1.離散
「――現在、同程度の距離で複数の異種族が確認されている箇所が、この国を含めて四ヶ所存在します。うち、一箇所は海底を侵攻」
薄暗い、そして手狭にもほどがある会議室で、男が淡々と報告した。
「どれほどの時間で国境を侵犯する?」
エルフェーヌ国境付近より確認された多量の異種族の進軍は、なぜそこから――あるいはそれ以前から発生したのか、その理由を未だ見つけられずに居る。
基本的に異種族は太渓谷の門より出現するものだと思われていたからだ。
だから、元より生息していた『始祖』が繁殖し、何かを契機に集結して行動を開始しているのではないか……そういう仮定を立て、現在では既に国境へと騎士団、及び憲兵の配置を完了している。
「我がアレスハイムはおよそ十八時間。ヤギュウ帝国へは二十三時間。ガウル帝国へは十六時間。倭国へは二十時間……どれも誤差の範疇で、ほぼ同じタイミングだと思われます。救援は不可能かと」
どれもこれも、今まさに壊滅的な被害を被ろうとしているのは、軍事的にある一定以上の評価を得ている国ばかりである。
加えて――。
「ディライラ・ホーク、クラリス、マリー・ベルクール、ハンス・べランジェの四名はガウル帝国から、ラウド・ヴァンピールはヤギュウ帝国から、それぞれ帰国命令が出されています。それに――新兵のクラン・ハセが、倭国より同様の命令を」
「構わん、許可しろ」
「で、ですが……もし今回の戦闘で魔人の出現を許したら、彼らの力無しでは恐らく――」
「他国も同様に思って指示を出したんだろうよ。構わない、彼らに母国を捨てさせてまで戦ってもらう義理などない」
それに、と告げるのは、凛と金糸のような髪を揺らすミキだった。
「貴様は目の前の圧倒的な物量を見て、いくらなんでも絶望しすぎなのではないか?」
ざっと計算して異種族の数は十万から上。だが五十万まではいかぬ程度。一夜にしてアレスハイムを滅ぼすには十分すぎ、この領土を死地に変えるには容易すぎる数である。
対する騎士団は総数約一万。
十倍からなる敵を前にして、些か腰が引けるのも納得ができる。
だが、そこで計算を終えるのはあまりにも早計すぎる。
「一騎当千――千の力を持つ個体が一万だとして、一万の数はどれほどに跳ね上がる?」
単純計算で一千万。十や五十など比較対象にすらならない。
「ですが、それも副隊長から……さらに言えば、戦闘に参加できるのは第一、三から六、さらに八から十。十六人のみですし」
さらにそこには実力差、経験の差が存在する。
今回の戦闘で、いつも通りに最悪の事態を想定するならば、善戦の後、勢いに負けて敗北するだろう。
「問題ない。今回は、さらに特殊な助っ人が存在する」
「特殊な助っ人……ですか?」
部下の反芻に頷いたミキは、その脳裏でグロテスクな肉塊をイメージした。
「つまり、そういうことだ」
申し訳程度の説明を終えたホークは、嘆息する。
ジャンの私室、その寝台の上で指一本として動かせぬ青年は、彼を、彼らを止められぬことを苦しく思いながらも――仕方がない、そう納得せざるを得なかった。
「ああ、存分に守ってこいよ」
ジャンの言葉から、その重さを窺い知る彼の友人は、無意識に彼の過去に思いを馳せた。
かつて他国の騎士団に村を滅ぼされた青年は、その無力さに打ちひしがれていた。そんな過去があるからこそ、今の彼が居る。
――だが、彼が教えられたのはアレスハイムを除く三箇所に異種族が侵攻しているということ。
今の疲弊しきった、回復の前兆すらない青年を前線に送り込むことはできない。それは単純に、足手まといになるからだろう、という配慮からだった。
「それじゃ、時間もないしそろそろ行くわ」
「じゃあね、ジョネス。また」
「またな、スティール」
「また来ますわ、スティールさん」
そう告げた友人らは、タスクが室内に用意した小さな魔法陣の中に入っていく。
一人が入れば眩く輝き、そして次の瞬間にはその場から消え去り転移する。それを繰り返していく内に、ウラドだけが残っていた。
「あんたも帰るんだろ?」
ジャンの言葉に、ウラドは仰々しく頷いた後、彼の放置された机の上から、一振りの短剣を取り上げた。
「これは貴君にさし上げたものだ」
「ああ……? そうだっけか」
「彼女から聞いたが、異世界より与えられた十本の武器の模造品なのだそうだが」
「らしいな」
ウラドはうなずき、それをジャンの枕元に放り投げる。
それは幾度か弾んで落ち着き、彼は言葉を継いだ。
「これから常に持ち歩いたほうがいい。今回の戦いでわかっただろう、戦略は事前に襲来がわかっていてこそ立てられるもので、急場しのぎの戦術だけでは対処できない。絶対的に信頼出来るのは、力のみだということを」
「……おれが、弱いからか」
