期末試験
クリィムの転入がちょっとした騒動になってから一週間が経過する。
その頃になると、クラスは再び落ち着きを取り戻し――正確には、取り戻さざるを得なかった。
期末試験。
今日がその、初日だからだ。
一ヶ月前から準備をしてきた用意周到のジャン・スティールの傍らでは、試験が開始してから十分ほどで頭を抱えて机に突っ伏したクリィムが居る。
やや前方、先頭から一つ手前に座るサニーは意外にも詰まること無くペンを走らせ、アオイやクロコ、レイミィも同様に余裕を持った表情で解答用紙に答えを綴っているようだった。
――今は初日の三時限目で、今日の日程最後のテストだ。
さらに明日と明後日で筆記試験は終わりになり、次の日に戦闘技術の実施試験になる。
それが終わると、翌日に終業式を執り行って――夏休み突入だ。
「残り十分。氏名と、解答欄がズレてないか、確認しとけよ」
作業服姿の担任は、気怠そうに椅子に身体を預けて足を組み、腕を組みそう告げる。
ジャンは既に幾度も繰り返した確認の作業を、担任の言葉に倣ってもう一度だけ繰り返す。問題用紙の余白には残ったままの計算式と、くだらない落書きが今更になって恥ずかしく思い、その上にペンをぐちゃぐちゃに走らせて塗りつぶす。
大きく欠伸をする。
時間が、その流れがいつもより緩慢な気がした。
退屈だ。
何よりも、思ったよりテストの内容が簡単だったことに驚いた。
これなら案外、これ以降のテストもなんとかなるかもしれない。
そんな思いを馳せながら――担任の、終了の合図を聴いた。
すぐに弛緩する空気の中、それぞれはぼやきながら、ジャンは席を立って解答用紙を回収する。そうしてから席へと戻ると、その後ろに着いて来ていたクリィムは深いため息を漏らして、席に着いた。
「どうした、大丈夫か?」
「……こ、肯定しよう」
搾り出すように彼女は口にする。ぐりん、と机に当てていた頭を回して、怠惰なままに突っ伏したままジャンを見た。
「いいなあお前は、優秀で」
「冗談言うなよ。おれだって頑張ってんだ」
「そんなの、頑張っても出来ない奴に向ける言葉じゃないぞ」
「基礎が出来てないのに応用からやろうとするからだ。卵焼きも満足に作れない奴が、いきなりシチューとかビーフシチュー作れるかよ」
「なんでシチュー限定なんだ……」
「例えだよ、気にしないでくれ」
むう、こいつは恐らくシチューが好きなのだろう。
クリィムは話の流れなど関係なしにそう思って、担任の適当な報告やらを聞き流す。
大した連絡もなく、ただ明日も頑張れだの、赤点はオレ的に勘弁な、だのと無責任極まりない言葉をいつも通り吐きちらしていく。平常運転だ。
そうすると間もなくそれも終わって、担任は教室を後にして、教室内は途端にざわめきだした。
つまり――放課後になった。
「もし良かったら勉強するか? 今日は、みんな個人で勉強するみたいだし、おれも暇だし」
「なぜ二人っきりなんだ。みんなが居る時でいいだろう?」
「まあ、イヤなら良いんだ」
と彼は言いながら、ごそごそとショルダーバッグの中に手を突っ込んで何かを漁る。目的の物を掴むと表情がぱっと明るくなり、彼は口元に笑みを携えて、三冊のノートを引き出した。
ジャンはそれを彼女へと差し出して、好青年の様相で告げる。
「明日の教科だ。割と読みやすいと自負してる。良かったら使ってくれると嬉しい」
「……そうなると、お前はどうなる?」
クリィムが怪訝な表情で訊くと、彼は得意げに側頭部を指で叩いてみせた。
嫌味な表現に、思わず本能的な嫌悪が背筋を走り、サソリの尾がぴんといきり立った。
「頭の中に入ってるから大丈夫だ」
「くっ、気持が悪いな!」
シャー、と今にも唸りだしそうな尾を必死で抑えながらクリィムが叫ぶ。
