを思い出す。
コレがあれば、いくら失敗したとしても最後には必ず成功すると、そう励ましてくれる言葉を思い出せば、少しだけ元気が出た。
「にしても、どれくらいゆっくり行けば良いんだろう……?」
学校には、通常の登校時刻よりも遅めに来てくれれば良い。これから担任となる男は先日そう言ってくれた。だから彼は、本来ならばこの速度で歩いていれば遅刻確定となろう時刻に家を出ていたのだが、本当にこの時刻で良いのかわからない。
もしかして遅すぎたのか。そう不安に思うのも、ここが彼にとって未知の土地であるためという要素があるせいかもしれない。
――そのよそ見のせいか、不意に前方へと現れた影に対応できずに、
「うわあっ!?」
飛び出てきた影と、正面衝突する羽目となった。
衝撃。
視界は白に黒に明滅し、意識が混濁する。口の中に広がる甘くも鈍い鉄の味に、口内か鼻腔から出血していることを認識した。両手は腰より後ろで大地を掴んでいて、尻は堅い地面に座り込んでいる。どうやら、尻餅を付いているらしい。
「くっ、な、何が……?」
目を凝らして辺りを視認する。と、まもなく目に飛び込んできたのは小柄な影が倒れている光景だった。
状況を見るに、どうやらソレとぶつかってしまったらしい。
ここは曲がり角だ。まっすぐ進んだ先に学校があるところを――さらに、ソレが学校の制服を着ているのを見れば、どうやらこの少年も遅刻寸前で急いでいたのだろう。
同類が居たのに少しばかりの安堵を覚えながらも、彼は立ち上がり、少年に手を差し伸べた。
「大丈夫か? 正直すまん、急ぐ……っ?!」
「いっつぅ……ったく、ちゃんと前を見て走れよばか! くっそ……」
悪態をついて立ち上がる少年の右袖には、その中身がないらしい。ぶらりとたれて薄っぺらく揺れるそれを見て、ジャンは思わず絶句した。
まさか。
息を呑む。
転んだ拍子に外れたのか。
「お、おい大丈夫――っ?!」
駆け寄ろうとする最中で、ふと足と石畳の間に異物を認識した。それを理解したのはそいつを強く踏み込んだ瞬間であり、バナナの皮は思いの外石畳を滑らせて、ジャンの足は自分が意図する方向とは別の方へと滑って体勢を崩し、勢い良くすっ転ぶ。
後頭部を打ち付けて、再び意識が混濁。視界内に、極彩色の光点が蚊か何かのように飛び回った。
「ぼくは大丈夫だけど……ごめん、悪いけど先に行くね。バナナさん」
後頭部を抑えて痛みに喘いでいる中で、そんな声と共に足音は遠のいていった。
――ついてない日はとことんついていない。
彼は結局遅刻をして――学校に到着した頃には、既に息も絶え絶えで死に体であった。
「ったく、今日は始業式なのに、もう始業式は終わっちまってんだぜ?」
相変わらずの派手なタテガミヘアーに加えて色黒になっているカールは、呆れたように言ってきた。不真面目な様相だというのに、しっかりと休まず来ている真面目な男――というのが、ここ最近の彼への評価だった。一度はいじめっ子だった彼だが、適度な距離を置いたお陰か、現在では良好な関係を結べている。
「確かに。だが、ジャンにしては珍しくないか?」
取り巻きとも言える黒い髪を長く伸ばした少年は、肩をすくめて言った。
ジャンは軽く笑いながら、まあな、と頷く。
「さすがに油断してたよ」
「――ったく情けない。俺に認めてもらいたいのなら、もっとシャンとしてほしいものだがな。もっとも、選ばれた一人として流石にこの俺もお前を見捨てるわけにはいかんから……」
聞きなれない声が、まるで最初から会話に参加していたかのような気軽さをもって発される。気がつけば、ジャンの机に手をついて、カールらの視線を集める男がそこに居た。
鋭い目付きに、華奢な肢体。まるで似つかわしくないその風貌に、ジャンは奇妙な既視感を覚えていた。
おれはこいつを知っている――そう考えれば、すぐに答えは記憶から引揚げられた。
「えっと、お前は……」
確か、外から魔物が数百と押し寄せてきた際に共に”見学”をした一人だ。もう一人は隣で真っ赤に燃えるような長い髪を目立たせながらも、誰も近寄らせないように殺気立たせて頭を抱えたクリィムだ。サソリの尾は、相変わらず元気そうに逆立っていた。
「よもや、忘れたとは言わせねぇぞ」
「てめー隣のクラスだろ、巣に戻って光合成でもしとけよ」
カールが、意地悪な笑みを浮かべながら彼を指さす。その先には緑色に染まり上がる短髪があって、彼はそれを葉かなにかに見立てていったのだ。
その指摘に、男は眉をしかめた。
「こっ……、まあいい。俺は、挨拶をしにきただけだ。実力の程は知らないが、名前は聞いているからな。ジャン・スティール、俺はあのレイやクランと同じような関係を築きたいと思っている――さらばだッ!」
妙に演技がかったセリフを残して、彼は結局最後まで名乗らずに勢い良く教室を出ていってしまう。
――ルーク・アルファという、どこかの特殊部隊の暗号名じみた男の名前を思い出すのは、それから暫くしての事だった。
