11.アレスハイム王国【熱戦】 ⑤
「ご苦労だった、穏やかに眠れ」
『まるで死んでしまったかのような言い草だが――どうせ聞こえないのだろう、構わん』
代わりに伝えるよ、とノロに言って伝聞のようにユーリアへ返すと、彼女は驚いたように目を開いた。
やや遠くから見た光景だと、やはりノロは力尽きて土に還ったように見えたらしい。
『還ると言う表現はいささか柔らかい。死にたくなる言い方だな』
飽くまで第三者に死を伝えるための比喩表現である。まさか、これが死を誘発するような表現だとは誰も思わないだろう。
まるで緊張感のない、誰よりも早く戦線から離脱した、掃討目的にこの世界に出現した肉塊の言葉に、ジャンは思わず微笑んだ。
全身が火傷に爛れている。ユーリアも同様だ。気がつけば背後で控えているイヴは無傷そのものだが――そもそもが、彼女を保護する事を目的としていることを、イヴの姿と、未だ粘り強く右腕の付け根あたりでボロボロのまま揺れている『自由騎士団』の腕章を見て、思い出した。
不安のせいか、また一瞥するイヴ・ノーブルクランの眉尻が垂れていた。
思わず二度見する。二度目は凝視した。
「不安、ですか?」
――遠方、吹き飛ばされた校舎裏より数歩分遠くの学園の敷地外に、ヒートが落ちる。
校舎の屋上に立っていた先遣隊の一人だったパスカルは、今ではジャンの友人らと同じ位置に退避していた。
崩落した民家に突っ込んだジャンを助けたように、最期の戦略級魔術を放とうとした寸での所で青年を助けたように、やはりそれはノロが手を貸したが故なのだ。彼女らしくもなく、ノロは青年の頭の中でそう言った。
「わ、私は……」
歯切れの悪い言葉。
どこか追い込まれたような、焦燥にも似た表情筋の強張る顔。
ヒートの全速力なら、半ば構造を空洞に変えた校舎を突っ切って肉薄するまで五秒とかからぬ位置だ。言葉を選ぶ暇も、感情をぶつける時間すらも惜しいはずだ。
頭数が減り、武器も殆ど崩壊している。ユーリアのように素手になるのも時間の問題だ。
「貴卿らを……信頼する。私を護ってくれるのだろう……?」
ジャン・スティールがその言葉に応じるように力を込めた瞬間。
己の中を駆け巡る衝撃は、その興奮や驚愕は、心臓を早鐘のように打ち鳴らしていた――。
「く、らァッ!」
己の腕の二回り程太い手甲が、己の三回りも馬鹿でかいという何かの冗談か童話に出てくる化物かのような敵の顔面の、真芯を捉えて”破壊”した。
無数の瞳を埋め込んだ壺型の気持ちの悪い顔が肉塊と化して、強酸性の血飛沫を散らしながら吹き飛んだ。
「ったく、よォ――喉が渇いた、一旦退く時に酒場があったらぶどう酒でも買っといてくれ」
前線の敵は殲滅。数を数えるのすら億劫な莫大な数を殺戮し尽くした禿頭の男は、疲弊を感じさせぬ軽口と共に首を後ろに回した。
「……チッ」
後方にて立位を保っている”生存者”は限りなくゼロだった。
絨毯のように地表を撫で付ける朱い影は、分厚い肉塊だ。その上、半数ほどが”齧る者”である為に、地面は消化されるように黒く腐食し、大気まで醜悪な腐臭を塗りたくっている。
気分が悪くなる光景の中で、仲間も敵も、皆が倒れてしまったその戦場で。
少し視線を外し、己が先ほどまで見ていた前線のさらに先――既に十を切る騎士団の影を見て、やはりエミリオは嘆息した。
騎士団が突っ込み、脇から警ら隊がそぎ落とす陣形は、敵の殲滅によって完全に崩れている。そして騎士団は、今対峙する百体未満を、一応の最後にしていた。
彼ら軍勢の数は最初から一万を切っていたという事実は、やはり戦況を不利にさせた。それは認めざるをえない真実だ。そしてそれを五十掛けても計算が合わぬくらい莫大な敵の物量を、ひとまず視界に入る大体の部分を消してしまったのは誰もが認める功績だ。
数にして、やはり五十万を超える。一騎当千でも計算があわない、鼻が高くなる結果だった。
だが――。
「あの野郎……!」
スティール・ヒート。
あの魔人の指導のお陰で、理想の英雄像を己に投影した部下たちが勇んで突っ込んでいった。
誰もが強くなり、総力でぶつかりあって掃討するという馬鹿げた作戦は採用されなかったはずなのに、採用されたもっとも現実的な作戦は恐怖と興奮がかき消してしまったようだった。故に、誰の心にも強く刻まれていた理想が、現在命ぜられている作戦として多くの人間に認識されていた。
