嫉妬の夏、ねこの空
「最近、ジャンくんが妙な女と歩いているのをよく見るわけよ」
「ほうほう、くわしく」
「いいわ、よく聞いてなさいね」
猫は尻尾をぱたぱたと揺らして床を叩きながら、目の前で膝を立てるように座る赤いワンピース姿の少女に告げる。
そこはジャン・スティールの私室であったが、彼が夏休みに入って以降ヒマになったタマとノロの溜まり場と化していた。週三程度で彼は日中は外出して夜まで帰ってこないので、その事実を部屋の主は知る由もなかった。
ふかふかの寝台の上で、タマは布団を叩いて抗議でもするように興奮気味の口調で説明した。
「あの女! あれのせいでジャンくんが最近構ってくれないのよ! カリカリくれないし! べちゃべちゃの魚は美味しくないのよ!」
「ほうほう」
ノロは言いながら、蓋の開いたツナの缶詰をタマの前に取り出して、そのままフォークで掬い、持ち上げる。タマは誘われるように器用に二本足で立ち上がって、不安定な動作で空中を掻き毟る。だが、頭上のフォークには前足は届いていなかった。
彼女は反射的に餌を追い求めてしまうタマを弄びながら、この上なく興味がなさそうに訊いてやった。
「その女とは」
「あ、そうそう! なんかねェ、こう、頭にウサギみたいな耳くっつけて、下半身が立ち上がったウサギみたいな毛皮の、あたしみたいに完璧な獣人化も出来ないくそったれなウサギよ!」
「それで?」
「ジャンくん、家にいる時より楽しそうな顔してたのよ……っと!」
布団を弾いて跳び上がる。が、反射的に腕を引くと狙っていたフォークはタマの眼前から消え失せて、そのままノロを飛び越えて背面に着地する。短い舌打ちを鳴らすタマの頭を撫でながら、ノロは飽くまで表情を変えぬまま、頭を撫でてやりながら目の前に缶詰を差し出した。
ぱあ、っと先ほどの憤怒が嘘のように表情が明るくなる。
さすが猫。
彼女はそう思い、ガツガツと缶詰に顔を突っ込んだタマを見下しながら、顔に軽くかかった長い銀髪を後ろに流した。
「わたしも、近頃構ってもらっていない。友達なのに、無責任」
「これは由々しき事態よ。あの思わせぶりの馬鹿に鉄槌を下す時が来たわ」
「作戦、開始」
「サニーも起こしていくわよ!」
ヒマなのと、無駄なまでに積極性の強い事も相まって、壮大な勘違いのもとで行動は果たして開始した。
「いい加減、酒飲み過ぎなんじゃないスか?」
ギルドを出てからすぐに平たいの水筒を口につけるラァビに、ジャンは呆れるように言った。
かれこれ一週間、彼女に鍛えてもらいながら仕事をこなしてきた。街の中で、体の不自由な老人のために買い物をしてきたり、あるいは届け物をしてきたり。あれ以降の戦闘は無かったが、それでも今までには無かった体験は、彼にとって貴重なものになっていた。
自分の知らない、住民の生活が垣間見える。それが妙にうれしくて、自分が世間と関わっているという証になるようで楽しかった。
「いいのよそんな量ないし。というか、今日はもう仕事もないし、帰れば?」
彼女は、ほっと胸から大きく息を吐き出して肩を落とす。
最近ろくに仕事をこなす人間が居ないという話だったのだが、ジャンらが熊を三頭退治してみせてから、そういった怪物退治の仕事が増えたのだが――それを待っていたとばかりに、館で待機していた旅人がこぞってそれを奪い去っていったのだ。
それでもそうそう間を置かずに来てみたのだが、やはりろくな仕事はない。
資金も溜まってきているから、無理に仕事をする必要もないのだが……今日で一週間目だ。いい加減、あの時の情けない姿を払拭したいと、ジャンは思っていた。
「そんな寂しいこと言わないでくださいよ。むしろ、仕事も無い日に、初めて会ってるんですよ?」
「別に好きで会ってるわけじゃないけど」
いつものように外套の下で腕を組むラァビは退屈そうに言ってから、静かにその言葉の後を追った。
「じゃあ、君を育てたお礼に何か奢ってくれる?」
今まさに思いついたような台詞だった。
そこで同時に、そうか、とジャンも手を打った。
今日は仕事もないからどうしようもないが――ならば日ごろの礼という手があった。
ここで、決定的なまでにどうしようもない糞ガキだと思われているイメージを、なんとか変えられるかもしれない。
「そうですね、ちょうど昼頃ですし……でもおれ、ここら辺の店ってあまり良くわからないんですよね」
