16.アレスハイム王国【反撃】 ⑤
腹に風穴を開けられたという事実は、つまりその男が”傷を負わずに勝利する”という目標を打ち砕いたのであり――同時に、王の勝利条件を極めて容易くさせていた。
己が傷つけども、死にさえしなければ良い。さらに決死の手段で敵を殺すだけの目標。
王を傷つけ可能性をゼロにする――それが必ずしも、好転へ向かうとは限らない。
そもそも、だ。
絶大で絶対的な力を持つこの男を、本気で倒そうなどと馬鹿げたことを考えたものは誰一人としていなかった。
それを実行に移そうとする者などなおさらで、だからこそこの男が死ぬときは老衰か、老いに負けて新たな王に座を渡すときか、血筋――つまり息子による下克上が妥当だと思われた。
まさか人間が、しかも、”元凡人”がそれを成し遂げようとは誰も考えもしなかっただろうし、王本人も、思いもよらない事だった。
ただそれを信じてたのはその青年と、青年を好敵手とした男のみ。
故に、好転するとも限らないが――何よりも、何が起こるかわからないのが、本当のところだった。
完全なる炎の獣となったヒートが王の足元に滑りこみ、逆立ちをするように片手で身体を支えて起き上がらせる。跳ねるように振り上がる足先は、さらに地面を弾いて跳び上がることによって鋭く首筋に食らいつく。
停止する左脚をへし折る勢いで掴まれれば、右足が顎下を蹴りあげる。
鮮血が口腔から漏れ、宙空に散って蒸発――その間に、腹部から引きぬいたジャン・スティールの巨剣がニ度、剣閃を撃ち放つ。
急所を全力で蹴られ意識が鈍い。身体に伝達される意思の反映率は半減されるとして、剣撃を回避する可能性はおよそ二割弱。だというのに、男の鋼の肉体に傷をつけたのは僅かに一閃。腹から胸へかけて薄皮を切り裂く逆袈裟の一撃は、一番最初の技だった。
二度目の全力は、見事に振り流れたヒートの肉体、その肩口から深く切り裂いていた。
炎が迸り、赤く揺らめく頭髪が逆立ち、息を呑んだ――が、最初からこの程度で死ぬ男なら、相棒などとはならず、青年はこれほどまでの成長を見せなかっただろう。
弾ける火焔と共に傷が完治し、
「放せ」
冷たく吐き捨てるヒートは、火焔が作る右腕を振るう。王の腕が裂かれる寸での所で振り払われて滑空、そのまま四つん這いになるように着地し、立ち直った。
ヒートが一瞥する先、未だ王と対峙するジャンの姿はもはや悪鬼と化す。
元来彼の力でないがゆえに、その瞳は白熱して白く濁り、髪は赤く染まり逆巻いていた。
不安定な右腕を払えば、横方向に一閃、地上に炎の波が起こる。そのような”超常的”な力を持ってしても――ヒートは短く息を吐き、好敵手から伝染してしまった弱音を捨てる。
勝てるか勝てぬかで言えば、勝つしか無い。
あの男なら、今ならそう言ってくれるはずなのだ。
絶望の淵に立てば殴ってでも戦場へ連れ出すと明言した己が、弱みに駆られてどうするつもりなのか。
「やれやれ」
仕方のない男だと、笑ってやろう――そう頬肉が引きつった刹那、睨みつけていた王と視線が交錯した。
背筋が凍りつく。
まさか、と思った時、王は鋭く素早く、柔軟とも言える炎を伴った剣戟を掻い潜って大地を駆った。
なぜ己なのだという疑問符が浮かぶ中で、身体は本能的に構え、
「くッ」
「速いが――易い!」
伸ばしてくる腕に対して、外側に回りこんで死角に回りこむ。伸びる腕はごく自然的に視界を狭める壁となるのだが、その滑るような機動に、向かう手のひらがついてきた。
一度致命傷を負わせたからにわかに自信がついてしまったが故の油断――圧倒しなければ、全ての行動において上位に立たれる男を前にして、安易な回避行動が裏目に出る。
既に肌を焼くほどの火力に至った顔面を、されど王は迷わず掴み、
「はははッ! 来いッ、阿呆が!」
凄まじい握力に、足掻いても殴っても、焼いても焦がしても手応えがない。
そして、ヒートを救ける為に飛び込んでくるジャンは、再び大上段から巨剣を下ろし――交差。
叩き落された剣は、半身を翻したが故に脇を抜け、無防備に顔面を晒すそこへと手が伸び。
『なっ……!』
顔面を掴まれたニ名はそのまま、王の足元に魔方陣が展開されるのを見た。
「転移、魔術か……!」
「ああ、お前らは死ぬ。それに相応しい場所へと行く!」
――異世界の魔術は、この世界に蔓延るそれらの原始と言える。
その細やかな改良を加えていない転移魔術は、故に大規模で、ノロやジャンがするように戦闘へと昇華できないが、その代わりに己の想像する場、対象者の居る場へと自在に転移することが出来た。
ここに来て、王が何を考えているのかがわからず、わからないがゆえに未知に対する恐怖が芽生えていた。
「何が、起こっていやがる……」
禿頭を撫でた手のひらは、血に濡れながらも冷えきっていた。
鋼鉄の手甲は行き場をなくして手に嵌っており、エミリオの視線の先には異種族の影すらも、消え失せていた。
――あの濃密な瘴気を彼が知覚した瞬間、その異種族らは突如として踵を返したのだ。