だから、誰かが大穴を開け、その脇からこぼれてくる少数を、それを上回る多数で殲滅するという作戦は掻き消え、一人が一体、あるいは数体と当たるという、実戦も交えたこともないひよっこどもが夢を見て、現実を味わって、散っていった。
この世界にきて誰一人として命を奪っていない魔人だったが、その男が、現実的なまでに邪悪な甘言で戦況を遠隔的に乱したのは、目論見通りだったのか。
正真正銘の実力者であるがゆえに、ただ一人すら守れぬまま唯一生き残ってしまった中年男性は、だが皮肉なことに正規の戦闘員の枠から外された男だった。
アレスハイム王国軍――生存者は騎士団の副団長、団長をあわせて十名と少し。
血とも肉塊とも付かぬもので地表を埋め尽くす海岸沿いの底、遥か前方に大渓谷を控えたその地点に攻め込む異種族の大群は、再び地平線を飲み込んでいた。
そして――、
「な……ん」
言葉を失う。
それほどまでに強大な、そして邪悪な、鼻で感じるよりも先に脳が警鐘を鳴らすよりも早く嘔吐してしまいそうな”瘴気”が、地平線よりも遥か向こう側から、漏れだしていた。
旧友が刻んでくれた肉体強化は幾度ともなく、死を垣間見せるほどの限界を突破させてきた。
現在の陣は、段階を踏まえて行くことによって身体を慣らし、擬似的な成長を行うことで負担を激減させ、そして青年を最高の状態で最大の力を発揮させることを可能とさせていた。
――憎らしいまでに元気ハツラツなヒートの拳が、脇目もふらずにジャンを殴り抜ける。
受けた岩の巨剣の腹で火花を散らし、腕を透過して胸部を背骨を砕かれたような衝撃と共に、岩に亀裂が入るのを見た。
「くっ――」
泣きたくなるのを、喉の奥から溢れる嗚咽を、ジャンは堪えるしか無い。
無尽蔵と思われてきた怪力が、ヒートの拳を辛うじて受け止めきれるか否かの所で限界を迎えた。
踏み込む脚力が、大地を抉り数歩分ほど引きずられてようやく止める程度で、それ以上の力を発揮しなくなった。
息を止めて五分を境にして、肺活量が弱音を吐いた。
幾度振っても、何度全力を出してもまだ行けそうだった握力は、だが二十を超える頃に休憩を挟めとがなりたてる。
つまり。
「どうした、ジャン・スティールッ!」
全力を込めて、およそ手加減のない全身全霊の拳が、容赦なく巨剣ごとジャンを殴り飛ばされる。
大腿部の筋肉が引きちぎれる寸でのところで大地から足が離れ、腹部を押し込まれるようにして背後へと吹き飛んだ。
大剣を振り下ろすようにして地面に突き刺し、赤熱したそこを構わず切り裂きながら、勢いを軽減させる。この際の痛みなど構わない、問題はそこではないのだから。
「成長が止まっているぞ?」
光子を纏い莫大な電量を帯電したまま飛来する拳大の石が投擲され、それをヒートがひょい、と避ける度に、轟音とともにグラウンドが盛大に削られる。えげつない、弓兵顔負けの後方支援だったが、むしろその攻撃は槍兵としての近接戦闘よりも程よい牽制となっているらしかった。
――その通りだと、ニヤニヤ笑いながら軽口を叩きたかった。
いままで、無制限とも言うべき怪力を、そして全てを超越したと誤認するほどの――されど快速流星には至らぬ速度を得たと高揚していた己が。
その成長の頭打ちを喰らったのだ。
もはやこれ以上の奥の手はない。残されたカードはやはり『禁断の果実』だったが、ノロから使用を三度までだと制限されている上に、そもそもこの男を正確に殺害できる力の使い方に、彼は自信がなかった。
「なるほど、図星か」
唸り、足を止め、戦闘を一度停止してまでヒートは言った。
素顔の二枚目の整った表情は、まるでどこかの御曹司が道楽に探偵ごっこをしているかのような、悩ましげなものだった。
「貴君、確かにその成長性は人間としては異常で驚きだったが」
肉体強化による限界突破が導き出した、本来会得し得ぬ強大な力。
食いに食いまくって胃袋を肥大化させるようなものだ。限界を超えれば、やはり新たな限界がある。その度に死を見るが、潜在的には遥か手前に止まるはずだった実力がここまで成長したのは、そのお陰だった。
