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はぐれの入学

「――わ、わたしの名前は」

 緊張した面持ちで、紅く長い髪の先を指先でくるくると弄る女性は教壇に立っていた。傍らでは、作業服のようなそれを着るこのクラス担当の教員が腕を組んで教室全体を眺めている。

 伏し目がちの赤い瞳は教卓をじっと見つめながら、控えめに自己紹介を続けた。

「リ……イヤ、ちがう。クリィムだ。よろしく、頼む」

 淑女らしく、慎み深く告げた後、彼女はそのまま口ごもる。

 教室内が奇妙な緊張感に包まれるのをジャン・スティールは感じながら、休みに入る前までは隣に居た獣人の男が窓際の方に行ってしまったことに疑問を抱いていた。そして、彼の隣には不自然に空席になった机が置いてある。

 教室の真ん中の列、その最後尾に至るそこは目立つことはなかったが、それでもそこに誰が座るかが容易に想像がついてしまうために、多くの視線が集まりつつあった。

「えー、クリィムは騎士さんのエクレルの親戚らしくてな。試験も見事にスルーして転入することになった」

 担任が渋い声で補足する。

 思わぬ騎士の名前にあたりは騒然として、静寂は果たして破られる。ざわざわと騒ぎ始めるその中で、手を上げて彼女に質問をする者が現れるまでそう時間は必要なかった。

「質問でーす! 趣味はなんですかー?」

 そう訊いたのは、人間の男だった。特に目立つ特徴は、腰辺りから生えるサソリの尾だけであるためにあまり気にはしないのだろう。それにこういった控えめな女性というのはあまり居ないから、彼らにとっては新鮮で嬉しいのかもしれない。

 異人種がどうとか関係なくそう接してくれると、なぜだかジャンも嬉しくなってきた。

 彼は微笑みながらクリィムを眺める。

 しどろもどろになりながら、「特にない」と答える彼女と眼があって――心臓が不意に高なった。

「好きな男性のタイプは?」

「え、あ……の、つ、強い人かな」

 ――彼女の言葉に、クラスが静まり返る。ばっと、まるで示し合わせていたように多くの視線が、途端にジャンへと集中した。振り返り、一斉に彼を注視する姿は異様で、ジャンは思わずすくみあがった。

「な、なんだよ……」

「お前、戦闘訓練の成績良いよな……」

 空席とは反対側の男が、ぼそりと漏らすような、それはジャンに言ったと言うよりは、思わず零れたような台詞だった。

「アイツ倒さなきゃか……」「険しい道だな」「いばらだ」「俺やめとくわ」

 どこからともなく、そんなネガティブシンキングな言葉がぼそぼそと聞こえてくる。

 不平不満のように聞こえて、ジャンはいたたまれなくなるが――戦闘訓練の授業で、それほど良い成績を収めた記憶などは無かった。ただそつなくこなしている自覚はあったが、組手の際は相手を圧倒すること無く合わせていたし、徒競走も真ん中辺りの順位を守り抜いていた。

 だから目立つわけなど無かったのだが、彼らはどうやら以前の森の戦闘以来、”強いから手を抜いている”という妙な勘違いをしているようだった。これが良い意味で、羨望というものを得られるのならばよかったが、身を引かれるという悪い意味で影響を与えられているのならば、願い下げたい評価である。

「あー、他に質問が無いならいいな。クリィム、お前の席は今注目受けたヤツの隣だ。あの空席な」

「わ、わかりました」


 (――あのエクレルとか言う女さえ居なければ、今頃また森に戻って自由気ままな快適生活を続けられていたのに)

 クリィムは幾度ともないため息を心の中で漏らしながら、着慣れない制服に窮屈感を覚え、また見慣れない大勢の視線を一心に受けながら受け答えをしていた。

 緊張のせいで、頭の中が空っぽになる。

 もしかするとこれがある種の尋問や拷問で、へたな受け答えをすればすぐさま嬲り殺されるのではないか……そう思うとどうしようもなく身体が震えてしまう。エクレルから刻み込まれた恐怖が、未だに忘れられずに居るのだ。

(やつは……恐ろしい)

