17.アレスハイム王国【決着】
全身を粉々にするような衝撃を受けても尚、その巨人は未だ生存し。
深い海の谷底へと吸い込まれるように転がり落ちる中、頭上の明かりがやがて届かなくなりつつ在る海中で、一秒で幾度も気絶しそうな激痛に襲われながらも、やはり青年は生きていた、が。
――死ね、いい加減に、死ね。
息をもたす予定も無く吐き出した叫びは、だがボコボコと空気の塊となって頭上へこぼれていく。
鮮血が暗い海中を塗り固めるその中で、ジャンは巨人にしがみついていた。
その首筋に深く喰らいついた大剣を振り払おうと苦悩して、そして王は、それ以上の侵入を拒もうと刃を押し返す。
落下する最中、上に乗られる王の状況は不利なれど、だが死に体と言うよりも、死体が動いているようなこの男に負ける理由などは無かった。
「放せ、小僧」
水を伝播し、声が届く。
だが、もうその時には既に、青年の動きは完全に失せていた。
片手で刃を掴む王は、されど防衛にのみ務めるわけではなく、つかめば簡単にへし折れてしまいそうな喉へと手を伸ばしていた。
一秒に景色が一挙に変異する速さで、身体は徐々に身動きの難しくなる水圧に蝕まれる。また強風よりも厄介な、その体に纏わりつく重さのせいで、さしもの王とて容易くジャンを掴むことは出来なかった。
この世に生まれ落ち、最大の屈辱を覚えたのはその時だった。
本気だというのに、後少しだというのに、手が届かない。
噛み締めた奥歯が軋み亀裂が入る。
首筋から鮮血を流し続ける傷口を、冷えきった海水が凍てつかせる。
たかが人間に――どうあれ、最終的には確実に殺害できる筈の男を前にして、そしてその男の最大の弱点たる海に、この己が陥れられている現状を見て。
湧くのは怒り、悔恨。
王を決する戦いに比べれば、酷く下衆で、レベルの高低ささえも曖昧な戦闘で傷ついたことさえも、酷い恥辱なのに。
そして――既に、近衛の魔人に誰一人として太刀打ちできぬだろう生身なのに、生きているこの男が来に食わなかった。
初めて、心の底からの憎悪が向けられる先が人間の男というのは――良く出来た話だろう。
この戦争を契機として支配する世界の、それまでの統治者だ。この戦いによる勝利が、これからの未来を照らしてくれる。
だというのに、だ。
ここからが難しい。否、ここだけが困難だった。
「放せと、言うのに!」
手が伸びぬ。
沈めば沈むほど硬直する腕は、されどある一定の水深から完全に動かなくなった――そう感じた時には既に、吸い込まれるような落下感は失せており、背中に軟い土の感触を覚えていた。
力を抜けば腕は地面にたたきつけられ、身体は起きず、大剣はより深く首に食らいついている。
ジャン越しに見上げる海上からの光はとうの昔に絶えていたが、それがどれほど前なのかがわからない。
海に落ちてどれほどの時間が経過したのか、定かではなくなった。
そして、
「貴様……!」
遥か前に動かなくなっていた青年の身体から、熱が生まれるのを感じた。
ジャンの鼓動が停止する。
それを認識したのは、彼の体内によって寿命を延ばされたノロだった。
――王が選択した海上が、もっとも深い海溝を持つ場所だったのが仇になったのは誰がどう見ても王だったが、それ故に、ただの人間であるジャンが堪えられるわけもなかった。
ただでさえヒートの魔法による反動で”死んでいる”のだ。それでも未だ、生命活動の停止した身体を動かしたのは凄まじい執念だったが……。
『死んじゃったら、意味がないだろ……!』
されど、あの男ならば、肉体による死さえなければまた戻ってくるのではないか――そう思えて、彼女はその手の中に、真紅の果実を出現させた。
握りつぶした魔力の粒子が、身体の中に流れ込んでくる。
体内で莫大に増幅した魔力が、深淵の中の些細な光子を呼び寄せた。
