血の嵐 上
その日はいつもより蒸し暑い午後だった。
降雨があって湿度が高く、服を着ているのも嫌になるような気候に、少年は胸ぐらをパタパタと服をはためかせて新鮮な空気を取り入れる。だが湿った大気には、とても心地の良い清涼感を与える効果を望むことは出来なかった。
そして何よりも――部隊の雰囲気は、この上なく最悪だった。
現在、隣国との関係は最悪なものであり、対立とまではいかぬものの、それぞれどう対処しようかとあぐねいている中で――敵国から凶暴な異種族の軍団が放たれた。
それとはまた別の隣国であり、まったくもって対照的に交友関係にあるアレスハイム王国に援助を求めようとの声も上がるが、戦部隊長がそれを却下。まず始めに先遣隊を出し、異種族の軍勢を把握する作戦が執行された。本隊は情報を受け次第、二日行程に無茶を利かせて十分な装備と潤沢な援助のもとで半日で駆け付ける手筈になっていた。
――異種族の進軍は、先遣隊が到着した直後に行われた。
総数十二名は騎士の称号を冠する。魔法を持ち、戦闘能力は極めて高いと国から認められた存在だ。
しかし、一万余りの軍勢は、その進行を足止めするので精一杯だった。
命を削り、命を絶やす戦い。腕が飛ぼうが視界が暗転しようが、彼らの決死の戦いは続き――五日あまりが経過した頃。異種族の総員は既に半数以下へと変わり、元より飢えによって駆り立てられていた戦意は恐怖に飲まれて喪失し、やがて散り散りになって野生に帰っていった。
同時に、気がつけば先遣隊の総員は五名になっていた。
戦傷、疲弊、欠損。既に空腹感は麻痺し、肉体の可動を彼らは自覚できぬまま帰路をについていた。
「なあ、人の肉って……喰えるらしいぜ」
誰かがそう口にしたのがきっかけだったのかもしれない。
少年は、その直後に共に戦い命を助け合った仲間の、狂気をはらんだ視線が全身を貫く感覚を覚えていた。
――彼はまだ幼かった。
齢、僅か十六にして騎士に就くという異例さは、その先天的に与えられている特異能力である魔法の熟練度もそうだったし、何よりもその年齢にしての才能が、周囲を認めさせていた。
だが、疲弊し息も絶え絶えで歩く彼は、現状況に於いては足手まとい他ならない。体躯は華奢で、少女のよう。加えて戦闘能力は高いが、筋力は成人男性のソレに劣る。
そして何よりも、その若さや人望は、一定以上の年齢で騎士となっている連中には嫉妬の対象となっていた。
そして――彼は、国に見捨てられた、騙されたという精神的ショックによって魔法の発現すらままならない。
ゆえに格好の的だった。
少年に、その後の記憶はない。
気がついた時、彼は見知らぬ土地にいて――荘厳にも思える外壁に、口を開ける門を眺めながら、利き腕が喪失していた事を理解した後に、意識は再び深淵へと転がり落ちていった。
アレスハイムでの怪我の治療や病気の対処は、城からほど近い修道院で行われている。
ジャン・スティール自身それを知ったのはついこの間の――他国から来た負傷兵の存在を知ったのがきっかけだった。
少年が門の前で倒れていたところを発見し、運び込まれたのはつい二日ほど前の出来事で、旅人が多く賑わうギルドでは今やその話題で持ちきりであり、ジャンもそこで大まかの話を聞くことが出来た。
隣国、砂漠の境目よりやや内側にある森の中にあるような、自然の豊かさが特徴的な『エルフェーヌ』。そこは、溝の門扉の向こう側にあるとされる妖精郷と呼ばれる桃源郷をモデルにして、百年ほど前にその外観を大きく改築した国だった。
あまり多種多様な異人種は移民して来なかったが、それゆえに妖精族は国民の三分の一程の多さとなっていた。
エルフェーヌは公国であり、どこかの貴族が遥か昔に建国したというものだった。
軍事力はアレスハイムよりやや劣る程度だが、純粋な魔術戦闘や、魔術を活用した技術はエルフェーヌに分がある。交友的な関係を保ち、今までで争いが起こったことは無いという話だった。
「だがなぁ……異種族ばら撒くって、頭おかしィんじゃねえか?」
