血の嵐 下
「ちょ、っと! 困りますよ、他の患者さんだって居るんですよ!」
今にも泣き出してしまいそうな声で、まだ十四、五の少女は修道服に身を包んで、強引に押し入ってきた黒い外套姿の男の胸板を押し返していた。
「悪いな、可愛いお嬢さん。オレは今あんたに構ってやれるヒマないんだ」
蒼い瞳が涙で潤む。少しばかり後ろめたさを覚えながらも、男はそれを見ながらしっかりと修道服が頭まで包まれている彼女の頭を、布越しで軽く撫でながらいなした。
少女には何が起こったのか理解出来ないだろう。素早くなめらかな体さばきに、彼女の抵抗は見る間に打ち崩されて行き、気がつけば男は背後に。前へと押し返す力は虚空に飲まれて――バランスを崩して、額を勢い良く床に打ち付けた。
きゅう、と鳴き声のような声が聞こえた気がした。動く気配がないのを見るに、打ちどころが悪く気絶してしまったのだろう。
「……まあいい、これが終わったらフォローしよう」
「まずフォローはこの現状からにしてくれないか?」
肩をすくめて歩みを進める男へと、背後から声が降りかかった。
されど、驚く様子もなく、むしろこうなって当然待っていたぞ、と言わんばかりの余裕さで踵を返し、外套を翻す。そうすると右手側にはどんよりとした空が見える窓、右手側には個室の病室が並ぶ壁。その通路の、数歩分先の位置に、甲冑姿の男が立っていた。
特別な格好でも何でもない。市販の一式。見る限りでは騎士ではなく、警ら兵のようにもうかがえた。
「不躾なのは後で改めて謝罪する。だが、これはこの国のためでもあるんだ。ここら一帯は、”溝”が近いだけに異種族の強さもひとしおだ。だから、出来るだけ遠くで引きつけたい」
「舐めるなよ、小僧」
しわがれた声は怒気さえも孕んで威嚇した。
立派な顎鬚を蓄える妙齢の大男は、腰に大ぶりのナイフを備えて、威圧するように表情に怒りを伝播する。
「問題が領内に持ち越された時点で、既にこれは我々の問題でもある。既にこちらの騎士は動き出したし、俺たち警ら兵も緊張を高めている。そしてまた、これが悪い問題ばかりとは言えない」
言いながら、にやりと男は不敵な笑みを浮かべた。
不意すぎるそんな不気味な表情に男は思わず身構えたが、落ち着けと言わんばかりに両手を振る所作に、男は一歩だけ退いて立ち直る。
「アレスハイムでは、騎士を学校で育てている。二年制の学校でな。その中から将来性の高い生徒をクラスで一名、総数四名連れて寄越す。二年には実際に戦闘に加える予定だ」
「……まだ騎士でもない子供に?」
「そうだ。お前たちが、騎士になって間もない子供にそうしたようにな」
「……ああそうかい。そりゃ助かった……だが、異種族は染み付いた血をたどっている。オレたちが今外に出向いたとして、その全てを対処できるとは限らない。確実にいくつかの漏れを出すはずだ。こればっかりはわかってくれ――オレは本気で、被害を出したくないんだ。身内のミスは、せめて身内の力でなんとかしたいんだ」
身体が熱くなる。男はそれを感じていた。
懐かしい感覚だと思う。これほど焦っているのは、一体いつぶりなのだろうか。
恐らく、今から来る異種族は多くて五、六○○程度。まず始めに魔術で面で攻撃を行い集団を個別に分けて、各個撃破していけばとても無理とは言えない数だ。むしろ、遠隔から魔術のみでの撃破さえ可能な実力を持ち合わせている。
だが確実に、と言うのならば、やはり直接戦火に身を晒さねばならぬだろう。
警ら兵の一軍を纏める男、『エミリオ』はその言葉を受けて、今度は威圧するものではない、むしろ好意を表現するように微笑んだ。
「了解した。だが、少年……ラック・アンは今、この国にとって、エルフェーヌからの客人だ」
「……ああ、そういうことか」
わかったよ、と男は大げさに諸手を広げた。
「自国を貶めないように、オレはラック・アンを丁重に扱おう」
「ねえ、スティールさん。学校の先生がお見えですよ」