何も見えぬ、何も聴こえぬその闇を払う、眩いばかりの輝きが、その青年の肉体から噴出する。
同時に、凄まじい熱が身体の奥底から溢れだした。
『電撃――』
ジャンの頭の中で響く声が、遮られた。
鈍い青の唇が震え、口腔内の海水が排出され、濁った瞳が色を取り戻し、
「――疾走っ!!」
青年の意識が蘇る、その時。
爆発的な衝撃の波が押し寄せ――落葉するかのような緩慢さで海底を滑る二つの影が、共に弾けて分かたれた。
演劇か何かのように、海の底で動く影は随分と間延びした速度だった。
波に揺られて動くかのようであるものの、されどその海底で波を作るのはその二人。
立ち上がるからこそ僅かに動けるようになった王とジャンは、次が最後になることを、本能的に察知していた。
燦々とジャンがもたらす輝きの中、魚一匹近寄らぬ中では、どちらからともなく動き出す契機は無かったが、だからこそ、というべきなのか。
声に出ぬ二人の殺意が水に伝わり、波紋のように広がる。それらがふれあい、同調した瞬間。
彼らは全く同時に、地を弾いていた。
――こんな所で死んでいいのか、と思った。
下手をすれば片田舎と揶揄されてしまいそうな大陸の端にある一国は、領土は広くとも都市の数や繁栄はそう活発なものではないのだ。
そんな土地出身の、さらに戦災孤児である、どこにでも居るような取るに足らぬ青年が。ただ偶然、その身に余りある力を手に入れた男が、一国ではなく、世界を統べる王を――このような、誰も知りえぬ海底で殺すなどと。
(切り裂け)
手にする大剣の腹に『実行中』の文字が浮かび上がる。
海中を、まるで地上のような速度で馳せた巨剣は、即座に王の喉元へと切迫。
苦悩というよりは懺悔に似た、しかしどちらかといえば哀れみに近い感情を覚えた刹那。
大剣は、容易く――王の”右腕”を切り裂いていた。
「みっ――ああ、くそっ!」
胸の奥底から溢れる狼狽。
対して、右腕の付け根を裂いて過ぎていく最中の剣の柄を、待ち構えていたように王は掴んでいた。
水の中で、飛びすぎていく巨剣につられて鋭いまでの加速で一度後退し、光の届くか否かの距離まで退いた王は、その深淵にて衝撃をまき散らした。
澄んだ海底が瞬時に濁り。
大剣に、『実行中』の魔法文字が浮かび。
確率が跳ね上がり、その命中率は限りなく高まった。
水中を駆ける巨剣と共に、引っ張られる形で王は追随し、
『ああ、もうダメだ。ごめんね、ジャン――』
諦観を帯びた声は、静かに頭の中に響いていた。
剥き出しの胸が隆起する。そう認識した時には既に、グロテスクな肉塊が身体を成形していた。
布一枚身に付けぬ、表皮を剥がしたような赤々しい目を覆いたくなるような格好の少女。
そして、ジャンが思わず彼女の名を口にしようとした時――その喉に、深々と巨剣が突き刺さっていた。
肉が巨剣の表面を覆い、飲み込み、喉を貫いて通過する際には、その巨剣の眩いまでの白銀の姿は失せ、太い筋を無数に張り巡らせる薄い肉を貼り付けていた。
――頭の中に響く声は、それ以降聞こえなくなるのを無意識で理解し。
だからこそ、と。
己の肉体を細胞レベルで切り裂いて通過させ、最後に結合させて無傷のまま貫通させる見事な奇術を最期に見せてくれた彼女が、こんな冷たい世界で終えるのを、本能で理解した。
故に頭の中に浮かんだのは、地上へ帰れという強い祈りであり。
体の中を凄まじい衝撃が通り過ぎたのを理解した時には、既にその巨剣の気配は無かったが――頭上で散る鈍い燐光を、彼は確かに視界の隅で認識した。
そして残る後手は、巨漢にして巨人――最期に見るのがこれほどまでむさ苦しい男だと思えば、王がこの地で死ぬのもなんだか哀れですら思えなくなってきた。
「禁断の果実」
果実は精製と同時に吸収される。
やはり、周囲の光子を吸収して己が輝く……というのは、ユーリアには悪いが、どうにも気に入らない。