なぜこれほどまで得意げなんだ。恥ずかしく無いのか。ヒトには羞恥心というものが無いのか。なぜ平然と、こんな赤面モノの発言が出来るのだ。
気持ちが悪い。
クリィムは彼の手からノートをひったくってから、数歩だけ後ろに下がった。
「好意には応えよう。だが期待はするな」
「せめて卵焼きくらいは作れるようになれよ」
「お前の好物など知るか。ともかく感謝するぞ、スティール」
彼女は素直に礼を言って、丁寧すぎるまでに丁重にノートをカバンに詰め込んで、それを両手で提げる。長い赤髪を翻しながら、彼女は徐々に尾の立つ角度を鈍角にしながら、またジャンへと振り返った。
「わたしは帰宅する」
「ああ、じゃあな」
「お前はどうするんだ」
「おれ? みんなはもう先に帰ったし……まあ、先に帰ってて良いって言ったからな」
クリィムのための時間を取るだろうから、なんて恩着せがましいことを冗談っぽく言ってみようかと思ったが、彼女はこう見えても生真面目だ。本気にして、妙なまでに仮を返そうとする。
ジャンには少しばかり手厳しいコミュニケーションを図る彼女だが、そんなこともあって、ジャンは本気でクリィムと関わりたくなど無い、と考えることは無かった。むしろこれから親密になって、他の友人らと同様に歯に衣着せぬような関係になりたいとさえ思っていた。
もちろん下心など無く、また腹黒い計算のもとではなく、その気持は混じりっ毛のない純粋なものだった。
「ま、おれも帰るよ。ふつうに」
「そうか。わたしの家は、北区なんだが」
北区、というのは噴水広場から北、つまり城がある方向だ。ちょうど帰宅途中に通過する地点でもある。
南区は商店が主に集中する街の出入り口部分であり、借家や宿屋なども点在する、いわゆる商業区だ。そして東区が居住区であり、西区も、一応居住区だ。
「家が近そうでよかったな」
彼女が何を言わんとしているかわかっている。
素直にお礼は言えるのに、そういったお誘いだとか、自分から行動を起こすことに関してはとことんダメ、不得手である。だからジャンはちょっとした悪戯心と、クリィムに慣れさせようとするおせっかいな親切心も相まって、そんなわざとらしい対応をしていた。
クラスメイトが、いつもの組み合わせだとチラチラと見てきてから視線を外す。
彼女も今ではすっかり、とまではいかないが、クラスに馴染んできている。その中でもこの組み合わせは――飼い主と犬といった関係だと認識されていた。
「そうだろうな。お前は、どこをどう帰るんだ?」
手提げかばんを提げる彼女をよそに、ジャンはショルダーバッグを肩にかける。授業がない上に弁当も無いからひどく軽いソレは、それ故にバッグの存在を忘れてしまいそうになる。
「こっから通りに出て、城の前を曲って広場に出て、東区に行く感じだな」
「奇遇だな。わたしも、広場に出るまでの道が一緒なんだ」
「そうなんだ。家は近いのか?」
「ああ」
彼女は首肯した。
「なによりだ」
なにがだ。
彼は自分の言葉に疑問をもちながら、いつものように笑顔を向けてクリィムに背を向けた。
「少し待て、待とうじゃないか」
頬から鼻先までを真っ赤に染めて、震える手を握りこぶしに変えて震えを抑える彼女は、回りこむようにしてジャンの前に立ちはだかった。
ぶっきらぼうな口調だが、しっかりと感情がある。むしろ、抑えているだけで喜怒哀楽などは、他人よりも豊なのかもしれない。というのは、彼女自身も無自覚なのだろうが。
「おう、どうした」
「奇遇だな。わたしも、広場に出るまでの道が一緒なんだ」
「ループしてんぞ」
「つまり、だ」
「おう」
「わたしが言いたいこととは、だな……」
意気込むように、胸いっぱいに息を吸い込む。
