9.アレスハイム王国【熱戦】 ③
「変則――」
地を舐めて迫る怒涛の火焔は、即座に闇を飲み込んだ。
眩く瞬く、朱と白との業火。全てを焼き焦がし溶かす爆熱は、だがただそれだけで、ジャンを仕留めるには至らなかった。
彼らがそれぞれ異なる才能をもっていて、それがその分野で最上の効力を発揮するものだとしても――相性、というものはどうしても存在してしまう。
だが火が水に弱いとしても、桶に溜まる程の水は一瞬にして大地を溶かすほどの熱の前には無力。そういった差異は生まれるが、ならば、極めたもの同士がぶつかり合えば、それは確かに優劣が生まれるのだ。
吸血鬼の弱点というものは、能力ではなく種族であるために多いのだが、まともな戦闘の中でその弱点を突くのは難しい。
そしてまた――全てを焼きつくすという形で浄化する炎は、吸血鬼の弱点の一つであるのを、”見たものを再現する”魔術を駆使する青年は知る由もなかった。
その筈だった。
「……どういう事だ」
ヒートは炎が闇を飲んだと認識した次の瞬間、気がつけば己がその火焔に身を焼かれていることに気がついた。
何がどうなってしまったかを推測するまでもない。単に、ジャンは彼との位置を交換したのだ。
聞いたことも、見たこともない新手の魔術。そのいかにも応用が利きそうな力は、だが最も効率良く魔術を運用するノロさえも使ったことはない。
ならば付け焼刃に違いない。
その程度の力を実戦で使ったとして、うまく動けるはずがない。
にわかな失望の後、落胆と共に息を吐いた、その時。
――圧倒的な質量が、大気と共に炎を切り裂いた。
脇から薙ぐようにして振るわれる、巨剣による一閃。反応するのは容易かったが、弾んだ心臓を、僅かに引きつったその表情を隠すのは、いささか難しかった。
構えた左腕の装甲に、鋭い斬撃が襲い掛かる。
弾かれ、圧されたと来た攻撃である。これ以上の醜態は、いくらなんでも許されぬ。そう考えて込めた腕力は、されど、なんの冗談か――いとも簡単に、吹き飛ばされるかのように力強く弾かれていた。
肉体を闇と化す。
生き血を吸う。
そんな特徴で著名な吸血鬼には、もう一つ特筆すべき点がある。
それは、尋常ならざる怪力であり――。
「くッ」
――ジャン・スティールが最も必要とする才能の一つだった。
悲鳴とも嗚咽とも判別の付かぬ呼気が、噛み締めた歯の隙間から思わず漏れる。
甲冑が切り裂かれて骨まで見える左腕を垂らしたまま、巨剣を巨剣と思えぬ速度で乱舞する青年に、ヒートはペースを乱されていた。
爆風を巻き起こす一閃が、胸元を掠める。
火花が散る間もなく甲冑はひしゃげて切り裂かれ、さらに続く一撃がついに頭上から、首元を狙って袈裟懸けに落とされた。
「図に、乗るなァッ!」
炎を纏う右手が、振り上げると同時に落下してくる巨剣の刃を受け止めた。
瞬く間に熱された岩が白熱し、とろけて流れだす。
溶岩となった大剣はヒートの腕を伝って垂れて行き――傷を半ばほど修復した左の拳がジャンの顔面を捉えた時、同時にヒートの顔面を、彼の鉄拳が殴り飛ばしていた。
衝撃が、ほぼ同時に両者を吹き飛ばす。
弾丸のように弾かれた二人はだが、そのまま大地を擦るようにして勢いを相殺して止まるが、
「がっ――は、っ!」
炎に顔面を焼かれた青年のダメージは、ただその一撃で致命傷たりえていた。
肉体の中にまで迸る、骨を溶かしていくような凄まじい熱。頭の中が沸騰し、吐き出す息が炎になってしまったように、呼吸ができなくなった。
死ぬ。
それだけが、頭の中で繰り返され。
本能が、再び右手の中に真紅の果実を生み出していた。
――齧る。
体内に、力が迸った。
「快速流星」
それはかつて敵対し、そして対峙し殺害した魔人の才能だった。
速さを求め、故に実力を兄弟の中で最下位にしながらも最速に至った強敵――初速から音を超越したその速さに、その実青年は憧れを抱いていた。
青年が、愚鈍を心の底から嫌うがゆえに望んだ、才能の一つだったからだ。
――民家の壁を砕き、巻き上がる煙が晴れる。
否、晴らしたのだ。
その中心から特攻した影は、その速度故に影としか認識できなかった。
