10.アレスハイム王国【熱戦】 ④
「やったか――」
誰かがそう呟いた。
胸に拳大の風穴をあけて、されど仁王立ちのまま動かぬヒートは、誰がどう見ても絶命しているのだから、その判断は仕方のないものだった。
だが、対照的に、彼が体内から放出し世界に干渉させていく魔力の量は絶対的に増幅していた。
その気配に、ジャンはあの時――大渓谷での戦闘を彷彿とさせる。
溶岩に飲み込まれた己の肉体と、谷底。全てを溶かす熱は、既に圧力を要さずとも溶岩へと変える術となる。
――判断が遅れた。
そう認識せざるをえない。
胸を貫いて二秒。
先に動いたのはユーリアだったが、そもそも胸を穿ったと同時に動けばよかったと、彼は舌を鳴らす。
垂れた腕、その指先が痙攣するように一度弾む。
それが契機だった。
ヒートへと迫る、白光した鋼鉄の槍。その穂先は鋭く、顎下から反対側の側頭部へと貫く機動で槍を穿つ。
その前方で、巨剣の真芯を半ばほどあらわにするジャンは、既に十歩圏内に入り込んでいる。
だが、致命的に間に合わなかった。
虚空から、炎が細長く伸びて出現する。
同時に、脇から迫る槍の穂を、振り上げた手の、その指先で絡めとるような繊細さで受け止め――肉体を飲む雷撃など気にした様子もなく、力を込める。
ヒビが入り、欠片が舞った。やがて異音と共に槍はひしゃげて、音と共に、鋼鉄のそれが砕け散る。
火焔の長槍が迫り、それを剣で振り払う。腕が痺れるほどの重い衝撃と、肌を焦がす熱が眼前にまで迫るも、一息で薙ぎ払った。
視界が開け、
「――っ!」
前方から、弧を描くようにして最終的には己へ帰結せんとする四本の蛇のような炎。
思わず、駈け出した足がすくみそうになる。瞬時に対処が浮かばず、息を呑む。
「突っ込め」
そんな中でささやくように聞こえるのは、ノロの声。
瞬時に展開された魔方陣が、閃光を放つ。飛来する火焔を正確無比の射撃で撃ち抜き――上がる爆煙を切り裂いて、ジャンが迫る。
ただ一人有効打を持たざる青年だが、だがただ一人、目の前の強敵に唯一手負いの傷を遺した男。
そして世界でただ一人、異分子として襲来した魔人の最高位の実力を誇る男に認められた青年。
幾度目かになる対峙は、ようやく総力戦という形で始まった。
白熱する手が、手刀を作ることによって燃える鋭い刃と化す。
振り落とす大上段からの一撃は、思った通りに音もなく受け止められ、溶けた甲冑が飛沫をあげる。頬を掠めた飛沫が瞬く間に肌を焼き、思わず片目を瞑る。されど、込める力は変わらない。
「む……貴君、これは――」
「くっ、がぁっ!」
大剣では押し切れない。
その判断は即時、行動を転換させる。
体勢を崩すようにして腰を落としたジャンは、そのまま足を振り上げて腹部を蹴り飛ばす。
青年は押し出されるようにして背後へと後退し、転げそうになる不安定な身体を整えて剣を正眼に構える。随分と軽くなったそれは、べったりと溶岩を舐めていた。
「なっ……くそ、来い!」
ジャンが吠えたのは、追撃の為に攻勢へと転じたヒートを見たからだ。
大地を蹴り、駆ける姿はまさに魔人――悪魔とも形容すべき火焔を濛々(もうもう)と噴出する姿は、およそお近づきにはなりたくない。
剣で――腕力で――対峙すれば一秒ともたぬ敵。肉弾戦ならばそれ以下だろう敵が、明確な殺意によって肉体を駆り殺しに来る。攻撃を払い返すだけではなく、その攻撃の為だけにやってくる。
思わず、興奮より、殺気より、恐怖が勝ったのは、僅か一瞬。
脳裏によぎる、悪夢が、震えとなって全身に伝播した。
されど一瞬。
最終的に残るのは、適切な感情と構えのみ。
構え、打ち下ろす一閃は――剣の腹を殴られ、攻撃とならない。
「……っ!」
足が、大地から引き剥がされた。
身体が浮かび上がり、身体は勢い良く広報へと吸い寄せられるように吹き飛び――。
