プロローグ
故郷が燃えていた。
少年は為す術もなくそれを見ていた。
見ず知らずの悪漢たちが、貧しくも健やかだった村に押し入るのを。奪い、殺していく様を。
訳もわからず、ただ朝にそこを歩いたばかりの道が瓦礫に塞がれているのを見た。村の入り口で、いつも仕事もせずにたむろっている男が全身を黒く焦がして倒れているのを見た。
遠目に見える我が家が、他と同じように崩壊しているのを少年はただ見ることしかできなかった。
何かの夢ではないのか。悪い冗談なのではないか。
現実味のないそれを見て、少年はそう考えることしか出来なかった。
視野の狭い少年にとって、世界の全てが崩壊したも同然の出来事であった。
――共にその光景を見る陰があった。
否、その集団はただ見るだけではない。この事態を聞きつけ駆けつけ、罪なき者たちを護るべく王国からやってきた騎士たちだった。
馬の姿を筆頭に、甲冑を身に纏う雄々しい姿。力強く、圧倒的な存在感。
それが幾歳経ても、少年の胸に深く刻まれれていた――。
強くなろうと思った。
誰が言ったわけでもなく、強いられたことでもなく、それは自分で決めたことだった。
それが格好良い事ならなおさら良かった。
青年はまだ、少年の心を抱いていたからだ。
「てめえは何が目的だ!」
細身の剣を構え、目の前の女性へと声を荒げる。
彼女はきっ、と鋭く男を睨み、無言のまま額から右目を抜けて稲妻のように刻まれる異様な模様を輝かせるや否や、その背後に巨大な火焔を出現させた。
「少なくともアナタに用事は無いわ!」
「んな事を聞いてるわけじゃ――」
「――火焔……ッ?!」
女が叫ぶ。
背後に控えた、鋼鉄すらも容易に溶かす業火はその刹那に形を変えた――が、それだけだった。
男の剣撃は即座に襲いかかる。彼女の一呼吸の内に、その言葉を一文字紡ぐ内に男との距離は半分になる。炎が動く、男へと迫るその速度を上回り、そして肉薄した。
袈裟に落とされる白刃が彼女の額を掻っ切った。だが彼女は、その切っ先から逃れるように腰を落として身を屈め、後ろに倒れこむようにして大地を弾く。
無防備なまま、彼女はそうして自身が待機させた火焔の中へと身を投じたかと思えば、その背が炎に触れると同時に霧散した。残るのは強烈な魔力の気配だけであり――芽生えたのは、男に対する驚愕と怨恨だった。
「これでおれに用事はできたかよ?」
――男はなによりも、己が無視されることが嫌いだった。
相手が強者ならばなおさらだ。
加えて、自分より強い者も気に食わなかった。
その力を、男が判断する『悪いもの』に利用するならばなおさらだった。
「ええ、お陰様で」
男を睨む瞳はその色を黒く染めている。いつしか見た、極東の島国にあるらしい”ダルマ”の瞳のようだった。
彼女は鋭く睨むと共に、右腕を振り払う。同時にその黒い塗料を塗ったかのような爪は鋭利に伸びた。
「まずはアナタを蹴散らすわ。たかが素人に、一本取られたままじゃ気分が悪いし」
「素人だぁ? てめえ、おれはれっきとした……っ!」
切迫。
ただ一度の跳躍で女は視界いっぱいに近づき、その鋭い爪先を薙いだ。
反射的に首を引けばわずかに前髪が切り裂かれて、パラパラと宙に舞う。男は短く舌を鳴らして剣を払い、彼女はそれを受けて横に跳んで回避した。
「死合いの最中におしゃべりなんて、行儀が悪いんじゃない?」
「人の話は最後までき――」
女の指先が鋭く突き出される。
男は剣を振り上げて弾くと、彼女は右腕を投げ出される形になって――ゆえに隙が大きくあらわになる。腰を捻り、剣の振り上げの反動を利用するように足を女の横腹へと撃ち放つ。
その直後に確かな弾力、その感触、手応えが足に伝わってきた。彼女は呻き、突き飛ばされてよろけるように倒れこみ、だが怯む事無く脇腹を押さえて立ち上がった。
額から鮮血と共に脂汗を流し、女は短く舌打ちをした。
――人の話を最後まできかない奴も嫌いだ。
男はそうして、自分の嫌いなものを増やしていく。
まるで、いずれかは世界すべてを嫌いにならんとする勢いで。
「てめえ怒るぞ」
「はあ、もう勝手にアナタは先に――」
言葉を遮り、男は地面を弾いて肉薄すると共に剣を振り下ろす。女は依然として顔を苦渋に満たしたまま後退し、軽やかな足取りで身軽に剣撃を避けていく
剣は落とされるが、地面を叩く前に力任せに引き上げられて逆袈裟に虚空を切り裂いた。
女は身体を反らし、それを寸でのところでかわしてみせる。
舌打ち。
男は踏み込み、剣を真っ直ぐ地面と平行に構えて突き出した。
鋭い切っ先はされど虚空を穿つばかりで、余りにも容易く避けられていく。男の攻撃が、決定的なまでに彼女の速さに追いついていないのだ。
力はある。それこそ、一撃で”賊”たる彼女を撃破し得る破壊力だけは。
だがそれだけだった。男が持つのは、鍛えに鍛えたその肉体のみだった。
彼女のように刻まれる、魔術を発するための紋様は、されど魔方陣として背中に刻まれたものだが――ソレさえも、彼女のように上等なものではない。
だから、
「なまっちょろいのよ!」
隙を縫われて、気がつけば剣を振り下ろした直後に、彼女が勢い良く迫ってきた。
鋭い切っ先が、男がしたような突きの姿勢で喉元へと迫る。
