血の嵐 中
時間は少しだけ戻って――早朝。
(ぼくは、本当に国に騙されたのか? なら何故? むしろ、一万の軍勢を焼き尽くせという命ならば、この命を賭す覚悟くらいは容易なのに……)
見知らぬ天井を見つめながら、少年はそう考えていた。
眼を覚ましたのは数分前。周囲を伺えば、殺風景な個室である事以外の情報は得られなかった。
彼が横たわる寝台は窓際に設置されていて、身体を起こそうとすれば全身に鋭い痛みがひた走る。呻く体力さえ無く寝台に沈み、その折に、左腕が失くなったことを思い出した。
(ぼくは、頑張ってきたつもりだった……)
だが捨てられた。任務は半ば成功したも同然なのに、仲間にさえ襲われて命からがら逃げてくれば、気がつけば見知らぬ土地だ。恐らく、あの門から、その向こうがわの城を見るかぎりではアレスハイムなのだろう。
ここでは生かされている。
ということは、まだエルフェーヌから抹殺命令が出ていないというわけだ。そう考えれば、恐らくあの国はこの命が尽きていると信じてやまない筈だ。魔法や戦闘のセンスは高いと自負しているが、体力と筋力は人一倍無いのだから。
思い出が、走馬灯の様によぎる。
苦難の末に騎士になれた。努力が実ったように、多くの人たちが迎えてくれた。嬉しかった。最上の幸福だと思えた。
だが、今はどうだ?
理由さえわからぬ作戦に投入されて、なぜそんな、と思うほどに突発的に放たれた、どこから来たかもどうやって捕縛されていたかもわからぬ一万の異種族に奮闘し、仲間が頭から食われるのを、囲まれて全身に牙や爪を突き立てられるのを、口から吐き出された炎に飲まれるのを為す術もなく見ながら、剣を振った。
頑張ったのだ。そのお陰で五人生き残ったし、負傷だって怪我は多いが致命傷はなかった。疲れきっていて、仲間の喪失に国の本意がわからずに精神が不安定だったが、それでも任務達成の充実感は確かにあった。
あとは凱旋して、歓声の中を照れながら歩くだけだったのだ。
彼は思い描いた理想と現実との格差に、思わず目頭が熱くなった。
誰かのために悲しんだり、怒ったりすることは出来る。だが、やはり何よりも、自分の不遇や理不尽には流石に堪えた。
瞬きをするたびに視界がぼやけて、やがて目尻から熱い液体が流れ落ちた。
少年は残った手で顔を覆う。
(こんな思いをするなら……)
長い間使用されていなかった口が、癒着してしまったような抵抗を覚えながらゆっくりと開いた。
乾いた唇が動き、水気のない声帯は掠れた声を紡がせた。
「死んでいれば、よかった」
今があまりにも辛すぎる。
いったい何のために生かされたのか。
もはや、喪失感が大きすぎて怒りすら生まれない。仮にこの国が復讐に手を貸してくれると言ったとしても、恐らく首を振ってしまいそうだ。
あんな仕打ちを受けても尚、少年は母国に帰りたいと思っていた。
――ガチャリ、と金具が音を立てた。首を横に回すと、扉が開くのが見える。足音を鳴らし、やがてその隙間から姿を表すのは、一人の女性だった。
白い外套を翻し、その下には胸当てと、脚甲を装備する格好。スカートの下から伸びる足には太ももまでの黒い靴下を履いている、鮮やかな姿。透き通るような金髪は陽光にきらめいて、腰に提げる剣はその柄にまで装飾が丹念になされていた。
彼女は騎士だ。
少年は本能的にそれを悟った。
「生存権はキミに委ねられている。生きるも死ぬも好きにすればいいが――それが望んだものであれ、望まぬものであれ、ここまで保護してやった恩を押し付けるというわけではないが……事情を説明してくれるくらいは、しても良いと思うんだけどね。一応、キミは他国の人間だし」
腰に手をやり胸をそらす彼女は、凛とした風体も相まって、その言葉が鋭利な刃物のように感じられてしまった。
穏やかな口調で、微笑すらある彼女なのにも関わらず、少年の眼には全てが敵に写ってしまっていた。
だから思わず顔をひきつらせる。そうすると、彼女は困ったように微笑んで、頭を掻いた。
「まいったな。怖がらせるつもりなんて、なかったのに」
りん、と鈴がなるような声。だが、芯の通った強さを感じられるそれは、ただそれだけで彼女がかなりの実力者であることを教えた。同じ騎士だというのに、同じヒトだというのにこれほどまで違うのかと――少年は天井に向き直って、眼を閉じた。
「事情って、何を話せば良いんですか。アレほどの戦いだ、知らないわけでもないでしょうに」
流石に一万の軍勢を相手にした戦いは、それを悟られぬように叩かる代物ではない。だから、噂でもなんでも、旅人からでも情報は入ってくる。この国は流通はさほど活発ではないものの、多くの人間、異人種がやってくる土地だ。それを知らぬはずがない。