「そうねえ、街並みはすごいけど都市って感じじゃないからあたし自身もこの街をあまり見回らなかったから知らないんだけど――あったわ、一つだけ、とっておきの」
「ラァビさんが良ければ、そこに行きませんか?」
「うはは! そうねえ、いいかもねえ!」
誘ってみると、ラァビは嬉しそうにジャンの頭を撫でるように叩いて、歩調を早めた。
ジャンはそんな喜んでいる彼女にほっと胸をなでおろしながら、強い日差しの中、額に浮かぶ汗を拭いながらラァビの後を追うようについていった。
「ほら、アイツよ」
タマは物陰から、仲睦まじく往来を歩く二人の姿を指してみせた。
妙に艶艶しい肌で傍らに屈むノロは、つい先ほど、制限時間的な問題で選手交代してきたがためだ。先ほどとは違うノロだが、記憶と意識は共有されているためになんら問題はない。
「ラァビか」
「あんた、知ってるの?!」
「聞こえた」
「……すげぇ役に立つじゃないのよ」
飛び上がって、タマはノロの肩に乗る。
サニーは既にクロコやアオイと出かけてしまった後だから誘えなかったし、テポンは新しく買ってきた魔術書にかじりついていて、お手伝い三人衆も相手にしてくれない。トロスが唯一の希望だったが、彼も彼で家には居なかった。
だから、この追跡は二人と形容すべきか、二匹と形容すべきかわからぬ両名のみで行われることとなっていた。
もちろん、その対象二名には気付かれては居ないが、その微笑ましい組み合わせは通りすぎる人々には良く目立っていた。
彼女らはそうとはつゆ知らず、まさに自分たちは透明になったつもりで、影に隠れながらその後をついていった。
「あんて会話してんの?」
舌っ足らずっぽくタマが訊く。ノロは頷き、聞いたままに口にした。
「『おれ、ラァビさんと出会ってから世界がかわったような気がします』『へえ、じゃあもうあたしナシじゃ生きていけないくらい、骨抜きにされてるわけね』……など」
「にゃんですとぉっ!?」
「『……まだ昼間ですよ。いくらなんでも早いんじゃないですか』『いつもそうじゃないのよ。ソレに、今日は君がもてなしてくれるんでしょう?』……だとか」
「やっろぉ……もう、そんな不快、もとい深い関係に……」
もふもふの毛皮を逆立たせて、倍近くに膨らんだ尾は針金でも入れてあるかのようにいきり立っていた。彼女の興奮は隠せるものではなく、鋭い爪はノロの肩に食い込んでいたが――肌は切り裂かれること無く、逆に腕をそのまま飲み込むように、柔軟化していた。
そして対照的に、ノロは楽しんでいた。
表面上にはひどく冷めた様子だが、敢えて切り切りに台詞を紡ぐことに寄って、タマは面白いように情報を鵜呑みにしてくれる。滑稽だ。ジャンはからかえなかったが、彼女は違う。
もっともその行為は悪意に満ちたソレではなく、結局のところ、タマも本気で憎んでそうしているというわけではないことを知っているから、ならば自分も少しくらいは楽しもうという思考のもとで行われていた。
「あたしの事は遊びだったんだ! あの泥棒うさぎめ!」
「はっは、ゆかい」
「面白くにゃいわよ!」
「ははは」
それから南区の大通りから、ちょっとした路地に入る。
二人はそれを見送ってから、タマはあんぐりと大きな口を開けて、二人が入り込んだ店の看板を見上げていた。
木で出来た、店先に飾られるソレ。看板たる板にはグラスから内容物の液体が溢れている絵が刻まれていて――それは酒場であることを教えていた。
「酒場じゃん!」
「そうです」
「なんか、休憩用の宿屋かと思ったのに!」
「脳みそ不純物で、出来てる」
「っさいわね、ヘンな会話聴かせるからよ」
「理不尽」
バンバンと両手で素早くノロの頭を叩いてから、前に居直って扉を指し示す。
「中に入りなさい」
馬鹿だ。
思わずそう零れそうになった。
「馬鹿だ」
思わずそう口にしてしまった。
「なっ、あたしに何の恨みがあるのよ……」
「目立つ格好。気付かれるのは、確定的に、明らか」
ここは酒場だ。
明らかなまでに子供の容姿であるノロがその中に入る事自体が異様なのに、さらに目立つ赤いワンピースにサンダル。透き通るようにきらめく銀髪。その上で、何かの冗談のように肩には三毛猫が乗っていて……そんな少女が店に入れば、酔っぱらいはいよいよ幻覚が見えるほどに酒が回ったかと思うだろう。
いくら感情的になっているからとは言え、そこまで頭が回ってもらわねば命取りだ。