「ははは――行くぞ、ジャン・スティール!」
極めて低空を滑空する青年と距離を開けずに追随するヒートは、彼と共に学園の敷地内へと侵入していった。
「ぐ、がぁあぁあぁあ――」
壁にめり込む身体を、さらにヒートは殴り抜けることによって校舎をぶち壊す。そこを貫き通るジャンは、衝撃の度に喪失し、また復活するその頻度を高めていった。
床に叩きつけられることによって、ようやく止まる。
荒らされた教室の中心で、亀裂の入ったフローリングの中心となる位置で――やはりそこは、赤熱を経て白熱し始めた。
「まずは邪魔を消す。貴君との最期は、その後だ」
ヒートの熱が床に干渉。
足裏が白熱し始めるが速いか――。
それは、唐突だった。
床が隆起する。
まるで莫大な質量が地面の下から床を押し上げるように、そして足場は細やかな亀裂と共に、その僅か爪と肉ほどもない狭い隙間から、眩いばかりの光の奔流を噴出させていた。
魔力が溢れる。
全てが終わる――臭気と共に、声が聞こえた。
気がつけば腹を抱かれるようにして、ジャンは少女に担ぎあげられており、
「貴様は死んでいけ」
ほんの一瞬、その奇妙な現象に呆然とするヒートに中指を立てたノロは、魔方陣が足場から染み出すように浮かび上がってくるのと同時に、ジャンと共にその場から消失した。
残されたヒートは、既に全身を白熱させたまま――同様に床までを融解させ、もろくなった足場は瞬く間に崩壊し、眩いばかりの輝きが、瞬く間に空間を飲み込んでいった。
大地を撫でるように吹き抜ける衝撃。脇を抜ける爆風が、共に大きな瓦礫が孤を描いて大地に沈む。
細やかな破片が頬を掠め、火傷の傷に鋭い焼けるような痛みを覚えさせた。
――校舎の中心から噴出する輝きが、全てを崩壊させる轟音の中で天空へと高く聳え伸びていた。
蒼穹へ至るに連れて細くなる光の奔流。凄まじい量の魔力を燃焼しながら尚、その魔術は持続して伸びていた。
荘厳とも言えるやや城じみた豪奢な建造物が、容易く崩れていくのは圧巻であった。
「……貴卿」
グラウンドに瞬間転移した先では、既にイヴ・ノーブルクランが待ち構えていた。
そして背中に手を回したままのノロは、彼女がそう声をかけたのを遮るように口を開く。
「友だちというのは、所有物のことだと思っていた」
ぽつり、と零れた言葉は決して独り言ではない。
どこか懺悔じみた独白は、憂いを帯びているように聞こえた。
「タマが教えてくれた。友だちとは仲間のことだと」
この世界にきて、初めて仲間になってくれた男の身体を、強く抱きしめる。
あの一五○年間、人と接するのは年に一度の”観察”の時だけだった。それもまともな知識も情報も与えてもらえず、ただ生体反応と魔術に関連する技術について試すだけだった。
孤独、という感情は、それまで知らなかったから苦痛ではなく、唯一目的であるこの状況を、ただ待っていた。
彼と出会って、孤独も悲しみも、あらゆる感情を知ってしまった。でも、
「ありがとう、ジャン。私にこの気持ちを教えてくれて」
ただ一つ――幸福感が、全てを凌駕した。
――光のなかに影が垣間見える。
全てを、その肉体すらも”爆弾”として囮にしたのにも関わらず、死すらしないとは……ノロは忌々しげに舌を鳴らし、その身を名残惜しげに、ジャンから引き剥がした。
「最優先事項を共闘から掃討へ変更」
ならば残ったこの身を、腐食までの時間すらも燃やして賭す。
「さよならじゃない。私の一部は、ジャンが死ぬまで一緒だから」
「なっ――ノロっ!」
青年を突き飛ばすようにして駈け出したのは、そうしなければ彼女自身が離れられないから。
人とは、魔人とすら遥かに異なる異種族である彼女に芽生えた中にはやはり、死に対する恐怖もある。”本体”が魔人を打倒するためにその生命を燃やした現在では、尚更だった。
彼女の言葉からそれを察せざるを得ないジャンだが、また同時に、止める事もできない。