「学校……?」
スクィドは来客に対応したかと思うと、そそくさと居間にやってきて、そう告げた。
そんな彼女の台詞に、オクトが笑い、テポンがイタズラに口走った。
「あはっ、成績不良じゃないの?」
なぜかトロスが吹き出した。
彼は飲みかけのオレンジジュースを瞬く間に毒霧に変えてむせこみ、それから涙目になってジャンを見る。
「す、スティールに限ってそんな……」
「なんでもいいから、早くお出になってください。お客様を待たせています」
「あ、ああスミマセン。今行きます」
読みかけていた本を閉じた所で、栞をはさみ忘れたことに気づく。思わず動きが止まったが、彼は諦めて膝の上のタマを脇にどかしてソファーから立ち上がり、そそくさと玄関へと向かった。
――そこに待っていたのは、平服姿の戦闘教官だった。
そんな彼に思わず意表を突かれて言葉を失っていると、彼は淡々とした口ぶりで用件を告げた。
「ジャン・スティール。今からちょっとした課外授業だ。剣を持って来い」
「なっ……成績不良、とかじゃないですよね」
もしかしたら、これからみっちりしごかれるのだろうか。外は雨だ。こんな中で戦闘訓練なんてされたら明日には風邪を引いてしまうかも知れない。
身体は強い方というのがちょっとした自慢だが、疲れきった身体にこの蒸し暑さは堪えるし、汗を掻けば冷えるだろう。ちょっと、というかかなり遠慮したいのだが――。
教官を除けるように、一人の少年が前に現れた。
「へえ、お前がジャン・スティールか」
鮮やかな自然を彷彿とさせる、深い緑の髪が目立つ少年だ。鋭い目付きはまるで威嚇するようなソレであり、ジャンよりもどこかひ弱に見える体つきは頼りなさげに見えた。腰には三本の棒が並んで備えられており、その中の一本には槍の穂先が付属していた。
「……誰だ、あんた?」
「俺は隣のクラスの『ルーク・アルファ』。お前と同様に、選ばれた一人だ」
「選ばれた? そりゃまた、いったい何の話だよ」
「知らないのも無理は無いな。俺だって聞いたばかりなんだし。実はな――」
「やかましい! アルファは口を慎み、スティールは武器を取ってこい! 五秒以内だ!」
「っ、はいっ!」
無駄口は果たして教官によって遮られ――ジャンは肉体強化の魔術を発現するその直前までに追い詰められながらも、なんとか時間の経過を十秒以内に抑えることができていた。
「しかし、今年は災厄もなく無事に一年を過ごせると思ってたのだがな……」
少年は、抵抗する間もなく一方的に事情を聞かされて、今は熟練騎士の男の背に乗っていた。
日常を過ごす街は、雨のせいか少しばかり活気がない。そしてそれに加えてそそくさと忙しなく動く警ら兵の姿が、住人に少なからずとも不安を与えているように、少年、ラック・アンは捉えていた。
男の傍らで言葉を漏らしたのは、下半身に馬の肉体を持つ女性だった。ケンタウロス族と呼ばれる女性は、この鈍く灰色に塗りたくられている空の下でも鮮やかな黄金色の髪を、頭の少し高い位置で一つに括っている。
馬の身体には薄い下着が着せられていて、周囲を鉄の佩楯で覆う鎧を着込んだ姿で、女性は一つため息を漏らした。
「だが、私が戻っていて良かった」
「ほう、それは、あなたが仲間を信じていないから?」
男は意地悪な笑顔で訊いてみる。だが同様すら無く、彼女は首を振って、顔も見ずに答えてみせた。
「私は外に出る仕事が多い。他の仲間に、負担ばかりかけているからな。こういった大変な時は助けてやりたいと思っている」
そうこうしている内に、やがて門をくぐって外に出た。
待っていたのは長い白髪の男と、短く刈り込んだ燃えるような赤い髪が特徴な学生だった。二人はわかりやすい制服姿で、それぞれ漆塗りの黒い槍に、装飾も何もないシンプルな刀剣を装備して、外壁に寄りかかっていた。
他には、今回共闘するミノタウロスの騎士であり、彼女はさらにもう一人居るだれかと話していたかと思うと、彼女らに気づいて、ようやく来たかと顔を上げた。