外の国から移住してきた旅人は、この手の、”外”の話に興味津々だ。今までジャンが目の前の、頭にツノがついた帽子を被るドワーフの中年男性と話していたというのに、気がつけばその長机には多くの人間、異人種問わず集まっていた。
「というか、あんなの一万もどこからとっ捕まえて来たんだか……なあ? 領外の連中は、まったく、頭があがらないぜ」
ご苦労なこった、と小馬鹿にするニュアンスを孕んで軽く笑った。
「つぅか、エルフェーヌの隣ってどこなんだ?」
「……お前話を聞いてなかったろ」
誰かが呆れて、誰かが発言者の頭を叩いて、誰かが笑い、誰かが答えた。
「エルフェーヌのやや南西に進んだ位置にある共和制の国、『ブリック』。強固な砦が特徴的で、そもそも砦の中にあるような国だ。街みたいな、小さい国でもある」
強大な軍事力があるわけでもない。異人種も、エルフェーヌに比べて酷く少ない割合だ。
ならばなぜそんな二国が争っているのか――その説明はすでにされていた。
それは傲慢な国交の結果だという。
原因はブリックにある、と目の前のドワーフは、その腫らせたような赤鼻をフンと鳴らして言った。
ブリックは数年前に政権交代した。首相となった男は、簡単にいえば己の好き嫌いで政治を執り行うような男だったという。そうして友好的なエルフェーヌはそれでも交友関係を保とうと試行錯誤を繰り返していたが――きっかけはいざ知れず、気がつけば関係は最悪なものとなっていた。
「というかよ、良くあんの砂漠を渡ってきたよな!」
興奮気味に男が言った。
ジャンは付き合いで飲んでいたぶどう酒を口に含みながら、確かに、と頷く。
と、誰かがバカにするように笑い始めた。
「お前、知らねぇのか? あそこには”フネ”があるんだぜ? 常識だよ」
「……船?」
ジャンが顔を上げて振り返ると、そう口にした男と目があった。
彼は頷き、得意げな顔で説明する。
「あの砂漠の熱とか、そういうのを利用して砂の上で船を走らせてんだ。かなり広い砂漠だからな、船がなけりゃとても渡ろうとは思えねえ。その、エルフェーヌの騎士もそうしたんだろうよ」
「ああ、あの船主は、そんじょそこらの女より随分とサービスが良いからな」
ガハハ、とその台詞を皮切りにするように、程良く酔いが回った周囲の男達は大げさに笑い始めた。
「ったくよ、これじゃあこっちまで巻き込まれて、マイン・アバンにそっぽ向かれちまうよ」
そんな中で、誰かが嘆くように呟く。が、それは豪快な笑いの渦によって瞬く間に飲まれてかき消されていった。
――マイン・アバンとは砂漠をわたらずに東にひたすら歩けば存在する都市だ。巨大な岩石が自然にひび割れ、出来上がった谷部分に人々が住み着いた事がきっかけで、今ではそこで採掘される希少な鉱物や魔石、そして長年で培ってきた加工技術を駆使した武具の製造や加工品などを輸出することで、生活を営んでいた。
この国の装備も大半が輸入品であり、その半分以上がマイン・アバンからの提供だ。もしそれが断たれたとすれば、中々の痛手となるだろう。
そうして、目の前のドワーフはいい加減鬱陶しそうに周りを見渡しながら樽のジョッキを傾けて中のぶどう酒を一気に飲み干した。
席を立ち、視線をジャンに合わせたまま、言い聞かせるような口調で、
「国のいざこざは出来事じゃない。”現象”だ。お前さんは無茶をする気質にあるが、この件にはあまり首を突っ込まないのが得策だな。金にもならないし」
銅貨を数枚ジャンに手渡してから、軽く手を上げて彼はその場を後にした。
ドワーフの男の退室を契機にするように、集まっていた男達はバラバラと自分が陣取っていた自分の席へと戻っていく。
ジャンもそろそろ出ようかと席を立った所で、この街に来て二ヶ月ほどになる流浪の男は、彼の肩を叩いた。
「この国が平和すぎるんだが……あのおっさんの言う通りだ。騎士サマは国に騙されて仲間に殺されかけて哀れだが、彼の処遇は国が決める。その気はないと思うが、あんまり関わるなよ」
「ええ、分かってますよ。とてもおれの手に負える問題じゃないですし」