己が、己だけの力で熱を帯びねば、意味が無い。
ジャンの輝く肉体が真紅の甲冑に変質したその時、海中の水温は瞬く間に沸騰するほどにまで膨れ上がり――その間に、王の手のひらがジャンの顔面を包み込み、
「させぬ!」
炎の獣になるよりも早く、その手はまるで卵でも潰すが如き容易さで青年の頭を握りつぶし。
その内容物が噴出するが速いか。
青年の鋭い手刀が、決死ゆえに無防備な王の喉元に触れ。
焼き。
焦がし。
溶かし。
切り裂く猶予を瞬時に作り出した青年の指先が、男の喉の中に侵入した瞬間――爆発的な熱が、王の肉体を貫いていた。
にわかに走る真紅の一閃が刹那の時だけ、頭部から股ぐらを貫通した。されどその残像は、誰の網膜にも焼き付けることはなかった。
脱力した王の肉体は、ひどく緩慢に倒れ、沈没船のような重さで海底の土を巻き上げ。
「く――たはは、勝った、のかよ……すげぇな、おれ……」
一度成り、強く意識する魔法を再現するのに時間はいらない。魔術や環境に影響を及ぼす魔法ならまだしも、ただ己しか変異しないその力は、頭の中に思い浮かぶだけで力となるのだ。
故に、頭を破壊されても尚、その生命は存続し続けていたが――海底の温度を極度に跳ね上げる熱を以てしても、蒸発しない水量の前では、どうにも無力らしい。
身体がどうしようもなく冷え始め、意識はほとんど混濁しているも同然で、目は景色を映さず、耳はもとより音を聞かぬ。
やがて、まるで老衰で逝くかのような静けさで、胸の奥でぽっかりと穴を穿たれたかのような、我慢ならぬ喪失感を覚えながら、意識が薄らいだ。
死ぬ、というのが、頭の中ではっきりと現実味を帯び始めて。
ゆえに身体は、もう指先すらも動かず。
死ぬのだ、と頭の中で繰り返される言葉と共に、まぶたから零れた涙は海水に流れ。
ああ、やっぱり。
「……死にたく、ない」
声は力を込めて、残りの寿命を削る懸命さによって紡がれる。
勝ったのだ。あの強い、どうしようも無い敵に。ヒートにさえも苦戦していた自分が、ヒートさえも苦戦する敵に。
この後はいつでも考えていた。勝つ時より、戦う時より、いつでも勝った後のことばかり考えていた。
いやだ、死にたくない。
ヒートとだって、まだ決着がついていない。
こんなのは、あんまりじゃないか。
こんな気持ちになるなら、結局死ぬのなら、どうして今生きているんだ。
生きているなら、このまま生き残らせてくれ。
一年でいい、半年でもいい。地上に上がって、陽の光を浴びて、照れくさそうにみんなに迎えられて――命の猶予が、ただ五分だけでもいい。
お願いだから、ここから出してくれ。
「いやだ、死にたくない……」
繰り言は、やがて数を減らし。
ゆっくりと、思考と共に失せていく。
――ジャン・スティールの英雄的な功績は、されどその願いを叶えるにはまだ足りぬ働きであったのか。
およそこの瞬間、世界の誰よりも強い抵抗の念も、この時だからこそ動けという祈りさえも、全てが棄却されたように無下に捨てられた。
青年の意識は、劇的な場面でもなく、かといって平凡でもなく。
息も出来ず苦しい中、体中の耐え難い激痛の中、凍てつく水の中、ゆるやかな――されど、走馬灯の猶予さえも与えぬ速度の中で、不意にぷつりと、途切れて終えた。
凄絶を極めた戦闘の終了は誰が見定めるということはなく、だが当事者が共に出し尽くした全力は、互いを破壊し尽くした。
海底で朽ち果てる運命に定められた巨躯と、それに比べれば矮躯に見えるそれらには、もはや”可能性”やら”確率”やらが反映されることは決して無かったが――。
ふわり、と身体が浮かび上がったのは、その片田舎だと揶揄されそうな一国の騎士の誇りをかけた判断であり。
そしてこの辺鄙かつ最果てに押し込めた超重力が、それとは真逆の力で、海の底から二つの肉塊を引きずり上げ始めていた。