どの個体もまったく同じタイミングで、これまで蹂躙してきた大地を再び踏みしめて戻っていく。その先は大渓谷であり、
「門の中へと”逃げている”らしい、な」
転移魔術で前線へと舞い戻ってきたミキは、治癒魔術によって死に体からある程度まで回復していたが、自力での歩行は不可能であり、今はエミリオに背負われていた。
彼女が知覚するのは異種族の行き先。それまで己が戦い、倒れていた場所を踏みしめながら戻っていくのを、彼女は見ていた。
「何が起こっているのよ」
訳がわからぬ、と肩をすくめる真紅の肌の女が、握る巨剣の腹を撫でながら訊いた。その傍らでは、巨斧を背負うミノタウロスが不安げな様子で目配せをしていた。
「勝利、ということでしょうか?」
被害総数九千人超え。
これが対人の戦争ならば、圧倒的なまでに敗戦だったはずである。なにせ、この前線に来た一万人近くの兵士の内、生き残りが十数人のみなのだから。
「異種族戦は、な」
「やはり、あの異質な気配が原因か」
真紅の鬼――シイナの言葉に、ミキは小さく頷いた。
「異世界を統べる王が、アレスハイムを訪れた。あの街は炎に飲まれてしまって、今の私には知覚のしようがない」
「な――まさか」
否定したい想像が脳裏をよぎる。
十数年前、他国に攻め入られて滅びた村を彷彿とさせるこの状況に、思わず身体が震えた。
自分が居ない場所に限って、圧倒的な力に飲まれて滅びてしまうのは、もう嫌だった。
「安心しろ、国王を含め全人民は無事らしい。街の外に避難して、隣国に応援を頼んだのだろう、北へと向かって移動を始めている」
「……ならよ、その王サマはなんの目的でアレスハイムに?」
「お、おそらくは――イヴ・ノーブルクランの処分、ではないでしょうか」
あの場にはスティール・ヒートも居る。現状を見て、彼では始末しきれぬと判断した所で、ようやく戦争状態と相なったがゆえに堂々と来訪し、己で手を下す。その可能性が極めて高いように見えたが、
「既に、一時間が経過しているのに動きがない。国民も全て見逃す有様で、そんな残酷な王が姫の最後の願いを聞くようには思えないが」
だから一時間も動かぬのはおかしい。
他に何か目的があるのではないか。
「……移動している国民の中に、ユーリアとジャンは?」
問うシイナに、ミキはただ首を振った。
だが、と何かを否定するのもミキだった。
「彼女らの実力が通用する敵ではない。最悪、スティール・ヒートに苦戦してやられている可能性さえあるのだ……が……」
歯切れが悪く彼女が言い切ろうとしたその時。
海に面する、焼きつくされた平原で――左手側、その西の方向、広がる海原に、件の濃密な瘴気を認識した。
海上に出現した緻密で巨大な魔方陣。
その中心に立つ巨人と、それに顔面を掴まれる二つの炎――ただそれだけでは、現状を理解するにはあまりにも情報不足すぎた。
だが、されど騎士。
この状況でやるべきことだけは、明確なまでに理解する。
相性というものがある。
火は水や冷気に弱いが、だからといって火災が桶一杯の水に負けるはずもなく――そういった、どれほど極めても莫大な質量や力など、それ自体を上回るものには、相性を超越する事がある。
溶岩は海に入り冷えて固まる。
故に、溶岩前後の熱を孕む二人の男は、海の前では無力という事になる。
「さらばだ、我が息子――そして、この我に傷をつけた人間よ」
手を放す……などという、優しいことはしない。
大きい動作で振り上げた二人を、力の限り叩き落とすように振り放つ。
手の中から放たれたニ名は火焔で尾を引いて、急速に水面へと迫り――。
「貴君、任せたぞ」
阿呆が、と吐き捨てるヒートは、珍しく真正面から青年を頼り、
『禁断の果実』
手の中に握る果実を頬張った瞬間。
高々と上がるはずだった水柱は、それらすべてを蒸発させる際に生じる水蒸気は――その尽くが、発生しない。
瞬間転移によって二人が水面から消えた瞬間、されど爆熱は王の周囲には出現しない。
代わりとばかりに砂浜に一つの火柱が巻き上がり。
もうひとつは――全身が焼き爛れ、もはや生きているのかさえも定かではない青年の姿が、巨剣を振り上げる形で王の背後に回り込んでいた。
全てのダメージが生身の肉体に還る今、されど火焔を捨てた事によって致命的な弱点たりえる海を克服する。
背中の魔方陣が再度瞬いた時。
「良い判断だが」
炎を捨てたことにより、速度が、力が、遥かに劣り――。
息が詰まる、というにはあまりにも生易しすぎるほどの重圧が王に襲いかかる。
ジャンへと伸ばされた腕の動きが鈍る、が、それでも力強く、男は青年の腕を掴んだ。腕がひしゃげ、骨が容易くへし折れた。
されど、王の超重力に抗う力はそこで途絶え。
急加速した巨人は、大気を貫く速度で勢い良く水面へと吸い込まれ、
「つ、貫け……っ!!」
青年の意思のままに動く大剣が、己を引きずり込む男の腹へと加速するのと、水面が巨大な水柱をあげるのはほぼ同じタイミングだった。