「そうか、ならいいんだ。じゃあな」
「はい、おつかれでした」
昼下がりの空はどんよりとした灰色の雲が広がっていて、二、三日前から続く雨が飽きること無く今日も続いていた。
ジャンは雨具に持ってきていた革製の外套を羽織り、頭巾をかぶって外に出る。
――今日聞いた話は、自分とは関係のないことだ。
彼はそう認識していたし、この国に何かが起こるわけでもないと確信していた。
その負傷兵の母国は、ジャンがこれまで育ったコリンの街よりも遥かに遠い場所にある。コリンでさえここから結構な距離があると思っていたのだから、恐らく途方も無い場所なのだろう。
そしてここに来る時点で多くの致命傷を負っていたという話だから、もしかすると国は既に死亡したという扱いをしているかも知れない。
全くもって現実離れした話である。オクトにでも聞かせれば、眼を輝かせて食いついてくること請け合いだ。
だからこそ、ジャンは関わるというわけではないし、釘を刺されたから関わるつもりも毛頭無かったが、もう少し話を聴いてみたくなった。野次馬根性とでも言うのだろうか、良く言えば、外の世界に興味が湧いてきたのだ。
以前もラァビに、外の世界を知ったほうがいいと言われたこともあって――ジャンは気がつくと、街の正門の前へと足を運んでいた。
「ん、どうした?」
門の前で立ち止まると、警ら兵の一人が近づいてくる。槍を構えたまま、甲冑姿で、凄むわけでもなく、単に話しかけるような口調だった。
「ああ、いえ。この間、エルフェーヌの騎士が運ばれてきたとか聞きまして」
「その話か……つっても、俺も又聞きだし、その状況しか知らないんだが。それでも聞きたいのか?」
「参考までに」
そうか、と男は嘆息混じりに肩を落とした。
顔の部分がくり抜かれたような兜を被る彼は、顔に降りかかる雨滴を指先で払ってから口を開いた。
「それはソレは、酷い有様だったそうだ。左腕が無いし、身体中傷だらけで、横っ腹には途中からへし折れてる矢が刺さってるわ、糞尿垂れ流しだわ血まみれだわで、綺麗な顔がぐちゃぐちゃでよ。慌てて助けて修道院に運んだんだが、その時点ではもう息がなくてな。それでどうしようかってトコで、ウチの騎士さまが登場よ」
男はどこか楽しげに、身振り手振りで説明する。あーだこーだと、まるで見てきたかのように嬉々とする姿はどこか不謹慎のような気がしたが、ジャンは構わず相槌を打ちながら話を聞いていた。
「その騎士さま、なんと魔法で見る間見る間に傷を治しちまうわけよ。シスターが慌てて胸に耳を当ててみると、とくん、とくんと心臓まで動いてきやがる。口から血を吹き出して、蘇生完了ときたもんだ」
パン、と手を打って傾奇者のようなポーズを取る。
いや、しかし……と、調子に乗り始める警ら兵を他所に、ジャンは考え込んでいた。
――いくら魔法とは言え、死んだ人間を生き返らせることが本当に出来るのか? いや、できるからこそ魔法たる所以なのかもしれないが……底知れない。
思った以上に、自分は魔法というものを侮っていたことを彼は理解した。
ならば、その魔法を持つ騎士が十人かかっても倒しきれない一万の異種族の軍勢は、やはり途轍もない脅威なのだろう。そもそも、この周囲の異種族はただでさえ凶暴で戦闘能力が高いと言われているのだ。
だからこそ国と国との間で争いをする隙がないと、彼は学校で習っていた。
「そこでまず目を覚ますまで保護してるみたいだが……もう二日が経った。続報はないし、生き返りはしたが、眼を覚まさないんじゃねえかって話が出てるくらいだ」
「もし本当にそうなったら、どうなるんでしょうね?」
「ま、最終的にはエルフェーヌに送還するんじゃねえか? 鎧にエルフェーヌ特有の浮彫があるから隠せるもんじゃないし……ま、あんたが心配するようなことにはなんねえから、坊主は安心しておうちに帰んな。あの獣人の襲来だって、またいつ来るかわかんねーしな」
「そうですね。ありがとうございました」
丁寧に説明してくれた男に深く頭を下げると、気を良くした彼は大きく手を振ってジャンを見送った。