 アイツだけには逆らってはいけない。

 まさか、騎士というものがこれほどに強い相手だとは思わなかったが、仮に油断していなくとも勝てたような気はしない。

 教壇を降りて、席へと向かう。

 既に在籍している生徒からの好奇の視線を一心に受けて胸くそを悪くしながら、いつか心労で倒れてしまうのではないかと自分を心配する。

 やがて席に到着すると、人間の子が隣の席で、こちらを見ていることに気がついた。

「よ、よろしく」

 先制攻撃。

 先に挨拶をしたことによって有利な状況を作り出せる。

 クリィムはそう思って、引きつった笑顔を見せてやる。これで更に、こちらは余裕だぞという威圧さえも与えられた。

 相手は畏怖して跪くだろう。

 彼女は浅はかに、訳のわからぬ自分ルールを展開していた。

「ああ、よろしく。おれはジャン・スティール。わからない事があったらなんでも訊いてくれ」

 ――その効果は望めなかった。

 クリィムは肩を落として嘆息してから、思わず緩んだ心で返答した。

「黙れヒトの子が」

「……はい?」

「っ……忘れてくれ」

 ちょっとした問題発言にジャンは少しだけ意表を突かれながらも、まあ緊張してたんだししょうがないか、と受け流す。

 ちょっとだけぶっきらぼうで、釣り上がった目尻に、大きな瞳は威圧的な雰囲気を孕むが、緊張指定せいなのだろう。そんな、典型的な軍人のような淡白さを伺わせる無駄のない動きに、制服を着ていても分かる、絞られたスタイルの良さも、彼女の努力の結晶なのだろう。

 夏休み前の試験直前という、そんな不自然な転入は、おそらく家庭の問題かもしれないから、あまり深く訊かないようにしよう。

 ジャンはそう考えて、間もなく始まる授業へと挑むことにした。


 まさかこの歳にして学園なんぞに通うはめになるとは思わなかった。

 エクレルからこう名乗れと強制された『クリィム』という偽名も甘ったるく貧弱で気色悪いし、授業も、本当に同じ言語を用いて説明しているかすら判然としない程に、不明瞭。わけがわからない。これを、机上で一体なにをどう学習するつもりなのだろうか。

 学ぶだけなら野生で十分だ。今までそれで生きてきたし、これまでもそうだったつもりだった。

 この五年近くは少なくともそうだったし、またわざわざ人里に降りるつもりなども、毛頭なかったのだが……。

 担任とは違う教員がやってきて、黒板にチョークで奇っ怪な図形を描いて、数式を加える。最初は魔術か何かかと思って眺めていたが、どうやらそうではないらしいことを、彼女は理解した。

 『えっくす』がどうとか、『このさんかくかんすうの』がどうとか、うわ言のように口にする、神経質っぽい男は度の強い眼鏡をくいっと上げて、生徒の中から一人を指名した。

「はい君ィ! 視線を逸したね、この問いを答えてみなさい!」

 この街にはあまりない近代的な洋服、白衣を羽織る男は大げさな動作で腕を振り、指で相手を指し示す。

 クリィムはその指先がこちらに向いた気がして驚き、思わず身体が椅子から引き剥がされる勢いで弾んだが――気だるげな様子で後頭部を掻きながら、椅子を引きずる音を立てて立ち上がるのは、傍らの男だった。

「えー、と。十三メートル、ですか?」

「そうそう、よくできているね。この問いはつまるところ……」

 ごきげんに男は笑みを作って、また黒板にチョークを走らせる。

 ジャンはほっと息を吐いて脱力するように席に座り込んだ。

「良くわかったなぁ、俺さっぱりだったよ」

 そう言うのは、彼の隣の、人間の男だ。

「お前は教えてもわからないからな。まあ得手不得手ってのはあるもんさ」

「そんなもんかね。なんにしろ、試験が心配だよ」

「おれもだよ。授業だと分かるんだけど、テストとかだとさっぱりでな」

 こそこそとするごく日常的な会話。

 自分とは圧倒的なまでに異なる平和的なそれらに、クリィムは思わず嘆息した。

 そんな吐息に気がついたのだろう、ジャンはふと視線を向けて、小さく声をかけた。

「クリィムさんは大丈夫?」

「……わけがわからない」

 高等教育レベルの授業内容だと、エクレルが説明していたのを思い出す。

 義務教育過程はなんとかスルーしたクリィムだが、それ以降の記憶はない。あまりの待遇の酷さに血反吐を吐いて胃を穴だらけにして、死ぬ気で人里から逃げ出してから、まともな生活などはしていなかったような気がする。