底上げは成功した。
問題は、それが足りなかったのか――ヒートが、人様の期待を裏切ってくれたのか。
「四男程度以下なら、貴君でも倒せただろう」
三男の全てを破壊し蹂躙する衝撃を。
次男の全てを切り裂き破滅させる刃を、しかしこの時点ではこの青年に防ぐすべはなく、その個体を撃破する力はないと断じて尚、
「わたしに目をつけられたことが、ただひとつの不幸と言うべきか」
だが近衛兵最上位の実力を持つ男と拳を交えられて幸運だったと言うべきか。
「貴君は残念ながら、死が決定してしまったが」
まったくもって愉快そうに、残念だと言い切って。
――愉しませる為に。
「わたしの為に戦え」
それでもやはり、その男は青年に期待をかけるように、また己を愉しませる人形になれと告げた。
幼少期よりこのために鍛えれば、果たしてヒートを打倒可能なほどの成長を見せていただろうか。
否である。
この青年には元来、戦闘の才能などはなかったからだ。
だが皮肉なことに、ある程度の職業には適正がある。もっとも、ズバ抜けて一等となるような適正ではなく、物事をそつなくこなすようなものだった。
いわば器用貧乏である。
だから、この男はこの世界にやってきた魔人に因縁と、戦う義務感と、意思と怒りはあれど、使命はなかった。
逃げても、死んでも構わない、仕方のない存在だった。
勝機が失われた瞬間に、胸の奥の奥の、自分でも見つからないくらいもっと奥の底に仕舞いこんで蓋をした感情が、成長が止まった瞬間に止めどなく膨張して蓋を吹き飛ばしていた。
もはや、この力は通じない。
あがくことは出来ても、この男は倒せない。
だが、よく考えてみよう。
ジャンは僅か数秒、目の前の敵が動き出すまでの時間で、だが戦うことをすっかり頭の中から追いやっていた。
――スティール・ヒートはこの世界にきて、だが他の魔人とは異なる点がいくつか遭った。
一つはその穏やかさ。
一つは、未だ誰一人として殺害していないこと。もっとも、己を除いて。
ならば、彼が闘争さえ目的としなければ戦うことに理由はない。
これ以上戦う必要がないのではないか。
甘美な提案が脳裏をよぎる中でジャンは、やはり……半ば諦観に浸っていた。
瞳から光が抜け落ちる。くすんだ暗い眼球を、長身の男が覗きこんだ。比べればジャンより頭ひとつ高い男だ。透き通るようなブロンドの色が、ちょうど頭上に上った陽の光に透けて輝く。
「今の隙で、貴君は十以上死んだ」
悪戯に笑う声。
ならばなぜ殺さなかったと胸ぐらを掴みあげたいが、手を伸ばした瞬間には右腕が飛びそうだからやめておいた。
この男は殺さない。殺すべき時でないかぎり手を下さない。
そんな予感がした。
ならば、ヘタな所で四肢を失うことはできない。死よりも、死を望んで大怪我をしたまま戦うことを強要されるほうが辛いからだ。
「どうした。剣を振るう力はあるだろう。戦う余力はあるはずだ。なぜそんな目をする、貴君は何を見ている」
――飛来する石が、眩い電撃を携えてヒートの背後の地面を抉る。深い溝を作り上げる投石は、既に広いグラウンドをうめつくさんとしていた。
腹の奥底に走る不快感。
緊張のような、まるで幼子が、悪戯を親に見つかってしまった時のような恐れを抱く心境。
「――わたしに勝てぬ力なら、どれほど強くとも意味は無いと言うのか」
落ち窪んだ、冷えきった、鋼鉄の鋭いナイフで喉の薄皮を撫でられているが如く、肝が冷えた。
失望の声。
二度目の失意は、だがもう、取り返しのつかないようなものだった。
『ジャン、動いてみなければ、わからないんじゃないのか?』
頭の中でノロが言う。
自分が考えた、その思考を共有するがゆえに紡げる言葉。
だが、
「なにをしても結果がわかる、そんな時は、往々にしてあるんだよ」
成長の停止と共に。
青年の闘志は、戦意は、絶対零度で凍結されていた。
脳裏によぎるのは、己が騎士を志すきっかけとなった、焼き払われた故郷の光景。
轟々と唸りながら都市を燃やし続ける炎は、それを再現するようにこの街を飲み込んでいた。
空は綺麗に晴れ渡るが、だがもうもうと上がる黒煙が空を塗りつぶすために、薄暗く、光源となるのは辺りを舐めるように踊る炎のみ。