「待ってましたよ。敵の気配は、まだ少し遠いです。そちらの……えっと」
エクレルが男を指して、なんと呼べば良いのかと戸惑って口ごもる。それを察した彼は、満面の笑みで胸に手を当てた。
「ドラゴです。どうぞよろしく」
「あ、はい。そのドラゴさんが言ったよりも、少しばかり進行は遅いようです。烏合の衆ですし、内輪もめもあるのでしょう」
「そうか。まだ一年組も来ていないし、ちょうど良いんじゃないのか?」
「ですね。あと……ほら、自己紹介なさい」
じっとエクレルの影に隠れていた、やや色素の薄い赤髪の下に宝玉のように大きな赤い瞳を持つ少女は、背中を押されて、居心地が悪そうにうつむいた。
彼女はいきり立つサソリの尾を頭頂から生やしながら、ぎこちなく震えながら顔を上げた。
「あ、あ……り、リサ……です」
「……リサ? ……彼女は?」
突然の紹介に戸惑ってケンタウロスの女性が顔を上げてエクレルに救いを求めると、彼女はどこか嬉しげに笑って、リサの肩を抱いた。
「もう、『ユーリア』さん、忘れちゃったんですか? 報告した、あの”はぐれ”の子ですよ。いまは学校に通って、だんだんとヒトに慣れてきてます」
「ああ、彼女か。それは何よりだ」
ユーリアと呼ばれたケンタウロスが微笑むと、なぜだかリサは萎縮しきってエクレルの背に隠れてしまった。何か後ろめたい事があるのかと思ったが――そういえば彼女は、街を襲撃しようとしていたのだ。そして確か、騎士はエクレル以外には出会っていないと言うのだから、それも仕方のない話だ。
そんな事を考えている脇では、ドラゴとラックは会話を交わしていた。
「正直、こんな失態をしたお前は、国では擁護できないぞ。いくら精神的に追い詰められていたとしても……食われそうになったという事実を上げて、あいつらを処分するくらいしか、な」
「ぼ、ぼくは……」
「ま――もしこの事が国に知られてたら、の話だけどな」
「え……? ちょ、ドラゴさん、どういう事ですか?」
「今、国ではお前は行方不明扱いになってるし、捜索を任されたのはオレ一人。んで、国を出てからまだ一度も戻ってない。わかるか? わざわざオレの友達まで使って探したんだ。国に戻ったら感謝してくれよ?」
「あ、ありがとうございます!」
背中に力一杯抱きついて、少年は涙目になる顔をそのまま背中に埋めた。
彼は困ったように肩をすくめると、そこでようやくユーリアの視線に気がついた。
「な、なんですかその目」
視線は微笑ましく見つめるソレではなく、どこか訝しむようなものだった。
だからそんな視線に思わず気後れして、ドラゴは動揺を隠せずに口にする。と、彼女は肩を落とすように嘆息して、声を低く元気のない口調で告げた。
「アレスハイム側が彼を擁護しなければ、有無をいわさず処分するつもりだったのだろう?」
「……はっ、はは。じゃ、邪推がすぎますねえ」
「嘘のつけない男だ」
ユーリアはわざとらしく肩をすくめた。
「はあ……だが、その少年がエルフェーヌで騎士として復帰できる可能性は?」
「余裕でありますよ」
男は言いながら、指を重ねてバツ印を作った。一応、背中に居るラックに配慮した表現だろう。
「なら良かった」
なるほどな、と思いながら、感情も何もない風に言葉を返す。
彼が騎士に復帰できない理由……それはエルフェーヌ自体が彼の治療や心の治癒を待ち切れないからだろうし、そもそも片腕がないから戦闘はできないと決めつけて判断しているからなのだろう。国が少し遠いだけで随分と変わる考え方だが、それも仕方がないものだった。
だが、このアレスハイムならどうだ?
彼女は考える。
異人種をまず受け入れて、さらに女性も騎士の大半という事態となっているこの国で、ある程度の成績を納めればたとえ片腕だけだとしても、この少年は立派に騎士を冠することが出来るのではないか?