 捕獲されてから、まさかの翌日に転入だ。

 あまりにも突然すぎる展開に目を回すだけだったが――ここに来て、いよいよ他人ごとではないのだと理解する。

 ここで一ヶ月を過ごして、ヒトに慣れなければならない。そうするにはあまり目立ちすぎず、気の良い風体を装わなければならない。

 苦痛だ。

 クリィムはにわかに頭痛を覚えて、頭をかかえた。

「試験も近いから大変だけど……遠慮無く訊いてくれて構わないよ?」

「そう、だな……」

 エクレルは、今学期の成績は反映されないだとかなんとか言っていた。

 おそらくこの夏休み前の期間は飽くまで”体験”に過ぎないのだろう。これから夏休みに入り、次の学期の一ヶ月が本番だ。

 なんにしても、どう考えようともこの憂鬱な気分が晴れることは無かった。

 ただ、この漠然とした絶望の中で陽の光のように接してくる、妙に馴れ馴れしい人間の姿はあったが。


 途方のない時間が過ぎたと思われた。

 十分間の休憩時間を挿し込んで、幾度かの授業を繰り返す。内容はそれぞれ異なったもので、最も困惑した数学を筆頭に、戦術・戦略だの、物理がどうのといった授業が終了した。

 そうしてまた休憩時間が始まると思うと、

「終わったー」「今日もしんどいねぇ」「やっぱ休み明けってキツいな」

 だのと、緊張が弛緩するように各々は大きく伸びをしたり、友人らと会話を交わし始める。それはいつもと変わらないが、異変とも言うべき状況は――クラス内の、そう多くない生徒たちがおもむろに教室から出ていったことだった。

 半数以下しか残らない教室では、それぞれ集まって惣菜パンを食んだり、あるいは机をいくつかくっつけて、その上に四角い箱をそれぞれ用意する姿があった。

 ぐぅ、と腹の虫が鳴るのを聞いて、彼女の脳内で間もなく合点がいく。

 昼食休憩なのだと、彼女はエクレルの説明を思い出して頷いた。

「……まいったな」

 つい先日は、街を襲撃したお祝いにウサギの皮を剥いで、いつもならば干し肉にして保存食とするところを、丸焼きにしようと血抜きをして放置してきた。

 そう、放置してきたのだ。

 森の中で。自分の住処とする、樹木が作る自然の穴蔵の、ちょうど入り口付近の枝にひっかけて。

 調味料は調達して、面倒な事は先に済ませておくタチだから、火打石と燃えやすい枯れ枝と、焚き火の材料は全て纏めておいた。

 捕まった後はそんな事を忘れてしまったし、夕食はエクレルの自宅で、牛の肉を頬張った。さすがにミノタウロスの身で、この上なく美味しそうに牛肉を口いっぱいに頬張って、厚い唇に脂を塗りたくって艶やかさを増すあの彼女はどうかと思ったが――エクレル自身も、この昼食のことをすっかり忘れていたに違いない。

 なんだかんだで用意周到だったのにも関わらず、この事にだけは触れられなかった。

(やろう、帰ったら怒ってやる)

 そう決意すると間もなく、後頭部を鈍器か何かで殴られるイメージが過ぎったが――払拭するように頭を大きく振ってから、彼女は立ち上がった。

(なんにしろ、ここから離れよう)

 こんな所にじっと居ては、まるでお誘いを待っている引っ込み思案の女の子のようだ。あるいは乞食か、なんにせよ、良いイメージには転換できない。

 どこに何があるか、見学して回るのも良いだろう。少なくとも一時間は時間があるのだ。学校内を回っても、まだ時間が残る。

 そうなれば……その時に考えよう。面倒になって、彼女はやや出遅れた形で教室を辞す。

 否、それは退室しようとした、というのが正しいのかもしれない。

「ねえ、クリィムさん」

 男の声が彼女を引き留めた。

 恥ずかしながらも淡く期待していたこともあって、彼女は戸惑うこと無く足を止める。体を捻り、そのまま振り返ると、好青年の微笑が彼女へと迫ってきていた。もはや見慣れたとも言える、ジャンのそれだった。