「なに、アレほどの化物を前にして比較対象にしてみれば、私も貴君も目立った差はないだろう。連中はそういった、ケタ違いの強さだ。それこそ、次元が違うというのかな」
「まあ、わかった。素直にあんたのいうことを聞いておく」
「気にするな、死にたくなければ、の話しだしな」
言いながら、ウラドはなんの感慨もなく魔方陣の中へと歩みを進めた。
そうしてウラドは転移し――。
次の瞬間、眩い輝きが、空間を塗りつぶしていた。
出現した長衣を纏う男。
そいつはごく自然にジャンに背を向けた形で現れ、ただ呆然とするタスクの腕を掴み上げた。
「タスク、迎えに来た。一度帰るぞ」
《ま、主人……?》
およそ二ヶ月ぶりの再会は、だが何かが特別にあるわけでもなく、むしろ暴漢のように主人たるウィルソンが強引にタスクの腕を掴むようなものだった。
驚愕を隠せぬタスクに、そのやりとりを彼の背で見つめるジャン。
だがウィルソンは、彼の存在に気づいた様子はなかったが、されどここが誰の部屋で、誰が居るかをウィルソンが知らぬはずもない。
「な……ウィ、ウィルソン!?」
知らぬふりを決め込もうとしていたウィルソンは、だがそこで声をかけられて仕方なく振り返った。
そこには布団の中で横になる旧友の姿。随分と気楽なものだと思いながらも、彼がそれに至る理由を概ね推測した。
「悪ぃな、ジャン。もうオレの力じゃどうしようもなくなった――この二ヶ月、オレにしちゃ自分で褒められるくらい随分とうまくやってきたつもりだが、帳消しだ」
「な、なにを……」
「分かってんだろ、お前に縁があって、また偶然それが世界に通用する実力を持った連中だった奴らが一時期ここに集結した。オレが促したんだ。とんでもない事を企ててる奴に一泡吹かせたくてな」
何よりも、お前がそうしたいと願ったはずだから。
その言葉を飲み込んで、台詞を続ける。
魔人はそうそう頭の巡りがいい訳でもないのか、あるいは頭を使うほどの事態ではないからか、極めて純粋な”力”で抵抗してきたのだ。
そしてその力とは物量。
圧倒的なまでの異種族の侵攻を、彼らが促したわけである。
「みんな水の泡だ。んでだ、ジャン、お前には悪いが、優先順位が変わった」
タスクの腕を離し、ウィルソンは唐突にジャンの脇に移動する。
そうして伸ばした手で布団を引き剥がし、さらにその胸ぐらを掴み上げて力任せに上肢を起こさせたと思うと、さらに前かがみにさせ、衣服をまくって背中を露出させた。
その背には複雑な魔方陣がいっぱいに広がっている。それが、彼の戦闘の根底にあり無くてはならぬものとなっている『肉体強化』の魔方陣である。
「ここを離れれば、二度と会えなくなるかも知れない。その前に、餞別だ」
その魔方陣を、一部でも傷つければ魔術は発動しなくなる。
勝ち目のない戦いに挑むなと言った所で彼は従わない。そしてまた、戦う力を無くしてやっても彼は戦うだろう。そういう男なのは昔からで、だからこそ今までも付き合ってきたのだ。
他の職業で、あるいは同じ騎士で、もっと別の出会い方をしていて、もっと仲良くなっていたら。
もっと楽しい生活が営めただろうが――そんなのはゴメンだ。
今の生活のままで、今の関係が一番いい。それはジャンも同様なはずだった。
ウィルソンは鈍く輝く指先で、さらなる記号を刻んでいく。ジャンが感じるのはほのかに熱い軌跡のみで、それ以外の感覚はなかった。
暫くしてから、ウィルソンは服を戻して背中を叩く。
寝台にたたきつけるようにジャンを寝かせてから、腰に手をやり、鼻を鳴らした。表情にはどこか嬉しげな、微笑があった。
「お前はいきなり限界まで強化するから、すぐ肉体の方がダメになるんだ。普通はな、段々に慣らしていって最大値まで上昇する。そういう風に変えてやったわけだ」
「勝手なことしやがって。間に合わなくて死んだらどうすんだよ」
「身の丈にあった戦いをしやがれってんだ。そもそも、むしろこっちのほうがお前にゃ使いやすい」
お前は限定的な条件下でしか、その本領を発揮できないんだから。
その言葉に、なにやら侮蔑されたような気もしたが、実にその通りなために反論の言葉を失った。
確かにそうだ。
魔人と戦っている時のような力を、頭の回転力をいつでも出せるわけではない。
「んじゃま、そういうこった」
「ウィルソン」
少し出てくる、といったような気軽さで背を向けるウィルソンに、ジャンは咄嗟に声をかけていた。
「なんだ?」
「……またな」
「ああ、またな」
――タスクはジャンへと深く頭を下げ、ウィルソンは彼に軽く手を挙げながらタスクの肩を抱く。
足元には、タスクがそうした時のような魔方陣が出現し……。
まるで現実感のない時間は、彼らが失せてもまだ、ゆっくりとジャンの中で流れていた。