少し大臣と相談をして――今回の謝礼として、彼を保護することはできないだろうか。
彼女はまたラックを一瞥すると、
「待たせたな」
半袖半ズボンという格好の中年男性が、二人の少年を引き連れてやってきた。
「こっちの目付きが悪いのがアルファ。こっちの要領のよさそうなのがスティールだ」
「どうも」
「よ、よろしくお願いします」
――今回は見学という位置につく、養成学校の一年組が軽く会釈し、あるいは深く頭を下げて挨拶をした。
その場に居る全員はそれぞれ適当にそれに返して、やがて二年組もその集まりへと寄ってくる。
「レイ、クラン、そっちも準備はいいか?」
いよいよか、という面持ちでユーリアが訊く。
白髪の男が、そして赤髪の男がそれぞれ頷いた。
リサはジャンの隣に移動して、戦闘教官がさらに脇に付き――ユーリア、エクレル、ドラゴ、レイ、クランに背負われるラックを加えた六名は、ただ簡単に顔を合わせた直後に、言葉も無く進行し、その場を辞した。
「ま、気楽にしてろ」
教官が、事も無げに言った。
一応の説明を聞いていたジャンだが、混乱したままの展開には正直追いつけない。自分が関係してしまったようでいて、まったくもって部外者の扱いをされている事もあるのかもしれないが。
しかし動き出してしまったこの流れは――恐らく今年最大の波乱になる……ような気がした。
草原に挟まれた、どこにでもあるような平坦な道。
数百メートルほど前方に、異種族の群れが見えた。
もはや血の匂いを辿ると言うよりは、血の匂いをきっかけにして街の方向を知り、ついでに人間を食べてしまおうと画策して突撃してくるような、迷いのない特攻の姿だった。
まずユーリアが先頭についた。両脇にはエクレル、ドラゴが待機する。背後に控えるレイとクランは、既に武器を構えて指示を待っていた。
――圧倒的な存在感。
だが畏怖はない。怖くない。どこか、呆気なささえ感じられた。
ユーリアは久しぶりの乱闘に短く嘆息してから、槍を構える。
「私がど真ん中に一発入れる。エクレルとレイ、ドラゴとクランで左右に分かれて各個撃破だ」
それぞれが緊張を顔に出す。表情を引きつらせて、脇で為す術もなく震えているラックはこんな心境だったのかとにわかな共感を覚え始める頃、気後れした声は、ドラゴから上がった。
「ちょっと、一応侮れない集団なんですけど? 作戦とかないんすか?」
「……貴様は何を言っているんだ?」
彼の言葉に、ほとほと呆れた、とユーリアが一睨み。彼は思わず背筋を凍らせるようにしながら、松葉杖で辛うじて立っていられるラックを一瞥した。無意識の救いを求める視線だったが、彼は既に異種族に釘付けで、見えていないようだった。
「作戦とは弱者に残された最後の望み。相手をいかに騙しいかに術中に嵌めるか、力がなくとも圧倒的な強者に勝利する唯一の可能性を持つ手段だ。だが我々はどうだろうか? 相手は、圧倒的な力で、畏怖するべき存在か?」
「……なるほど」
「一時間とせずに終わる。安心して戦え……行くぞ」
槍の穂先を天に向けた形から、やや横に傾ける。そうして柄を握る手に、彼女はもう片手を静かに重ねた。
――彼女の肉体から、形容し得ぬ激しい威圧が溢れ出す。それがいわゆる”魔力”だという事を、彼らは理解していた。
紋様は輝かない。
つまり、彼女が今出そうとしているものは、魔法だった。
ユーリアは後ろ足で大地を蹴り続け、その馬蹄が音を鳴らす。今にも駆け出しそうな、そのための勢いづけるような動作に、言葉はなくとも周囲は少しだけ彼女から距離を取った。
敵は既に百メートル圏内に入り込んでいる。
動きの少ない、されど威圧の高まるユーリアに、誰もが集中し、緊張し、不安を抱く――が。
次の瞬間だった。
何の予兆もなく、光の粒子がどこからともなく現れて彼女の肉体に張り付き包んだと思うと、全身は眩く輝き、ユーリアは穂先を前方に向けた。
「行くぞ……ッ!」
大地を弾き、いよいよ彼女は走りだす。馬の加速は見る間に進んで一気に集団との距離を縮めて、馬から生える人の部分は、ブレること無く低姿勢で槍を構えていた。
「発現めよ――雷撃疾走ッ!」