何をこんなに緊張する必要があるのだろうか。教室で、いつも一人で本を呼んでいるような子でもここまでは緊張しないぞ、とジャンは思いながら、微笑ましく見守る。
そんな中で、悪魔がささやいた。
そしてささやいたままに、口に出してしまった。
「帰り道が同じなら、一緒に帰らないか?」
――その刹那。
ジャンは、驚いたように目を見開いて見つめてくるクリィムの顔を見て、時間が止まったのを実感した。
が、それも束の間。
彼女は顔をうつむかせて、わなわなと怒りを表現するように肩を震わせる。
しまった、とジャンは思った。
「しまった」
つい悪戯心が先走ってしまった。
「おまえ、わたしが何を言いたいのか、ずっとわかってて……ずっと、からかっていたのか……?」
右腕が黒く変色する。そう認識した時点では既に、その指先は結合して、鋭いハサミの形になっていた。
「ちょ、ちょっとまて落ち着こうぜ。右腕がファンタスティックなことになってんぞ?」
「おまえと言うヒトは……せっかく、わたしが頑張ってヒトに慣れようと、頑張ってるのに……嘲笑って……!」
「ち、ちがうって! 嘲笑ってないって! つまり、あれだ――」
クリィムの視界から、不意にジャンの姿が消える。だが野生で鍛えた動体視力が容易く彼を見逃すはずも無かったが……膝を折り曲げ、額を頭にこすりつける姿には違和感を覚えずにはいられなかった。
「ごめんなさい! つい、クリィムがちょっとあの、アレでして。出来心で!」
いわゆる降参の合図だと、動物でいう腹を見せる体勢であるのだと、エクレルが言っていたのを思い出す。
だが、腑に落ちない。
降参されたからって、自動的に怒りが収まるわけではないのだ。
「アレってなんだ」
「クリィムって良く見ると可愛いなって思いました」
――ぼん、と爆ぜる音が聞こえた、気がした。
怒鳴られる事を覚悟して吐き出した言葉に何の反応も返ってこない事が逆に恐ろしく思えて、彼は意を決して顔を上げる。と、顔を真赤に染め上げたクリィムは顔の前にまで垂らす程に尾をいきり立たせていたが、手は、いつものようなしなやかな指を作っているままだった。
「まだやってんの? お前」
膝についたホコリを払って立ち上がる。そうする中で声を掛けるのは、金髪をタテガミのように逆立たせた人間の男だった。名前をカールという、今では割と声をかけてくれる人間の一人である。
「まあな」
「物好きだな。とことん」
「んな事言うとハサミで真っ二つにされんぞ」
「ははっ、おっかねえな。んじゃな、また明日」
カールは言うだけ言って冷やかすと、そのまま背を向けて教室を後にする。
と、そこには既にクリィムとジャンしか居ないことに気がついた。
クリィムは何かの冗談のように、全く動く気配がない。サソリ族とは、立ったまま気絶する習性でもあるのだろうか。
ジャンはだんだん面倒臭くなって、結局は腕を引っ張って帰ることにした。
――そんな日々があと二日続いて、いよいよ筆記試験が終了した。
ごく平和な日々だった。
何事もないし、クリィムともだんだん距離が縮まっている実感がある。ノロも最近ではちょくちょく顔を出すようになったし、最近ではタマと街を歩いている姿も見る。
全てが良い方向に動き出していた。
問題は、あと資金の工面がつくことだけだろう。
しかし、どうにも自分に出来るような仕事が見つからなかった。
商店でのアルバイトを考えてみるが、学校があるから中々時間の都合がつかないし、ならば警備などのソレはどうかと考えるが、まず募集していない。
その時点でもう手詰まりだった。
「そこまで!」
戦闘教官の、砲撃のような大音声が轟いて、対峙していた二人の生徒は同時に動きを止めた。