馬鹿正直な一直線。予測することも馬鹿馬鹿しくなるような機動だが、一歩踏み込むごとに、風を斬り裂くその身はまだ速くなった。
影が、一筋の闇となる。
その速度は、既にヒートの反応速度を超えていた。
溶け出したままの剣がその肉体と共に男と交差し――首が飛ぶ。
手応えをそう感じたまま、通過したジャンは、その速さ故に止まれない。
――眼前に、白熱しその形を歪める、出入口や窓から炎を噴出する民家へと突っ込んだ。
既に半ば溶けているが為に、その衝撃に建材物は耐え切れずに崩壊を開始する。
轟音とともに、炎と熱とを吐き出しながらその一部と化すそれは、青年をその中に置き去りにしたまま――それを完了した。
見届けるのは、真紅の甲冑の男。
既に足元に溜まるほどに溢れた鮮血は、想定外に喪失した左腕から流れたものだった。
ジャンが首だと認識したのは挙げられた左腕。
一瞬でも誤認させなければ回避できぬと踏んだ速度、そしてその鋭さに、ヒートは忌々しげに舌を鳴らした。
傷口は早くも塞がり、それ以上の出血はない。だが失われた腕を再生させる、という事は不可能だった。
治癒系統の魔法を持つ者を除いて。
「イヴ……ノーブルクラン」
無価値だと思われた、この闘争の契機となる少女の存在を思い出す。
彼女に傷を治癒させるとして――。
嘆息が、胸の奥底から零れ落ちた。
――最後まで残しておいた割には、呆気無い最期だった。
だが抗うのではなく、この力に交戦しあまつさえ勝利を望んだおこがましさを考えれば当然の結果だったろう。
スティール・ヒートが踵を返す。
既にあらゆる景色を白熱し緩やかに溶かし始めているその空間――街は、破滅的なまでに全てを融解させるほどの熱に飲まれ始めていた。
鉄門は完全に溶け落ちて、その入口は開放状態に。
イヴが居るとすれば、『付与者』が封じられる地下空間に違いない。
「不恰好なままでは、父上に顔も向けられん」
ならば、彼女の今後を決する前にやらせることがある。
そう考えて、一歩踏み出した時だった。
――チリチリと、なにやら囁くような声がすぐ目の前から聞こえてきた。
それと同時に、首筋に熱い液体が流れだす。手を伸ばして触れてみるが、そこに傷口はなく、またそこにかかっている液体は瞬く間に沸騰して、凄まじい刺激臭を放ち始めていた。
「なッ……効かない!? 硫酸なのに!」
虚空が揺らいだ。
それと同時に、血で染め上げたような長髪が視界に入る。
眼下で、尾てい骨から生える蛇腹状の尾が、首筋に触れているのを、彼はようやく理解した。
サソリを模した少女は、ただ視線が交錯しただけで震え上がる。しかし同時に、力強い視線で怒りを、憎悪を彼へと伝えていた。
脇から、酷く緩慢な足音と共に迫る人影もあった。
まるで宝石で造作したかのような長剣を片手で振り上げる少年は、さらに右腕を同様の透き通るような石で作り上げていた。
待ってやれば、五○○歩程の距離――およそ三五○メートル――を悠々と四○秒もかけて迫ってきた彼は、見切るのも馬鹿馬鹿しいまでの太刀筋をヒートに叩きつけた。
剣は首から上以外、一部の隙もない甲冑の肩に弾かれ――握った拳で、腰を落として腹を殴ってやれば、悲鳴をあげながら宙を飛び、弧を描いて地面にたたきつけられる。
およそジャンと同年代であろう少年少女だ。そう考えれば、ここまで手負いにさせた彼は大金星を上げたといえるだろう。
そう考えれば、また物足りなくなってきた。
殺したのは惜しいことだ。粘り強さならば誰よりも上であり、術者よりも魔法を上手く使うその姿には期待せざるをえない。
首だけを回して、崩れた民家を見やる。
何の変化もない燃える瓦礫に、出るのは嘆息のみだった。
「騎士も居ない、警ら兵も居ない。だけど最悪な敵だけ居る」
「そんな時に戦わないで、何が傭兵よ」
褐色の肌に、闇色の瞳を持つ女の両手は、ヒートと同系統の魔法によって赤熱していた。
全身を革製の衣服で包むがゆえに浮かび上がる、やや筋肉質に締まった細い肢体。だがこの状況では、艶やかさよりも儚さ、頼りなさが目立っていた。
その傍らには、頭部に長い耳を持ち、羽織る外套の肘付近から肥大化させる奇妙なそれを着込んでいる。垂れる両手は衣服に包まれたまま、だがその先から三本の鋭い鉤爪を伸ばしている。