今何かできるのは、正真正銘彼女だけなのだが――飽くまで、計算上の事実だ。
実際に動けばなにがどう転ぶかわからない。
青年は気がつけば、肉体が持つすべての力を脚に集中させた後、虚空を穿つ一筋の光となって跳び上がった。
――近づけば、よく分かる。
白熱するその身は、すっかり甲冑を引き剥がされて生身のまま。また全身をグズグズに、原型を留めぬほどに崩している。融解し流体化している現在ではそれが確定的なダメージとなっているわけではないが……なるほど、重傷だ。
ノロはほくそ笑む。
あながち無力ではないようだ。少し、自信が戻ってくる。
「付与者……貴君は図に乗りすぎた」
底冷えするような、本物の殺気。脳裏で幾度ともなく八つ裂きにされた己の姿が再生されるが、それが幻想であると認識する限り、縮まるのは肝ばかりで寿命は未だ、二時間を切ったところである。
「貴様がジャンではなく、この国の統治者である王を狙えば展開は違った筈」
「足元の小銭を拾うより、目の前の宝石に手を伸ばすほうが容易いからな」
つまるところ、統治者に興味など微塵もないということだ。
もっとも、彼らを殺害すれば王に抵抗の手段はない。故に手間ではあるが、まっとうな手段の一つではある。
だが、気に食わない。
だから魔方陣を、己の命さえ注いだ魔術を、共に紡いだ。
「貴様は死んでおけ」
「芸の無い――くッ」
罵倒する言葉は半ばで途絶え。
下方からせり上がってきた巨剣に、ヒートはおよそ感じ得ぬ怖気を認識する。
ほぼ身体を成さぬ流体。ここに重圧な一撃を食らえば、肉体は容易に両断されて飛沫と化すだろう。その状態で固形化すれば身体は上肢下肢を分かつまま。死は必然。
故にこの身を守るには――そうヒートが選択し、巨剣が接触する寸でで、肉体は再び真紅の甲冑に、そして顔は鉄仮面に飲み込まれていった。
硬質の独特な照りが見える。飛来する巨剣が、無防備なその腹を薙ぎ払った。
装甲が勢い良く火花を上げて削れ、そして怪力と共に重量の乗った一撃によって、ヒートの身体はさらに宙空からその上方へと吹き飛ばされる。
「もう、別れたはずなのに――」
格好が付かない。どうしてくれる。そう愚痴を吐き出そうとした時、隣接し、さらに落下しつつある青年は彼女の手を掴んでいた。
「さよならじゃないって、自分で言ってたろ。それに身体が腐るなら――おれの中に居れば良い。今まで、そうしてきたじゃねえか」
「だ、けど――」
「仲間だろ、おれたち」
簡単に失われていい命ではなかった。
それがたとえ、怨敵を倒すために散るべきものだったとしても。
面子が潰れるくらいならいくらでも潰す。彼女がそれで、生き残ってくれるなら。
――やっぱりどうにかなったじゃないか。
青年は心のなかで独りごち、そして気がつけば痛みもなく、皮膚と肉を同化させ始めた彼女は既に握った手を一体化させていた。
残った左手が、虚空を掴む。
空中に展開された魔方陣が高速で回転しながら、その手のひらへと収まり、刻み込まれ――瞬いた。
ひしゃげながら上空へと吹き飛ぶヒートへと狙いを定めて、一閃。音もなく、細く長く伸びる針のような閃光は肉眼での視認が難しいほどの繊細さで、ヒートの頭部を貫いた。
と、思われた。
「……一枚上手か」
真紅の鉄仮面は正確に額を穿たれ、そしてひしゃげさらに遠方へと吹き飛ばされる。
同時に、その兜から離脱した本体は、ゆるやかな速度で降下を始めていた。
「もう魔力はない。これ以上の追撃は不可と判断する」
「ああ、なら後は任せろ」
「……信頼してる」
――ズズズ、とノロの肉がジャンの中へと消えて行く。
体中に、図太い血管が浮かび上がった後……特にこれといった変化はない。が、
『私が所持する知識は私が管理する。ジャンは今までどおりと考えて良い』
それが彼女の配慮だったのは、言うまでもなかった。