「まあ、確かに」
彼女は壁に立てかけてある折りたたみの椅子を展開して、寝台の手前に置いた。腰から剣をはずして椅子に持たれかけさせると、そのまま腰を落とす。
ちょっとした動作でも顔にかかる長い金髪を掻き上げながら、だがな、と彼女は口にした。
「真偽を確かめずにここで死ぬか、確かめた結果、生存を知られて殺されるか……キミはどちらかを選ばなければならない。生きている限り、ね」
「もしすべてを知った上でまだ生きていたら、この国で保護し続けてくれますか?」
「ああ。しかし、この国で生きていくためには働かなければならない。キミには騎士としての実績があるが……養成学校からやり直してもらうことにする。体の傷が治っても、心の傷は深いだろうからね。なんでも、今年の新入生には期待のルーキーが居るみたいでね、異人種が随分と贔屓にしているから、近々会ってみるのもいいかもしれない」
「学校、ですか。ぼくの知らない世界だ」
目をつむったまま想像してみる。聞いたことがある施設名だ。確か、子供が色々なことを学ぶための施設だと記憶している。
わいわいと椅子に座って、教鞭をとる教師を前にして、それぞれ集中して話を聞く姿、集中力が切れて近くの友達にちょっかいを出す姿、居眠りしている姿……色々なそれらが浮かんで、なんだかそれが夢物語のように感じられた。
自分とは違う世界だ。
果たして、これから関わることがあるのだろうか。
令嬢のように行儀よく、どこか儚げに膝に手を置いて少年を見つめていた騎士は、短く息を吐いて首を振った。
「知らないことをそのままにするのは、ヒトとして死んだも同然さ」
「ならぼくは死んだ。あの時にもう死んだんだ。こんな苦痛しか無い世界ではもう、ぼくという存在は消し飛んだんだ」
「言っただろう、死ぬのは勝手だ。だが事情を話せ、って」
「事情ってなんだよ。ぼくは知らない。何も知ることができない。結局本隊が来なくて、なんとか異種族追い払って、飢えて狂った仲間に襲われて……それだけなんだ。国が何をしたかっただとか、ぼくが知りたいくらいなんだよ」
ヤケ気味の口調で吐き捨て、彼は首を壁の方へと向ける。
騎士はそれを見て、まるで駄々をこねる子供のようだと思いながらも、決して軽視できぬ背景を思い浮かべてやや複雑な心境になった。
彼はヒトだから同じヒトであり、また接し易いであろう女性が来るべきだと思って立候補したのだが……やはり戦場というものを良く知っている者の方が良かったかも知れない。
彼女、『クレア・ルーモ』は無力げに肩を落として、立ち上がった。
(いや、しかし彼はまだ子供だ。そこを配慮すれば……)
少し強気に出てみよう。
彼女は表情をキッと締めなおしてから、少しだけ緩める。
その中で――窓の向こうにある緑生い茂る木に、一羽の黒い鳥がとまった。
小雨が続く朝の空はどんよりと気分が落ち込むものだったが、まるで追い打ちをかけるように、そのカラスはやってきたのだ。
静かな様子で枝を揺らさず、葉が音を立てずに揺れる中で、そのカラスは窓の中に居る女性を見た。彼女はそれと、確かに目が合ったと認識した。
(……なんだ?)
そしてカラスが首を傾げる。視線はやや下に落ち、寝台へと移った。が、カラスはまだ首を捻る。
どうやら寝台の上の人物を見ようとしているのだが、ちょうど死角になってよく見えないらしい。カラスはばさりと対なる黒い羽を広げると、枝を弾いて窓へと寄ってきた。だがそれはぶつかること無くガラスの手前で停空飛翔。じっと、その鳥は寝台を見つめて――。
「カァー」
何かの合図のように、カラスは空を仰いでそう啼いた。
カラスはそのまま勢い良く浮上すると間もなく視界から消え去って――クレアが、その行為を防げずにむざむざとカラスを返してしまったことに後悔するのは、それから数分後のことであった。
「ねえジャン、変な予感とか、敏感なほう?」
結局、ジャンはあれから中佐の本屋で適当な歴史小説を購入して帰宅。みんなは居間に集まって団欒している所で誘われ、ソファーに腰と落として読書に勤しむ最中。
膝で丸くなっていたタマは、顔を上げてそう訊いてきた。
「予感、か。どうだろうな、考えたことも無かったけど……普通じゃないか?」
本から視線を引き剥がして栞を挟んで閉じる。肘置きに小説を置いて片手でタマの頭を撫でながら、
「そう。じゃああたしが、悪い予感がするって言ったら信じてくれる?」
彼女はお手伝いさんを巻き込んで談笑するテポンやサニーらを一瞥してから、じっとジャンを見つめた。彼は、なんだか神妙な面持ちであることから気軽な質問でないことを悟って、小さく頷いた。
「もちろんだ。おれが一度でも、タマを疑ったことがあるか?」