ボーアに、ラァビ。
この国の傭兵組合に所属する、二名の兵だった。
されど、両者ともに実力不足――ヒートは視界外からの声に、目もくれない。
だが、やはりその鈍足で迫ってきたのは……火焔の尾を引き、炎と一体化するラァビの姿。
そして同時に、両手を白熱させて駆け出すボーア。
やがて、ニ名はヒートとぶつかりあった、が――。
悲鳴も、その攻撃の速度すら、彼らには見えなかった。
同時に赤熱する石畳の上に、やはり宙へ吹き飛んでから叩き伏せられる彼女らは瞬く間にして意識を途絶させ――共に攻撃を流され、側頭部に入れられた一撃のみで打破されたことを認識することはなかった。
「貴君らもか?」
首を回し、右方向――左右に広がる路面の内、城のある方向へと視線を向ける。
そこには、おそらく避難していたのだろう少年少女の姿がある。六つ――うち、二つを”同種”と確認するが、そこにたかが人間ですら振りまいた敵意や確固たる執念は見えない。
また――学園の校舎の屋上にて、その成り行きを見守る男の影を見る。
異世界でも幾度か顔を合わせた、先遣隊の一人である。
出戻りが、と皮肉を口にしたこともあるが、彼にはそれを受ける気概はなく、その戦闘力もない。
つまり、邪魔にすらならぬ取るに足らぬ有象無象、という事なのだが――。
「この戦いの証人でいいだろう」
凛、とした声が彼らに役割を与える。
振り返れば、崩落した民家の前に立つ馬の姿。体中が赤く爛れる痛々しい姿のまま、だがその顔には未だ勇ましさがある。
「まだ生きていたか」
「貴様こそ、ジャンに殺されていると思った」
「奴は死んだが」
「そうか」
何の感慨もなくそう返す彼女は、だがその長槍を突きつける。
されど穂先はその男ではなく――肩口を過ぎて、眼前の学園を示していた。
「ならば、アレは誰だ?」
素直に視線を戻せば、先ほどまでは無かった姿が、そこにはあった。
特徴のない黒髪に、青味がかかる濃厚な黒目。筋肉質にも程がある肉体は、長身と言う程ではないために、ややずんぐりとした輪郭にしていた。
だが言うほど、その身体は筋肉ダルマというわけではない。
故に、その男が担ぐ、燻り赤く燃える岩の巨剣は、酷く不恰好だった。
そしてまた、その背に持続して輝き続ける魔方陣は、異様すぎた。
ジャン・スティール――取るに足らぬ男を最愛にしたヒートは、先程失った悲しさを抱いていたが為に、その存在の大切さを嫌というほど噛み締めていた。
もしそれが、あの肉塊がおこがましくとも『好敵手』と認めた男の姿を模したものだとしても構わない。
全力で見合おう。
――強く踏みしめた大地が、その高熱と高圧力から、どろりと溶けた。
「まるで、あの時のようだな」
口にするのは、まるで旧敵と再会したかのような言葉。
本来存在せぬ架空の事象、空想の時間での事。
ただそれだけで伝わらぬ筈の指示語は、だがその青年の脳裏に悪夢を過ぎらせる。
炎に包まれた街。
死骸としてしか存在しない仲間。
そして、目の前には遥かに格上の敵。
己だけが生きているのは、偶然か、悪運の強さからか。
「さて、いつかと同じく再び訊こう。貴君はどうしたい?」
「お前を殺す」
――ユーリアの構えた槍の切っ先がヒートを向き。
ジャンの傍らについた銀髪の少女が、濃厚な瘴気を振り撒いた。
「いい答えだ」
心地よさそうな微笑を浮かべたまま、諸手を広げる。
力を込めれば――街の各所から、爆発と共に巨大な火柱があがった。
「死をも厭わぬその気概。わたしは貴君を愛しく思う」
抱けば壊れそうな弱き存在にして、だが純粋な人間だというのに、魔法という一種の才能すら持たずしても尚最大の戦闘能力を有する魔人と均衡するその青年は、やはり結局のところ雑魚だったとしても、特別視せざるを得ない。
――ジャン・スティール。
運命を感じる。
――ジャン・スティール。
姓と名とで異なるが、氏名が一致している。
――ジャン・スティール。
今すぐ、己も知らぬ激しい闘争を交わしたい。
「ジャン・スティールッ!」
叫んだ刹那。
「うるせぇっ!!」
果実を頬張る青年から放たれた戦略級の、糸ほどに細い閃光が――男の胸を、貫いていた。