6.アレスハイム王国【決戦】 ②
「スティール、これを」
学園の前で待機していたユーリアは、白く縁取る緑色の腕章を手渡した。
そこには、『自由騎士団』と記されている。どうやら騎士章の代わり、というらしい。
「これは個人戦ではないのだからな」
学生は巻き込まれぬよう、市民同様に城の方へと避難している。今この場で護るべきなのは、地下へと退避したイヴと、肉塊を本体とするノロのみである。
ノロとの戦闘を尻目に逃げてきたジャンは、およそ取るべき行動の中で最善なものを選んだつもりだった。
現在、この国に残っている最高戦力と手を組み、ノロとの戦闘で疲弊したヒートを一気に叩く、という選択だ。
あの場でノロに手を貸すことも出来たが、アレは尋常でないほど、彼とは次元の違う戦いだった。下手に首を突っ込めばかえって足手まといになるものであり、また戦い方にしても完全なる個人戦。誰が参戦しようとも、邪魔にしかならない。
「勝つんだ、スティール」
いつしか望んだこの関係を噛み締めながら、だがその状況を素直に喜びきれぬジャンはただ無言で頷き、鉄門に立てかけた巨岩から切り出したような巨剣を手にとった。
肉体強化の陣はふつふつと湧くようにして、徐々に彼の肉体に力を注ぎ始めていた。
戦って死ぬ事は、果たして戦士にとって本望だと言えるのだろうか。
目的半ばで、志半ばで、されど戦いの中で命を散らしたからとて満足できるのだろうか。
仮に同じ立場ならば、彼女はその風前の灯とも言える命であろうとも誰よりも強く生を望んだだろう。
彼女は戦うことを目的として存在しているが、だがその命は護るべき者を護るべく在るのだから。
「――小賢しいな、貴君!」
拳がノロの肉体を貫いた瞬間、だがそれは幻影として霧散する。
瞬間的に入れ替わった彼女の姿は即座にヒートの背後に回っており、反射的に展開された魔方陣が刹那以下の時間でその肉体を背から穿っていた。
が、火力が足りない。
眩い閃光はただ装甲を削るだけで、背中から勢い良く背中を押したような威力だけで終えた。
ヒートは姿勢を崩すこと無く、弾かれたようにして前に踏み込み、拳を握り、腰溜めへ。そのまま振り返るヒートはだが、そうした途端にすぐさま転移した彼女の出現位置を予測した。
最初は背後。次は右斜後方。次点から徐々に左方向へとズレはじめた所から、眼前に出現した後、再び”同じ地点”へ転移。そして現在が後方。
思考する余地など一秒未満。
完全に不規則なその出現位置。だがその男が予測するべきなのは、正確には位置ではなく、距離だった。
足元の地面が、突如として赤熱する。
生えそろう芝生が、燃える暇も無く燻っては黒く灰へと移り変わっていった。
彼女が出現したのは、その焦げ始める大地の中心であり――そして彼女が狼狽することもなく、変わらぬ様子で魔方陣を展開するのも、彼にとっては予想の範囲内ではあった。
陣が瞬き、それはおよそ予測に反して眩く輝きが広がり始めていた。
再び一閃が認識される。その時には既に、閃光は男の右肩を穿っていたのだが――それは肩に触れる前に、楕円を描くように湾曲した。
しなやかな曲線を描く閃光はさらに目にも留まらぬ速度で男の背を周り、胸へ至れば懲りること無く再び背へ。幾週か、その男の肉体に拳一つ未満の隙間を空けて取り囲んだ光の縄は、彼女が強く腕を弾くことで、ヒートの肉体を力強く縛り上げた。
驚愕は一瞬。
理解できぬ行動だと動揺したのも、驚愕の直後。
未熟とも言えるほどの精神の揺らぎは、ノロには十分すぎた。
跳躍の方向は、前方。
背中に出現した巨大な魔方陣が、瞬時に総ての筋組織を強制的に活性化させ――大地は深く抉れるほど強く蹴り飛ばされ、焦げた土が舞う。
宣戦布告のように手のひらが突き出された瞬間。
加熱された大地はやがて燻ることを忘れて沸騰するように、炭が熱く熱されるように白熱して肌を焼き焦がすほどの暴風を上空へと巻き上げ始めた。
足が早くもその表皮を黒く焦がしたが、
「きッ――」
言葉を遮るように、彼女の手はヒートの顔面を掴んでいた。