肉体から輝きが放出した。全身から火花が火花が乱れ飛び、輝きと共に暴風が排出された。
眼前の異種族の陣形がにわかに崩れ、進行が止まる。
それが彼女の覇気のせいか、暴風や輝きに驚異したのかは定かではない。
だが少なくとも――その隙が、決定的なまでの命取りだった。
彼女の速度はさらに加速する。それは既に視認どころか、馬蹄の音すらもまともに聴き取ることさえ不可能な速度だった。
電撃疾走――その名の通りに、彼女の肉体は電光と相成った。
加速する肉体。加熱する大気。構えた槍は、その速度に、衝撃の伝播に早くも悲鳴を上げていた。
やがて先頭の獣の腹に切先が触れた。
その瞬間に穿たれた腹部は間もなく焼き尽くされて穴を開けて――集団内に電撃が走る。それは複雑な経路よろしく余すことなく全体に、頭部を鈍器で殴られたような鋭い、脳髄を揺さぶるようなより直接的で効果的な衝撃を与えていた。
圧巻だった。
敵の土手っ腹に食いついたユーリアは自身に触れた異種族をその伝導熱で焼き尽くし、近づいた者を電撃で焼き尽くし、そして既に柄に致命的なまでのヒビを入れた槍に触れた者を刳り抜いた。ソレはやがて消し炭となり、焼け焦げた大地へと崩れてゆく。
そんな特攻の中でも、息を飲むような槍捌きは失われない。
薙ぎ払う一閃で数個体を腹から切断し、抉り貫いて連なる三体を絶命させ、振り下ろす一撃はもはやその槍は大剣なのかと錯覚するほどの衝撃を以て、切断と形容するよりもはや爆撃、その個体、集団の四散を目的とした攻撃手段だった。
流れた鮮血が沸騰し、蒸発する。されどただの熱湯となるそれらもあって、周囲には鮮血が霧にもならず、ユーリアの勢いに伴って凄まじい暴風雨のように吹き荒れていた。
――彼女が集団から抜ける頃。
五○○からなる軍団は既に二○○近くを喪失しており、電撃の後遺症によってその他は皆動きを鈍くしていた。逃げることもままならず、呆然とする四名は、それからはっとなって指示された通りに、両断されたそれぞれへと駈け出していく。
失速したユーリアは同時に全身からの電気も失って、疾走から歩行へと変わる。酷い倦怠感を覚えながらも少しだけ目をつむり、深呼吸を繰り返す。
そうして最後に彼女が大きく息を吐いてから振り返ると――悲鳴や断末魔をあげながら地面に崩れていく異種族の姿が多かった。
飛び散る火花。魔術の輝き。巻き上がる血の嵐。
見る間に敵の数は減っていき、
「はぁっ!」
ドラゴの一閃。
それを最後に、ついに集団の全ては呆気無く、手応えも見せずに殲滅された。
その頃になるとユーリアの体力はすっかり回復していて、対照的に四名は、緊張故か随分と疲れきったような顔で跪いていた。
「さすがユーリア殿。特攻隊長の実力は未だ衰えぬ……か。現特攻隊長のシイナに劣らぬとは、正直驚いた」
軍務大臣は正直に感服した、と息を吐いた。
円卓にただ一人座る彼に、ユーリアは謙虚に首を振る。
「いえ、仲間が居たので。残党の危惧をする必要がなかったので、余すことなく全力を出せたお陰です」
「特攻隊長の実力とはそれこそなのだが……まあいい。これ以上褒めても、貴殿はまず答えを聞きたいだろう」
「……申し訳ございません」
「かまわんよ」
男はカップの紅茶を一口含んで、味わうように飲み下す。
――あの戦闘から二○時間が経過した。
怪我人はゼロ。ドラゴはその日の内に手配した馬に乗ってラックと共に帰って行き、また周囲の被害も大地の”焦げ”を除けば問題はなかった。
「エルフェーヌ国王から、即日で返答が来た」
「……その内容は?」
「申し訳ないことをした。貴国の要望はもちろん、公道の修繕や謝礼は後日遣いの者と共に寄越す……といったものだ」
「そうですか。関係の者が無事なら良いのですが……」
「あの国王に限ってそれは無いだろう。どちらにせよ、我々には関係のないことだ。他国の内情に関わりすぎても良いことはない」
「それはもちろん、重々承知しています」
「だろうな。貴殿のお陰で異人種の偏見はここら一帯からは薄れてきているし、その手腕から国交も安定している。そろそろ、騎士から離れて本格的な外交官として働いてもらいたいのだがな……」
男はそういって、また紅茶を口に含んだ。