彼女が魔法を持たず、あるいは持っていたとしても、騎士の学校に入学していなくてよかったと思う。こいつが騎士になったら国が滅びてしまうだろう。
かなり頭が馬鹿だ。頭脳的な意味で。
ノロは酷烈に、タマをそう評していた。
だが嫌いじゃない。同時にそう思った。
こいつは楽しめる馬鹿だ。ネコだけど。
「そっ、それじゃ、どうするの? あんたが考えてみにゃ、さいよ!」
「ここで、ジーニアスなわたしは考えた」
ノロは得意げに人差し指を立てる。と、その指は瞬く間に赤黒く変色して、うねり、粘土細工のようにうようよよ見えざる手で加工されているように伸びて、触手状に変異した。
手を扉に向けると、地面と扉とのほんの僅かな隙間に、ねじ込まれるように触手が中へと忍びこむ。彼女はそうして扉の脇の壁を背にして膝を立てて座ると、タマはそのまま膝の上に乗ってきた。
「ノロってなんでもありだよねェ……」
「照れる」
タマの喉を掻くように指先で撫でながら、暫く待機。
そうすると、ややあってから、ノロは自主的に口を開いた。
「声を認識した」
「聞かせて! レッツ!」
「ストーカー気質」
「いいから、レッツ!」
ノロは珍しく小さなため息を漏らす。
そうしてから、仕方なしに聞こえてきた言葉を伝えてやった。
「やっぱり、蒸留酒だけじゃ飽きるわね」
ラァビはご機嫌な表情で樽のようなジョッキを傾ける。中身はぶどう酒であり、蒸留酒よりアルコール分が低くて飲みやすいソレだった。
小さな円卓に向かい合わせになって座る二人は、それぞれ軽食じみたパンや干し肉、それにちょっとしたサラダを並べて、それぞれぶどう酒を煽る。
周囲は、ギルドをひと回り小さくしたような空間であり、満席ではないものの、客が多く賑わっている。
その中でラァビはポケットから出したメモ帳を広げて、筆記した。
――さっきからついてきている子はだれ?
「確かに、会ってからは他の酒を飲んでる姿を見たことないですし」
干し肉を咥えながらペンを受け取り、下に綴る。
――ノロっていう、友達です。ちなみに肩に乗ってたネコは獣人です。
「でも、ここのぶどう酒は特に美味しいのよ。ほら、君もたんとお飲み?」
――君に用なんじゃないの?
「ええ、頂いてます」
ゴクリ、とわざとらしく喉を鳴らしてぶどう酒を一口飲み下し、大きく息を吐いてからペンを手に取った。
――たぶん、ラァビさんとの関係を何か勘違いして、ストーキングしているみたいです。遊びみたいなものですよ。
芳醇な甘い香りが鼻から抜ける。
確かに、城で飲んだものよりいくらかレベルが高そうなソレだった。
彼はそのままサラダにフォークを突き刺して頬張ると、ゴクゴクと天井を仰ぐようにぶどう酒を飲みながら、手元を見ずに文字は綴られた。
――勘違い、ねぇ。
それから言葉を交わしながら、食事を進める。筆談はそれ以降行われず、彼女が一体何を聞きたかったのか、何を考えたのか、結局のところジャンにはわからなかった。
やがて皿が空になる。
何杯目かになるぶどう酒も、そのジョッキの中身が空になって、ラァビは腹をさすって満足そうに息を吐く。微笑を浮かべ、また天井を仰ぐように口を開けた。
「美味しかったわぁ」
「ええ、軽食だと思ってましたけど、食事も結構美味しいですね、ここ」
「それで、お腹もいっぱいになった所で――」
「『――デザートとして、君も食べちゃおうかな』と言っている」
「ファック! 我慢ならないわ!」
タマは牙を剥いてノロを足蹴に、力一杯空中に飛び上がったかと思うと――不意にその四本足が伸びて胴の部分にメリハリのある起伏が生まれ、四肢が肉球をそのままに巨大化する。
彼女は瞬く間に人型へと変身すると、ノロが静止するよりも早く、酒場の扉に足を向けて、膝を胸に引きつける。そうしてからすべての力を解放すると、足先は力一杯扉を蹴破って――凄まじい破裂音のような破壊音が周囲に響き渡った。
扉を固定していた金具がひしゃげて、その巨大な板は空中をくるくると舞って床に叩きつけられる。
酒場のざわめきが、一瞬にして消え失せた。
彼女が大股で中に入ると、まず目に入ったのが、
「ジャーンッ!」
しなやかな指先で顎を掴まれ、その息のかかる程の距離に顔を近づかせているラァビとジャンの姿だった。
「あんた、あたしにちょっと期待させておいて、こんなトコでにゃにやってんのよ!」
ズカズカと大股で円卓に歩み寄り、そうしてテーブルに両手を突く。バン、と盛大な音がして、木で出来た食器がにわかに弾んで机を叩いた。
