3.アレスハイム王国【総力戦】 ③
湯水のように湧いた火焔が足元の草を焼き払い、そして大地を焦がして燻らせていた。
その中で疾走する影は一つ。
取り残されながらも、だが正確に位置を認識するノロは小さく呟いた。
「爆ぜろ」
男が眼前で姿をあらわにした刹那。
彼の頭の位置に出現した魔方陣は、それとほぼ同時にけたたましい破裂音と共に爆炎を唸らせた。
しかし炎は想像通りに男を焼き尽くす事をせず、彼に触れるか否かの寸での距離で弾かれていた。火焔が周囲に四散し、反撃とばかりに肌を焼く高温を孕む暴風がノロに襲いかかる。
だが、それは柔肌を鈍く焼くだけに終えた。
「は、はは! 調子に乗って、その程度か貴様ァッ!」
男が吠えれば、ノロは黙って大地に干渉する。
戦略級にも及ばぬ、傷ひとつ付けられぬ魔術はそのまま大地を隆起させ、棍棒のように男を殴り上げる。顎下を狙い撃ち上げたその長方形の突出は彼に空を仰がせたが――言葉は止まり、喉の奥から喘ぎが漏れた。
舌を噛んだのだろうと推測する。
小さな、ダメージとも言えぬ些細な痛みだ。だがそれさえも男は耐え切れぬのは、ひとえに彼女の攻撃は肉体よりも精神に痛みを与えるからだ。
気に食わないという言葉だけが頭の中で繰り返されて、なぜ避けられないという思考は切り捨てられた。
そんな魔人の思考を見透かすように舌を鳴らして、ノロの魔術は立て続いた。
接地する足を飲み込むように空気が冷え込み、凍てついた。足と大地とを氷漬けにしたまま、魔術はまるで準備されていたかのように男の腹部に陣を浮かばせた。
衝撃が甲冑内の肉体を貫く。
同時に――魔人が放つ一陣の風が、鋭い刃と化してノロに迫った。
「ぐッ……!」
魔人が身体を折り曲げて吹き飛び、
「成る程な」
左の肩口から先を喪失したノロは、己の腕が空中で吹き飛び、さらにその中で発生した旋風が粉微塵に肉塊へと変えていくのを眺めながら理解する。
やがて身体を地面に打ちつけて大地を摩耗する姿が止まる。
ひき肉が、ノロの脇に音を立てて落ちた。
「些か成長したらしいが」
「き、さまは……ッ!」
「成長がここで止まっているようでは、やはり貴様は雑魚に等しい」
「いつまで、ほざいているんだッ!!」
男は彼女が言葉を介して意思を示すことが癪に障り。
女は彼の弱さに腹が立つ。
仮にノロが代わりの利かぬ人の肉体であったとしても、この魔人が己に勝てることはない――そう確信していた。
真空の刃が飛来する。
風が創りだすがゆえに、必然的に不可視であるそれを回避する術などありはしない……筈だった。
だが、それが一直線に迫るのならば距離や速度やタイミングなど図る必要など無い。
瞬時にその空間から消失したノロは、魔人が己の攻撃が虚空を裂いたのを認識するよりも早く背後に回りこんだ。
鮮血の一滴すら垂らさずに行動するのは、速さが関係しているわけではない。単純に、その傷口は既にふさがっているだけであった。
「な、きさ――」
男が背後のノロを知覚する。
そして誘発する驚愕、動揺。今更になって怒り以外の感情に精神が振り回され、結果的に動きが鈍る。
先ほどの数倍以上の威力で放たれる魔術は、彼の背骨をへし折らんかのような衝撃を穿っていた。
魔人の身体が、再び吹き飛ぶ。疾走するのは己の意思ではなく、風を操る間も無く代わり映えのない景色を怒濤となって過ぎ去っていくのを視る男は、そこでようやく強大な風圧を自身にぶつけることで勢いを殺すことを思いついた。
まず爆風が、大地と並行に吹き飛ぶ己を上から撃ち下ろした。軌道が僅かに反れ、勢いが和らぐ。
腕を伸ばして地面と接し、大地が深く抉れながらも男の速度は下がり――。