接触した途端、弾けるように瞳の中で展開される陣。禍々しいまでの紅さを眼窩から噴出する。
ノロの剛力が、容易にヒートの上体を反らし、終いには力任せに彼を押し倒していた。
宝玉のよう鮮やかな朱に染まる瞳。彼女の口腔から、言葉が漏れた。
「禁断の果実」
闇の粒子が零れたのかと思われた。
彼女がその言葉を紡いだ瞬間、それまで気配すら見せなかった凄まじい圧力が、突如としてヒートの肉体を押し付け始めていた。
異常なほどの高重力。
抵抗する暇もなく身体は軋み、骨はまるで容易く重圧に耐え切れずに折れていく。特に高い圧力を覚えたのは、関節部分だった。
故に、四肢は容易に可動しえぬ方向へとへし曲がり。
押し殺した声は、耳を澄ませばわからぬほど小さく鉄仮面の中でこぼれていた。
――それはノロには無い力の筈だった。
だがそれは、彼女が見てきた力ではあった。
彼女には、それを再現する力を……彼女に限っては、それ以上の能力を持つ。
あの莫大な魔術を誇るノロの固有にして最大の魔術。それは一般に”魔法”と分類される才能でもあった。
禁断の果実は見たものを再現する。
だがそれは、最低限の効果だった。
大地が、超重量によってすり鉢状にへこみ始める。
その上で、くの字に曲がり――ヒートを抑えこむノロの肉体は、既に下肢を完全な炭へと変えていた。
「まだ、死なないのか」
苦しさも、痛みも、それに耐えるような辛さもなく、声は冷淡に男に訊く。
「死ねない、というのが正しいが」
それが本心であるのかは、わからない。
だがどちらにしろ、もうその言葉は続かない。
彼女は、ヒートの腹の上で集中する超重力の塊が闇の粒子を収束させていくのを見ながら、そう考えた。
この能力の保有者ですら到達していない最終段階。
それが完成するか――己の肉体が、消し炭と化すか。
この個体で殺害しなければ次は続かず、通じない。この男の攻略がそれほどに簡単ならば誰もそう恐れるはずがない。
故に。
――腰部から下が、音もなく崩れ落ちる。
頭部を押さえていた力が霧散し、彼女の肉体は即座に地に落ちる。
「貴君の負けか」
術に嵌れば動くことすら出来ぬ重力の中。そしてその通りに動けぬヒートは、だが己から離れ行くノロへとそう告げる。
最後に再び閃光を放とうと試みた彼女だが、後は続かない。
表面が炭となってなかろうとも、既に肉体は内部までを焼き尽くされていたのだ。
――重力から解放される。
妙に軽く感じる身体はまるで浮くようだったが、今のヒートにそれを味わうような高揚感も解放感も存在しなかった。
ただ、眼中に無い敵に阻害された不快感。
その為に、その娘を倒したことによる達成感も皆無だった。
「……逃げたか」
見上げるバルコニー。その奥に、既に人の気配はない。
それ以前に、周囲からも生活音が失せており、また同様に誰かがいる様子もなかった。
もっとも、それは戦闘が始まるよりも前からだったが。
まあ良い、とヒートは頷いた。
これ以上邪魔が入っても困りものだ。騎士たちは異種族に、魔人にと対峙するためにこの国には居ない。ならば対策するならばノロのみだ。
本体は学園の地下。
今、目指す場所は決定した。
――へし折れた骨が結合し、怪我という怪我が全て完治する。
己の具合を確認するまでもなく、ヒートは学園を目指して走りだした。
速さは圧倒的だった。
その軌跡を描くように、炎が尾を引いて路上に火焔をあげていた。
瞬く間に都市の中心部である噴水広場を抜けたヒートは、まもなくよく目立つ大きな建造物を、そしてそれを取り囲む外壁を認識した。
そして、その鉄門の手前に立ちはだかる馬の姿……正確には、上肢を人の形にするケンタウロスの姿。
妙だ、と思ったのは僅かその瞬間であり――。
――脇から飛び出てきた影が、緩慢ながらも正確に、見事なタイミングでヒートへと巨剣を振り抜いた。
避けるに避けられぬ、その一撃。
交差することも、だがヒートを弾くことも出来ぬ一閃は炸裂したままの姿勢を維持し――向かい合った二人は、言葉も交わすことはない。
だが決定的なまでに、その一撃を境にして。
圧倒的な力差から始まる戦闘が――開始した。