5.アレスハイム王国【決戦】
スティール・ヒートが館の裏庭に着地した時。刹那にして、彼を中心点に魔方陣が展開されていた。
細やかな紋様を刻む、まるで芸術品にもにた緻密な円陣。広域に及ぶそれは、およそ館を丸々飲み込むほどの広さを有していた。
見上げる先に、真紅のワンピースを纏う少女の姿。
見下ろす先に、ただ毅然と立ち尽くす真紅の甲冑を纏う男の姿。
夜が開けて、陽が空に登りはじめて間もない時刻。
初夏の時。
その邂逅は、ただひとえに戦うことのみを目的にしていた。
一方は支配するため。
一方は解放するため。
その意思は両極端なれど、だが両者はただその為だけにしか存在しない。
戦わねばならぬ。
抗わねばならぬ。
敵が、そこに居るのならば。
ジャン・スティールの意識が覚醒したのは、次元の異なる戦いの火蓋が落とされようとした刹那であり。
だがその青年は、この状況をまったく理解できず把握し得ない、というわけではなかった。
総ての情報が、自動的に頭の中に流れ込んでいた。そうする原因となっていたのは、己に力を与えてくれた少女の存在。即ち、目の前の肉塊より派生したノロだった。
自分が見たもの、感じたものを全てノロと共有する代償として、彼が動けぬ、見えぬ場所を、その戦いを全て彼に理解させていた。
故にこの国の戦況を、故に動けぬ己の不甲斐なさを、認識せざるを得なかった。
視線の先には、バルコニーの柵の上に仁王立ちする少女の姿。
背後には、ただ狼狽する黒衣を纏う紫の肌を持つ少女。
本来は、ノロに加勢すべきなのだろうが――。
「ここは任せて」
彼女の本来の役割を、今こそ果たさせる時であるのを、やはり彼は理解せざるを得なかった。
「ああ、任せた」
ノロはジャンに微笑んで――。
次の瞬間、天を穿つ鋭い閃光が、彼女の眼前で発生した。
足元の円陣が鈍く瞬いた。
それを理解した時は既に、行動するには遅すぎた。
発生した一筋の閃光は、気がつけば股下から天空を突き刺す勢いで出現し、瞬時にして視界を白く染める。
咄嗟に、ヒートは後方へと大地を弾いて後退したが――。
股間から首筋にかけて、猛烈な灼熱感。
虚空で弾かれるように、彼は空中で崩れた姿勢を整え、無様に膝を着いて着地する。呼吸が乱れ、指先がにわかに震えるほどの苦痛が全身を駆け巡る。
股間から首筋まで、甲冑ごと肉体を深くえぐられた跡が、不意に肌を撫でるそよ風にすら敏感に痛みを覚えた。
冷や汗が、脂汗と共に全身から噴出する。
――ヒートが、依然として動かぬノロを捉えた時。
先ほどと同程度の大きさを誇る魔方陣が、さらに六方――足元、頭上、前後左右に出現しているのを、彼は理解した。
戦慄する。
この戦略級魔術は、およそ最高峰の威力を誇っているのを彼は身を持って理解したからだ。
そうでなければ、この甲冑すら砕けなかった。
そしてそれをさせていたのは、およそあの巨大な肉塊。無尽蔵に膨大な魔力を生み出し続ける彼女の本体が、この派生した矮躯に注ぎ続けているに違いない。
「貴君、なぜ――」
問いは続かない。
魔方陣がまたたいた。
閃光が、瞬時にしてそれぞれの中心点から糸ほどに細く迸った刹那。
同時に、ヒートの肉体も真紅を超えて白熱し始めていた。
音よりも速く肉薄する一閃、だがそれが穿つ肉体の被弾箇所は容易に弾け――融解した金属のように、ヒートの肉体は白熱したまま飛沫をあげていた。
股下から頭部を貫き、頭部からの閃光とが彼の中心で交差する。胸を穿ち、背よりの閃光が収束する。右腕を、左腕を貫通したそれぞれが、やはり肉体の中心にて結合した。
即死の筈だった。
避ける術など、無いはずだった。
速くとも、堅牢であろうとも、そして幾つかの命を保持していたとしても、不死でない限り肉体は消し炭に、命は脆くも儚く散ることを絶対とされる運命を辿るはずだった。
閃光が放つ、金管楽器のような透き通る異音の余韻が失せた時。
初めに空間を響かせた音は、ノロの舌打ちだった。
魔方陣が、役目を果たして消滅する。同時に、ノロの体内にて蓄積された魔力の一切が消失した。
彼女の全てを注ぎ込んだ魔術である。一つ一つが戦略級の中でも最大級の術であり、それを同時に六つ発動するということは、およそこの世界の常識を尽く凌駕した事態だった。
だが、そもそも敵も同様に、この世の常識など通用する敵ではない。
熱が冷めたヒートの肉体には、既に先の一撃すら完治したままの風貌で――つまり、その男は傷ひとつない姿のままで、再び彼女と対峙していた。
「貴君の目的……いや、貴君が課せられた役はなんだ?」
男は、飽くまで穏やかに問う。
その異様なまでの穏健さに、彼女はとぐろを巻く蛇を脳裏にちらつかせていた。
彼の問いに暫し戸惑うように口を閉ざしていた彼女だが、拉致があかぬと嘆息気味に言った。
「……私は先代の支配者から、この事態を予期してこの世界に配置されていた」
「この事態? つまり、我々がこの世界に手をかける、という意味か」
「いつまでも呆けるなよ、貴様は以前に接触する前から、私を、この役目を知っていたはずだ」
知らぬ存ぜぬで通せる存在ではない。
共に同郷である。いくら先代の国王による思惑だろうと、この男が知らぬ訳はない。
「そう過大評価してくれるのは嬉しい話だが、正直な所貴君の役割までは知らなかった。推測までは容易だったが、確信に至ったのはつい今しがただ」
「なんでもいい、貴様の頭の中などどうでもいい。貴様らが浅はかな考えでこの世界を侵すというならば、私はただ一人だろうと、残る一人となろうとも、貴様らの行為を阻止するまでだ」
ただ戦うために生まれた命だ。
この放置され続けた一五○年余りで、力が錆付いていない事を祈るしか無い。
刻まれた数百を超える戦略級。それ以下の魔術は容易に数千となり得るが、なんにせよこの魔人にダメージとして通るのは数百の魔術のみ。
だが、だからといって切り捨てられる数千ではない。
脆弱な、目くらましにすらならぬ魔術であろうとも、有用なのには代わりがない。
それが、弱者が強者に勝利するために創り上げた力なのだから。
「最後の一人となろうとも……果たして、このわたしが貴君を最後にするとお思いか」
男が手のひらを空に向け、頭上に手を伸ばす。
どこからともなくその手に乗ったのは、ひし形となる真紅の鉄仮面。彼女の魔術を食らった今、およそその防具に希望を持てぬはずだったが、彼がその鉄仮面に望んだのは即死を逃れるための防御力などではなかった。
外見上の人らしさなど、もはや要らない。
その顔を覆い尽くしても、だが外は鮮明に映し出される。兜の中で、異形として形が崩れようとも、だがその甲冑が魔人としての威厳を維持してくれる。
スティール・ヒートは、彼女が背にする男の私室を睨んでいた。
「前哨戦は終わりにしよう。貴君の力はわかった」
「長兄、実力一位――スティール・ヒート。貴様を」
「貴君は要らぬ。早々に辞退しなければ、貴君を」
『殺す』
煮え滾る程の熱を抑えた静かな宣言が、その戦闘の開幕であった。