だが、それまでと同じように、彼女はその言葉に対しては断固と首を振った。
「私には、最近楽しみが出来ました」
女性としての可愛らしさも無い口調だったが、それは凛とした声で紡がれた。彼女の声から穏やかささえ感じられたのは、長らく彼女と関わってきた大臣も久しぶりと感じるほどのものだった。
「私はある少年の人生を変えてしまった。強くなれとは言ったものの、来てほしくはない道に来てしまったのです。だけど不思議なことに、私はその男を待ちたいと思っている。どの世界でも、どの職業でも、ここに来てしまったからには、いずれ肩を並べたいと……そう考えているんです」
再開した時の少年は、あの時と変わらず真っ直ぐだった。身体も大きくなり男らしくなっていた。無茶を承知で、弱者の立場だというのに作戦もなく特攻していたのには目も当てられなかったが――下手に小狡くなっているよりは良いと思えた。
学校では上手くやっているらしい。なんでも、ヒトより異人種の友人が多いというのはどうかと思ったが……なんだか、それに嬉しくなったのは、彼女の中では秘密だった。
「ならもしその少年が、外交官になるのならば?」
「……そうですね。大臣の手を煩わせるのも申し訳ないですし、私が教育しましょう」
「なるほど。なら、その少年の名前を伺ってもよろしいか? 当分の間、貴殿程の逸材は、正直失いたくないからな」
「ええ……その少年は――」
ジャン・スティールは結局のところ、自分がなぜあそこに呼ばれたのかが理解しきれずに居た。
アレから夜を迎え、帰宅し、眠り。そして目が覚めた今でも疑問を抱く。
確かに遠目からでも凄まじい迫力や雷光は理解できたが、詳細な戦闘が見えるわけでもなかった。たった一匹の漏れも無く、門の前で待機するばかりで、何かの勉強になったわけではない。
「なあタマ」
「ん? どしたの」
「……頭痛い」
腹の上で丸くなっていた彼女に声をかけると、微睡んで居たのにも関わらずやけに機嫌がよさそうに返してくれる。疑問に思って頭をあげようと思うが、妙なまでに関節が痛く、その気になれなかった。
「ああ、どうりでジャンの身体が温かいと思った。熱があるでしょ」
腹から胸元をたどって、口元に前足を置いてまたぐように額に肉球をやる。
「やっぱりね」
彼女は軽く笑った。
「バカでも風邪ってひくんだ」
結局――あのケンタウロスの騎士にも声をかけられなかった。
忘れられてしまっているのだろうか。
彼女のお陰で今の自分がいる。彼女が居なかったら、恐らくは今もあの鉱山で働いているだろう。
何も進展せず、妙に筋力をつけながら生活が続き、成長し、老いる。何のためにあの中で救出されたのか、その意味も意義も見いだせぬまま死に至る。
そんな生活を繰り返す事を回避出来たのは、一概にやはり彼女のお陰だ。
一度くらいは礼が言いたい。だがここまで来たら、むしろ騎士になってから会ったほうが良いのではないか、とさえ思える。
つばを飲む。
気管に入った。
「ごほっ、おえっ、えほっ、おほっ」
「うわ、きたなっ!」
「うう……タマ、悪いが誰か呼んできて……」
「じゃあ金貨一枚ね」
ジャンは無言で手を伸ばし、タマをどかす。と、彼女は腕の中で大きく暴れてから、何故だか怒気混じりに額を叩いた。
「もう、冗談よ。でも今度、何か奢ってね」
「ああ……元気が出たらな」
「まったく、一番何もしてないジャンが風邪をひくなんて。帰って来た人たち、誰も怪我してなかったわよ?」
「ぶくしゅっ!」
どことなく心配げな様子で見つめてくる彼女に、勢い良くツバと鼻水を撒き散らす。
ジャンは我慢できずにくしゃみをしてから彼女の鋭い爪を覚悟したが――予想した惨劇は来ずに、強くつむった目を開ける。すると、そこにはわなわなと震えているタマの姿があった。
「一瞬だけ殺意を覚えたわ」
「すまん」
「もう、お風呂入ってくる!」
彼女は寝台から飛び降りるとそのまま人型に変身して――。
オクトが眠そうな目をこすりながら薬を持ってやってきたのは、それから五分と経たずの事だった。
――窓の外はまばゆいばかりの陽の光が差し込んできていて、久しぶりの青空を眺めながら、ジャンはその日一日は寝台の上で過ごすこととなった。