「もしかして、お昼は学食?」

「ん、いや……それ、なんだがな」

 学食という言葉を聞いて、そんなシステムの存在を知る。

 が、無念。金がない。

 ヒトの世界は金が全てだから、彼女はそういう手もあるんだなあと考えてから、思わず短く嘆息してしまう。

「お昼は無い、とか?」

「その通りだ。だが気にするな。おまえに施しを得るつもりなど毛頭ない」

「相変わらず堅苦しい言い方だけど……残念だな。ちょうど弁当が一つ、余ってたんだけど……このままだと無駄になっちゃうしなー」

 ――実際には余っていない。ただいつものようにジャンの弁当は大食漢並の量があるから、半分程度で済むのだ。サニーの許可ももらって今はすっかり、蓋と弁当箱とで中身が分けられている。弁当箱の方がいささか惣菜が豪華であるのは愛嬌だ。

 サニーを始めとする、半身を鱗や鉤爪で構成する蜥蜴人リザードマンや、花弁でスカートを作り、頭に赤い華を咲かせる植物族、下半身を蛇にする少女や、背中からコウモリのような羽根を生やす……ともかく異人種が、机をくっつけてジャンらの行く末を見守っていた。

 異人種ばかり。

 人間は、この男のみ。

 極めつけは、女性が四に対して男性が二人だ。圧倒的な女性率。ハーレムである。

「悪いな、ヒトの食い物は喉に通らないんだ」 

 ぎゅるるる~、と腹の虫が空気を読まずに断末魔を響かせた。

「事情はなんとなく把握した。安心しろ、ウチの料理番は生粋の妖精エルフ族だ」


「米を食べたのは七年ぶりになる」

 もしゃもしゃと、旨みを味わいながら彼女は冷静に告げる。

「これは旨い。まず味があるという所に注目したい」

 これを見れば、あの食生活がどれだけ悲惨なことだったかよくわかる。便秘気味の時に野草を食べたあの思い出を蘇らせれば、涙さえ溢れてくる。

 油で上げた白身魚に、表面がきつね色になる鶏肉。にんにくの香りはぬるくなってもまだ口の中に香ばしく広がって、咀嚼しながら唾液が溢れてきた。

 ご飯を掻きこみ、彩り良く並ぶ数多の野菜をフォークで突き刺す。喰う。飲み込む。

「栄養がよく考えられている弁当だ。おまえは、この弁当を喰えるありがたみをもう一度考えたほうがいい。まともに食事ができる喜びを噛み締めるべきだ」

「あはは、ここまでほめられると、照れちゃうなぁ」

 サニーが頬を桜色に染めて笑う。

 クロコはいつものように、愛らしい少女の頭を撫でながら、器用に食を進めていた。

 そんなクリィムに、まずレイミィが疑問を投げる。

「クリィムさんって」

「敬称は要らない」

「……クリィムって、エクレルさんの親戚ってきいたけど、エクレルさんの所に住んでるの?」

「その通りだ」

 首肯し、返事をしながらもくもくと、がっつく様子は無いが、手を止めること無く食事は続く。

「あの、今まではどこに居たとか……訊いても大丈夫ですか?」

 控えめに、だが突っ込んだ問いをアオイは投げると言うよりは手渡した。

 クリィムは同じく頷き、もしゃもしゃと咀嚼しながら答えてみせる。

 素直に答えてもよ良さそうだったが、エクレルに殺されるのも嫌だし、彼女がわざわざ嘘を付いているのにも理由があるはずだ。彼女はそう考えて、仕方なく”乗る”ことにした。

「とある国で、とある人と共に外交を主として働いていたのだが、その人が亡くなって身寄りがないために引き取られてきた。」

 そのとある人が居て、亡くなった、という以外は全て嘘だ。

 この街に来るというそれ以前の、ヒトに確かな殺意を覚えたのはそれがきっかけだった。亡くなったというのは正確ではなく、逃がすためにその場に残ったのだが――とても生き残っているようには思えない。