今日の日程は、これから簡単な学級活動を行なって終了だ。恐らく、後期も頑張れだとか、授業日程などの用紙を配って終わるだろう。
「えー、今日はちょっとしたお知らせがある」
だが作業服姿の担任は、ちょっと気だるげに教壇に立って告げる。
「お前らの同志がもう一人増える。お隣エルフェーヌから遠路はるばるやってきた……おぉい、入って来い」
声と共に、スライド式の扉が音を立てて開き始める。
不意の紹介にクラス内にはどよめきが走り、各々が期待にざわめき始めた。
――まず始めに、黒い革靴が教室内に侵入した。共にあらわになる、お揃いの詰襟の制服。肩肘を張る制服からでもわかるひ弱さに、肩まで伸びるやや長めの黒髪。その中性的な風貌に、おお、という感嘆が周囲から漏れた。
やがて担任の隣に立って正面を向くと、それとは別の感嘆詞が重なるように響いた。
それは、右腕の袖が不自然にひらひらと揺れていたからだ。故に、その右袖に中身がないことを知る。
やってきた転入生は、その反応に眉をしかめていた。
漆黒のように黒く暗い、吸い込まれそうな瞳。整った顔の造りは幼く、どうにも十八には見えぬ少年だ。
そしてそれは、見覚えのある顔で……。
「あっ、あいつは……!」
確か、今朝ぶつかった少年だ。
同じ遅刻少年だと思っていたが、まさか転入生だったとは。
考える間に、表情を消した少年は短く息を吐いてから、姿勢を整えた。
「今日から皆さんと同じ学び舎で勉学に励む事となりました、ラック・アンです。まだ知らないことも多くて拙い場面ばかりお見せすることになると思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」
深くお辞儀をしてから、また元の直立体勢。まず第一印象は、生真面目な少年、というものだった。が、そうそう接しにくい人間というわけではない。ジャンだけは、なんとなくそう感じていた。
「質問はないか?」
ラックに変わって、担任が言う。彼は既に鉄パイプと質素なクッションで構成された折りたたみ椅子に身を預けて、足を組んでいた。
しかしクリィムの時とは打って変わって、クラス内は静まり返ってしまっている。どうやら右腕がないという事に、異人種もヒトも同様に、自身とは違う異質な風貌、特徴に畏怖してしまったようだ。
担任は察したように軽く手をたたき、
「ラック、お前の席は……おいジャン、手を上げろ」
指示された通りに手を挙げる。
そんな事にも既視感を覚えて、ふと左横を向く。クリィムが居るのとは反対側の席には――気がつくと、いつも本を読んでいる静かな少女はそこには居らず、空席になっていた。その彼女の姿を探せば、窓際の方で、おそらく友人なのだろう少女と少年について話しているようだった。
そしてラックも、それでジャンの存在に気がついた。
彼は驚いたように目を見開いてから、ああそうか、と納得するように一つ頷く。
「あいつの隣だ。ジャンも、クリィムから良い評価をもらっている。転入生に優しくしてやれよ」
「ああ、はい」
ぶっきらぼうだった上に、少し付き合いも強引だったから嫌われているのかと思っていたが――ちらりと横を見れば、彼女は朱に染めた頬を隠すように顔を背けた。
可愛いところもあるんだな、とジャンは微笑むと、促されたままにやってきたラックが隣に座った。
担任は教壇に戻り、そしてこれからの予定と、今後の日程などを掻い摘んで説明し始めた。
「まさか、キミと同じクラスだとはね」
頬杖を付いてジャンを眺めるラックは、誰にともなくそう呟く。が、それを拾ったジャンは顔を向けて、気さくに笑った。
「おれも意外だと思ったさ。ま、よろしくな」
「いや、むしろキミは――覚えていないのか? ぼくは、あの日の事を、誰がいたかさえも良く覚えている。キミだって……」
――あの日。
それはラックが利き腕を失った時の事だ。この国に逃げ込み、自らの失態で多くの異種族を誘い込んでしまったあの日だ。この国の騎士達の協力のお陰で全てはまるく収まったが、このアレスハイムはあの出来事を教育に活用した。上級生は実際に戦闘に参加して、下級生は見学。その中の一人が彼だと、ラックは認識していたのだが、どうにも反応の薄い彼を見て、もしかして勘違いなのかと心配になった。
それに、騎士の話では期待の新入生が居るとの話だった。そして見学に選ばれたのは、下級生の中でもその成績を高く評価されている者だと聞いたのだが――。
勘違いならば、一体誰の事なのだろうか。ここまでが全て取り計らいなのではなかったのならば、一体。
ラックの言葉の意図が読み取れずに首を傾げるジャンを見て、ラックは小さく肩をすぼめた。
「まあいいや。よろしく……えっと」
「ああ、ジャン・スティールだ。分からないことがあったらなんでも訊いてくれ」
「ありがとう」
――ラックの人生が変わるきっかけは、”あの日”からこの出会いまで続く、彼にとっての非日常がそうだった。