「きッ……化物がァッ!」
その直線上でノロが待ち構えていた事を理解するのと、
「弾けろ」
彼の肉体が、地面に出現した陣によって空高く弾け飛ぶのは、ほぼ同じ瞬間であり、
「甘いんだよッ!」
凄まじい暴風が、頭上から男の肉体を押しつぶす。
故にノロが放つ衝撃の殆どは相殺される形となり、男はその中空に留まることに成功した。
――滲み出る優越感。もはやその手が通じることはないという達成感。
これより雑魚を、正確に雑魚として扱えるようになるのだと、魔人の緊張がにわかに緩んだ。
果たして、それが決定的なミスだったのか。
あるいは、本来この男が彼女に敵うわけがなかったのか。
「禁断の果実」
同じ空中に彼女が居るのには、もう疑問も驚愕もなかった。
だがこれまで見たこともない、リンゴともイチヂクとも付かぬ朱い果実を手にしている事にだけは、妙な違和感とも言うべきか、奇妙な焦燥とも言うべきか、その決して良好とは言えぬ感覚が男を支配した。
嫌な予感がする。
――ノロが果実を齧った刹那、莫大な魔力が彼女の中心にして噴出するように溢れ出した。
そよ風が甲冑を撫でた。
その程度の認識だった。
たわいもない、どこからともなく吹いてくる旋風だった筈だった。
「が……ッ?!」
左肩に凄まじい灼熱感を覚える。まるで熱して溶けかけた刀剣で肩を包み込んだかのような、到底耐えられぬ激痛は同時に、左腕の喪失を知らせていた。
だが、それは死ぬ傷ではない。
彼女の攻撃を阻止すれば、まだ間に合う――そう思考し、右腕を伸ばす。
されど、右腕は言うことを聞かずに動かない。
視線を向けるまでもなかった。彼の右腕は、同様に切り離されていたのだ。
全身を、もはや理解を越える痛みが飲み込んだ。
痛みという感覚が、頭の中を混乱させる。痛みとはこういうものだったのか、果たして痛みとは、何のためにあるのだろうか。
既に死を垣間見る男の耳に、その澄んだ声音が滑り込んだ。
「五秒待つ。貴様にこれ以上の抵抗が出来るのならば、やってみろ」
――そんな彼女の言葉は、男にとって絶望しか与えない。
本来希望一色の甘美かつ侮蔑も孕む提案に違いないのだが、言ってしまえば抗えなければ五秒後には確実な死が待っており、またどのような抵抗をしようとも、彼女を殺害する決定打たりえるものを彼自身持ち合わせていないことの証左であったのだ。
暴風で粉微塵にすることは出来るだろうが、時間が足りない。
旋風で両断したとして、果たして彼女が絶命するかと問えば答えは否であろう。
ならば逆に、己を風で吹き飛ばして距離を稼ごうか。もっとも、その行為が彼女に何らかの意味を示すものではないだろうが。
だとしたら、どうする。どうする。どうする――。
考えて、頭を捻って、もはや魔人という存在が元来持ち得る威厳と威圧と、絶対的な死滅を与える強烈な強さなど、男には無く。かなぐり捨てた覚えがないという事はつまるところ、元々持ち合わせがなかったのだろう。
思考する間に、五秒が経過した。
男の意識が消滅するのも、彼の首がはじけ飛んだのも、それは決して幻影などではなく。
風が浮遊させていた魔人の肉体は、既に意思も力もない肉塊となって地面に落ちた。
――戦闘の勝利に、優越感も達成感も存在しない。
哀れだとさえ思わないのは、彼女がこの男に何一つとして関心がなかったからだろうか。
だがそれは否だと言えよう。ノロはたしかにこの男に腹を立てていたし、殺してやろうと思っていたのだから。
かくして、戦況に大いなる不安感を抱かせていた魔人の抹消は成功したが。
ノロが参戦したその戦場で、だがその劣勢が容易に覆るというわけでもなかった。