 今となっても未だ悲しいが、どちらかと言えば惜しい人を亡くしたという感情のほうが強い。

 精神年齢は高いほうだと自負しているから、早熟なのだろう。年齢は、目の前の彼らとそう大きく離れているわけでもない。

 彼女は申し訳なさそうに目を伏せるアオイを一瞥して、

「気にするな。下手に同情されるのは好きではない」

「ご、ごめんなさい……」

「あ、それじゃあ勉強とか出来るの?」

 そう訊いたのはトロスだった。

「最低限の教育は受けている。義務教育、だがな」

「あー、それじゃキツいだろうな。後期の授業は専門的なのが多くなるけど、前期いまは高等教育のおさらいみたいなもんだし」

「……後期は、あの奇っ怪な授業がなくなるのか?」

「ああ。少なくとも数学だとかは無くなる」

「命拾いだ」

「ははっ、特にダメそうだったもんな、クリィムは」

「おまえは、つくづく遠慮というものを知らないな……」

 馴れ馴れしいジャンに、クリィムはわざとらしく肩をすくめてみせる。

 それからフォークを弁当箱の中に落とし、空になったそれをサニーに手渡した。

「ありがとう。美味しかった」

 旨い上に、腹が膨れるというのは最高だ。伊達に三大欲求の一つとして食欲がランクインしているわけではないようだ。

「えへへ、どういたしまして。良かったら、明日も作ってこようか?」

「あ、いや。ありがたい申し出だし、断りたくは無いが……わたしが君にしてやれる事がない」

「もう、友達なのにそんな事、気にしないでよー」

「む、友達?」

「あ、嫌だった? ご、ごめんね。勝手に舞い上がってたみたいで――」

 そんな響きが、心のなかに染み渡る。

 友達、友人。自分の中では、いつしか忘れられて失われていた言葉であり、存在だった。

 最後の友人は、いつしかクリィムを裏切って守る側から攻める側へと転じていたのを思い出す。あれが彼女の処世術なのだから、自分には攻める理由などないのだが……あれは堪えた。人生の中で、五本指に入るショッキングな出来事だ。

 そんなちょっとしたトラウマがあるから、もし友達ができたらどうしようだとかを昔考えていたが――ここまで育ててくれた人がいた。そいつのお陰で、ようやくその心配が出来る立場になった今では、冷静に対応できていた。

「いや、嬉しい。こちらからお願いしたいくらいだ」

 ――この学校ではいくらか上手くやっていけるかもしれない。

 そうだ。ヒトに慣れるのも、この気のいい友人らの中で、なんだか妙に中心的な位置にいる、この男からにするのもいいかもしれない。

 この瞬間に出来た多くの女性、加えて何の種族か不明瞭な男性一人から祝福の言葉を与えられながら、クリィムはジャンを一瞥する。

 彼はどこか超然とした、一歩引くような態度でその様子を微笑んで眺めているのが、良くわかった。

 もしかすると、彼はこうなることを望んで声をかけたのかもしれない。そのきっかけをわざわざくれたのだとしたら……。

「手強いな……」

 ヒトは思いもよらず思慮深い。

 彼女はそう思いながら、ぎこちなく笑みを作って、その昼食休憩を満喫した。



「今日はそんな一日だった」

 薄紫の、ウェイブがかった髪をタオルで拭きながら、綿で出来たガウン一枚になるエクレルに一から説明した。

 今日の出来事。何時に何をして、何が起こったか。初日だけど友達ができて、お弁当を分けてもらっただとか。放課後は、友達に誘われるままに街を見て回って、どこから逃げ出せるかなど考えた、なんてうっかりと零してしまうのは愛嬌だ。