「なんだ、タマか」
「にゃあ!」
迸る一閃。
肉球は、ジャンがその切迫を認識するよりも早く、意識の外から顔面に叩きつけられた。
少し硬度のある角質。そしてその中には、程良く柔らかい脂がクッションになっている、独特の感触。お日様の匂い。
麻薬的な効果によって、ジャンはこの状況でも尚自分を見失うことができていた。
「うわあ、肉球……」
「駄目だ、話にならないわこのバカ」
腕を引き剥がし、茫然とするジャンをよそ目に、今度はラァビへと目を向ける。キッと睨みつけると、席に座りなおしていた彼女は偉そうにふんぞり返って、足を組んで、頭の後ろで手を組んでいた。
「あんた。あんたでしょ、ジャンをたぶらかしたの」
「たぶらかしたって……随分と人聞きが悪いわねぇ」
「泥棒うさぎ!」
「それじゃあ、アナタと彼は、男女の関係として付き合っていた訳?」
「そ、そうじゃないけど……」
思わぬ反撃に、彼女は言葉を失った。
突かれたのは一番の弱点だ。ここを見抜かれてしまえばここに来た事に対する正当性が失われてしまう。
残るのは、ただ思い上がった一匹のネコだけだ。くすぶり、あらわになった嫉妬にひたすら羞恥するしかなくなるのだ。
そんな事、許して良いのか。
そんなことさせない――させてたまるか。
百グラム程度の脳みそが、その時点で最大限に思考を回転させていた。
言葉が溢れるように生まれでて、選択し、文章を構成する。整合性を以てして判断し、適切でなければ切り捨て。再選択。
刹那の刻。
心臓が一つ鳴るその最中に、タマは反撃した。
「うるさいビッチ!」
それは全てを終了させるのに十分すぎる言葉だった。
悲しきかな、人の肉体でネコの脳みそを持つ彼女には、深く思考するに値する質量を持ち合わせていなかった。もっとも個人差はあれど、彼女は特に感受性に特化した造りを持っていたが故である。
「……くっ」
小さな、うめき声にも似た何かが聞こえた。
その直後だった。
「うはははッ! おっもしろい娘じゃないの! いいわねえ君は、こんな娘に囲まれて生活できて!」
いかにも愉快気に腹を抱えて笑うと、目尻に浮かんだ涙を払い、立ち上がっておもむろにタマの頭を撫でる。警戒するように尾がピンと逆立ったが、妙に手癖のいい慣れた手つきに、理性とは別に、本能が彼女をリラックスさせてしまった。
尾が垂れる。
そうして徐々に、頬が赤くなるのを隠すようにタマはその身体をどんどん縮小させていって――やがてネコに戻っていった。
ラァビは構わずタマを抱き上げて胸に抱え、喉を撫でる。ゴロゴロと喉を鳴らしたタマを眺めて、ジャンは嘆息しながらも、微笑むことしか出来なかった。
なんだかなあ――そう思いながらも、心が満たされていくのを感じていた。
確かな充実感。体を動かし、自分が強くなっていくのを実感するのとは大きく異なる、そんな幸福感が胸の中に広がっていた。
ラァビは良く面倒を見てくれるし、戦闘面でも良く鍛えてくれる。
そしてこれまで出会った多くの人も、随分親切だ。
「そろそろ、腐るから」
いつの間にか酒場に入ってきていたノロは、脇から不意にそう声をかけた。
「ああ。なんだか、タマが迷惑をかけたみたいで悪かったな」
取り繕う程度の謝罪をすると、ノロは首を横に振る。銀髪は薄暗い照明の中でも鮮やかにきらめいて、その顔立ちは品の良ささえも伺わせていた。
「構わない。楽しかった」
「そうか。そりゃよかった」
「今度は、遊んで?」
ジャンを指さして首を傾げる。彼はソレに、小さく頷いて笑みを作った。
「ああ。今度遊びに行くよ」
「ぜったい?」
「もちろんだ」
「じゃあ」
彼女は軽く手を上げて別れを示す。ジャンもそれに応じて手を振ると、そそくさと、静まり返る酒場を後にした。
そうしてジャンもざっと酒場の中を見渡してから――タマに夢中になるラァビをよそに、カウンターへと向かって、無言で金貨一枚を差し出した。
「扉の修理代、これで足りますかね」
「ああ、気にしなくてもいいのに」
気の良さそうな中年男性は困ったようにそう告げながらも、カウンターに置かれた金貨に手を伸ばし、それをポケットの中に収めた。
マスターたる人間はどこかクセがなければやっていけないのだろうか。彼はそう思いながら、それ以上面倒なことに巻き込まれない内に、とノロの後を追うようにその場を辞した。
タマが全身の毛を滅茶苦茶なクセを作って帰って来たのは、その日の深夜の事だった。