グラウンドの中心で行われていた戦闘技術の実施試験の最中である。その二人組は、ちょうど最後から数えて二組目だった。
「二人共、入学時よりは随分と成長しているな。その調子で頑張るがいい」
『ありがとうございました!』
声を揃えて頭を下げて、二人は木剣を持ったまま、ジャンの方へと近づいてくる。
うち一人は、数歩分の距離を開けたままそれをほうり投げてみせた。木剣はくるくると空中で回転しながらジャンへと迫り、彼が手を伸ばせば、ちょうど柄が手に触れる。掴んで、振り下ろせば勢いもいい具合に流して殺せた。
「最後だ。がんばれよ」
木剣を投げたカールが激励する。
ジャンは軽く手を上げて、隣で木剣を渡されたトロスを一瞥した。
「おれって、こういう順番はいつもついてない気がするよ」
「今回は僕だってそうなんだから、あまり嘆かないでくれよ」
「最後ォッ! さっさと出てこい!」
教官の声に二人は肩をすくめるようにして、生徒らが円を作るその中心へと躍り出る。
男女混合の中で、注目される試験に少しばかり緊張するのは当たり前だったが――それが最初や最後だったならば、尚更だった。
「はじめ!」
適当なタイミングでの合図に、されど既に準備を整えていた両者は射程からやや離れた距離を保って、剣を構えた。
――考えてみれば、トロスと打ち合うのは初めてだ。
出会ってからは随分仲良くやらせてもらった。彼が居るのが、当たり前のような感覚に、今ではなっている。
穏やかで、だが力強い。初対面ではせっかちと言われていたが、今では落ち着きある、年齢よりも遥かに穏やかな物腰で全てに対応している。
甘いマスクだ。
生え際が黒くなりつつある金髪も、短くして染め直せば中々に渋い男にすらなる。
羨ましい限りだし、成績だっていい方ではないが、無難。戦闘技術も中の上程度だ。学校が始まってから開始したらしい自主トレーニングのおかげも相まって、この授業での成績は実績に加えて努力も評価されているから、随分といい具合になっているだろう。
「ねえ、スティール」
そういえば、いつの間にか呼び捨てになっていた。
それが気にくわないわけではない。
むしろ心地良かった。
「今日は、本気で頼むよ」
真剣な面持ちで告げるのは、試験だから適当にやりすごそうという提案ではなく。
「なに言ってんだ」
自分の実力を試したいという純粋な願望と、
「おれはいつだって、本気だよ」
親友と認める友人と、本気でぶつかり合いたいという欲望だった。
はじめに動いたのはジャン・スティールだった。
大地を弾くように走りだし、真正面からトロスへと向かう。
同時に動き出したトロスは、されど走りだすことはなく、飽くまでジャンの攻撃を待っていた。
俊足故に距離は瞬く間に縮まり、残り数歩分という距離でトロスが動く。腰を落とし、腰に構えた剣を力強く閃かせる。当然、それはジャンがそのまま突っ込んでくるという確信を持つがゆえの行動だし、そうすることしかできないと、常識では考えられた。
が、居合いと呼ばれるその剣戟は、ジャンには当たらない。
剣先は何かに触れることもないままに、虚空を切り裂き――。
「……ッ!?」
ジャンの姿が、周囲から消えている。
トロスがそう理解する間に、彼の姿は足元から浮かび上がるようにせり上がってきて、
「これで終わり、だな」
木剣の切先が、優しく喉元に触れた。
――敗因は行動を読まれていたことと、構えからすぐにどう出るか理解されてしまう攻撃手段しか持ち得なかったことにある。
攻撃速度は十分だし、居合いという技も素人のソレではなかった。
そして、彼自身ジャンとまともに打ち合って勝てるわけがないと決めつけていたことも敗因の一つだろう。
「そこまで!」
教官の声が轟く。
そうしてあっという間に、期末試験の最後のテストが終了した。