腕を動かそうにも間に合わない。避けようにも、既に彼女の手が肩口を力強く掴んでいた。
だが、その行動も男からしてみれば”生っちょろい”のであり、
「はっ、甘ぇんだよ!」
拘束は完璧ではない。むしろ、彼女が掴んでいるだけでは拘束にすらなりえない。
膝を折り、姿勢を反らす。眼前に迫る爪は鋭く、喉元から顔面へと迫っていて――がきん、と鈍い音を鳴らして、爪は男に噛み付かれる形で動きを止めた。
行動がわずかに鈍るのをみた男は、すかさず拳を振り抜いて――。
「そこの男下がりなさい――数多の疾風ッ!」
その場に居る全てのものを威圧する強大な魔力が空間に満ち出した。
同時に、尋常でない殺気が空間を支配した。
魔力の矛先が男を――否、その眼前に居る女へと向けられる。
それを理解した刹那、背後から響いた女の声による魔術は、無数の真空波となって飛来した。
大気を切り裂いて肉薄する不可視の刃。
避けなければ……頭の中で警鐘が鳴り響く。だからこそ、男は殆ど脊椎反射で地面を蹴り飛ばしていたのだが――女の右腕は依然として肩を掴んでおり、偶然的に男の行動を制ためのものになっていた。
が、もはや時間など無い。
いくら歴戦の勇士だろうが厄介な賊だろうが、筋力、腕力に差があるのには違いないのだ。
構うものか。
剣から手を離し、男は奥歯を強く噛み締めて女の肩を、そして股間へと手を伸ばした。
「ッ?!」
「おっ!」
女の当惑の悲鳴が漏れる。だが気にしている暇などない。
男は腰を落として踏ん張ると共に、背に感じる強烈な気配から逃れるために女を持ち上あげ――投げ飛ばした。
思ったより彼女は軽く、そして思ったより飛距離は伸びない。
浮かび上がり、わずかニ、三メートルを滑空すること無く落ちる程度の投擲だったが、彼女が変わらず肩を服ごと掴んでいる事だけは予想の範囲内で、
「らぁっ!」
男が飛び上がる。
その補助とするように、未だ空中にいる女を力強く引っ張った。
そうすると必然的に彼女は近づき、相対的に男は進む。
無数の刃はその直後に、轟音と共に街路を切り裂き、砕き、まるで大地のうねりをまともに喰らったかのように、その地は跡形もなく破壊の限りを尽くされたかのようだった。
男はそれを見ながら、もし避け損ねていたら――などと、背筋をぞっと凍らせる。
身体はそのすぐ後に硬い地面に叩きつけられて、なんとか女を下敷きにしようと転がろうとするが――地面に叩きつけられた瞬間に、強烈な拳撃が顔面に落とされた。
衝撃は素直に頭の芯に叩きこまれ、さらに後頭部を地面に強打する。
男が意識を手放すのに、それ以上の攻撃は必要なかった。
「まったく……迷惑になるようなら考えるぞ、あの青年も」
黒き毛皮に身を包んだ女を前にして、馬の肢体を持つ女は呆れたようにそう漏らした。
握る槍は構えられること無く天を向いたままであり、また幾度ともない溜息が、彼女についてきた仲間の耳へと届いていく。
「まあ、まだ子供だし」
鳥の翼を持つ――先の魔術を放った張本人は、どこか嬉しげに言った。
「もう『彼女』に倒されてしまいましたが……」
側頭部にねじれる角を、そして牛を思わせる白地に黒の水玉模様の毛皮を腰に巻き付ける女は困惑気味だった。
だがその態度とは裏腹に、その手によって構えられている大剣はすべてを砕く、その覇気を孕んでいた。
「だべってる場合かっ!」
集団の中で一等小柄な少女は、その瞳を蒼と琥珀で色違いにしていた。
しかし集団の中で一等、数え年が多い彼女は、故に年長者である。
そんな彼女の言葉に同調するのは、全身の肌を朱に染め、額から鋭い角を生やす――さながら赤鬼と言うべき――女だった。
「そうよ、お姫さんが待ってるんだし」
――赤鬼の言葉を契機にしたわけではなかった。
目の前の女が、男から剥がれてすさんだ大地の上に立つ。それを見ての雰囲気だったのだが、どうにもその姿から殺気はない。
その表情からは覇気がない。
額からは、滲んだ脂汗が流れ出しているのが確認できた。
固く一文字に結んだ唇が小刻みに痙攣するのが見え、彼女はやがて口を開いた。
「あたしはアナタたちを待っていた――だけど」
言葉を区切り、跳躍。女は尋常ならざる身体能力で、ただ一度跳んだだけで、ど出っ腹に穴を開けられた門の前に移動した。
「多すぎなのよッ! また出なおすわ!」
騎士五名が出動する程の事態ではあったが、それほどの価値はない。
魔術によって特殊な施術が施されている門が破壊された割に、死傷者数は完全なゼロであり――。
馬の肢体を持つ女――ケンタウロスと呼ばれる彼女は、しっかりと気絶してしまった男を見下ろし、また嘆息した。
「この男は、どう転んでくれるのかな。なあ、ジャン・スティール?」
優しげな囁きは、憂いを帯びた視線は、ただその男にだけ向けられていた。
騎士養成学校。
騎士になるべく『アレスハイム王国』を訪れ、入学した男――ジャン・スティールは、先天的に持つ『魔法』という名の特異能力の選定の際、他のものとは異なる反応を見せていた。
魔石による測定は、手にした者から察知する魔力によって光を放つのだが、彼の場合は前例にない”透明の輝き”を発していた。
そういった事もあって、このジャン・スティールという男は、良い意味でも悪い意味でも、騎士達から一目置かれる存在であった。