「思わせぶりなことをして、裏切ったことはあるけどね」
「うっ……」
決して邪な気持ちではなかったのだ。
だが、それを突っ込まれれば少し胸が痛くなる。少なくとも無意識に、そう勘違いさせることをしていた自分に反省しなければならないのだ。
タマはそれから、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「なら良いのよ」
意図が読めない質問に首をかしげてから、ジャンはサニーらの方をちらりと一瞥してから、その変わらぬ様子を見て、また本を手に取った。
「おおい、すまないが、開けてくれないか?」
同時刻。
警ら兵が鬱々と振り続ける雨に嫌気がさして、革のポシェットから紙で巻いたタバコを抜き、火をつけて咥えて居ると――気配もなく現れた影があった。
黒い外套を被る影。それは明らかなまでに不審な姿であったが、妙に気安い声に、男はさらに警戒して構えた。
「どこから来た? 流浪か?」
「おおい、やめてくれよ、物騒だなぁ」
槍の穂先は天から男へと向き直る。と、彼は大げさに両手を上げて無害を示した後に、外套を翻すように背中の部分を身体の前面に引っ張り上げた。するとあらわになるのが、金の装飾、妙な、魔術ではない紋様。それがエルフェーヌの国章であることに気づくのに、そう時間は要さなかった。
男はそれから仕方がない、といった風にフードを引き剥がした。
「濡れるのって、あんまり好きじゃないんだけどな」
「ああ、エルフェーヌの。あの幼騎士を引き取りに来たのか?」
「いや、アイツは駄目だ。だって生きて帰れなかったからな。……あのさ、勘違いされたらイヤだから一応説明するんだけど」
「ん……なんの事だ?」
「いや、ウチが無茶な任務に新米騎士を追いやって見捨てたって。今回はブリックのバカが異種族一万とか訳分かんねーことするから公になったけどさ、これはいつものことなんだよ。明らかに成功不能な任務に、新米だけで行かせるってのは」
男は鬱陶しそうに雨に濡れた髪を掻き上げる。黒髪は艶艶しくなって、長いまつげは際立つように、その目を大きく見せた。
一見は優男だ。とても、こいつが騎士であるようには思えないだろう。
「これは一応国家機密でもあるんだけどさ……ま、いいよな。オレたちが迷惑かけたようなもんだし!」
落ち込むように肩を落としていた男だが、何かを考え吹っ切れたのか、表情には笑みが戻って諸手を大きく広げるような、大げさな所作が目立ち始めた。
「お、おう」
警ら兵はそんな彼に戸惑ったような返事をする。
男は微笑んだ。
「エルフェーヌは、軍事力がそう高いわけじゃないから、実力主義なんだ。騎士は特にな。だから、新米に命からがらで任務に行かせて、帰って来たやつを正式に採用する。今回は四人だったが、途中まで五人だと一人から聞いた。その一人が『ラック・アン』、今回、この国に来たガキだ」
「……そんな事やってたのか。にしても、それだとその新米が人間不信になったりしないのか?」
「ま、今回は新米の量も敵の量も異例だったからな。本来は、全員生還で無事って事が殆どなんだ。一種の儀式みたいなものでさ。今回は少し、期待しすぎたし……やりすぎた。そして血の匂いを垂れ流しながらこんなトコまで来るのも予想外過ぎた」
男は鬱陶しそうに顔の雨滴を拭ってから、大きく息を吸い込んだ。
警ら兵は結局のところ、少年がどんな処遇になるのか、そしてこの男が本当は何を言いたいのかわからずに、眉をしかめたままで男を見る。
そうすると、彼は目を伏せて申し訳なさそうに頭を下げてから、少しして、顔を上げた。
「アイツが流した血はこんな雨でも流れずに染み込んでる。ここら一帯の怪物共は人間の血に興奮して、その匂いをたどり始めている」
彼は指を二本ばかり立ててから、言葉を続けた。
「早くて二時間。奴らは本能を醒まして、ここに来るぞ」
底冷えするような、まるで刃物を喉に突き付けて脅し掛かるような声が、まことしやかに真実として、男の口から語られた。
「だから」
そうして、途絶えることなく続く。
表情はいつしか極まるほどに緊張したもので、だが先程のソレと比べるとどこか気楽に言葉を紡いだ。
「匂いの主人を餌に異種族をおびき寄せて、”オレ”で対処する。あんたらには申し訳ないが、念のためにここの警備を強化しといて欲しいんだ。もちろん、謝礼は弾むつもりだ」
なんでもないように男は言って、だから、と繰り返した。
手招きするような、あるいは駄賃を催促する子供のような手は、
「生きてるなら丁度いい。ラックを連れてきてくれ」
まるでそうするのが当然だと言わんばかりに、少年の命を握ろうとしていた。