「そうか……ジャン・スティール、貴君は何を持っても腐らせるばかりだ。血反吐を吐いて得たその力も、武器も、仲間も」
勝手に落ち込んで、勝手に勝ち目はないと理解して、勝手に諦めて。
支えてやると豪語した仲間を背にしているのに、己の死が同時に彼女の死を意味しているのに。
護るべき対象が、己を信頼したのにもかかわらず。
ただ諦め、死を望んだ。
この男に、果たして価値はあるのだろうか。
否である。
ヒートの頭の中で、なぜだか不思議なまでに出したくなかった答えが、刹那にして叩きだされていた。
「最後に問おう――抗うか、諦めるか」
もう一度口にしろと、敵ながらに、目の前の男をどうあっても最終的に殺す筈なのに、強く祈った。
――お前を殺すと、言ってくれ。
「勝手に……しろ」
敵わない。
敵うわけがない。
自分にその力はなく、その運命ではなく。
ただ調子に乗った、一人のガキだった。
今までが上手くいった分、ヘタに力の差が理解できる分、その青年の精神が蹂躙されるのは赤子の手をひねるのより容易い。
「そうか」
残念だ。
ヒートの、白熱する手が顔を覆う。
凄まじい熱が、ジリジリと既に肌を焼いた。顔が紅潮する間もなく、肉を焼き頭部を砕く――筈だった。
その場の総ての生存者が動きを止めた。
否――正確には、止めざるを得なかった。
反射的な嘔吐を催す濃厚な瘴気を、誰もが認識した、その瞬間。
その誰もが、目を疑った。
己の五感を信じず、幻覚なのではないかと、逃避した。
「何をしている」
低く重い、山よりも大きい巨人の足裏が頭上に迫っているかのような威圧が、声とともに襲い掛かる。
黒衣を纏う姿。
唐突にグラウンド内に出現したその巨躯は、スティール・ヒートを容易に超えた。
大の男を肩車したかのような長身。そして黒衣の上からでもわかる屈強な肉体。どこからともなく辺りを満たしていく瘴気は、ノロが保有し生み出していたそれを簡単に凌駕した。
そして、何よりも――その男が手にしていた漆黒の長槍が、ケンタウロスの上肢を貫いていた。
総てを朱色に塗りたくってしまうほどの勢いで、背を貫き胸に生える槍の穂先から、鮮血が滴り、腹を伝って滝のように血が流れた。
やがてカラスが水浴びできるほどの血溜まりが出来た頃、口から血の泡を吹いたユーリアは、声もなく、音もなく、残った相棒に何かを伝えることもなく、緩慢な動作で崩れていった。
巨人は長槍を抜き、薙いで血を払う。赤熱するその地面の上で、沸騰し煙を上げる血溜まりより早く、じゅう、と音を上げてそれは蒸発した。
「ち、父上――」
ヒートは驚愕していた。
ジャンは現状の理解が追いつかなかった。
それ以外の者も、同様だった。
「お前が遊戯とも闘争ともつかぬ争いに興じている間、この世界に来た兄弟の多くは苦戦を強いられている」
長男の左腕が喪失していることなどどうでもいいように、男は本題だけを切り出した。
「なっ……」
「敗北するのも時間の問題だ」
「次男の――カタチも、ですか?」
「例外はない」
お前もだ、と言いたげな男は、その紫の顔、頬を引き攣らせるように歪ませた。
蛇がとぐろを巻いた上で大口を開けたような、指先すらも動かせぬ緊張が走る。
父上と呼ばれた――異世界を統べる男は、ゆっくりと口を開いた。
「この国は我が手中に治める。お前は他国へ飛び加勢しろ」
「しかし、この男は……」
「毒にも薬にもならぬ雑魚に何を執着している。さらに戦意喪失、戦士ですらないカスだ」
「……父上、それは」
「無駄口を叩く暇はない。腕に自信があるならば行け。臆したなら退け」
この男が動いた、という事はこの戦争行為は可及的速やかに終結に向かう。
だが、己より格上の、さらに生みの親というものを前にしても、絶対服従を誓った男を前にしても、やはり我慢ならないものはある。
「口を謹んで欲しい、父上」
「……お前、誰に口を利いている」
「この男は――」
この日、スティール・ヒートは二度目の驚愕を覚えた。
それは、自分の背後に追いやった愛すべき好敵手が己をおしやって手前に出たからであり、
「禁断の果実」
手にした赤い果実を頬張って飲み込んだ瞬間。
その青年が完膚なきまでに太刀打ちできなかった才能――莫大な熱が、ジャンを中心にして大地を瞬時に白熱させた。