 ふかふかの寝台の上で足を組み、程良く肉がついた太ももにはまだ水滴が滴っている。艶っぽい、女性という部分が特出した女性らしい女性だった。

「そう、良かったです。『リサ』が学校に馴染めるようで」

「昨日から疑問だったが……なぜわざわざ偽名を使用する? わたしの名前など、誰も知らないのに」

「一応、ですよ。少なくともアナタの育ての親は、ごく有名でしたから」

「……調べたのか?」

 膝を折って床に直接敷いてある布団の上に座り、膝に両手を突っ立てて肩を張る。自然的に上目遣いになると、まるで睨んでいるようになるが、エクレルは気にせず頷いた。

「少し後ろめたかったけど、ね。だけど、アナタも”その人”の最期を見ていないなら、まだ分からない。アナタさえ良ければ、今後も捜査を続けられるけれど……どうします?」

 悪戯っぽく、どこか意地悪そうな笑みを浮かべるエクレルに、彼女は短く舌打ちをした。

「すまないが、頼む」

 もしアイツが生きているならば――恐らく決してありえないことだが、仮に命がまだあるのならば、言いたいことが残っている。この人生の在り方というものを教えてくれた人だから、アイツだけは、どうしても諦め切れないのだ。

 辛気臭くうつむくと、エクレルがわざとらしく「それでぇ?」と口を開いた。

 空気をぶち壊す発言に、彼女は短く舌打ちをしながら、「何がだ?」と訊き返す。

「ジャンくんは、中々気のいい人間ひとでしょ?」

「あいつは、貴様の差金か……ッ!?」

 くそ、騙された! 思わずそう叫びそうになるが、彼女の自制心がそれを力一杯抑えこむ。

 またヒトに、この短時間でにわかに心を許しそうになった自分を恥じながらも、彼女は精一杯、エクレルを睨んだ。

「ち、違いますよ、人聞きの悪い。あの子は、私達のお気に入り、みたいなのでね。平凡なんだけど、出会い頭がちょっと頼もしかったから、それがきっかけになって……」

「要領を得ないな。奴は特別なのか?」

「そうじゃないですよ。でも、優しいし、なによりも妙に異人種わたしたちに気に入られるタチらしいです」

「……特殊なフェロモンかなにかでも出ているのか?」

「さあ。ただ異人種に、普通に接してくれるからってだけな訳じゃないだろうに、おかしいですよね。普通の、本当に普通の人間なのに」

 彼女は心の底から不思議そうに、顎に指を指すようにして考え込んだ。

 説明しようにも、言葉を挙げれば挙げるほど理由が出てこない。生まれるのは疑問ばかりだ。

 騎士志願の中では、あの学生の中では案外実力があるし、勇気も十分。幾度か修羅場をくぐったような目付きには、彼の過去を照らしあわせれば理由がわかるが――もしかするとその経験からなる少し大人っぽい様子が、全ての理由なのかもしれない。

 それに加えて恐らく、ジャンを助けたというケンタウロスの女騎士と、エクレルの友人でもあるケンタウロスの女騎士である『ユーリア』は同一人物なのだろうが……彼女が接触したがらないのにも、理由があるのかもしれない。

 いかんせん、頭が沸騰しそうだ。

 エクレルは大きく息を吐いて、立ち上がった。

 壁に備えてある照明のスイッチを押して、辺りを昼間のように明るく照らす照明をオフにする。魔石は空気中から魔力供給を停止させて、間もなく部屋の中を黒い闇に塗り固めた。

「彼はいい子ですよ。ヘンに勘ぐらないで、普通に接してみるのもいいかもしれませんね」

 飛び込むように寝台に寝転がると、弾力のあるマットレスが幾度か彼女を弾ませて、ガウンをはだけさせた。

「リサ、おやすみなさい」

「……ああ、おやすみ」

 おいしいご飯に、ぽかぽかお風呂。暖かい布団でぐっすり眠る。こんな素晴らしいことが他にはあるだろうか。

 ――生活レベルはぐんと上がって、リサ、あるいはクリィムと呼ばれる彼女にとっては最上級層並の生活をしているような感覚だ。

 まるで、この間までの野生の生活が嘘のようだと、彼女はつくづく思う。

 どうあっても、どれだけヒトが憎くとも、この生活ばかりは手放せなくなりそうだ。

 彼女は布団に潜りそう考えるも、数秒と待たずに、今日一日の疲れもあってかすぐさま夢の中へと滑りこんでいった。

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